ベストセラー
あくまでもフィクションです。
彼は作家志望だった。文章を書くことは小さい頃から好きだったが、本当は作家になれるとはつゆとも思っていなかった。趣味で小説らしきものを書き、インターネットの小説投稿サイトに投稿しては一喜一憂するだけで充分だった。
ある日、なかなか面白い作品が書けた、と彼は思った。ものは試しと、ある雑誌の新人賞公募に応募してみた。そしたら何の間違いか、新人賞を受賞してしまった。
その受賞作はある程度は売れた。物語はありふれていたが、飾り気のない素直な文章が読者の心をとらえた。本の帯には「ピュアな真実を求めて」と記されていた。小さいながらもテレビや雑誌で取り上げられたこともあった。地方の書店でサイン会も開催された。
ただ、そのあとがさっぱりだった。数本の小説を書き、出版まではされたのだが、書店の棚からはあっという間に消えていった。売れたのではない。過剰在庫として返品されたのだ。売れない理由は明快だった。「飾り気のない素直な文章」が彼にとっての取柄であり、セールス・ポイントであった。が、それだけだったのだ。要するに……つまらないのだ。
作品の売れ行きはともかく、彼の人気は関係者の間では悪くは無かった。決して奢らない。弱音を吐かない。腰が低い。どんな悪評にもめげない。人と会う時は、常に穏やかで温かみのある、なんというかお地蔵様を思い起こさせるような笑顔を絶やさなかった。自分より年下の人と会っても丁寧語できちんと対応する。彼に会った人はみなこう思った。ああ、なんとかしてあげたいと。
その思いだけで彼の小説が売れるほど、現実はファンタスティックではなかった。
なんとかしてあげたい、と思っているのは、彼の担当になった男も一緒だった。いや、なんとかしなければ、が正しいのだが。
「だいたい、あんたはなんでこんな作品しか書けないんだ? ストレート過ぎ。捻りがない。素直、と言ってしまえば聞こえはいいが、要は馬鹿正直なだけじゃないか!」と担当者。
「僕は嘘は書きたくないんですよ。というよりも書けない。それに、僕は小説を通じて真実を追求したいんです」と彼。
「ダメダメ。真実なんて今どき誰も求めてやいないよ。いいか、売れる小説ってのは、いかに読者を騙すか、なんだよ」
「読者を騙せとおっしゃるのですか? そんなこと、とても僕には出来ません」
担当者は、やれやれといった表情をするが、それでも彼への説得は辞めない。なにしろ、こいつが売れてくれなければ、自分の担当者としての能力まで疑われてしまう。
「だから、あんたはダメなんだ。だから、あんたは売れないんだ。面白い作品が書けないんだ。素直な性格なのは現実の世界だけにしろ! いいか、読者を気持ち良く騙す。それでこそ売れる小説なんだよ」
「はぁ……。そんなものなのでしょうか」
「ああ、そんなもんだ!」
彼は理解したのか、していないのか、いずれにしても穏やかな微笑みだけは絶やさなかった。
担当者はそんな彼の顔をみて、張り倒してやりたいような欲求に駆られた。いや、もう張り倒したくてうずうずしていた。なんだその、人の良さそうな笑顔は? そんな笑顔の奴に面白い小説なんか書ける訳ないんだ! もっと、人をとことん不快にさせるような笑顔の奴が、本当に面白い作品を書けるんだ! 言ってもダメなら体で判らせてやろうか? 張り倒してやろうか?
それでも、実際に張り倒してしまうと、さすがにヤバイという自制心は持っていたので、「とにかく、勉強しなさい。勉強!」と言い残すと、彼の肩を突き飛ばすようにして、彼の前から姿を消した。
翌日、彼は割と大きな書店で本を捜していた。彼自身の本ではない。そんなものはとっくの昔に全ての書店から消え失せていた。
「さてと、これと、これと……ああ、あれも買ってみよう」
彼がレジに持ってきたのは、人を騙す方法や詐欺の手法あれこれ、はたまた心理学や人間行動学、トンチ大全集といった類の本であった。
「さぁ、これで勉強して、読者を気持ち良く騙すぞ!」
つくづく素直な男である。
さっそく彼は読み漁る。気になる箇所はマーカーで印をつけ、あるいはノートに書きだしてみる。朗読した内容をCDに収録し、睡眠中にそのCDをかけっぱなしにしてみたりもする。数か月、彼はそれこそ自室に缶詰となり、隅から隅まで暗記してしまうほどに集中して勉強した。
勉強の成果はいかほどに! ということで、彼は一本の小説を書きあげ、担当者に読んでもらった。
「一生懸命に人を騙す方法を勉強しました! 騙すことにかけてはもう完璧だと思います! どうでしょう?」と息まく彼。
「ああ……絶句ってのはこのことだ……」と担当者。
「おお! そんなに面白いですか!」
「あのなぁ……全くもってダメ。真実味が全然ないじゃないか!」
「ええ! でも真実は書くなっておっしゃったじゃないですか!」
はぁ、とため息をつく担当者。
「そんなことは言ってないだろうに。読者を騙すには真実味も必要なんだよ。なんだこれ? 嘘ばっかじゃないか!」
「だって、嘘を書けって……」
彼の顔に常駐していた微笑みがさすがに泣き顔になってきた。初めて見る彼のそんな表情に、担当者もちょっと気の毒になった。
「とにかく、この作品は出版出来ないよ。それよりも、あるキャンペーンの仕事があるけど、やってみる? 依頼していた書き手さんが病気になっちゃって、穴が一つ空いているんだよ。どうせあんたも仕事がなくて、お金にも困っているんだろ? どう、書いてみない?」
確かに彼はお金には困っていた。新人賞受賞作の印税が多少残っていたので、それを切り崩して暮らしていたのだ。だが、それもあと少しで底をついてしまう。
担当者はキャンペーンの詳しい内容と、どうやって書くのがいいかを彼に指南した。
「僕に書けるでしょうか……」自信なさ気な彼。
「とにかくやってみな。勉強の成果を見せてくれよ!」
担当者は彼の肩をポンポンと馴れ馴れしく叩いた。
キャンペーンのために彼が書いた文章は、とても評判が良かった。原稿料は微々たるものだったが、それでも久しぶりに仕事で稼いだお金である。彼は素直に喜んだ。
担当者から電話がかかってきた。
「いやぁ、なかなか好評だね、あれ。いい感じじゃないか。どう? あれをもとにして一冊書いてみない?」
「あの文章はまぐれだったんじゃないでしょうか? あれをもとに一冊の本なんて……僕に出来るでしょうか?」
「あんたなら大丈夫! 自信持って!」
「でも、それってハゥ・トゥ物になりますよね? そんなの書いたことないですし……。それに、これってなんだか自分を騙しているみたいに感じているんです……」
「いいのいいの。売れれば官軍! キャンペーンの時みたいに勉強の成果を思う存分に発揮すればいいの」
受話機を置くと、迷いながらも彼は机に向かって書き始めた。本当にこれでいいのだろうか。これが「小説を通じて真実を追求する」ことなのだろうか。いや、絶対に違う。こんなんじゃ、いけない。こんなの僕じゃない。書き始めたはいいが、そう思うと、彼の筆はなかなか進まなかった。
でも、これで認められるかも知れない。みんなの称賛を浴びることが出来るかも知れない。それに、あんなに懸命に勉強したんだ。それを無駄には出来ない。そう彼は思い直し、不純な考えを捨て、ただひたすらに書き始めた。いつの間にか、今までにない位に集中して書いている自分に彼は気がついた。よし、最高の作品にしてやる! これでダメだったら作家を廃業して、着実な仕事に就こう。そう彼は決意した。
彼の迷いはいつしか消えていた。
本が完成し、担当者に目を通してもらう。
「これこれ! これですよ! あんた、やれば出来るじゃないですか!」
「ありがとうございます! これもみんな、あなたのおかげです」
「さっそく出版しましょう! 上司だってこれを読めば、すぐにゴー・サイン出してくれますよ!」
その言葉通り、彼が書いた本はすぐさま出版され、全国の書店の棚に並んだ。そして、それは棚からより目立つ平台へと陳列される位置が変わった。売れ行き好調だったのだ。
担当者が興奮した声で電話をかけてきた。
「いやいや、凄いですよ、先生!」
先生? また心にもないことを、と彼は苦笑いした。が、まんざらでもない。
「売れているみたいですね」と控えめに彼。
「売れているなんてもんじゃないですよ、先生。こりゃ、当社始まって以来の大ベストセラーになること間違い無しです!」
運が向いてきたようだ、と彼は思った。いや、運じゃないな。今までずっと頑張ってきたんだ。その成果がやっと現れたんだ。
いつもの穏やかな笑みがさらに緩んでしまう。
印税が振り込まれてきた。うわ! 今までに見たこともない桁である。さて、どうしよう。今までずっと頑張ってきたのだから、たまには羽目を外しても罰は当たるまい。そう思った彼は夜の盛り場に飛びだしていった。
そもそも夜の盛り場なんてのは、彼にとっては初めてである。これでもか! と人目もはばからずにじゃれ合う男女。「僕たち、バカでぇぇす!」と自己主張しているかのように大声で笑いあう若い集団。うずくまってひたすらにゲロゲロやっている酔っ払い。人々と街が一緒になってグルグル回っているような錯覚に陥る。うう、なんだこれ。こんな世界が毎晩繰り返されていたんだ。知らなかった……。しばらく彼はなんとか虚勢を張って盛り場を徘徊した。ああ、ネオンがチカチカ。ネオンがチカチカ。ネオンが……。
ネオンに酔っ払いそうになった彼の視線に、一軒のお店の看板が突き刺さるように入ってきた。
「キャバクラ・オネスティ」
ああ、僕にピッタリの名前じゃないか! 入ってみようかな。でもなんか高級そうだなぁ。こんな貧乏たらしい服で大丈夫かなぁ。まずは洋服を揃えるべきだったなぁ、とおどおどする彼。それでも財布の重さが彼を勇気づけた。
恐る恐るお店に入る。いらっしゃぁぁい! と甘ったるい複数の女性の声。一瞬怪訝そうな顔で彼を見つめるが、そこは商売。笑顔で席に通され、両脇を露出度満点の衣装を着た若い女性に挟まれる。
あの、僕……こういうところ、初めてなんです。キャー! ボクだってぇ! 可愛いひとぉ! あ、お金なら心配しないで、ほら。キャー! ボクぅぅ! すてきぃぃ! 札束がぎっしりと詰まった財布を彼が見せると、テーブルの上はあっという間に飲み物、食べ物、その他諸々で賑わった。いつの間にか女性も五人、六人と増えていった。
お金の力はてき面である。即効性がある。そして誤解を生む。僕って、もてる男だったんだぁ!
両脇の女性はしきりと彼に胸をくっつけてくる。柔らかくて暖かいふくらみ……ああ、もう……僕……。あと数ミリでくっついてしまいそうになるほどに彼の唇に自分の唇をすり寄せてくる女性もいる。ああ、もう……僕……。あららら、耳たぶにかみついてくる女性もいる。ああ、もう……僕……。
ああ、もう……僕……違った……彼はもう……なんというか……桁はずれに有頂天である。
夜の盛り場がこれが初めてだった彼にとって、女性体験はこれからが初めてだった……ちょっと遅いかも知れないが。
その夜、彼は失った。色々な物を失った気がしたが、とってもとっても気持ちが良かったので、気にはならなかった。
さて、彼がめでたく失ってからしばらくして、再び担当者から電話があった。
「先生! 先生! 凄いです! 凄いです! 新聞の書評、読みました? どれも絶賛絶賛大絶賛ですよ!」
先生かぁ……いい響きだな、と彼は思った。
「先生の作品を読んだ読者から、いっぱいファンレターや感謝の手紙が届いてます。いくつかピックアップしてファックスで送りますね!」
ファックスが届いた。
「目から鱗でした。そうか、そう考えればよかったんだって。まさに天からの贈り物って感じでした」会社員 四十六歳。
「今までにも似たような本を色々と読んできましたが、これはもう決定版ですね!」OL 三十三歳。
「宣伝文句に偽りあり! 二週間なんて嘘! 僕は一週間でしたよ!」学生 二十二歳。
「もっと早くこの本に巡り合いたかった。でもこれで少しは長生き出来そうです」無職 七十五歳。
エトセトラ……エトセトラ。
彼はニヤニヤしながらファックスを読み進めた。
その夜、すでに常連となった「キャバクラ・オネスティ」に足を運ぶ。十人の女性に取り囲まれる。そのうち九人とは既に関係を結んだ。その結び目には、「チップ」とか「高級バッグ」とか「ズバリ金!」といった紙垂が垂れ下がっている。
ふん、騙されないぞ。どうせ俺の金や名声が目当てなんだろう、と彼は思うのだが、「いやぁん、先生、そのスーツ、す・て・き」と甘い声で囁きながら怪しげに胸元あたりを摩られると、今夜もまた……ウハウハ……などと桃色の妄想が頭いっぱいに広がったりもする。
「あの先生とか言われている人。確かに本は凄い売れているみたいだけど、いやぁな感じよねぇ。自分の自慢しかしないし、偉そうにふんぞり返っているし。それに何あの、人をとことん不快にさせるような笑い方。もうサイテー!」なんて陰口を、この店のナンバー・ワン「直子ちゃん」に叩かれていることも知っている。それでも、その当の本人から「やだぁ、先生、股間さんがムクムクしてるわよぉ」なんて意味深に言われたら「じゃ、なんとかしてくれるのか?」なんて本気で答えてしまったりする。
「直子ちゃん」とはまだだったのだ。
二度目の印税が振り込まれてきた。おお! 額が増えているではないか!
「本当なのだろうか……」彼は少し不安になる。確かに本の評判は良い。売り切れの書店が続出しているとの話も聞く。それでもこんな額のお金を、本当に手にしてもいいのだろうか……。実は騙されているんじゃないだろうか。そんな疑心が生じたりもするが、すぐさま思い直し「いいんだよ、これで。これが現実なのだ!」と自分に言い聞かせる。
担当者から再び電話がかかってきた。
「先生! もう笑いが止まりません! ガハハハ! どうです、鉄は熱いうちに打て! 第二弾を出版しませんか?」
「おいおい、君、そんなことをしたら第一弾の読者を裏切ることにならんかね?」
「大丈夫ですよ。どうせすぐに元の状態に戻っちまう奴らばかりですから。あ、そうだ、今度は『後戻りはこれで解消』みたいな感じでどうでしょう?」
「あはは、それは面白そうだ。早速、チョチョチョイと書いてみるか」
そういうと彼はチョチョチョイと書き終えた。何しろ第一弾で書き方のコツは掴んでいるし、売れない頃に勉強した下地がしっかりと身についているのだ。
そうして書きあがった原稿は、これまたチョチョチョイと出版され、第一弾を超えるベストセラーとなった。
彼にとって現実はファンタスティック……いやチョロイもんであった。
再び「キャバクラ・オネスティ」へと向かう彼。
「今夜はちょっと、特別料金でどうでしょう?」とマネージャー。
金額を聞く。
「ふん、大した額じゃないな。いいぞ、それでいこう。とっておきのサービスを提供してくれるんだろうな」と彼。
「ええ、ええ、そりゃもう、お任せ下さい」
といって通されたのは「V.I.P.」と金ぴかのプレートがドアに張り付いている、店の奥にある部屋。四畳半程の狭さ。薄くらい照明はそれだけで何かを期待させる。しかも、そこには……「直子ちゃん」がいるではないか!
狭い=密着=グフフ……あ、股間さんがムクムクしてるわよぉ……じゃ、なんとかしてくれ!
なまめかしい喘ぎ声。演技とは判っていても中枢神経は馬鹿正直に血液を海綿体に運び続ける。
あっという間に果てる彼。まぁ、いい、なにしろ「V.I.P.」なんだから。
「ああ、速攻。よかったわ。あれ以上、歪んだ不快な笑い顔なんて至近距離で見れたもんじゃないわ」と「直子ちゃん」は心では思うのだが、口には出さない。プロである。
「あ、そうだ、俺の第二弾、もう買ったか?」
「ああ、ごめんなさい。私、ほら、たしなまないから」
「たしなまないか……そうだ、今度は別のペンネームで『気持ち良くたしなむ方法』でも書いてみるか」
「きゃー、それ、いいアイディア! (この男、どこまで人を馬鹿にすれば気が済むんだろう……口には出さない)」
「キャバクラ・オネスティ」から帰ってきた彼は、趣味の悪いショッキング・ピンク色のソファにどかっと腰を下ろす。
「きゃー、それ、いいアイディアか……どうせ心の中では俺のことを馬鹿にしているんだろうに」
そう思う彼であったが、「直子ちゃん」の超絶テクニックを思い出しては、醜くひきつった笑顔を浮かべる。
これまた悪趣味な黄土色のテーブルに彼の第二弾が置かれている。
ゆっくりと手にとり、表紙を眺める。
「ふん……俺は騙されないぞ」とつぶやくと、彼は自分の本を無造作にテーブルに投げ戻した。
本から解放された手で煙草をとりあげ、火をつけ、美味しそうに大きく吸い込む。
そして煙を彼の本にふぅーっと吹きかけた。
その本、それは「今すぐ始めよう! 禁煙キャンペーン」の短い文章から生まれた「二週間で辞められる! 禁煙って簡単だったんだ」の第二弾「また始めちゃったの? でも三日でまた辞められちゃうんだもんね!」というタイトルであった。
大した内容ではない。要約すれば「自分を騙すのはやめなさい。素直になりなさい。あなたは本当は辞めたがっているのです。ほらもう煙草なんて不要なのです。不味いでしょ。凄く不味いでしょ。さあ、心を開いて私を信用しなさい」なんてことを、手を変え品を変え、彼の取柄である「飾り気のない素直な文章」で長々と書かれているだけ。一歩間違えると新興宗教の勧誘本である。
さて、しばらく目を閉じ、煙草をたしなむ彼。すると、彼の顔がちょっと苦痛に歪んだ。
「ああ、また襲ってきやがった」
それは、最近よく現れるのだが、彼自身にも正体の判らない、それこそ煙草の煙のような存在だった。
彼の目の前をモヤモヤと漂い、心の内側をヤニで汚し続けているような存在。
目を閉じてはいるが、彼にはそれが間違いなく存在していることが判る。
判らないのは、それが「何か」ということだけであった。
まぁ、いい。どうせまたすぐに消えるさ、いつものことだ。
彼は目を開け、そのモヤモヤをふぅーっと吹き飛ばした。