虎の傷跡
emanon
わき腹に激痛
焼けるような痛み
肉が引きちぎられる
出血
傷口は熱いのに体は凍えそうなほど寒い。
たまらず私は膝を付いた
再び熱い傷み
今度は首筋
流れ出る紅
視界が霞む
意識が堕ちていく
約束された闇
堕ちる寸前の意識、ふと右腕が目に映った。幾筋もの傷痕。
私はやっと開放される。
次はお前が背負うのだ。
そう、誰かに殺されるまで
ルーザーズコンティネント――負け犬の大陸では荒野と灼熱が数少ない名物だ。日中、お天道様は人間達を目の敵にし、フライパンの上で焼かれる豚の気持ちを味わう事になる。
ただし、朝の極限られた時間。黄土色の灼熱地獄が一変する。昼夜の温度差と水蒸気が霧を生み、地獄は無垢なる白で塗り込められる。
白い世界に金の帯がなびく。金色の髪が踊り、陽光を受け、煌いた。右へ、左へ。重力から解き放たれたかのような演舞。
年齢は二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。白い陶磁器の様な肌、すらりと伸びる手足。身に着けている純白のドレスはかなり大胆な作りで、肩口は大胆にカットされ、スカート部分にも大きくスリットが入っている。
ふと、動きが止まった。深呼吸をし、乱れた呼吸を整える。
どれだけそうしていただろうか。
不意にスカートが翻り、たおやかな腕が優雅に弧を描いた。それと同時に鋭い光が霧を切り裂く。
女の手にはナイフが握られていた。鞘からの抜き打ち。電光の斬撃。光の軌跡にあるものは肉であろうが、骨であろうが両断されるだろう。
女――レリィゼは、表情を隠している金髪をうっとうしげに掻き揚げた。
ふっくらとした唇、丸く愛らしい瞳。しかし、瞳にあるのは熱い氷のような殺意。そして、鋼のような決意。
薄暗い空間、そこに音と臭いが飽和している。
叫び声や笑い声、汗の臭いや酒の臭い。夢に敗れた負け犬たちはここでアルコールの力を借り、つかの間の天国を見る。
本土ではもう少しばかり格好の良い名前で呼ばれていた気もするが、そんなものは誰も覚えていない。ここは「負け犬の大陸」そう呼ばれている。本土から逃げるように移民した者、食うに困り行き詰まったあげくここに来た者、下らない人生に最後の博打を試みたもの、理由はエトセトラ。そんな敗者が寄せ集まり、肉を喰らいあう場所。それほどお誂え向きの呼び名は無いだろう。
レリィゼはカウンターからバーの室内を見回した。もう少しでショータイム。なんとなく周りを観察する。ステージ前のいつものクセだ。
この国では酒場だけは立派だ。この店も酒場と宿場を兼ね、一段高いステージの横には専属のギター弾きが演奏している。
皆が夢を見たくてこの国にやってくる、しかし、現実は悪夢しか見せてはくれない。酒を飲み、快楽を貪る事で、現実を忘れるしかない。倒れるほど酒をのみ、適当に女を抱いてベッドに入れば時は過ぎてくれる。他には何もない。
「レリィゼさん頼みます」
カウンターでバーテンが言った。「わかったわ」と手短に答え、ギター弾きに合図を送る。音が一瞬とまり、舞台用の情熱的な旋律を刻み始めた。
レリィゼは助走をつけ、ステージに向かって跳ぶ。
側宙からムーンサルト。ドレスの裾と金色の長髪が宙に舞い、瞬間の華を咲かせる。拍手と指笛が巻き起こった。
レリィゼはうやうやしく一礼し、観客に淡く微笑みかける。それだけで男たちは心を奪われる。
ギターのリズムに合わせ、スカートを振り、ステップを踏む。白い大腿部を惜しげもなくさらす。そのたびに狂気じみた声援がおこる。
ギラギラと粘つく男の目、レリィゼは嫌悪を隠しながら笑顔を振りまく。
ダンスで日銭を稼ぎながら旅を続ける。そんな生活を始めてから ――安定した「本土」から離れ、負け犬大陸に移民してから、どれくらいの時が過ぎたのだろうか。
欲望を隠そうともしない男達、暴力が支配する環境、灼熱の荒野。障害は山ほどあった、しかし、どれもレリィゼの決意を揺るがす事は無かった。
過去の清算、それがレリィゼの、唯一にして最大の存在理由だった。
ショータイムが終わり、再び喧騒が室内を支配していた。
レリィゼはカウンター席でバーボンの水割りを傾けていた。ステージが終わった後のちょっとしたファンサービスだ。レリィゼを中心に男連中は人だかりを作り、なんだかんだとレリィゼを口説き落とし、一夜の夢を見ようとする。ひっきりなしにだみ声で下卑た誘い文句が語られる。
「なぁなぁ、俺と一晩過ごさねぇか? いい夢見せてやるぜ」
「うるせぇ! 黙ってろ短小野郎!」
「んだと! やんのかコラぁ!」
「上等だ! 表に出やがれ」
一応の殺気が感じられる。が、それは偽物。ただ、捨て犬のように自分を大きく見せ、相手の逃げを誘っているだけだ。本心はいつ自分が殺されるかと、ノミの心臓でガタガタと震えている。
「ねぇ。こんな女が近くに居るのに、そんな男にかまわなくても良いじゃない? さ、もっと飲んでよ」
レリィゼが割って入る。口調とは裏腹にコイツらは臆病、ただ、酒がそんな台詞を吐かせているだけだ。俗に言う『命知らず』はそんなに多く無い。ただ、勇ましく啖呵をきった手前、引くに引けない状況というやつになってしまう事がある。そうならないように逃げ道を作ってやるのがレリィゼの持つ役割の一つだ。
ワンパターンな口説き文句を、曖昧な微笑みと適当な相槌、それから煮え切らない態度ですり抜ける。この『逃げのテクニック』もダンサーとしての技である。そうして店の売り上げに貢献すれば、すべて丸く収まるというわけだ。
しかし、どんなに熟達した話術や色気でも一部の性質の悪い輩には通用しない。ツイていないときに、そういう連中が客に紛れ込んでいる。
不意に炸裂音がした。銃声だった。喧しかったホールが黙り込んだ。
小太りのハゲ頭が天上に向かってリボルバーを掲げていた。赤い顔、据わった目。どこからみても酔っ払っている。少なくともまともな判断ができなくなるくらいに。
「グダグダ抜かしてんじゃねェ! そいつはオレんだ! 文句があるやつは抜けェ!」
ハゲ頭は呂律の回ってない舌で怒鳴りつけ、あたりを見回した。カウンターに群れていた男たちは各々がヒップホルスターに下げているリボルバーに手をかざしながらも、一歩、一歩と後ずさる。当然だ、誰だって一夜の夢と命を天秤にはかけたくない。酔った勢いで殺されたのでは割りが合わない。
「そうだそうだ。タマナシ共はさっさとねぐらに帰って、ベッドでマス描いてるのがお似合いってモンだぜ。なぁ、ネェチャンもそう思うよなぁ?」
男はそう言い、千鳥足で近づいてくる。腕はダラリと下に下げられているが、銃はまだ握られたままだ。
レリィゼは心の中で舌打ちをした。夜の相手までするダンサーはよくいるが、レリィゼは違った。こんなヤツにいいように扱われるのはまっぴらだった。まして相手は銃をもった酔っ払いだ。下手をすれば、なにかの弾みで殺される事も十分考えられることだった。SM趣味の行き過ぎ、ちょっとした言葉からの激昂。この仕事をしていればそんな話は挨拶の代わりになるくらいありふれたことだ。
男がレリィゼの首筋をつかみ、乱暴に唇を塞いだ。酒臭いだけではない。据えた臭いにレリィゼは形の良い眉をしかめる。――くそったれ
男はさらにカットされた胸元から手を入れ始める。レリィゼは覚悟を決める。今日は本当にツキが無い日のようだ。見えないように自分の太腿をまさぐった。固い感触が手に当たる。
そこにはダブルバレルのデンリンジャーがあった。護身用の小さな銃だが、この距離なら殺傷力は十分だ。もちろん、弾丸は装填してある。幸運にも今まで一度も使う機会が無かった人を殺すためだけの道具……。
「あの〜、もしもし?」
「!?」
それは唐突だった。
緊迫したシーンに全くもって不釣合いな、呑気な言葉がかけられた。
「なんだァ!?」
男は怒鳴りながら声の主を探す。レリィゼもその声の呑気さに半ばあきれながらも声のした方を見た。
乱入者は、ひ弱そうな男だった。
三十路を少し過ぎたくらいだろうか? 黒いスラックスにワイシャツといういでたちで、それなりには整った線の細い顔立ちをしている。髭はわずかに剃り残しがあるが一応剃られていた。髪は後ろでまとめて革紐でしばられ尻尾のようだ。
「あなたは神を信じますか?」
ひ弱な男がそういった。レリィゼは今度こそ完全にあきれ返った。――どうしてこんな状況でそんな台詞が吐けるのか?
見れば、ボタンが二つほどはずされた胸元からは銀色の十字架が見える。どうやら、この男は牧師のようだ。
ここでは神など何の意味も成さない。神様に頼っている暇もなく、悪魔の類は寄って来るからだ。世話になるのは死んだときだけ。だから、信者は居ないが牧師は居る、という現象が起こる。もっとも、ここでの牧師はほぼ葬儀屋と同じ意味だ、葬式のときにそれらしい言葉と引き換えに小銭をもらい、細々と食いつなぐ連中。営業と演出を兼ね、それらしいことは言うが、もちろん神学校など出ていない。
まぁ、ここでは比較的平和な職業だといえるかもしれない。
「テメェの目は節穴かぁ? これからニャンニャンしようってのに、玉無しのカミサマなんてしったことかよ」
男はまた下卑た笑い声をあげた。つくづくこの手の男はワンパターンだ。
「やっぱりそうですか……」
――やっぱりも何も、見ればわかるだろうに。
レリィゼが辟易した表情で牧師をみると、なんのつもりかパチリとウィンクを返した。芝居じみた仕草だが、割合と似合っている気がした。
「それはどうも失礼しました。お詫びに一杯おごらせてください。――すいません。水割り一つお願いできますか?」
牧師は面倒に巻き込まれまいとカウンターの中に隠れているバーテンにそういった。バーテンはさすがに商売人で嫌々ながら返事を返し、グラスに水割りを作って、牧師に差し出した。
牧師はグラスを上から掴み、男に「はい、どうぞ」と差し出した。普通、飲み口の部分に指を付け、相手に渡す事は無作法にあたるが、ハゲ頭は特に気にしなかったようだ。もっとも、本土ではともかく、ここではマナーなど誰も気にしないのであるが。
「そうかい? そいつぁいい心がけだ」
男は水割りを一息で飲み干した。
持ったグラスをカウンターに叩き付けるように置くと、男は先ほどの続きを始めた。
レリィゼの肩をだき、首筋に手を当て引き寄せる。しかし、不意にハゲ頭の体がグニャリと崩れた。アルコールのせいだろうか、それにしては様子がおかしい。脱力したハゲ頭はうめき声を上げながらカウンターに突っ伏し、大いびきを掻きながら寝入ってしまった。
レリィゼはふと思い当たった。牧師の無作法。あの手の形は……
レリィゼが牧師の方を見る。牧師はしてやったりの笑みを浮かべていた。
「結構、上手いものでしょう?」
牧師は手のひらをレリィゼに向けてみせた。
「パームと呼ばれるマジックのベーシックなテクニックなんです。普通は手の平の部分にコインなどを隠すんですけど、何事も応用ですね」
と牧師は手の平からコインを出してみせた。さっきは、コインの代わりに手に隠し持った睡眠薬でも盛ったのだろう。酒と併用することで即効性を発揮するタイプだろうか。
「ま、種明かしはいいとして、いいものを観させてもらったお礼に一杯おごらせて頂けません?」
「いえ、こちらから奢らせていただくわ。危ないところをどうもありがとう」
そう言ってレリィゼはバーテンに「バーボン、ストレートで二つお願い」とオーダーした。
正直、こんなヤツを相手にする必要がなければさっさと部屋に戻って休みたかったが。助けてもらった手前、少しくらい相手をしなくてはならないだろう。
「ありがとうございます」
牧師は人のよさそうな笑みで礼を述べると、グラスに口をつけた。いかにもな軟弱、善人。よく今まで生きてこられたものだと思う。
「本当に助かったわ。銃は使いたくなかったの」
「へぇ、銃なんて持っているのですか? みたところわかりませんが」
「ダブルバレルなんてリボルバーからすれば玩具みたいなものだけどね、それでも威力は十分よ」
レリィゼは腿部にくくられているデリンジャーを牧師にみせながら言った。スカートがめくられたところで牧師がつばを飲み込んだが、別に気にしない。男なんて大体こんなものだ。そんなことを気にしていてはダンサーなどやっていられない。
「といっても、今までこんなものなんて撃った事ないんだけどね」
「使わなくていいならそれに越した事はありませんよ」
と牧師がフォローをいれた。
「実際のところ、使いたくて使っている人間はそうそういないでしょうね。でも、相手が持っているから自分も持つ。相手が撃つかもしれないから自分も撃つ。撃たれたら死んでしまうから、撃たれる前に撃つ。結局はさっきみたいな状況に落ちつく、と」
と、牧師は笑った。少し疲れた笑いに見えた。
「みたところ流しのダンサーのようですけど、次はどちらへ?」
「そんな事聞いてどうするの?」
「あ、えっと、あまりに美しかったので、できれば身の回りのお世話など、と」
牧師はすこし照れるようなそぶりをしながらそう言った。年下にそんな反応されるのは不気味とは行かないまでも奇妙だ。特にここではそういう女相手にへりくだる人種は少ない。そんな申し出をする前に夜這いでも何でもかけて犯してやろうと考えるのが普通。
おそらく何か裏があるのだろう。面倒な事は近寄らないに限る。それに、もし、牧師の言った事が事実だとしても、付き人など無用だ。
「残念だけど、間に合ってるわ。それに、死にたくないでしょう?」
『こんなヤツ、脅かしてやればすぐに身を引くだろう』レリィゼはそう思った。
「ええっ!?」
死という言葉に多少は動揺したようだ。もっともそれも演技かも知れないが
「どういうことですか?」
「あたしが向かっているのはサンライズタウンよ」
これは事実だ。
「そんな!? あそこは今……」
この町から丸一日程歩くとその町に行き着く。
なぜサンライズなのかと言えば、一言でいうなら景気がいいからだ。ギャンブルや鉱山でそこそこ成功した小成金の町であり、貧乏人が嫉妬と皮肉を込めてサンライズタウンと呼び始めた。金持ち共の町だから一人出なければなら、夜出歩ける程度には治安がいい。
だが、今は
「確かサンライズタウンはティグレとかいう男の一団に襲われて……」
ティグレは本名でなく通り名だ。その首領の腕には虎の縞のような刺青があるという。タイガーでは語呂が悪いのでティグレになったのだろう。ここ、数年で台頭してきた男で、昔はそれなりのルールを守り、つつましくやっていたが、今では異口同音に関わりたくない、命がいくつあってもたりない、といわれる男だった。
「そうよ、今は町ごと強盗団のアジト。住んでいた連中は夜逃げ同然に逃げ出したか、殺された。子飼いの自衛団ごと、ね」
「そんなところにどうして?」
「ああ、アタシ、そこの首領、ティグレの女なのよ。巡業して小金作って、また可愛がってもらおうってわけ」
――これはウソだ。誰があんなヤツの情婦になど成り下がるか。まぁ、サンライズタウンに向かう事だけで同行をあきらめさせるには十分だと思ったが、念には念を、だ。
「あたしとあなたが一緒にいるところみたら、多分、八つ裂きにされちゃうわよ?」
ここまで脅かせば並の男なら馬鹿な言動を撤回するだろう。だが
「そんなの構いませんよ」
「え?」
レリィゼは一瞬耳を疑った。
「私、貴女に一目惚れしてしまったようです。貴方のそばにいられるならたとえ殺されても本望ですよ。愛のために死ねる、なんて素晴らしい」
――まさか、こいつ、本気か!? いや、正気か!?
レリィゼは始めから馬鹿だと思っていた男の評価を改めた。コイツは半端な馬鹿じゃない。脳みそに花が咲いた救いようのない馬鹿だ。
「……そう……」
呆れるあまりそう答えるのが精一杯だった。
―― まぁいいか、黙って出て行けばそれですむことだ。
まただ、いつも一人になると思い出す。
俺たちにはもう戦意は無かった。既に囲まれている。何丁分の銃口が向けられているかわからない。どうしようもない。鉛弾入りのミートボールになるくらいだったら黙って白旗あげて裸になった方がましってもんだ。
無様に両手を挙げ、降伏の意思を伝える。武器でも金でも好きなだけ持っていってくれ、ただ、命だけは助けてくれ。銃口の前に跪き、命乞いをする。
そんな俺たちに目の前の男は冷酷な蔑笑を浮かべ、ゆっくりと手を振りかざした。
待てよッ!! 俺たちはもうやめようって言ってんだよ。クソッ!!
確かにちょっかいを出したのは俺たちが先だ。だが、この状況はいくらなんでもこれ理不尽ってものだろう。
背中を向け俺たちは走った。
「撃てぇッ!!」
号令一課、俺たちに向けられた銃口がいっせいに咆哮する。轟音、悲鳴。阿鼻、叫喚。
俺たちは叫び声を上げながら、銃弾が食い込む痛みに耐えながら、それでも必死に走った。
俺はその日ラッキーだった。何発もの銃弾に被弾したが、幸い致命的な場所には当たらなかったからだ。
だが、皆は違った。
走りに走って、一息ついた。
追手はいなかった。
しかし
周りには俺しかいなかった。
そうして俺は独りになった。こうして今日も復讐の荒野を彷徨うのだ。
レリィゼが目を覚ますのは日の出と同じ時刻だ。日が地平から縁を出すのと同時に起き上がり、身支度を済ませる。着古したスラックスとシャツ、舞台以外で着飾る必要は無い、多少サイズが大きめだが気にしない。髪はまとめて一つに縛り、ウエスタンハットをかぶる。ありふれたズダ袋に舞台衣装、着替え等なんでもかんでも詰め込んだ。最後にベルトに軍隊用のナイフ――護身、調理、その他、多目的に使える――をくくりつける。デリンジャーは屋外戦ではあまり役に立たない。小口径過ぎてまともに狙って当たるのは一メートルくらいという話だ。だったら、いっそナイフのほうがいい。
金は前金で全額もらっている。また、酒場にも話を通してある。つまり、このまま出発できる。
階段を降り、酒場となっている一階を見渡した。
静かだ。夜の喧騒が夢のようだ。
ふと、あのおかしな牧師を思い出した。まだ寝ているだろう。別れ際「街を出るときは教えてください。付いていきますから」などと言っていたが、あんな男連れて歩けるわけが無い。それに、もう会うこともないだろう。
外は霧で真っ白だった。清らかで湿ったこの空気がレリィゼは好きだ。いろいろな汚れが少しは落ちる気がする。
ズダ袋を担ぎ、酒場の裏、馬屋にまわる。
距離が近づくにつれ、馬屋の中に黒い塊が見えた。
もっと近づくと昨日の牧師だとわかった。膝を抱え、コートをかぶり、壁に寄りかかるように眠っている。
レリィゼは再び呆れた。
大方、金がなかったのだろうが、こんな所で夜を明かすとは……。
どうぞ寝首をかいてくださいと言っているようなものだ。他人の命など金よりも軽い、それがルーザーズコンティネントだ。死にたいのか、コイツは。
まして、朝は霧が出るほどの冷え込みだ。酒をのんで眠って下手をすれば風邪では済むまい。
よくみれば体は小刻みに震えている。当たり前だ。
「しょうがない……」
レリィゼはずだ袋を下ろすと、中から端切れを引っ張り出した。それは、コートの残骸で、ボロボロで着られなくなった後も、つい捨てられずにとっておいたものだ。
牧師を横に寝かせ、端切れを牧師の体に掛けようとした。そのときだった。
熟睡しているかと思われた牧師の目が開いた。
「おはようございます。いやいや今日も……」
目を覚ますと同時に、わけのわからない口説き文句を連ねる牧師。
レリィゼは思わず深いため息をついた。
「もしもし、レリィゼさん?」
馬は荷物用だ。レリィゼは手綱を取り、ひたすら歩く。太陽はほぼ真上、暑い。その上……
「ちょっと」
無視。
「もしもし?」
――ああ、もうっ!
「五月蝿い。目障りだから黙ってて、それがだめなら空気と同化して。むしろ、気化して。そしたら気にならないから」
「ひどいですよ。昨日はあんなに話しをしてくれたじゃないですか。今日はちょっと冷たいですよ」
「昨日は仕事。今日は違う、しゃべる必要も意味もない。わかったら黙ってよ」
牧師はレリィゼの気を引こうとひっきりなしに彼女に話しかけるが、レリィゼは前をみながらただ黙々と歩くだけだ。額の汗をぬぐおうともしない。まるで獲物の痕跡を発見したハンターのように、ひたすらに歩を進める。
「ああ、じゃあ、こうしましょう。たった一つだけ。一つの質問に答えていただけたら静かにしますから。ね、いいでしょう?」
「……わかったわ」
相変わらず前をむいたまま、嫌々うなずくレリィゼ
「どうしてティグレなんかの情婦に? そんな人よりも私のほうが……」
牧師は皆まで言えなかった。レリィゼが振り向き様に裏拳を繰り出したからだ。牧師はなんとかかわすことができたが、鼻先で空気が切り裂かれたのを感じた。
「その事はもういわないで、それは嘘だから――ったく、よりにもよってなんであんな嘘をついたのかしら」
「え!?」
「そう、あれは貴方がついてこないようについた嘘。あんなヤツの女になるなんて口にしただけでも汚らわしい」
「じゃあ、どうしてサンライズタウンに?」
「貴方には関係ない」
「そんなぁ、つれないですねぇ。あ、でも安心しました。私にも貴方を射止めるチャンスがあるってことですからね」
『ナイフで地面に射止めてやろうかしら』とレリィゼは少しばかり本気で考えた。
でも、実際、ナイフで脅せばついてくるのをやめるかもしれない。そう思い、腰のナイフに手をやった時だった。
「ッ!?」
後ろの方で音がした。レリィゼは反射的に後ろを見た。
そこには最悪の状況があった。
音の主は狼だった。おそらく立ち上がればレリィゼよりも大きい。先ほどの音はこちらが戦闘態勢になるかと思い、警戒した音だろう。
一頭や二頭ではない。――状況を確認する。全部で十頭、しかも囲まれている。距離は8メートル程離れている。が、連中にしてみたら大した距離ではない。十分な射程圏内、必中必殺の距離。つまり、走っても逃げ切れない、戦うしかない。そして、勝たなければ食われる。
レリィゼはつくづく自分を呪った。いつもは周囲に気を配り、こんなミスはしないのだが、今日はこのわけの分からない牧師のせいでそれを忘れていた。それに、相手も悪かった。荷物を引かせている馬にも気づかれていないという事は、この狼も手練ということだろう。
レリィゼは狼達を睨んだまま、馬の背にくくりつけた荷物を落とし、手綱を放してやった。人の脚力では不可能でも、馬ならば逃げ切れるだろう。なら、こんなことに付き合う必要はない。
「優しいんですね」
さすがの牧師も危機に気づいたようだが、それでも何か武器を出したりする様子はない。ただ、自然体で立っているだけだ。
レリィゼは牧師を無視し、ナイフのグリップに手を当てたまま半身になり、腰を軽く落とした。他人を気遣える状況ではない。牧師には自分でなんとかしてもらうしかない。といっても、体の小さく、弱そうな獲物を狙うのが普通だ。つまり、彼女が狙われる可能性が格段に大きい。
狼達はタイミングを計っているのか二人の周りを囲んだまま動かない。両目は刃のように鋭い。気を許せば次の瞬間食い殺される。みれば、誰も彼もずいぶんと痩せている。おそらく何日も食べていないのだろう。向こうも仕損じれば飢えで死んでしまうだろう。
レリィゼの額を汗がつたい、地面へと落ちる。無限に思える膠着状態。生死は一瞬で決まる。
狼が動いた。
四頭はそのままレリィゼに向かってくる、残る六頭は後ろへ回る。――私だけに狙いを絞ったようだ。
四頭が飛び掛った。ほぼ同時。レリィゼはナイフを抜いた。
狙うはカウンター。直線的に飛び掛る狼を紙一重でかわし、うちの一頭をすれ違い様、喉を一閃。
紅の華が咲く、首筋から吹き出る紅。振る血の雨。
レリィゼは跳躍し、距離をとった。まともにやっては、力、素早さ、重量に劣るレリィゼが生き残れる道理はない。軽さによる機動力で立ち回るのみが唯一の勝機だ。
喉を引き裂かれた狼はレリィゼを振り返り、二歩、三歩歩き……そのまま倒れこんだ。先ほどの傷が致命傷だったのだろう。喉の奥から血の塊を吐き出し、大地を朱に染める。
仲間がやられたことに動揺したのだろう。狼達の動きが止まる。
――そう、誰だって死にたくは無い。
「来るなッ!」
レリィゼは彼らをあらん限りの殺意を持って睨みつける。血に濡れ、真っ赤に染まった姿は恐ろしくもぞっとするほど美しい。神話の中の戦乙女を彷彿とさせる。
狼達はレリィゼの周囲を周り、しばらく隙をうかがうようなそぶりを見せていたが、死の危険を感じたのか引き上げていった。狼が見えなくなると
ぺたん
情けない音をたて、レリィゼは堪らず座り込んだ。胸が苦しい。心臓がやたらとうるさい。
レリィゼも荒野で生きてきた。潜り抜けた修羅場も多い。
だが、慣れることはない。命がけの戦闘。
そして、殺すことには何回やっても慣れない。
深呼吸をし、何とか立ち上がった。
先ほど喉を切り裂いた狼に近寄る。脚は弱弱しく空をかくのみ。もう立ち上がる力もない。死を待つだけの生。それでもあらん限りの憎悪を持ってレリィゼを凝視している。
「……ごめん」
逆手に持ったナイフを全力で脊髄に突き立てた。手に伝わる固い感触。捻る。脊髄が外れる音。狼は完全に絶命した。
また、罪を重ねてしまった。未だ許されない、そして多分許されることもない罪、罪、罪。
光を失ってもなお、その双眸はレリィゼを捉えていた。レリィゼは瞼を下ろし、眠らせてやった。
「大丈夫ですかぁー?」
相変わらずのとぼけた声を出しながら牧師が走ってくる。残念なことにコイツも無事だったようだ。右手には硝煙が立ち上るリボルバーがあった。
見ると狼が二頭倒れている。後ろに周った奴らだろうか。レリィゼは目の前に集中していてわからなかったが、牧師がやったらしい。頭に3発ずつ、狙ってやったのだとしたらかなりの腕前だ。銃身が長く、グリップが安定しているライフルで、ある程度の距離から狙うならともかく。拳銃というのは思いのほか狙って撃つのは難しい。まともに狙ったところに当てられるのは五メートルがいいところだ。ましてや実戦の緊張の下で動く目標を狙い打つとなると……
「とりあえずはね。なんていうか、その、ありがとう」
レリィゼは憎憎しげに礼を述べた。
「いやいや、どうもどうも。おや、目尻から涙が。どこか痛むのですか」
レリィゼは慌てて袖で拭った。コイツに泣いているところを見られたくない。腕についた血が目にしみた。
「うるさい。アンタこそ左腕怪我してる」
見ると牧師の左腕に血が滲んでいる。二箇所、あまり傷は深くないようだ。
「診せて、手当てするから」
「こんなに優しい言葉をかけていただけるとは、怪我をするのもいいものですね」
「別に、借りは作りたくないだけよ」
「大丈夫です。左腕だから自分でなんとかなりますし、私の血で貴方を汚したくありません。お気持ちだけ頂きます」
「それよりも、ハゲタカにたかられないうちに早いところ捌いてしまいましょう」
「……そうね」
レリィゼは狼にもう一度謝ると、ナイフを腹に当てた。せっかくの食料、貴重な肉だ、無駄にはしない。また、食べるのが狩られたモノに対しての最低限の礼儀だとレリィゼは思う。
「別にそんなに謝る必要はないですよ。殺さなければ私たちが食べられていた。仕方がないことです」
「それでも、罪は罪よ。私が殺したことは変わらない」
「謝罪は単なる自己満足に過ぎなくても、それでも謝るのですか?」
牧師は少し皮肉めいた笑みを浮かべ、聞いた。
「ええ、謝って許してもらえるものでもないけれど、謝るっていうのは、これから罪を背負って生きていく意思表示みたいなものだから……」
「レリィゼさんカッコイイです。私も一目惚れした甲斐があります」
「ッ五月蝿い!」
レリィゼが手を振り上げると牧師は笑みを浮かべ慌てて「冗談ですよ、冗談」と言った。もしかして慰めているつもりなのだろうか。その仕草は見慣れた牧師のモノであったが、レリィゼはふと、そんなことを考えた。考えてすぐに振り払った。そう考えるのは何かシャクだったから。
焼いて塩を振っただけだったが、牧師と食べた狼は割合と美味しかった。それもレリィゼにとってシャクだった。
これは夢だ。そうわかる夢がある。しかし、わかったとしてもそれは何の救いにもならない。
何度この夢を見たのだろうか、そして、これから何度この夢を見ることになるのだろうか。多分、自分の罪を清算するまで悪夢はレリィゼに付きまとうのだろう。いや、贖罪を果たしたとしても開放されることはないのかもしれない。そもそも許されることなどないのかもしれない。
薄暗いクローゼットの中、わずかに開いた隙間から部屋の中が見える。紅い部屋。紅い壁、紅い床、そして紅い体。
床で惨めに芋虫のようにのたうっているのは父だった。怒ると怖かったけどいつもやさしかった父。病死した母の代わりになってくれた父。
クローゼットの中でレリィゼは恐怖に歯をカタカタとならす。それでも、父の傍らで拳銃を手にたたずむ男をあらん限りの憎悪をこめ、睨む。
憎い!
憎い!
この男が!
父を殺したこの男が!
憎い!
憎い!
私が!
何もできない私が!
ガタガタと鳴る奥歯を軋むほどかみ締める。あらん限りの憎悪を込めて。
今まで後ろ姿しか見えなかった男がレリィゼの方を向いた。一歩一歩近づき、そしてクローゼットに手をかけた。
レリィゼと男は正対した。顔は逆光でよくわからなかった。しかし、むき出しの腕、血にまみれた腕に刻まれた横縞の刺青、虎縞を思わせる模様ははっきりと見えた。
それは突然だった。
いつもとは違う現象が起こった。ふと男が昼間殺した狼に重なって見えたのだ。そんな馬鹿な、この男は憎むべき仇だ、どうしてあの狼と?
そう思った瞬間、いつもの夢のように、男はレリィゼに背を向けた。
男がどうしてレリィゼを殺さずにいたのかは知らない。重要なのはレリィゼが生きているという事実だ。それからレリィゼの存在意義はこの男を殺す事、ただそれのみ。
父が殺された日、レリィゼは罪を背負った。
この悪夢はレリィゼが背負った罪だ。
目前で父が殺されるのを許した、それは父を殺したのと変わりない。
それは
紛れも無い
罪だ。
「!!」
悪夢が終わった。いつものように飛び起きる。
レリィゼの目の前には空っぽに透き通る夜空が広がっていた。野宿の時にみるいつもの光景である。
寝袋の中は汗で濡れている、気分は最悪だ。しかし、明日、サンライズタウンに着けば、もうこんな夢を見ることはないはずだ。そう、アイツを、ティグレを殺すにしても逆に殺されるにしても、今日で終わりだ。
殺してやる
絶対に
そうすれば、この悪夢に、罪にピリオドが打てるのだから。
「あれ、起きていらっしゃるんですか?」
とぼけた声。そういえばこいつがいた。寝転がったまま横を向くと五メートル程はなれて 牧師が毛布にくるまって顔だけだしているのが見える。
「今起きたところ。あなたは? 眠れないの?」
高ぶるのを押さえ、平静を装う。
「はい、お恥ずかしながらいつもは薬に頼っているのですが、あの時使ったのが最後の一つでしてね」
レリィゼは牧師と会ったとき、牧師が禿げ頭に薬を盛ったことを思い出した。
「あれは自分用だったの? 悪いことをしたわね」
「別にいいんですよ。眠れないのは慣れてますから」
「そう」
レリィゼはふと、牧師にサンライズタウンへ向かう目的を話そうと思った。明日、もしかしたら自分はティグレに殺されるかもしれない。自分という存在が無に還っても、一人くらいは自分が生きた理由、死んだ理由を知っているのも悪くはないかもしれない。。
「ねぇ、ちょっと聞いてくれる?」
「はい?」
「私、明日、ティグレを殺しに行くの」
「そうですか……」
多分、大体予想がついていたのだろう。
「驚かないのね」
「まぁ、そうですね……あの男、相当派手に殺しているようですし、若い女性がアイツに会いに行くとしたら、復讐くらいしか思いつきませんよ」
「そう、アイツはね、お父さんを殺したの。クローゼットの隙間からずっと見ていた。アイツの腕、縞模様の刺青。顔は良く覚えていないけど、あの刺青は忘れない。いつか絶対に殺してやる。お父さんと同じ苦しみを味合わせてやろうって。それが、お父さんが動かなくなるのを黙ってみているしかなかった私の、せめてもの罪滅ぼし」
「月並みな言葉ですが……」
牧師が言った。
「おそらく貴女のお父様は復讐など望んではおられない。復讐はなにも生みません」
その台詞を聞いたレリィゼは眉間にしわをよせ、言った。
「知ったような口を叩かないでよ。あんたに何がわかるの? 眠れない夜、目を閉じれば断末魔の叫び声が聞こえる。何度も夢に見た。あの赤い部屋。血に濡れた刺青。罪は精算されるべきなのよアイツの罪もそれを許した私の罪も」
「貴女が罪に囚われているのはわかりました。ですが、その男を殺したからと言って、罪が晴れるとは限りませんよ。むしろ、お父様とその男、二人分の罪を背負うことになるかもしれません。そんな奈落に堕ちてはいけません。連鎖は断ち切りましょう」
「……うるさい」
レリィゼに拒絶されながらも牧師は話を続ける。その表情は狼に囲まれたときよりも真剣だった。
「貴女は許せない自分に、そんな罰をかすことで罪の意識から逃げているのではないですか? 貴女は貴女自身を殺そうとしている。 また、貴女の行いが罪だとして、それはその男を殺せば許されるのですか? 許されはしません。許しを与えられる人はもうこの世にはいないのですから。死者は何も語りません……」
「黙れって言ってる!!」
ガッ!
レリィゼの腕が閃いた瞬間、牧師の頭をナイフが掠めた。地面につきささったそれは数本の髪を縫いとめている。それでも牧師の表情は変わらない。
静寂。
気まずい沈黙。
「ごめん」
それを破ったのはレリィゼだった。
「そういえばあなた、牧師だったものね。当然といえば当然の反応か」
「いえ、こちらこそすみません。貴女の苦しみも知らず、勝手なことを。でも……」
「わかってる。わかってるのよ。私がティグレを殺してもお父さんは戻ってこない。それが本当に罪を贖うということなのか、それもわからない。でもね、私にはそれしか無いの。たとえ、それが私のエゴに過ぎないとしても」
「そうですか……」
牧師はまだ何か言いたそうな素振りをしたが、見慣れた表情に戻り、顔を毛布に埋めた。
「そういえば、あなたはなんで私に着いてくるの? 本当の事を話してよ。ティグレに関わったら無事じゃすまないっていう事くらいわかるでしょう」
「いえいえ、それは初めに言った通りですよ。裏なんてありません」
牧師は笑い声をあげた。惚けたような声だ。でも、毛布に隠れてその表情は見えなかった。空っぽな笑い方。
「言ったでしょう? 貴女に一目ぼれしたって」
「ふぅん……。まぁ、そういうことにしておくわ。ティグレの一味というわけではなさそうだし、私はアイツさえ殺せればそれでいいのだから」
「わたしからもちょっと聞いていいですか」
「なぁに?」
「お父様はどんな人でした?」
「そんなこと聞いても仕方ないでしょう? あなたは会ったこともなければ、これから会えるわけでもないのだから」
「あ、お嫌でしたら結構です。その、眠れなくて」
「別にいいわ。多分私も眠れないし」
あまり自分のことを話すのは好きではないが、これもついでだ。話してしまおう。それにお父さんもそれを望むかもしれない。
「厳しい人だった。他人にも自分にもね。私もよく叱られた。でも、いい事をしたときは目いっぱい褒めてくれた。お母さんは物心着く前に死んでしまったから、いつもべったりだった。今思うと甘えん坊だったな。いつも一緒にいてくれた。っていっても、昼間は寝てばかりだったけど。多分、夜中に仕事をしていたんでしょうね。仕事については何を聞いても答えてくれなかった。ああ、そうそう、それでね……」
レリィゼが話しつかれて寝てしまうまで、牧師は思い出話を聞いていた。
それは抜け殻だった。
もとは小金もちの街、建物は美しく、区画も整備されている。しかし、そこには誰もいない。たわいもない冗談、品物を値切る声……、街ならば聞こえるはずの音は何も聞こえない。空白。まさにゴーストタウンだ。かすかに聞こえるのは風の音と、レリィゼと牧師の足音、それから、おそらくティグレ一味の馬のいななき。
ティグレの一味を見つけるのは簡単だった。
二人はいななきのする方へ向かった。行き着いた先は酒場。
入り口に複数の馬が繋いである。全部で十五頭、一頭に一人か二人乗っているはずだから、最大で三十人近い者が中にいることになる。
気づかれないよう、五十メートルほど離れた位置からそれを確認した二人はなるたけ気配を殺し、建物の側面に回りこんだ。
レリィゼは猫のような身のこなしで死角へ、牧師もそれに続く、レリィゼ程ではないが、年齢の割には素早い身のこなしであった。
壁に耳を当て、声を聞き取る。
「……いいか、連中も用心棒を雇ってるかもしれねぇ、それに銃ぐらいはもっているはずだ。無理はするなよ。危ないと思ったら逃げるンだ、落ち合う場所は……」
どうやら、どこかを襲う算段をしているらしい。しゃべっているのはおそらく首領格、ティグレだ。思っていたよりも若い声だな、とレリィゼは思った。
捜し求めた敵が自分の射程圏内にいる。武器を確認した。腰にはハンティングナイフ、ブーツの中にはデリンジャー、充分だ。今ならやれる。
鼓動が高まる、自身の心臓の音がやたら大きく聞こえる。
不意に、手にぬくもりを感じた。牧師の手だった。
「落ち着いてください。焦りは禁物ですよ」
「……わかってるわ」
小さく深呼吸をする。鼓動が収まるのを待ち、窓から内部を伺う。
居た。
中心、広げられた地図、それを指差す腕には虎縞の刺青。多人数に囲まれ、顔は見えない、だが、その刺青は間違いなくティグレだ。
フラッシュバックする赤い部屋。敵。心が疼く。アイツを今すぐに殺さなければ。
そこにあるのは罪からの解放。
「待ってください! 踏み込むのは危険です。多勢に無勢、間違いなく不利です。やはり、夜を待ち、奇襲を仕掛けるのが……」
遠くなる牧師の声。憎い、敵。憎い、私。
止める間もなかった。次の瞬間、レリィゼは酒場に飛び込んでいた。
それは一陣の風、熱い殺意の塊、紅い閃光。
―― 自身など、どうなろうが知らない。ただ、お前だけは。……コロス――
純粋な殺意。
突然の乱入者に泡を食う男達をすり抜け、蹴り飛ばし、レリィゼはティグレに猛進した。狙うは首、頚動脈のみ。
視界の中心に捉えた標的が大きくなる。逆手のナイフを突き出す。これで、やっと、開放される。やっと……
しかし、不意に標的が消え、視界が横方向に吹っ飛んだ。
死角に居た取り巻きに蹴られたのだと理解したのと、床に頭が打ち付けられたのは同時だった。レリィゼは仕損じたのだ。
「……畜生ッ」
傷みでぼやける意識を無理やりに覚醒させ、レリィゼは再び立ち上がろうとした。しかし、それは叶わなかった。背中に硬い感触。床に叩きつけられる。
うつ伏せの視界にはブーツしか入らない。背中を踏みつけられている。
「んだぁ? テメェ?」
質問には答えず、ナイフを突き出そうとした。出来なかった、手首を踏みつけられ、床に縫いとめられる。乾いた音をたて、ナイフが手から、落ちた。
「何者だって聞いてんだよ。オイッ!」
手首に力をこめられ骨が軋む。レリィゼは歯を食いしばり、耐える。悲鳴は上げない、あげてたまるか。押さえつけられながらも起き上がろうとするが、男の力には叶わない。
視界の端からブーツが歩いてくる、そいつはレリィゼの目の前にしゃがみ込んだ。縞模様の腕が見えた。――こいつが……
「独りで突っ込んでくるとはな……、よほど俺達をなめてるのか。それとも陽動のつもりか…… 大方、俺達の蓄えを狙ってきたんだろうが、一人か? それともチームか?」
レリィゼは答えない。血の味のする唾を飲み込み、ティグレのブーツを睨みつける。
『手を伸ばせば届く。そんな距離。瞬きほどの時間で頭と胴体を泣き別れさせられる距離にいるのに。畜生ッ!……』動きを封じられたレリィゼに出来ることはただ睨むことだけだった。
「答えねぇか……。まぁいい、コイツを縛り上げろ、他の奴らは二つに分かれて一組は辺り一帯を見て回れ、もう一組はコイツとアジトの見張りだ。苦労して貯めた蓄えだ。盗られてたまるか!」
指示を受けた連中はそれぞれが言われた事を始めた。それは既に彼女がティグレにとっての脅威ではなくなったことを示す。
「コイツはまだ殺すなよ、喋ってもらうことがあるからな。それに、女日照りの俺らにはちょうどいい前菜だろ」
こめかみに強い衝撃を受け、レリィゼの意識は空白に飲まれた。
意識が徐々に覚醒する。それにつれ、自分が事を仕損じたことを実感する。もうチャンスは無いだろう。『どうしてあそこで……』悔やんでも悔やみきれない。涙が滲む。
――畜生――
目をつぶったまま
声を押し殺し
泣いた。
どのくらいそうしていただろうか。泣いても何も解決しない。そんな当たり前のことにようやく気づく。感情を暴発させている場合ではない。一つ、深呼吸をし、心を落ち着け、今おかれている状況を分析する。
頬に木の感触を感じる。床に転がされている。部屋には誰もいない。口には猿轡、手は後ろで縛られている。脚も同様。幸いなことに服は脱がされていなかった。どうやら付近の捜索に手一杯で体には手をつけられていないらしい。とはいえ、屈辱的で絶望的な状況には変わりない。先延ばしにされただけでいずれ屈辱の時間はやってくるだろう。
自分がいる部屋を見渡す。金目の物が平積みにされているところを見ると倉庫として使われている部屋のようだ。外から鍵がかけられるから、とりあえずの留置場所としてここに放り込んだと推測できる。当然、入り口には鍵がかかっているだろう。
高い位置に明かりを取るための小さい窓があったが、盗難を防ぐためなのか人が通れる大きさではない。そういえば、光が差し込んでいない。今、前が見渡せるのは壁の蝋燭からだ。もう夜か。つまり、かなりの時間意識を失っていた事になる。
縄が緩むことを少しだけ期待して腕を動かしてみる。案の上、まったく緩む様子はない。脚も同様だ。壁にかけられている蝋燭には高すぎて届かない。さすがに素人ではない。荒事をやりなれた連中だ。
――私はこれから何をされるのだろうか? 聞くことがある、と言っていたから尋問、拷問の類だろうか? 鞭? 炎? それとも水攻め? どれも嫌だ。それに、やっぱり犯されるのかな。嫌だ。あんな連中におぞましい。汚らわしい。憎い敵に犯されるくらいならいっそのこと……。
でも、死ぬのも嫌だ。実際、今、舌を噛み切ろうと思っても猿轡を噛まされているからできないんだけど。もし、無くても死ぬのは嫌だ。死にたくない。
不思議だ。ティグレを探しているとき、飛び掛ったとき、死んでもいいと心から思っていた。でも、やっぱり、死にたくない。ええぃ。黙れ、私の心。そんなことを考えている場合ではない。
キィ
扉の向こうで鍵が回される音がした。
ゆっくりと扉が開かれる。死刑台へのぼるとき、死刑囚はこんな心境なのだろうか。
「あ、どうも」
扉の影から出てきたのは牧師だった。それも、惚けた声と表情で。
牧師は何食わぬ顔で、レリィゼに近づき、猿轡と縄を解いた。
思わず、涙が出た。今度は安堵の涙。牧師に思わず抱きつきたい衝動はなんとか押さえ込む。
レリィゼは立ち上がって、身体を動かしてみる、節々が少し痛むが動くのに支障がでるほどではない。
「それと、これ。ちょろまかしておきました」
牧師から差し出されたナイフとデリンジャーを受け取る。
「ありがとう。どうしてここに?」
「昔、こんなことを生業としていたので。いやいや、引退した身には少しばかりハードでした」
「そうじゃなくて、なんであなた一人で逃げなかったの?」
「だから言ってるじゃないですか、貴女に一目ぼれだって」
「ごまかさないで!」
「わかりました。お話しますよ。片をつけてからね。私が前衛に立ちますから、バックアップをお願いしますね。ナイフでは何かとお辛いでしょう?」
牧師はヒップホルスターからリボルバーを引き抜いた。
「では」
そういって牧師はスタスタと歩き始める。慌ててレリィゼは付いていく。
「ちょっと、いくらなんでももうちょっと見つからないように……」
「いやいや、ここに来るまではそうしてたんですけど、レリィゼさんを助けたら、もう関係ありません、正面から出て行くだけですから」
そう言って再び無人の荒野を歩くように歩を進める。レリィゼは辺りを見回しながら着いていき、距離を離されては小走りで近づくということを繰り返す羽目になった。
広い屋敷だ。歩いても歩いても出口が見えない。いや、そう思ってしまうのは恐れのせいか。
少し広い廊下、曲がり角で牧師が不意に立ち止まった。レリィゼに「ちょっとまっててください」と動作でしめす。わけもわからず、レリィゼは言われた通りに立ち止まる。
牧師が跳ぶ、同時に銃声。
角から飛び込み前転と同時に構え、腰のところでファニング――トリガーを引いたままファイアリングピンを弾き、連射――
勝負は一瞬だった。
レリィゼは角から恐る恐る顔を出した。三人、床にのたうち呻いている。肩や、腕を打ち貫かれ、戦意は無いようだ。ファニングで狙って当てることは難しい。弾幕を作るのが主な使い方だ。それをこの牧師はあの一瞬でしてのけたというのか。
「さ、サクサク行きましょう」
牧師は何食わぬ顔で、先ほど同じように歩き始める。どうしてこの男はこんなに緊張感がないのか。これは殺し合いだ。この男は薄ら笑いを浮かべながら殺し合いをしている。
どれだけの修羅場をくぐればそんな芸当ができるようになるというのだ。
「あんた、いったい何者なの……?」
「さぁ、なんなんでしょうね。まぁ、私も昔いろいろあったんですよ。そう、いろいろね」
『考えてみりゃいままでが順調すぎたんだ』
「ティグレ」は家捜しをしながらふとそう思った。
腕に縞の刺青を彫り、一昔前、荒稼ぎをしていたティグレの名を騙った。それだけでチンピラは彼の言うことを聞いたし、街の連中は震え上がった。
子供の頃から、彼は不運続きだった。何をやっても上手くいかず、アウトローとしても三流。人にこき使われ、旨みは全部もっていかれた。リスクは全部こっちだ。他人の命令で修羅場をくぐらされたことも山ほどある。
それでも、なんとか生きてきた。いつかは成り上がれるときが来る。それだけを信じて。
そして、ティグレの名を騙ることを思いついた。そうしてからは簡単だった。アジトと兵隊を手に入れ、街を掌握し、毎日酒を飲んで、女を抱いた。それほど、ティグレの名は大きかったのだ。
しかし、今日、それを邪魔するものが現れた。
命を狙われたことはあった。だが、それはあくまで反撃としてだ。今日のあの女は自分から仕掛けてきた。ナイフでこの首を掻っ切ろうとしやがった。
一人なのか、仲間がいるのかわからない。だが、目的はおそらく金だろう。絶対に渡すものか、苦労してここまで築き上げたんだ。あんな生活に戻ってたまるか、死んでたまるか。
今のところ女の仲間は見つかっていない。しらみつぶしに家捜しして見つからないということはあいつは一人なのかもしれない。それなら何も問題は無い。俺の考えすぎだったようだ。
ティグレが家捜しをさせている連中を集めようと首に下げている呼子に口を付けた、その時だった。
――オォォン――
低く、こもってはいたが、それは紛れもない銃声だった、アジトの方角。あの女の仲間か、それとも自分で逃げ出したのか。
「畜生目ッ!!」
ティグレはリボルバーを引き抜くが早いか走り出した。
「死んでたまるか。奪われてたまるか」
同じく家捜ししていたチームと合流し、アジトとしている建物に向かう。金持ちが倉庫として作らせた部屋にブツはしまってある。もともと盗みにくいようなつくりになっているのだ。全てを馬で運び出すにはそれなりに時間がかかるはず。急げば搬出しているところを攻撃し、奪い返すことができる。
アジト内部は静かだった。「ティグレ」が到着する少し前までは銃声がひっきりなしに聞こえていたが、絶えてしばらくたつ。つまり、味方と敵、どちらかが全滅した、ということだ。
「ティグレ」は用心深く辺りを見回し、取り巻きに自分を中心に円陣を作らせた。もしもこちらが敗者だった場合、どこに何が潜んでいても不思議ではない。
辺りを見渡し、人の気配が無いことを確認した。その上で手近なヤツにアゴをしゃくり「中を見て来い」と指示を出した。否、出そうとした。
轟音とともに何かが足元で跳ねた。 ――後ろかッ!?
振り返った。それがレリィゼの狙いだった。
牧師の銃撃を聞いた瞬間。レリィゼは駆けた。連中は牧師に気を取られこちらに気づいていない。牧師の放つ弾丸は的確に敵を捉えている。必中、必殺の好機。
走りつつティグレへの道を塞ぐチンピラを踏み台にし、ティグレの真上へと舞う。
落下する視界。スローモーションのように視える。標的がゆっくりとこちらを向く、驚き、銃を構える。が、遅い。
渾身の力で振り下ろされたナイフは「ティグレ」の肋骨から股間までを切り裂いた。
一瞬の空白。次いで紅いシャワーが吹き荒れる。
そして、ティグレは、ゆっくりと崩れ落ちた。戦闘は終わった。自身の不利をしるやいなや蜘蛛の子を散らすが如く逃走を始める悪党達。誰かの下に付くのは所詮、雑魚だ。
レリィゼはティグレを見下ろした。先ほどの斬撃は軽傷ではない、かといって致命傷ではない。とどめをさす必要があったからだ。
ティグレは逃げようとしていた。歩みよりも遅い速度、血反吐を吐きながらも全身の残り少ない気力を使って、弱弱しく、無様に。
レリィゼは右手を握りなおし、振り上げる。これで終わる。これで開放される。これで……
ふと、昨日の狼がフラッシュバックした。『どうしてあなたがでてくるの!?』血にまみれのたうつ姿が類似しているのか?
タァン!
不意に銃声がした。レリィゼはとっさに飛びのき、辺りを見回した。
銃声の主は、牧師だった。
「それは貴女の役割ではありません」
口調はいつもの惚けた調子だった。しかし、瞳は笑ってはいない。
「どういうつもり!?」
牧師は黙って左の袖を引きちぎった。
「!!」
「こういうことです」
そこにも縞模様が刻まれていた。その縞模様は刺青ではない。いくつもの古傷だ。数え切れないほどの醜い傷跡。
さきほど自分が殺そうとしていた男のものとは違う。しかし、その縞模様は……
「お前がティグレかッ! ずっと、わたしをッ……」
再び、レリィゼの殺気が膨れ上がる。こんなに近くに居たのだ。いつだって殺せた。それなのにッ
「ええ、一人ではいろいろと難儀だったので、利用させていただきました。おっと、動かないでくださいね。ついでに口のほうも。言いたいことはいろいろあるでしょうが、この男は私に始末をつけさせてください」
牧師はレリィゼに銃口を向けたまま、地にはいずる男の傍らに立った。ショルダーホルスターからもう一丁、リボルバーを引き抜く。 レリィゼは動けなかった。牧師、いや、ティグレに隙は無い。一歩でも動けば撃たれる。自分が仕掛ける姿を想像しても最悪な結果しか想像できない。自分の殺意を、歯をかみ締めて押さえ込むしかない。
「あなたは私の名前を騙るべきではなかった」
ティグレが言った。
「ティグレの名は罪の烙印。この傷は私が殺してきた人数、罪の重さです。それをそういう風に使われるのは我慢なりません。恨むなら恨んでください。私はただのエゴであなたを殺すのですから。
まぁ、今までその名でそれなりにいい思いをしてきたようですし、そのツケが回ってきたのだと思ってください」
ティグレは銃口を「ティグレ」に向ける。「ティグレ」の視線の先には真っ黒の銃口しかない。
『いい思い? ツケ? 何もかもこれからだ。なのに、どうして俺が死ななきゃいけない? クソッ! クソッ! なんだよ、おまえだって好き勝手やってきたんだろう? どうして、なぜ……』
わずかな力がこめられ、ハンマーがゆっくりと落ちた。乾いた音がひとつ。「ティグレ」の思考はそこで永遠に途切れた。「ティグレ」にとって死は唐突にあっけなく、理不尽に訪れた。
ティグレは視線をレリィゼに戻すと、片方のリボルバーをしまい、おもむろにナイフをとりだした。無論、もう一方の手に握られたリボルバーはレリィゼを牽制したままだ。
そして、ナイフを腕にあて、引いた。血が滲み、地面に小さな血溜まりをつくる。
レリィゼはふと思い出した。昨日の狼に襲われた時……
「昨日の傷も今みたいに?」
「そうです。手当てを断ったのは傷跡がばれてしまうから」
「そんなので自分の罪を許してもらえると思っているの?」
「自分でもなんでこんなことをしているのかわかりませんよ。ただ、こうしないといけない気がした。それだけです」
ティグレは切なそうに言った。
「ふざけるな。あなたのそれはただの偽善だ!」
目で人が殺せるならすでにティグレはレリィゼに殺されているであろう、そう思わせるほどの視線だった。
ティグレはレリィゼに苦笑いで答えた。
「それはそうと、貴女は私を殺そうとするのでしょうが、この状況はなんとも不公平ですね」
すでに銃を突きつけられているレリィゼには勝ち目はない。どれだけレリィゼが疾かろうと、ティグレがトリガーを引く速度に叶うはずもない。それがわかっているからレリィゼは仕掛けられずにいる。
「だから、一時勝負を預けます。私はこのアジトで夜を明かしますから好きなとき、かかってきてください」
「……どうしてそんなことを」
「まぁ、いいじゃないですか、こちらにもいろいろと、ね。で、受けてくださいます?」
レリィゼは苦々しげにうなずいた。その提案はレリィゼにとって有利にこそなれ、不利にはならないものであったが、憎いティグレの提案を呑まなければならないのが腹立たしいのだろう。
「それでは」
ティグレはレリィゼに銃を向けたまま、ゆっくりと後ずさり、アジトの中へ入った。
レリィゼはそれを追うことができなかった。扉の死角に隠れ、待ち伏せているかもしれない。
もう殺し合いは始まったのだ。
キィ……
扉を閉めた音がやたらと響いて聞こえる。さて、あの殺意、レリィゼはいつどこから来るだろうか。少しでも待ち伏せに適したところを探さなければいけない。とはいえ、勝手のわからない他人の家だ、最善の策を練るのは難しいだろう。
都合のいい場所を探しながら考える。
アレがあの時の娘か……、成長したものだ。クローゼットの中の殺意。あんなに熱い殺意に気づかぬはずは無い。自身の命を考えるならばあの時殺すべきだった。しかし、相棒を殺したのはあの男だ。レリィゼではない。そう考え始めると殺すに殺せなかった。
まぁ、いい。彼女は自分。あの夜の再現だ。ならば、あの殺意には正面から答えなければならない。それが己の罪ならば
「偽善者……か」
そうかもしれない。ふと、腕についた無数の傷痕を眺める。
今まで何人も殺してきた。その罪を傷という罰にして背負ってきた。だからといって何が変わったわけではない。死ねば無へと還る、自分がこんなことをしても何の意味を成さない。許されたいというエゴに過ぎない。では、どうやって償えばいい?
死んで償えばいいのか? それこそナンセンスだ。自分を守るために人を殺してきた。殺してまで繋いできたものを断ち切ってなにが償いか? それこそ冒涜だ。
自分の思考に思わず笑ってしまった。――自殺が冒涜か、いつのまにか牧師が板についてしまったようだ。まぁ、いい。殺そうとする者、自分に危害を加えようとする者を殺すのは当然の権利だ。レリィゼが向かってきた瞬間、抜く。それでいい。今までずっとそうしてきた。何を今更……
弾層を振り出し、エジェクトする。それから実包を込め直し、元に戻す。手垢のつくほどなじんだグリップ、いつもと同じだ。
開けた場所なら銃のほうが格段に有利だ。なぜなら、ほぼ無限に近い殺傷圏がある。だが、室内のような場所では無限の間合いは不要。となれば、その利点はいかされない。単純な体術ではレリィゼに分がある。狭い廊下で正面から当たればこちらが不利。それなら……
どれだけ金をかけたのか知らないが、二階と一階がエントランスホールでつながっている。ティグレはこのエントランスホールの真ん中にしゃがみこんだ。ここならば相手の射程距離に入る前に対応することが容易だ。それに比較的明かりが多く、奇襲がしにくい。
息を殺し、五感を研ぎ澄ます。わずかな気配も逃さない。朝までここにいるとは言ったが、あの殺気だ。そんなに待たされることはないだろう。周り全てを警戒する。
静寂が空間を支配する。
キィ……
どこかで音がした。無人の屋敷というのは静かだ。加えて音を出さずに動くことなど不可能に近い。
反響でどこから音がしているのかはわからない。音の感じからすると音源は窓のようだ。待ち伏せやトラップを警戒してのことだろう。続いてブーツが床を踏む音、足音を忍ばせて歩いているようだが、わずかに聞き取れる。
どこから来る? 広い場所で正面から当たればまず勝てる。
音が止まった。待ち伏せを警戒してのことか。まぁいい、持久戦なら望むところだ。伊達に修羅場をくぐっているわけじゃない。
ダンッ!
静寂を破る音。先ほどまでとは明らかに違う、これは……跳んだのか!?
――まさか、上かッ ――
とっさに視線を真上に移動させる。そこにいたのは、今まさに、鎌を、振り下ろさんとする、死神。狼をも凌駕する身の軽さ、度胸ができる技だった。
銃を抜くには間合いが近すぎる。かわしても返す斬撃で殺られる。彼が並みの男であれば死んでいただろう。しかし、彼はいくつもの命を奪い、いくつもの修羅場をくぐりぬけた男だった。
彼は下がるのではなく、前にでた。ナイフで致命傷になる最小限の部分を腕でかばい、そのままレリィゼめがけて跳んだ。
レリィゼが予測しきれない反応。二人は激突し、逆方向へと吹き飛ぶ。
床に叩きつけられる衝撃で息が出来なくなる。ティグレは無理矢理体を動かし、同じく飛ばされたレリィゼに右腕を向ける。だが、右腕に激痛がはしる。動かない。さすがにただではすまなかったようだ。どこか重要な腱を断たれたのだろう。
銃を持ち替えようとする。が、レリィゼのほうが疾かった。視界のなか、レリィゼの右腕が閃いた。とっさに左腕で首をかばう。投げられたナイフが腕に深々と刺さる。熱い傷み。奥歯がきしむほどかみ締めて耐え、ナイフが刺さった腕で銃を向ける。
「!?」
そこにレリィゼはいない。消えていた。
「いい判断だ……」
なるほど、こちらの照準に入る前に身を隠し、仕切り直しというわけか。このまま持久戦に持ち込めば、この傷と出血だ、こちらが圧倒的不利。かといって不用意にうってでるのも危険だ。
「……それなら」
打ち付けた背中がズキズキと痛む。
「まさか、あの状態で反撃してくるなんて……」
だが、右腕には肉を切り裂いた感触が残っている。確かな手ごたえだった。もう右腕は使い物にならないはずだ。
銃を向けられ、とっさにナイフを投げたのは失敗だった。残る左腕で致命傷を避けたのが見えたからまだ生きている。それなのにこちらの最も得意とする武器を失ってしまった。
レリィゼはブーツに手を当てた。デリンジャーの感触がある、武器はこれしかない。裾をまくり手に取った。今まで一度も撃ったことがない。
レリィゼは銃が嫌いだった。一方的で理不尽な暴力、ただ殺すための道具。ナイフとは違い、銃は相手を殺すためだけに作られたものだ。
「レリィゼさん、出血はひどいですが、私はまだ生きてますよ。殺さなくていいのですか?」
隠れた扉の向こうから牧師の声が聞こえる。どういうつもりなのだろうか?
「早く私を殺してみてください。私が貴女のお父様を殺したときのように」
「違うッ! あなたはお父さんを金のために殺した! 私は違う。お父さんのためにお前を殺す!!」
「お父様のため? 貴女は貴女の許されたいというエゴのために私を殺すのですよ。それに、私は金のために殺したのではありません」
「え?」
「私も貴女と同じです。仇だったんですよ。貴女のお父様は私の親友、相棒を殺したのです。こちらに戦う意思がないにもかかわらず、一方的に、なぶり殺しにされたんです」
「嘘よ!!」
お父さんがそんなことするはずはない。するはずが……
「嘘とは心外ですね。まぁいいでしょう。今、真実を確認する手段はありませんから。ですが、貴女がエゴのために私を殺そうとしているのは事実です。それは罪以外の何物でもないとは思いませんか?」
「減らず口をたたかないで! あなたこそ、自分の腕を傷つけて許されている気になっている偽善者、エゴイストのくせに! 罪は死でこそ償われる。罪の意識があるのなら今すぐ死になさいよ」
怒りのあまりデリンジャーを構える手に骨が軋むほど力が入る。――いけない、無駄な力は反応を鈍くする。落ち着け……ッ! ――
レリィゼは気づいた、この会話の意味に。
ティグレはレリィゼの精神を動揺させようとしているのだ。さらに、話しかけその反応により、どこにいるのか気配を探っている。ヤツは両腕に浅くない傷を負っている。持久戦は避けたい。だから、こちらの場所を探り、いっきに勝負を決めるつもりだ。
これが幾度も修羅場をくぐった人間の発想か。そこまでして生き延びようとするのか。
思えば、皆そうだ。昨日の狼、偽ティグレ、誰もが皆精一杯生きようとしていた。生きるため、そのために奪い、殺す。だが、私はどうだ。ティグレを殺すのは生きるためではない。罪のためだ。その罪だって拭えるかどうかわからない。単なる自己満足かもしれない。
レリィゼはそこまで考えてやめた。もう彼女はナイフを抜いてしまった。これが間違ったことだとしても遅すぎる。
もう始まってしまった。なら、後は終わらせるだけだ。
レリィゼはデリンジャーを握りなおした。
怒りの気配が消えた。どうやら思惑がばれた様だ。しかし、もう遅い。彼女はこの扉の向こうにいる。声のおかげで移動時の足音も聞かれていないはずだ。
偽善者、か。今まで生きることによって罰を受けている気になっていた。だが、それも、自己満足に過ぎないのかもしれない。
ふとリボルバーを見た。今まで何人もの命を奪ってきた銃。
ん?
ああ、そういうことか。
それもいいかもしれない。
そういうのも悪くない。
少なくても私は解放されるのだから。
扉に手をかけ、一息に開ける。
銃声が、ひとつ、無人の街に響いた。
銃口を先に向けたのは向こうだった。なのに、なぜ自分は立っているのだろう。
デリンジャーの弾丸を受けたティグレはゆっくりと崩れ落ちるように倒れた。デリンジャーの小口径弾では致命傷ではなかったようだ。とはいえ、臓器の一部が破損した様子で、ティグレの息は荒い。
「どうして撃たなかったの?」
倒れたティグレにデリンジャーを向けたまま、レリィゼは静かに問うた。
「……ふふ、撃ちたくても撃てませんから」
と、ティグレは目で自分の持っていたリボルバーを示した。違和感を感じる。ハンマーが起きたまま捻じ曲がっていた。コッキングされた状態で、衝撃を受け、変形したようだ。本国で作られたものならいざしらず、劣悪なコピーでは稀にこのような事がおこる。
「逃げることもできたのに……私を馬鹿にしてるの!? それとも今更死ぬ気になったわけ!?」
牧師は薄く笑い、言った。
「……気づかなかったんですよ。それでいいでしょう。……それよりも、早くとどめを刺さなくていいんですか?」
「……ええ」
デリンジャーを眉間にターゲッティングし、ゆっくりとコッキングする。熱い感触が頬を伝う。なぜ?
トリガーに力を込める。ある程度で、不意に人差し指に抵抗が無くなった。
ぱぁん
ティグレの死を告げる銃声はティグレが偽者を殺したと同じく、冗談のように軽かった。
荒野に影がひとつ。
風に嬲られながら歩を進める。
左腕には罪の烙印、虎の傷痕
どこかで狼の遠吠えがする。
運の悪い草食動物がエゴのために犠牲になったのだろうか。
狼もいつかは朽ち果て、食われる。
死と生を織り重ねた螺旋。
女は歩を進める。
殺すために。
殺されるために。
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