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第二章 ユーグ
アムダリア帝国は傾きかけている。いや、土台が腐っている。
その事に気がついている者は多いが、それを口に出来ない空気がアムダリアの宮中には存在する。
病の床に有る皇帝の命は長くは持たない。それはもはや暗黙の了解事項だが、皇太子であるユーグがすんなり皇位を継承できる保証はない。ユーグも危険性を大いに認識していた。
ユーグがいまだ17歳の若さであり、軍事はともかく内政の手腕は未知数であるから、別に政治顧問が必要だとか、軍歴は輝かしくても皇太子の後宮は無人で男色家の疑いが有るとか、皆勝手に噂している。
外国の姫君を妃に迎えて国の安定に貢献すべきだとか、男色家で世継ぎの誕生が望めないなら皇族の内でしかるべきものを養子に迎えろとか、腹立たしい限りだ。
「オレが男色家?馬鹿な!オレはロザリーの成長を待っているだけだ」
(覆い隠した過去を曝け出そうとする力が強まっている・・・オレには時間が無い)
侍従のグレンはヒヤヒヤしてその様子を見つめていた。
「ロザリーもロザリーだ。約束を忘れたのか?嬉々としてあの女たらし公爵に会おうとは・・・」
(あの男・・・オレの結界に介入し、龍の力を奪い、ロザリアも奪うつもりか?)
グレンは年若い主の焦燥感・恐怖感を感じても、真の理由に思い至る事は不可能だった。乳母であったグレンの母の病死以降、周囲に主は心を閉ざしているのだ。
そこへ侍従見習いの一人がロザリアがこの摂政府にやって来るとグレンに耳打ちした。
身の内に銀の龍を宿らせた主の孤独を理解できるのは、これからやって来る小さな客人だけかも知れない。
グレンは意を決して、主人に小さな彼の思い人がやってくる予定なのだと伝えた。
「何?グレン、それは誠か!思いの他上手く行ったな。そうか、ロザリーが来るか」
急に表情が和らぐ。「氷の微笑」とは似ても似つかない嬉しげな表情に、グレンは密かに驚いた。

「レオンハート公爵御息女ロザリア・ド・ヴァレス・レオンハート姫、お越しになりました」
到着を告げる知らせを耳にするや否や、ユーグは表情を引き締めた。
「早く通せ。皆遠慮せよ。オレとロザリア二人きりで重要な話が有るのでな」
大貴族の姫君にしてはいささか落着きの無いパタパタした足音が響いて、いきなり扉が開いた。
「ユーグ兄様、御久しゅうございます」
真紅のドレスを纏ったこの世界でただ一人の黒目黒髪の美少女の姿がそこにあった。
侍従と見習いは一斉に部屋を出て行った。
ユーグは一応正式の礼をしようとしたロザリアを押しとどめ、すばやく抱きかかえるとソファーに座り込んだ。
「あ、あのう・・・」
「良いではないか、オレとお前の仲だ。それともオレの膝の上は座り心地が悪いか?帝国中で、いやこのオルト中でここに座る事を許されているのはお前だけだと言うのに」
開国の祖に祝福を与えたという伝説の女神と同じ黒目黒髪、艶やかな愛らしい唇、桜色に染まった白い肌、
ユーグにとって、ロザリアこそが唯一の女であり、ただ一人の妃となるべき存在であるのに、
この人並みはずれて賢い小さな娘は、ともすればそのことをすっかり忘れてしまうようなのだ。
「オレがこんなに好きなのに、このオチビちゃんは冷たいな」
甘く響く恨み言は実に心臓に悪い。
昔からユーグがロザリアを特別に思って居る事をロザリアも十分わきまえている。
5年前の毒殺事件の直後に、ユーグはすすり泣きながら、ロザリアを抱きしめたものだったが・・・
あの瞬間、ロザリアは幼いながらも自分自身がユーグにとって特別の存在であることを回された手から震える指先から痛いほどに感じ取った。ユーグ兄様のお力になりたい、あの時ロザリアは心からそう思ったのだ。
「もう泣かないでユーグ兄様、ロザリアは大人になったら兄様と結婚して差し上げますから」
そう、確かに、自分の口でそう言ったのだ。
「きっとだよ、ロザリー、誓ってくれるかい?」
わずか七歳ではあったけど、ロザリアは確かに誓ったのだ。ユーグと結婚すると。
七歳児といえども誓いは誓い。その重みはロザリア自身も承知している。
「大人になりましたら、きっとお約束どおりいたします」
「並みの大人が太刀打ちできないような知恵者が何を言う。12歳であっても、もう大人も同然ではないか。早くオレの妃になってくれ。何を思ったか知らんが、あの女たらし公爵に嬉々として会いに行くと聞けば、心穏やかではないのも致し方無いぞ」
「私の体は、御覧のようにまだ子供です。ご心配には及ばぬかと・・・」
「憎い口だ。未来の夫の言う事にはもっと素直に従え」
と言うが早いが、深いむさぼるようなキスをされた。ロザリアにしてみれば初めての事で、
と言うより、ユーグの熱い想いが伝わってきて、その激しさに驚いたのだ。
「氷の微笑」と言う異名とは似てもにつかぬ燃える様な想いを込めた口付けは、幾度も繰り返された。
幼い頃に交わした物とは色々な意味で違っている大人の口付け、その意味合いをロザリアなりに、ぼんやりと理解しているものの、脳髄の中身まで吸い込まれてしまいそうな、食べられてしまいそうな激しさに、まだ幼い体は十分にはついて行けていないのだった。夢見るようなとろんとした目つきになって、頬が上気したロザリアの様子は、生まれて初めて官能に目覚めた瑞々しくも艶めかしい物だった。こんな様子を他の男に見られたら一体何が起こるのか、考えただけでもユーグは心配でたまらなくなる。厄介なのは、この美しい少女本人が、自分の魅力を全くわかっていないことなのだ。
「もう、オレは待てないぞ。ロザリー、月のものはまだ来ないのか?」
ロザリアは一瞬問われた意味が理解できず、ボンヤリとユーグの顔を見てしまった。
「名実ともに夫婦となるには、そなたの体が大人にならねばなるまいが・・・まだでも構うものか、正式な婚約と広めの儀式だけでも済ましてしまおう」
「え?ええ???」
「本当は他の男の目に触れさせるのも嫌だ。黄金作りの足かせでもして、オレしか知らぬ所に閉じ込めてしまいたい」
「そ、そんな」
「そんな無体をすればロザリーは許してくれないだろう?だから、昔の約束を守れと言っているだけだよ」
「でも、正式の婚約者になってしまえば何かと・・・」
「何かと面倒ごとが増えて、商売に差し支えるか?」
ロザリアは恐る恐る頷いた。
「そのぐらい何とかしろ。いずれにしろ、このままあの女たらしに会いに行くのは我慢ならん。百歩譲って会う必要が有ったとしても、正式の婚約者となって後のことだ。会うときは絶対オレと一緒の席でないと許さないからな、そのつもりでいてくれ」
思わぬ急展開に、ロザリアはまだ話が出来ない有様だ。
「あの事件の夜以来、ロザリーは一度も会いには来てくれなかったではないか。三度会いはしたが、三度ともオレが出先でお前を見かけて急遽会うことになったと言う有様ではなかったか?そのくせおかしな商売には熱心で、あちらこちら飛び回っていたのだろう?オレとしてはこうでもしないと、一向に先の見通しも立たない。なあ、わかってくれ」
艶やかな笑みを含んだ美しい顔で、恨み言を言う皇太子に、ロザリアはなすすべも無かった。
でも、ユーグの膝の上は心地よく、確かにこの場所を誰か他の女に取られてしまうのは嫌だと感じているのも事実なのだった。
「ロザリーはオレが嫌になったのかい?」
急いで頭を横に振って否定するその様子は、何やら幼い子供じみていて、愛らしい。
「ならば、オレの気持ちを受け止めろ。な?」
高貴な17歳の少年は、一層強く芳しく愛らしい美少女の体を抱きしめ、幾度も幾度も激しい口付けを繰り返した。そして、ロザリアの内に眠る不都合な記憶を封じた。
ようやくユーグの膝から降りる事を許された時、ロザリアは下着が奇妙な湿り気を帯びているのに気がついたが、どうやらキスだけで「いってしまった」のであった。この恥ずかしい状態をどうすべきか戸惑いつつも、どこか嬉しいと感じた事自体、歪められた記憶によるものだと露ほども思わなかった。
帰り際に左の薬指にはめられた指輪は、ユーグの母アデル妃が生前身につけていたもので、ロザリアにあわせてきちんとサイズ調整がされていた。プラチナ製の細いものだが、細かな唐草模様が優美なデザインだ。
「ずっとこの指輪をしていて欲しい。きっと母上がお前を危険から守ってくださるだろう」
美しい指輪に込められた執念と魔法の作為を、ロザリアは深い愛情としか、もはや感じない。

この日を境に「皇太子は男色家」と言う噂は消え、かわりに重度のロリコンらしいと言う噂が帝国中を駆け巡ることとなった。噂された当人は謀が狙い通りの効果を挙げた事に満足した。
「そんな事は既に織り込み済みだ。ロザリーが手に入るのであれば馬鹿げた噂など何ほどの事があろうか」と嘯き、上機嫌だった。ユーグの魔法と詐術を見抜くものは居ない筈だ。ロザリアも例外では有るまい・・・
今は名前すらも伝わらぬ帝国の開祖に祝福を与えた伝説の女神と同じ、黒く艶やかな髪と黒い瞳の美少女の伴侶は、「先祖がえりした」「魔法と戦いの天才」の自分のはずであった。それが、狂ってしまったのだ・・・
ユーグは女神の悪意を怨み、忍び寄る金の龍の気配を嫌悪した。もはやユーグは持てる魔力の限りを尽くし、ロザリアを手に入れるしか無い。それがユーグ自身の命を削り、銀の龍を疲弊させる事になろうとも・・・

ロザリアはロザリアで、これ以降、時折何事かを思い返し、度々悩ましげに溜め息を吐くようになった。
不鮮明な記憶・蓋をされた過去・・・自分に見えていない物は何なのか?大切な記憶が抜けている。
なぜ、どうして・・・
そんな姿を見たロザリアの身近に仕える者たちは「姫様は恋煩い」だと、暢気な誤解をしていた。
ユーグは美しく悲劇的な悪役・・・にしたいものです。
【恋愛遊牧民R+】



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