第二十九章 キタイの経済学
マークは雄弁だ。
難解な概念や新しい思想も、聞く者が理解しやすいよう、実に見事に解説する。
どんな人間でも思わず引きこまれてしまうような魅力にあふれている。
クラウスにとって、まるでなじみの無い異界の進んだ社会制度や科学も、なぜ其れが今オルトに必要なのか、わかりやすく教えてくれる。
今日は、マークがロザリアとクラウスに「ハリカには、王家の後継問題がらみで、僕とイゼルの結婚も有りえるって伝えておいた」と報告した事がきっかけとなって、人身売買の撲滅や、女性の地位向上といった話になった。
マークがキタイ国摂政として政治的な活動を始めるまで、このオルトと言う世界には「国民」とか「基本的人権」とか「公共の福祉」などと言う概念はまるで存在しなかった。神に近いとされる貴族・王族・皇族といった支配層が無知蒙昧な民を導き、民は支配者の言うままに年貢を納め、労働する……そんな原始的な社会構造しか存在しなかったのだ。
嘗ては、奴隷が当たり前のように存在し、貿易も商売も略奪行為や物々交換と大差ないレベルだった。
民を「基本的人権を持った国民」とみなし、初等教育5年間のみとは言え義務教育を実施して国力を高める、などという政策はマークがはじめるまで誰も考え付かなかった。役人の採用に試験制度を導入し、身分に関係無く人材を広く求めるようになったのもマークの政策である。不況対策などの金融政策を行ったのも無論マークが初めてだ。
「サミュエルソン先生の『経済学』をどうにか理解できた程度のレベルなんだけどさ」
マークは記憶していた『経済学』のテキストの内容をキタイで出版し、役人を養成する大学では必修項目とさせた。同時に、近代的な商法や法体系の概念もかなり定着させた。
「サミュエルソン先生って、マーク兄様のいらっしゃったMITの高名な先生ですね」
「大学者だね。ああいう方がいらっしゃる場所で学べて、僕は幸せだよ。もっとも経済学は全くの専門外なんだがね。それでも先生の御本がこんな所で大いに役に立ってるなんて、先生もびっくりなさるだろう」
民からの年貢は取り立てられるだけ取り立てればよい、などと考える馬鹿な領主はもうキタイでは存在自体許されなくなって、状況はかなりマシにはなっている。初めて減税を行った時の貴族たちとの摩擦の大きさを考えると隔世の感がある。
「少なくとも、餓死者はここ数年殆ど出てないはずだよね」
今、キタイの国民は大半が文字を読み書き出来るし、四則演算もごく当たり前に出来るようになった。このことで国民自身が考え、自らの人生を決める事が可能になってきた。
「早くハリカみたいに親に売られちゃう子供を無くしたいんだけどね」
まだ、女の子の社会的な地位は男の子よりも低く、弟や兄の学費のために姉・妹を売り飛ばすと言う事も珍しくない。まあ、嘗ては男の子も学校で学ぶ事はめったになかったのだから、今は、進歩のための途中の段階と言える事は言えるのだが……
「だからって、割を食うのがいつも女の子って言う状況は改善しなくちゃ」
女の子だって社会的な活動を行い、立派に自立できるような国にしたいのだが、人々の意識に深く根付いた男尊女卑の観念はなかなか改まらない。
「女神様は女なのを皆忘れちゃいないか?」
オルト創生の神話に真っ先に登場するのが女神であるにもかかわらず、なぜ今のような有様になったのか?
女神が言う所の「不手際」と異界からオルトに来た金銀の龍、そしてオルト中の支配者の先祖とみなされる帝国の開祖、これらが関係しているのかもしれない。
女神の「不手際」とは一体何か?相対的な女神の地位の低下が、人間の女の社会的な地位に反映されているのか?マークにはいまだに良くわからない。
「女性の社会企業家がもっと育ってくれないと、話が進まないよな」
ここで、女神の申し子のロザリアにもっと力を貸して欲しい所だが、隣国の皇太子であるユーグにロザリアの所在を今知られるのはまずい。名前を出さないような格好で、何か女の子のための自立を手助けする活動に参加してもらえないだろうか……というのが、ロザリアに対するマークの希望だった。
「女の人は親の財産を相続できない場合が殆どですよね。それに離婚するときは元の夫からは何ももらえないし、オルトには慰謝料と言う制度も無いし、社会的な信用がないからお金もめったに借りれませんでしょう?」
「確かにその通りだよ。女の人がまとまったお金を獲ようとすると、身売りでもするしか方法が無い」
「元手が用意できなければ、なかなか商売も始められませんよね」
「確かに。ロザリアちゃんみたいに商売の元手が最初から有る女の人は珍しい」
「ですから、マーク兄様のお力で、真面目で有望な女の方にごく低い金利でお金を貸してあげる機関を立ち上げるって事は出来ませんか?」
「ああ!それは良いアイデアだ」
「貸付の審査基準はどのようにするのが現実的で効率がよいのか、私にはわからないんですけれどね」
「後は、どんな商売だったら女の人でも始められそうかって所も、見極めておいたほうが良さそうだ」
「私はせいぜい、食べる物・着る物に関係した商売か、家事や育児に関係あるサービス業のような物ぐらいしか思いつきません」
「オルトの現実は確かにそんな所だろうな」
「後は協同組合とか、異業種間の交流とか、兄様が積極的にまとめられたらどうでしょう?」
「いいアイデアだな!協同組合は僕もちょっと考えて、農村や漁村のおかみさんたちで生活改善のグループ活動が活発になるような後押しをしたらどうかって思ったんだよね。異業種間の交流の方は、僕以外の出来れば女の人の視線でキタイ各地の有望な人材を見つけ出して、ネットワークを作るほうが良いような気がする。ロザリアちゃんが良い人をスカウトする気、無い?」
「私がですか?」
「ユーグとの最終決着までは、まだしばらく有りそうだ。ロザリアちゃんは何と言ってもオルト初の女性企業家で帝国での商売の経験もあるから、眼の付け所が並の人間とは違うよ。それに、そうした人たちとのネットワークがまたロザリアちゃんが帝国に戻って商売するときにも役に立つと思わないか?」
「女の子が売られちゃうって話は、地方よりもブルサの貧民窟の方がずっと多いって、ここの人に聞いたんですけど、実際どうなのかご存知ですか?」
「ああ……クシャダスの事か。あそこの場合、事情が特殊なんだ。差別問題が絡んでいる」
「差別って、民族的に違う人が多いのですか?」
「同じキタイ人だけど『裏切り者の末裔』と言われてるんだ。いまだにあそこの人たちは忌み嫌われている。でも、その故事来歴は誰も覚えちゃいない。僕も以前興味があって、クシャダスの出来上がったいきさつを調べたんだが……わからないんだ。これが」
「記録も無いのですか?」
「全然無い。キタイの王室が保管していた古文書の記録が一番古いだろうけれど『クシャダスの裏切り者どもに呪いあれ』って言葉しかないもん」マークもお手上げらしい。
「銀の龍の魔法の暴発と言う事は無いですか?ブルサは古くは帝国領内でしたから」クラウスが言うと、マークは眼を輝かせた。
「クラウス君、其れだよ。きっと其れだ!銀の龍がらみなら、あの異様なまでの記録の無さも説明がつく」
「いや、ふと思いついただけのことです」
「年代的にも辻褄が合うんだよ。君達に渡したあの古文書に出てくる皇帝だけど、今となっては宿した龍の色すらも解からないんだが、ブルサが帝国の版図から外れたのはあの皇帝の死後すぐの可能性が高い。5年後に、皇太子が即位するまでの帝国の記録はすっぽり抜け落ちているわけだし、その混乱振りからすると銀の龍だったのかもね」
「それにしても、どうせ誰も覚えていないのに、差別だけは残るって、困りますね」
「ひょっとして、銀の龍の呪いかもね。肝心の事は忘れるのに、悪い感情だけが生き残るんだから…」
「自分よりも更に貧しい差別されている人を見て、自分の方がまだマシだと思いたがる人間は多いんじゃないんでしょうか?」クラウスは難しい顔で言った。
「ああ、確かに、クラウスの言う通りだと思うわ」
「なるほど、そういう心理は働くよね。そしてその差別を利用して『あの連中よりは楽なんだから』とか何とか言ってまた年貢を搾り取るのに利用するとか、多分あったはずだよ」
「マーク兄様、そのクシャダスの差別と貧困の問題ですけれど、銀の龍の呪いが関係しているなら、私達も色々調べる必要があるかもしれませんね」
「其れはそうなんだが……治安がひどく悪いし、不衛生だ。ロザリアちゃんが調査に入って、何か危険な事に巻き込まれたら困るし、別のものに調べさせるよ」
「でも、龍の呪いが及ばない人間って、クラウスと私ぐらいしか居ないのでしょう?」
「う~ん、其れはそうなんだが」
「ロザリア、お気持ちは解かりますが、余りに危険な事はやはり止めておきましょう」
「何かクシャダスの女の子の自立の役に立つことが出来たら、それがきっかけになって、問題の解決に近づけるかもしれないって気がするんですけれど」
「じゃあさ、無料の給食サービスつきの小学校をクシャダスの近所に作って、その先生とかやってみる?」
「お昼ごはんがタダで食べられるなら、来てくれる人は居ますよね」
「年齢制限無しで、文字の読み書きと計算を教えるって言うのがいいかな」
「ロザリアがそのような危険な場所で働くのは、私は反対です」
「クラウス君の心配は尤もだ。じゃあこうしよう」
マークの提案はこうだった。
まず、クシャダスに給食を食べさせる完全に無料の学校を作る。そこでは読み書きと計算を教え、その学校である程度の良い成績を取った生徒をロザリアの監督する店で雇い入れる。その店では、キタイ各地の女性が生産しているものから、選りすぐった品物を扱う。その品物を買うときは仲買人を通さず直接ロザリアの店が適正な価格で買い取る。
「ふ~ん。それなら、大丈夫かもしれませんね」
「まずは、手近なアルビ周辺で、何か作ったり栽培したりしているような女の人を探してみたらどう?」
「ある程度品物が揃ったら、クシャダスの子達を雇えるお店に置くのが良いでしょうか?」
それでも、やはり実際にクシャダスに行って、きちんと調べる必要があると、ロザリアは思うのだった。
【恋愛遊牧民R+】
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