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桜ヶ丘高校の『哲学者』と『絶対零度の魔女』 作者:桐生 慎

第二章 絶対零度の魔女

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第2章 桜ヶ丘高校の「絶対零度の魔女」

 彩宮鈴香がなぜ浩平に好意をいだいていたかが明らかになります。また、鈴香の霊能者としての活躍も描かれます。
 イザナミ流の呪詛師・完部玄白と対峙することになります。
 (一)
 物心ついた頃から仏間が好きだった。
 私、彩宮鈴香の最初の記憶は、夜の仏間。
 蒼い月光がさす夜の仏間で開いた仏壇をただ眺めていたことだ。
 月光に満ちた蒼い静謐。
 それが私、彩宮鈴香の原初の記憶であり、私の在り方だった。
 仏間を怖いと思ったことはない。幼い私には、むしろ無限に続くかと思われる長い廊下や、無人の客間の方が怖かった。
 母が懐妊した時、父は四十を超えていた。
 狂喜したらしい。
 だが、難産の末、母は私を抱くことなく亡くなり、父はその愛情の全てを私に注いだ。それは歪んだ愛情だった。父は彩宮の家の跡継ぎとして私を育て上げることに執心した。良く覚えてはいないが、三歳の頃には茶道と富田流と言う小太刀の流派の真似事はしていたように思う。
 最悪なのは私の名を決めて貰う為に、父が訪れた神社の宮司の台詞だった。
「この娘御は世にも稀なる力をお持ちです。ですが、それ故に魔を呼ぶ。七歳までは神の内と申します。幼い内は人目にさらしてはなりませぬ」
 父はこの台詞を真に受けて、事実上、私を家に軟禁した。なにしろ九歳まで、『あの日』が来るまで、私は屋敷を出ることがなかったのだ。茶道も小太刀も屋敷の茶室と道場でマンツーマンで教えられた。小学校には行かせてくれなかったのだ。
 だから、私は世界に子供は自分しかいないのだと思っていたくらいだ。
 私付きの家政婦さんとして雇われた藤沢さんと、離れに蟄居して日本画を描いていた天野さんが、私の友人と言えば言えたかもしれない。
 実際、私の幼い頃の遊び相手はこの二人しかいなかった訳だし……
 ただ遊べる時間は殆どなかった。
 同年代の子供以上の学力を身につけるための家庭教師による勉強は、今考えると辛いものだった。
 父は仕事に出る前と帰った時に強く私を抱きしめるだけの人だった。
 幼少時の私の一日は父の抱擁に始まり、父の抱擁に終わるものだった。

 父は嫌いではない。
 父なりに私を十分に愛していると思う。
 だけど、女の子にとって父親は特別な存在であるべきだ。
 ただ抱擁するだけで愛情が伝わる訳もない。

 自然、天野さんが身近な異性となった訳だが、幼い私にルーン文字を教えたりする変人だった。
 天野さんは私の頭を撫でながら良く言った。
「鈴ちゃんの目は『菩薩眼』と言うんだよ。普通の人には見えないモノを君は視れるんだ。お外は怖いモノがいっぱい居るからね。大きくなるまではお家にいた方が良いんだよ。大きくなったら、君はたくさんの人を救うことになるから」
 天野さんと藤沢さんは卓越した能力者であったらしい。敢えて霊能者と言ってもいい。
 結界の張り方。異形の落とし方などを遊びの合間に教えてくれた。
 そんな天野さんも私が七歳になると家を出て行った。そういう約束だったらしい。
 去り際の挨拶もなかった。ルーン文字を刻んだ水晶が入った赤い革袋を、私の机の上に置いて消えた。
 突然、消えた。
 今にして思えば、それはいかにも天野さんらしい振る舞いだったが、幼い私は初めて泣いてぐずった。
「さよなら」が言えなかったのが何より悔しかった。
 藤沢さんも哀しげにしていたが、私とは別の理由で悔しそうだった。最初、なだめていてくれた藤沢さんも、最後には一緒に泣いた。
 私はその時『決別』を知った。
 人は突然いなくなるものだと悟った。
 いなくなるのは辛い。
 だから、私はその日から『氷の仮面』を被ることにした。ただでさえ希薄だった感情を殺した。それが。私のペルソナとなった。

『あの日』のことは今でも夢に見る。
 悪夢だ。
『あの日』の二日前の夜、私はいつものように一人で仏壇と対峙していた。
 唐突に『なにか』が来る予感がした。次の瞬間、サッカーボール程の大きさの朱色の火の玉が、仏壇の中から私目掛けて飛び出して来た。
 その時は、私は冷静だった。
 その程度の怪異に驚く程、柔ではなかった。
 冷静に受け止めて、火の玉が何をするか見定めようとした。火の玉は私の頭を覆った。
 その瞬間、早朝の冬の山並みが見えた。私達の街を取り巻く山並みだ。まだ、払暁前の淡い闇が残っている。その山肌に沿うように青い稲光が走った。次の瞬間、大地がはじけた。ビルが倒壊した。高速道が折れ曲がった。木造家屋が巨人に踏まれたように軒並みぺしゃんこになっていた。
 そして『その時』命を失った人の苦痛と無念さが怒濤のように押し寄せた。
(しまった!)
 そう思った。
 幻影・幻覚とシンクロしてはいけない。例え、視えても、感情を同調させてはいけないと天野さんと藤沢さんに教え込まれていた。
 その為に心に防壁を張る術も知っていたし、ちゃんと張ってもいた。
 だが、今視える災厄の前に防壁は紙切れほどの意味も持たなかった。
 二度目の揺れが、災厄のとどめとなった。
 火の手が上がった。
 倒壊した家屋の中、生きたまま焼かれる人の苦痛と怨念が私を襲った。
 火の玉は私の体を覆い、生きたまま焼かれる苦痛を味合わせた。
 私は恐らく生まれて初めての悲鳴を上げて、狂乱した。

 今なら分かる。あれは()(しん)だったのだ。
 ただ、大地が揺れたのではない。時間軸さえ揺らいだのだ。
 時間軸の揺らぎは共振能力のある者達に災厄を伝えた。だが、それが何になろう? 決定された災厄は回避出来ない。
 出来るのは逃げるだけ。
 でも、それすら出来ず、生きたまま焼かれる苦痛を体現させられた私は「熱い! 熱い! 痛い! 痛い!」と泣き叫び転げ回った。
 藤沢さんが「お嬢様!」と真っ先に駆けつけた。その後、父や家人が集まったが、狂乱する私をただ呆然と見ることしか出来なかった。
 それ程に私の狂乱ぶりは激しかった。
「オンチッシタッボダハヤタミ!」
 藤沢さんは真言を唱えて、私の首筋に手刀を入れた。
 瞬間、「――っ!」と手を引くと、即座に私の腹を殴った。私は昏倒した。
 医師の資格を持ち、私が『はしか』で倒れた時にも病院へ行かせなかった藤沢さんは叫んだそうだ。
「旦那様! 救急車を呼んで下さい!」
 父はそれで私の容態が急を要することを悟った。

 実際、私は危うかったのだ。
 催眠術で「今から手に焼け火箸を当てるぞ」と暗示をかけると、手に火傷の水ぶくれが出来ることがある。
 私の体は幸いそういう現象は起こさなかった。けれど、強く共振した私は心が死にかけていた。
「死ぬ!」
 幼心にそう確信した。
 自分が味わっているのは、これから起こる災厄の体現で、私自身の未来ではないと知りながら「死ぬ」と思った。
 この「災厄」は幼い私が背負うには大きすぎた。
 体の前に「心」が死ぬ。そう確信するほどに「災厄」は大きすぎた。
 藤沢さんは二日後の業火に焼かれる私を、気を失わせることで、一旦回路を閉じさせたのだ。
 だが、それは一時しのぎに過ぎなかった。
 藤沢さんもそれが分かっていたから、救急車を呼んだのだろう。
 市民病院の小児科病棟には私と同じような症状の子供が5人いた。いずれも鎮静剤を打たれ、暴れるものだからベッドに括り付けられた。
 鎮静剤で眠らされていた私は、薬が切れると、再び悲鳴を上げた。
 私の悲鳴を聞きつけて真っ先に来てくれたのは、看護婦さんではなかった。
 同室の少年。
 それが駆けつけて、「大丈夫。僕が背負うから。もう、大丈夫だから」そう言って、私を抱きしめたくれた。
 父の抱擁とはまるで違う抱擁。
 与えるのではなく、全てを引き受けてくれる抱擁。
 信じられなかった。
 同い年であろう少年の、その抱擁で私は本当に救われたのだ。
 彼は私のその時の苦しみだけはなく、幼い頃から課せられた私の枷を、ただ抱きしめるだけで、彼は払い取ってくれた。
 私は声を上げて泣いた。嬉しくて。そして彼にすがりついた。
 そんな奇跡を見せつけたのが「浩ちゃん」。そう。神崎浩平だったのだ。生まれて初めて見た同い年の少年。
 病室で真っ先に我を取り戻し、全てを理解した上で、全てを受け止めてくれた私の救世主。
 それが彼だった。

『あの日』、私達は申し合わせたように直前に目覚めた。
 もう誰も泣いていなかった。
 来るのが分かっていたから、もう止めることは出来ないから、だから、ただ『その時』を待つしかなかった。
 浩ちゃんが「みんな、起きてる?」そう言って、病室の中央に立った。皆、ベッドから下りて浩ちゃんの周りに集まった。
「手を繋いで輪になろう」
 浩ちゃんは、そう言った。
 車座に座って、皆、しっかりと手を繋いで『その時』を待った。誰も口を開かなかった。
 重圧に耐えて待った。

 ドン!

 下から上へ突き上げる強い衝撃が来た。遠くで悲鳴が聞こえた。建物全体がぐらりとたわむように揺れた。
 私は歯を食いしばった。次が来る。トドメの一撃が来る。あの業火が来る。
 歯を食いしばって耐えた。
 熱さも痛みも来なかった。
 浩ちゃんが背負ってくれたから……
 私は浩ちゃんの手をしっかりと握りしめた。
 そして、二度目の大地からの鉄槌。
 病院の電気は消え、悲鳴と怒号がを満たした。
 私達の病室だけが無音だった。
 いや、一人だけすすり泣いている人がいた。
 浩ちゃんだった。
「……ごめんなさい。ごめんなさい」
 誰に謝っているのか? 何を謝っているのか?
 浩ちゃんは唯一人すすり泣いた。私は呆然と救いの主を見つめていた。

 それから病院は、まさに野戦病院と化した。血まみれでうめき声を上げる人、もはや声すら上げられない人、そしてもう明らかに息をしていない人たちが続々と運び込まれた。
 私達五人はベッドから下ろされ、毛布を渡されて病室の隅に追いやられた。
 ベッドには明らかに息も絶え絶えになった子供達が寝かされた。
 私達は声もなく、その光景に見入る事しか出来なかった。
 浩ちゃんは、全くの無言となり、膝を抱えて、闇の深淵をみつめるような顔に変わっていた。正直な話、その能面のような表情は怖かった。
 ―――夜半。
 私達の病室に「浩ちゃん!」と叫んで、とんでもない美少女が飛び込んできた。
 手に包帯を巻かれ目は泣き腫らしているのに、容貌を崩すことなく、天使のような清楚さを保った少女が飛び込んで来た。
響子姉(きようこねえ)!」
それまで無表情だった浩ちゃんが立ち上がった。二人はお互いに駆け寄り、しっかりと抱き合った。
「死んじゃった! 浩ちゃんの言う通り、みんな死んじゃったよー!」
 錯乱していても清楚さは失われず、少女は自分より頭二つ分小さい浩ちゃんを抱きしめる。浩ちゃんも、その清楚な美少女を抱きしめて一筋の涙を流した。
響子姉(きようこねえ)……生きていてくれて、ありがとう」
 浩ちゃんはそう言った。
 なんて奇跡。
 僅か九歳の少年がそんな言葉を口に出来るなんて……
 その言葉で二人はさらに強く抱き合い号泣した。捨てられた子犬が身を寄せ合うように二人は泣いた。
 その少女の人離れした美しさに陶然としていた私は我に返った。
 ―――絆。
 私には希薄で遠い物。それをこの二人は持っている。そして、今、それを確かめ合い、更に深めている。
 憧憬とかを抱く前に―――
 頭からバケツの水をかけてやろうかしらと、私は思った。

 楽しかったプールでのひとときは陰鬱なものに変わってしまった。暗黙の了解の下、皆、早々に帰り支度をすることになった。
 杉浦さんも浩美ちゃんも何が起きたのかは把握していない。
 だが、伊達君の足首の手形は彼女達の肝を冷やすには十分なものだった。
 明美は目に見えて暗澹としていた。
 更衣室では、杉浦さんが無理矢理に明るい笑顔を作り、明美に抱きついた。
「三枝さん、元気出しなよー! 大丈夫だって! あんなの何かの錯覚だよー!」
「あ、ありがとうございます……そうですね。元気出します」
 明美はそう答えたが、そんな的はずれな励ましが通用する筈もない。明美は何が起きたのか理解しているのだから……
 浩美ちゃんは、どうしたら良いのか分からない表情で、ただ明美の側に立っている。
 私は杉浦さんと浩美ちゃんを排除する形で明美の前に立った。
「……鈴」
 明美は縋り付くような目線で、まじまじと私を見つめた。私は無言でぐいと明美を抱きしめた。そして、なるべく優しく聞こえる口調で言った。私の口調は酷く怜悧に聞こえるらしいから……
「泣きなさい。明美」
 そう囁くと、明美は私に縋り付いて、声を殺して泣いた。泣き続けた。
(慟哭すれば良いものを……)
 そう思いながら私は明美を抱き続けた。
 杉浦さんと浩美ちゃんはただ呆然とするばかりだ。
 明美の嗚咽は続く。明美は伊達君の一件を受け入れている。だから縋り付いて慟哭したりしない。受け入れて戦おうとしている。
(強い()だ)
 そう思う。明美なら乗り越えられる。私は僅かながら安堵した。
 皆で出口へ向かう。出口では神崎君と伊達君が待っていた。
 伊達君は土気色の顔をしていた。まぁ、当然だろう。それでも、彼は明美が泣いたのに気付いたようだ。明美の側に駆け寄り、その手を両手で握りしめる。
「すまん、明美。心配かけた」
「みんなに謝りなさい。この大馬鹿者!」
 明美は普段通りに伊達君を叱る。
 明美の叱咤に伊達君は私達を見回す。そして深々と頭を下げた。
「みなさん。折角の休日を無駄にさせて、すいませんでした!」
「あら、いやね~ みんな気にしてないわよ。それなりに楽しんだもの。不幸だったのは伊達君一人よぉ~」
 杉浦さんは、かんらかんらと笑う。死霊を二人も背負っていて明るさを維持できるのは大したものだと思うが、なんか気に喰わない。
「ね? そうでしょ? 浩ちゃん?」
 杉浦さんは神崎君の肩を叩く。
 神崎君は埴輪のような無表情さで、
「ああ。今日は楽しめた。伊達、三枝、誘ってくれて、ありがとうな」
 などと言う。それでカチンと来た。神崎君は何かろくでもないことを考えているに違いない。

 プールからの帰り道。
 会話が弾まなかったのは仕方がない。杉浦さんや浩美ちゃんが話題を持ちかけるが、それに応えるはずの伊達君と明美に覇気がない。神崎君にいたっては黙々と歩を進めるので、皆から離れて前を歩いている。
 私は一人前を歩く神崎君を追いかけて尋ねた。
「ねぇ? 伊達君に渡した貴方のお札。どうなっていたの?」
 神崎君は驚いたように私に視線を向ける。そして吐息混じりに言った。
「灰になってた。紙幣とかはなんとも無いのに。お札だけが灰になっていたよ」
 成る程。あれが灰になるならプールでの出来事も理解出来る。尋常な呪詛ではない。思いが異常に強いのか、あるいは一流の呪術を駆使しているかのどちらかだろう。今日は呪詛をかけた人間には、千載一遇のチャンスだった筈だ。私達は浮かれていたし、侮ってもいた。まさか、あれほどの呪詛が発動するとは思わなかった。
 それでも、私と神崎君で術を破った。
 あの少女。小泉幸恵さんは、今、『返しの風』に苦しんでいる筈だ。人を呪わば穴二つと言う。放った術が破られると、その呪詛は呪った本人に祟る。これを『返しの風』と言う。
 救いようのない話だ。本当、どうしようもない。
 けれど、神崎君の顔に苦悶の気配はない。あんなことがあったのに、穏やかな仮面のような顔をしている。
 それが私には無性に気に障った。
 杉浦さんと浩美ちゃんには、先に帰ってもらう事にしたのだが、案の定、浩美ちゃんがごねた。
「兄妹が一緒に帰らないのは、おかしいわ」
 そう言うのだ。
 杉浦さんまで一緒になって言う。
「大丈夫よぉ~ 足掴まれたくらい。階段とか電車のホームで、後に誰も居ない(・・・・・・・)のに突き飛ばされるなんて、良くある事じゃない?」
 そう言って明るく笑う。
 明美と伊達君の顔が引きつる。浩美ちゃんはすーっと青ざめる。神崎君がこめかみを押さえながら、律儀に応えた。
「……普通、ないです。そんな事」
 杉浦さんは本当に意外そうな顔をした。
「―――え? ないの? それじゃ、待ち合わせに行こうとしたら電車が人身事故で止まるとかはあるでしょう?」
 明美と伊達君、浩美ちゃんが青ざめて、ぶんぶんと首を振る。
「……あれぇ~? んじゃぁさぁ、これは私だけだと思って今まで言わなかったんだけど、バイクで交差点で右折待ちとかしてたら、地面から手が出て足首掴むとか言うのはヤバイ?」
 私は黙って、皆を見ていた。
 明美と伊達君は目に見えて色を失っている。浩美ちゃんは半泣きになっている。
 神崎君は困惑顔で耳の後ろを掻いていた。
響子姉(きようこねえ)、バイク乗るの止めろ。んでもって、一緒に行ってやるからお祓いに行け。頼むから……」
「ああ、やっぱヤバイんだぁ~ じゃあ、浩ちゃん霊能者なんだし、鈴ちゃん占い師でしょ? 私も伊達君と一緒に見て貰おうかな?」
響子姉(きようこねえ)は伊達とはケースが違うんだから、ダメだって! 帰ったら一度きちんと視てみるから、今日は大人しく浩美と帰ってくれよ……」
 神崎君はますます困惑の表情を浮かべ、吐息混じりにそう言った。
「へっへ~♪ 体の隅々まで見てくれるのかなぁ~?」
 杉浦さんのその台詞に、神崎君は顔を朱に染めて俯いた。
 カチンと来た。
『貴女には死霊が憑いているから、恋愛なんか出来ません!』
 そう言ってやろうかと、一瞬、殺意と共に思った。
 杉浦さんは、ちらりと私に視線を投げると、神崎君の肩を叩く。
「冗談。冗談。伊達く~ん、こんな私でも生きているんだから、気にしたら負けだよ~」
 屈折した慰め方をする。後、私を挑発したことは心のノートにきちんと記しておこうと思う。
「じゃ、帰ろうか? 浩美ちゃん?」
 杉浦さんは、浩美ちゃんに、にぱっと笑顔を向けるとそう言った。浩美ちゃんは半泣きである。
「……おにいちゃん、私、こんな人と帰るのヤダよ~」
 もっともな意見だが、ここは帰ってもらうしかない。
 私が視線を向けると、浩美ちゃんは息を飲んで後ずさった。人を幽霊のように見るのは良くないと思う。
「あら? 浩美ちゃん? 言うこと聞かないと祟るわよ~」
 杉浦さんは浩美ちゃんに抱きついた。
 神崎君は太いため息をついた。
「浩美、諦めて一緒に帰れ。響子姉(きようこねえ)に逆らうと怖いぞ。被害が僕に及ばぬように、諦めて帰ってくれ」
 懇願に近かった。
「……でも」
 と口ごもる浩美ちゃんに私は言った。神崎君の挙動が癇に障っていたので、多少、八つ当たりに近かったかもしれない。
「―――帰りなさい」
 自分でも驚くほど冷たい声が出た。
 浩美ちゃんは息を飲み、
「は、はい! 帰ります!」
 裏返った声で答えた。
「おお~ 怖い。怖い。浩美ちゃん、慰め合いながら帰りましょうねぇ~」
 杉浦さんは手を振り、浩美ちゃんを引きずるようにフェイドアウトした。
 なんとなくつられて手を振っていた明美と伊達君は、視界から杉浦さんが消えると脱力して全身で吐息をつく。
 私達だけになると、伊達君は「さっきから気分が悪い。吐きそうだ」と漏らした。
 伊達君は簡単に弱音を吐くタイプではない。少なくとも、明美に心配をかけるような言動はしない人だ。余程、気分が悪いのだろう。
 あれほどの呪詛だ。残滓だけでも気分が悪くなる位は十分あり得る。
 まぁ、その程度で済んでいるのは僥倖だと思って貰わねば困るのだが……。
「家に帰ったら軽くマッサージしてやるから、我慢しろ。歩けるか?」
 神崎君は伊達君の背中をさすって、そう言った。
 甘いと言うか……優しいと言うか……
 まぁ、そこが神崎君らしいところだし、私が惚れた一面でもあるのだけど、八方美人では生きていけない。
 私は神崎君の後ろのお姉さん(・・・・・・・)に視線を向けた。
 神崎君の背後、少し高い所から、神崎君を見守っていた後ろのお姉さん(・・・・・・・)は、私の視線にこちらを振り向くと、鮮やかな奈良時代の官女姿で大袈裟に両手を広げてみせた。
 ようするに、神崎君はお姉さんが呆れるようなことを考えているのだろう。
 プールに行く途中、私は言った。
「私だけを見ないとダメだからね!」と、
 あれは神崎君への警鐘でもあったのだが、意味はまるで伝わっていないらしい。
 本当。朴念仁だ。
 伊達君の家は、まだ新しさの残る軽鉄製の注文住宅だった。震災で倒壊した家屋の殆どが、こういう地震に強い軽鉄製か2 × 4(ツーバイフォー)のものに建て替えられている。
 明美の話では、伊達君はこの家でお姉さんと二人暮らしをしているとのことだった。お姉さんは新地のクラブで働き、生計を一手にみているらしい。
 伊達君がインターホンを鳴らすと、咽を痛めたようなかすれ声で「――誰?」と愛想のない返事が返って来た。
 伊達君は陰気な声で「俺」と応える。
「玄関は開けた。入っておいで」
 かすれ声が応える。
「お邪魔します」と家に入ると、玄関で小柄な女性が仁王立ちしていた。
 化粧は落としてあるので、眉がない。肩まであるであろう鳶色の髪は無造作に髪ゴムで後で括られている。淡いピンクのスエット姿の女性は、いかにも寝起きですと言う不機嫌な顔で私達を出迎えた。何故か火をつけていない煙草をくわえている。
 年齢不詳のその女性は開口一番に言った。
「正彦。あんた、プールで溺れたって? この未熟者!」
「姉貴、いきなりそれはないだろ?」
 伊達君は力のない声で突っ込むが、女性はそれを無視して私達に視線を向けた。
「明美ちゃんに、神崎君か。神崎君は久しぶりだね。……ん? あんた、誰?」
 伊達君のお姉さんは訝しげに私を見た。
「彩宮鈴香と申します。伊達君とは同じ高校です」
 私は丁寧に頭を下げた。
 伊達君のお姉さんは無言で片方の眉を上げる仕草をした。
「あっ、小枝さん。鈴、いえ、鈴香は神崎君の彼女なんです。今日、一緒にプールに行ったんです」
 明美がフォローに入る。
「―――おおっ!」
 小枝と呼ばれた女性は声を上げた。
「神崎君の彼女か! それなら納得だわ。この馬鹿にこんな上品な女の子と縁があるとは思えないもんな。明美ちゃんで十分勿体ないんだから……」
 小枝さんは「くくく」と笑いを抑えて言った。
「んじゃ、私は寝直すわ。明美ちゃん、台所にお茶うけ置いてあるから勝手にやっておいて。おやすみ~」
 小枝さんは、あくびを噛み殺しながら、ひらひらと手を振って奥の部屋に消えた。
 なんかさばさばした女性だった。
「んじゃ、俺の部屋、二階だから。散らかってるけど……」
「あ、わたしお茶の用意するわ。鈴は良いから先に上がっておいて」
 明美がそう言うので、私と神崎君は伊達君の先導で二階へ上がった。
 伊達君が部屋のノブに手をかけた時、神崎君がその手を押さえた。
「―――待て」
「?」
 私と伊達君は意味が分からず、神崎君を見た。
 ぞっとした。
 神崎君には表情がなかった。能面のような顔は微かに笑みのように口の端を緩ませている。人のなし得る表情ではなかった。
「僕が先に入る。良いと言うまで入って来るな」
 そう言って、神崎君は部屋へ一人入った。一瞬見えたドアの向こうはコールタールの海のようだった。魚の腐った臭いが充満していた。ドアは素早く閉じられた。
「―――嘘!」
 私は思わず叫んでいた。
 神崎君の後ろのお姉さん(・・・・・・・)も取り残されて、呆然としていた。慌てて壁抜けで部屋へ入ろうとして、何かに頭をぶつけてしゃがみ込んだ。霊体が物理的に入れない?!
「呪詛結界?!」
 あり得ない。小泉さんの呪詛はプールで破った。今頃、小泉さんは七転八倒する苦しみに悶え苦しんでいる筈だ。
 それなのに、伊達君の部屋には呪詛が発動していた。気配を殺し、発動すると他者の侵入を許さぬ結界を発生させる最高度の呪詛だ。あり得ない。人間業じゃない。
 私には、それが感知出来なかった。後ろのお姉さん(・・・・・・・)ですら、気付かなかった呪詛。
 それに何故、神崎君は気付けたのか?
 追いかけようと、私はドアのノブに手をかけた。押しても引いても開かない。
「開かねぇのか!」
 伊達君が叫んだ。二人して精一杯の力で引っ張ったが、ドアはビクともしない。
 ぼんっ!
 伊達君の部屋の中で空気がはじける大きな音がした。
 その途端、ドアが開いた。精一杯の力でドアを引っ張っていた私と伊達君は、勢いよく廊下へ転んだ。
 私はすぐさま立ち上がり部屋へ突入した。夢中だった。これほど精緻な呪詛に神崎君が一人で対処出来るとは思えなかった。
 ――――――!
 部屋に入って息を飲んだ。
 神崎君は部屋の中央に自然体で立っている。部屋の空気は氷のような冴え冴えとした気で満ちていた。かいま見た呪詛の気配は綺麗に消えていた。
 問題はその霊気だ。
 まるで南極の氷の世界のような、人の存在を許さない氷点下の世界。
 塵一つの存在も許さぬ、澄んだ硬質の霊気。
 こんな霊気は見たことも聞いたこともない。
 まぁ、良い。大事なのは神崎君だ。
 彼は呆然とした様子で立ち尽くしている。
「神崎君っ!」
 私は叫んで彼の腕を掴んだ。
 ぞっとした。
 死人のように冷たい。
「……ああ、彩宮さんか? どうしたの? 血相変えて?」
 そして、廊下で倒れている伊達君を見て小首を傾げる。
「―――なに?  伊達に襲われでもした?」
 的外れなことを言う。私は神崎君の頬を叩きたくなる衝動を抑えて、言った。
「貴方が一人で勝手に部屋へ入ったのよ! 私達に『待ってろ』と言って! 覚えてないの?!」
 我ながら珍しく感情が出た。怖かったのだ。
 激高する私を見て、神崎君はぽりぽりと耳の後ろを掻いた。
「―――ごめん。覚えていない。時々あるんだ。無意識で行動しちゃうこと」
 それで私の怒りは例えようのない恐怖に変わった。

(二)
「あんた達。なにしてるの?」
 明美の呆れ声で私は我に返った。
 確かに呆れられても仕方がない光景だ。
 部屋の中央に呆然と立ち尽くす神崎君。その神崎君に詰め寄っている私。廊下で尻餅をついている伊達君。滑稽と言われても仕方がない。
 茶托を持って立ったまま、明美は伊達君と私達を交互に見る。
「なに? 又、何かあったの?」
 不安げにそう尋ねる。
「あったと言えばあったんだが……」
 伊達君は廊下であぐらのまま腕組みして考え込む。
「―――良く分からん!」
 あっさりと結論を出した。伊達君らしい潔い結論だ。
 その言葉に明美は小さく嘆息した。
「とにかく、お茶にしましょう。一息入れないと身が保たないわ」
 明美の言葉に伊達君が立ち上がる。
「……あら? なんか涼しいわね。クーラーでも入れたの?」
「いや。姉貴が入れたのかな? でも、クーラー、スイッチ入ってないし……」
 明美と伊達君が首を傾げる。
(……明美達にもわかるのか……)
 私は吐息をついて、畳の上に正座した。伊達君の部屋には座卓の類がないので、自然、円座を組むように座ることになる。
「鈴の所のくず餅だから、美味しいよ! 良く冷えてるし♪」
 明美がぱっと周囲に笑顔の花を開く。
(――なるほど。覚悟を決めたか)
 明美の笑顔は『戦うと決めた女』のものだった。
 しかし、他人の家で自分の(いえ)のものを出されるのは面映ゆいものだった。
 明美は器にお湯を入れて温めた後、急須にその湯を注ぐ。
 暑い時に熱い飲み物を頂くのは理にも礼儀にも適っている。実は明美が通う茶道教室の師範代は私だったりするのだ。あの煎れ方なら、茶葉もスーパーで売っているような物ではないだろう。
(玉露の高級品かな?)
 当たりをつけて、そっと一口頂いた。意表を突かれて、私は思わず声を漏らした。
「あら? 正喜撰(しょうきせん)?」
「流石、鈴。分かるわね。小枝さん、やっぱりただ者じゃないわ。こんなもの普通に用意してあるんだもの……」
 明美は脱力したように言う。
 確かに普通の家にあるお茶じゃない。
 小気味よく一本取られた気がして、私は『小枝さん』と言う女性を見直した。明美にすれば小姑みたいなものだから、私とは違う感慨があるのかもしれない。
 冷静さを取り戻した私は伊達君の部屋をつくづくと見渡した。
 考えてみれば、男の子の部屋に入るのは初めてだった。少し悔しくて唇を噛んだ。私の『初めて』は全て神崎君に捧げたかったからだ。
 六畳間の和室。左右の壁には本棚がある。中身はマンガが多い。ついで剣道関係の本。本棚の上には、おびただしい数のトロフィーと賞状が飾られている。奥の窓際には勉強机。意外に整理されていて、教科書と参考書が並べてある。机の横にパソコンディスクがある。 で、部屋の隅に似合わないダンボール箱が一つ、ぽんと置かれていた。
 太い赤マジックで『十八禁! 無修正! 要処分!』と書かれていた。
 小枝さんが、私達の来る前に片付けたのだろう。私の視線がその箱に釘付けになっているのに明美が気付いて、それを見る。
 明美と視線が合って、苦笑が漏れた。
「正彦~ 後であのお箱改めさせて貰うわよ」
 明美が笑顔で言う。
 伊達君は目に見えて狼狽えた。奇妙な手振りで答える。
「いや、あれは男の最後の牙城みたいなもんだから! 勘弁してくれ! 明美!」
 エロ本が最後の牙城とは、人として何か終わっている気がする。そもそも牙城の意味が分かって言っているのだろうか?
 だが、私があの箱に気を奪われた理由は他にある。
 小枝さんは、神崎君の連絡の後、この部屋を片付けたのだ。何事もなく。
 だが、私達が入ろうとした時、呪詛は発動した。
 伊達君だけでなく、神崎君や私を呪詛の標的としていたわけだ。
 小泉さんにそれだけの呪詛を行えるとは考えがたい。あの呪詛はプロの仕事だ。つまり、第三者の呪詛師がいるのだ。それもプールでの出来事を一部始終見ていた者が。
 ふんっ――私は鼻を鳴らした。
 上等だ。そっちがその気なら、こちらも容赦はしない。
 私がそう考えている時、神崎君が言った。
「伊達。お前まだ、小泉さん絡みの物を持っているだろう!」
 能面のような顔で鋭い口調で言う。
 伊達君はお茶を吹いて狼狽える。それが事実を語っていた。
 明美のまなじりがつり上がる。
「全部出せ。僕が処分する。後、パソコンのハードディスクは外して砕くからな」
「そこまでしなきゃ、いけないのかよー」
 伊達君は口をとがらす。
「命とハードディスク。どっちが大事だ?」
 神崎君の言葉は冷徹で厳しい。あのハードディスクにはろくでも無い物が入っているに違いない。
「明美。考え直した方が良いかもよ?」
 そんな意地悪を言ってみる。
「そうね……別れても良いかなと思ってる……」
 明美も冷淡に言い放つ。伊達君は哀れな程狼狽えた。
「すまん。明美。謝る。ほら、この通り」
 伊達君は土下座した。なんだ、牙城なんか端から無いじゃないか。
 明美は知らんぷりしたまま、私に問う。
「で、鈴。結局のところ何があったの?」
「呪詛よ。超一級の呪詛。小泉さんの生き霊どころじゃない。私達を狙ったプロの呪詛師がいるのよ。神崎君が破ったけれど」
 そう言って私はちろりと神崎君を睨んだ。
 神崎君はお茶を飲む姿勢で固まった。珍しく表情に驚愕がある。いい気味だ。
 ちなみに伊達君は土下座のまま放置プレイである。いと哀れ。
「――あのさぁ、僕は呪詛の存在にすら気づいてないよ。祓った覚えもない」
「じゃあ、何故、部屋に一人で入ったの? この結界はなに? 誰が張ったと言うつもり?」
 神崎君はお茶を置き、部屋をぐるりと見回す。
 そして困ったように耳の後ろを掻く。
「確かに高位の神域に近い結界だけど……こんなの人に張れる結界じゃないよ。少なくとも僕じゃない」
「貴方が部屋に入った瞬間、呪詛結界が発動したわ。後ろのお姉さん(・・・・・・・)が入れないくらいの強い呪詛よ。そのただ中で貴方は何をしたの? 何故、無事なの?」
 神崎君は顔を伏せた。困惑している。記憶がないのは嘘ではないらしい。
「―――あの~ それってあれか? 盥に井戸水入れて鏡を置くってした方がいいって事か?」
 土下座の姿勢のまま遠慮がちに顔を上げて伊達君が尋ねる。
「駄目よ!」
「駄目だ!」
 私と神崎君が同時に叱咤する。
 伊達君は土下座の姿勢から上体を上げた。
「だって俺、殺されかけたんだぞ! 自衛して何が悪い」
 伊達君の目は普通ではなかった。まぁ、無理もないかもしれない。
 私は諭すように言った。
「もう自衛じゃないからよ。貴方は小泉さんを対象としている。それは呪詛と同じよ。落ちる所まで落ちるわよ。それに安心して。この部屋は今は霊域よ。並の呪詛など届かないわ」
 神崎君は驚いたように私を見つめている。
「―――なによ?」
 そう尋ねると、神崎君は明るい笑顔を浮かべた。
「今日の彩宮さんは良く喋る。その方が可愛くて良い」
 などと曰った。
 顔に血が上り耳たぶまで朱に染まるのが自分でも分かった。この人は不意打ちでこちらの心を突いて来る。私は顔を俯かせた。
「伊達。彩宮さんの言う通りだ。今のお前に必要なのは、反省だ。なんであれ、お前は小泉さんを裏切ったんだ。然るべき反省と謝罪が必要だ。心しろ」
 神崎君の言葉に伊達君は「分かった」と項垂れる。
 一部始終を鋭い眼差しで見つめていた明美は、伊達君が項垂れた所で「はぁ……」と吐息をついた。
「そこまで言って貰って、なんなんだけど、神崎。あんたも反省が必要だよ」
 え? っと言う表情で、神崎君は明美を見る。
 明美はぴっと私を指さした。
「鈴よ! 真っ赤になって動けなくなってるじゃないの? 今、あんたは鈴を口説いたんだよ? 気付いてないの?」
「え? え?」
 神崎君は狼狽える。私は恥ずかしさが増した。
「……明美。もう、いいから」
「駄目よ。気付かせないと、こいつ他の女の子にも同じ言葉言いかねないもの!
 神崎。あんた、天然にも程があるわ。もう子供じゃないんだから、女の子への口の利き方気をつけなさい! 鈴以外の女の子に誉め言葉は言わない! 優しくしない! 分かった?!」 
 明美はびしりと指を立てて神崎君を叱りつける。 その勢いに神崎君は後ずさった。
「ぜ、善処する」
 引きつった声で神崎君はそう答えた。
「正彦!」
 明美は向きを変えて伊達君を睨み据える。
 伊達君はびしっと正座した。明美の教育が行き届いているようだ。
「今の神崎の言葉に素直に反省の色を見せなかったら、私、本気で別れるつもりだったんだからね! 前の彼女の物を持ってるなんて、どういうことよ? 女を物扱いしたら別れるよ!」
「―――わっ、分かった。済まなかった明美。許してくれ」
 伊達君は又、土下座する。
「ふんっ!」
 鼻を鳴らして、明美は伊達君を睥睨する。
 三枝節ここに極まれりと言った感じだった。
「小泉さんにも、その台詞言えたら良いのだけどね……」
 急にしょぼんとして明美は呟いた。
 伊達君はたらりと汗を流している。
 明美の気持ちは分かる。明美の性格からして、横から男を取ったような形は避けたいのだろう。筋を通したいのだ。確かにそれが通じる相手なら良かったと思う。でも、呪詛をしてしまった。もう小泉さんは戻れない。ほんと、もう救いようがない。
 私は顔を上げた。神崎君と目が合って二人して赤くなるが、ついと神崎君から視線を外して明美を慰める。
「仕方無いよ。明美。呪詛を掛けた時点で人間ではなくなるんだから…。明美は悪くない」
 明美は膝の上の私の手を握った。力が籠もっていた。
「鈴。私達どうすれば良いの?」
「……悪いけど、今の段階で私に出来る事はないわ。伊達君だけでも守ろうと思ったけど、神崎君が済ませてしまったからね。伊達君はこの部屋で寝起きしてる限りは無事よ。外へ出たら安全は保証出来ないけどね」
「鈴。私、小泉さんに謝りたい!」
 明美は熱の籠もった眼差しで私を見て言う。
「無駄よ。可哀相だけど、もう彼女を救う術はないわ。遅かれ早かれ、彼女は自滅する」
 私は冷徹に言い切った。
「そうだろうか?」
 私の言葉に神崎君が言った。私はきっ!と神崎君を睨む。
 神崎君は私の視線に困ったように耳の後ろを掻いた。
 そして伊達君に視線を移すと言った。
「伊達。小泉さんの住所と連絡先を教えてくれ。僕が説得してみせる」
 呆然とした。
 ―――あろう事か、あるまい事か、神崎君は最悪の選択肢を提示した。

 伊達君の家を後にして私は一人歩く。
 振り返らず、ただ前を見てひたすら歩く。慣れないヒールが「カッ! カッ!」と音を立ててアスファルトを刻む。その後ろを、「すっ。すっ」と音を消したすり足がつけて来る。剣道の歩法が身に付いた足音だ。
 ああ、癇に障る。
 私はそれを無視して、更に歩を早める。後ろの足音もそれに合わせて早くなる。まるで徒競走だ。十分程続いた無言の徒競走に音を上げたのは、すり足の方だった。
「なぁ、彩宮さん。何で怒らせたのか分からないけど、せめて家まで送らせてくれないかな?」
 神崎君の声は途方に暮れていた。
 私は固まったようにぴたりと止まった。
(何で怒らせた分からないですって?)
 私は左足のかかとに体重を預けて、くるりと180度回転した。小太刀の古法の足裁きだ。小太刀は、剣術と言うより体術の要素が強い。いきなり正面から向き合う形になり、神崎君は後ずさる。
 私はそんな神崎君を見据えて、きつく言い放った。
「貴方。馬鹿なの?」
 横面を張られる位の覚悟で言ったのだが、神崎君は捨てられた子犬の様に消沈してしまった。
「……そりゃ、確かに僕は鈍いし、女の子の気持ちは分からないかもしれないけれど……」
 ごにょごにょと口籠もる。
「あのね。神崎君。古今東西、なまなりを祓った話はあっても救った話はないのよ!」
「なまなりって何?」
 呆然とした表情で神崎君は問う。
「般若になりかけた女の妄念よ。見たでしょ? プールで? 小泉さんの形相を? ああなってはもう救いようがないの! 関わるのは馬鹿を見るだけなの!」
「――――――」
 神崎君は呆気に取られた表情でまくしたてる私を見る。
「話し合いで解決しようと言うのは、馬鹿なんだろうか?」
 まだそんな事を言う。
「馬鹿よ!」
 私は神崎君を睨みつけて、再度言った。この人は本当に『女』が分かっていない。女は感情で動く。理性なんかついて来ない。ましてや、ああなった『女』に話し合いが出来る筈がない。
「……そうだろうか?」
 案外、頑固に神崎君は意見を変えない。耳の後ろを掻きながら「こんなの知ってる?」と言いながら、照れ臭そうに空を見上げて謳うように言った。
「人身受け難く。今、すでに受く。
 仏法聞き難く。今、すでに聞く。
 今宵、今生の悟らずんば、更にいずれの生にか悟らん」
 意外な切り返しに、私は腕を組んで神崎君を見据えた。
「仏法の帰敬文(ききょうもん)ね。それがどうしたの?」
 神崎君は本当に恥ずかしそうに、手で顔を撫でたりしながら言葉を繋ぐ。
「いや。だからさ。生きてるじゃないか? 悟れなんて言わないけど、生きてるんなら、前向きにならないと意味がないじゃないか」
 私はじろりと神崎君を睨む。
「私は仏法を宗教と認めていないんだけど……、まぁいいわ。でもね、神崎君。『縁無き衆生は救い難たし』そう言ったのも仏法よ」
 神崎君は悲しげに視線を落とした。
「彩宮さんなら、分かってくれると思ったんだけどな……。
 だって、僕たちは生き残ったじゃないか。無惨に、無碍にたくさんの人が死んだのに、生き残っているじゃないか。聖人になれなんて言わないけれど、せめて死んでしまった人の分、前向きに生きないと嘘じゃないか。呪詛なんて後ろ向きな行き方はいけない。そういう人には前を向かせる義務があるじゃないか」
 その言葉に私は呆気に取られた。
 この人はそんな事を思って生きてきたのか?
 そんな事を背負って生きて来たのか?
 なんて化け物! それじゃあ、まともに生きられる筈がない。
「―――なぁ、彩宮さん」
 神崎君は捨てられた子犬の瞳で私を見つめる。
「僕は間違えているんだろうか?」
 ああ、もう! この人は!
 そんな目で、そんな思いを打ち明けられて、否定出来る筈がない。それに、神崎君は私の『救世主』だ。せめて私だけでも、世界が全て彼に背いても、私だけは彼を認めないといけない。それは『あの日』、あの病院で、運命づけられた約束だった。
 答える代わりに―――私は彼を抱きしめた。彼が教えてくれた全てを受け入れる抱擁だ。
「ちょっ、ちょっと、彩宮さん?」
「――浩ちゃん」
 二人して敢えて口にしなかった、幼かった頃の愛称。私はそれを口にした。
「浩ちゃん。分かった。何があっても、私だけは貴方の味方よ」
 彼は一瞬息を止めて私を見つめた。私は、私の持てる全ての愛情を注いで彼の胸の中で、彼を見上げてみせた。彼はじわりと涙ぐんだ。
「ありがとう。―――鈴ちゃん」
 浩ちゃんは力を込めて私を抱き返した。
 そしてお互い、ぎごごちなく唇を重ねた。
 こうして私達は―――ようやくにして―――再会を果たしたのだ。

(三)
 ―――白状しよう。
 この時、私は浮かれていた。天にも昇る心地と言う奴だ。
「ファーストキスなの……」
 私は浩ちゃんの厚い胸板に顔を埋めてそう囁いた。
 浩ちゃんは一瞬、硬直して応えた。
「ごめん。僕、初めてじゃない」
 浩ちゃんは生真面目に答える。
「馬鹿―――。黙っていれば良いの。こう言う時は。貴方がもう経験済みだって知ってるよ。でも、良いの。これからの事もリードして貰えるしね♪」
 その言葉に浩ちゃんは顔を朱に染めた。
 それが可愛くて、さらにしがみつこうとしたら、両肩を押さえて体を離された。
「―――なによ?」
 抗議の声を上げると、彼は真っ赤になって俯いていた。
「彩宮さん、天下の往来で抱きつくのは不味いって……」
 それで我に返った。羞恥が、かっと頭に登った。慌てて周囲を見回す。幸いにして人目はなかった。安堵の吐息をつく。彼も私の肩から手を放し、大きく吐息をついた。
「なんで呼び方が元に戻るわけ?」
 私は頬を膨らまし拗ねて神崎君を見据える。
 神崎君は赤い顔をますます赤くして慌てる。
「いや、その呼び方では理性が保てないと言うか、なし崩しになりそうだし、こういうのはもっと特別にならないといけないような気がするんだ」
(――なし崩し。良いじゃない?)
 そう思ったが、あえて口にしなかった。
 彼のことだ。きっと準備万端整えてくれるだろう。それもそう遠くない未来に。
「分かったわ。期待して待っているわね。神崎君(かんざきくん)
 私は神崎君の手を握ると、前へ向かって歩みを進めた。

「キスしちゃった♪ キスしちゃった♪」
 私は神崎君と手を繋ぎなぎ、謳うように囁きながら、スキップして公園を歩く。至極、上機嫌であった。
 公園には子連れの主婦とカップルしかいない。ベンチで彼女の膝枕でくつろぐカップルもいる。だから、手を繋ぐくらいは目立った行動ではない。
 神崎君は苦笑を浮かべて、そんな私に付き合っている。
「なぁ、彩宮さん。その歌止めない?」
 そんなことを言って来る。
「なんで? 本当のことだし、嬉しいんだから、良いじゃない?」
 私は神崎君に微笑みを返す。
 神崎君は困ったように笑う。彼のもう一方の手にはデパートの買い物袋が下げられている。言うまでもなく、伊達君が保管していた小泉さん絡みの品だ。
「でも、こっち駅とは逆方向だよ。門限とか大丈夫なの?」
 確かに間もなく夕刻になる。
「大丈夫よ。お父さんは、例え私が外泊しようと文句言えなくしてあるし、一番うるさい藤沢さんも、素直に理由話したら分かってくれるわ」
 ふ~んと、大した感慨も浮かべず神崎君は首を捻る。
「貴方はどうするつもりだったの? 真っ直ぐ小泉さんの家へ行くつもりだったのかしら?」
「まさか……」
 神崎君は真面目な顔で首を振った。
「流石に、今日は話せる状態じゃないだろう? 彩宮さんを送ったら『これ』を処分するつもりだった」
 神崎君は買い物袋を掲げて見せる。
「だと思った。手伝うわ。ブレスとかあったみたいだから……。神崎君は石の浄化なんて知らないでしょう?」
「……確かに。でも、これ彩宮さんに見せて大丈夫かなぁ?」
「大丈夫よ。何が出て来ても明美には黙ってる」
 神崎君は安堵の笑みを浮かべた。
「彩宮さんは察しが良くて助かる」
「あら? 殿方には困るんじゃないかしら? 浮気なんかしたらすぐにばれるからね♪」
 私の悪戯っぽい笑顔に、神崎君は目をそらした。
「そんなことしたら、本当に殺されそうだ」
「うん。殺すから、そんなことしないでね」
 満面の笑顔で頷く私に神崎君は一瞬、顔を硬直させた。

 公園を突き抜けると川辺に出る。川辺は整地されているが立ち寄る人は少ない。私達が川辺へ出た時は夕日が朱く輝いていた。
 神崎君が買い物袋から荷物を取り出した。
 出てくる出てくる。
 手編みのマフラーは定番。手編みのセーター。手作りのミサンガ(あろうことか、今日の今日まで身に付けていたのだ。伊達君は)。手作りのアメジストのブレスレット。銀の台座にトルコ石を填め込んだ指輪。アメジストと水晶で組んだネックレス。あとメッセージカードと写真が多数。ハードディスクの中身は何か知らないが、神崎君が真っ先に分解して、記録媒体のガラス板を砕いて埋めていた。
 どれもこれも念の籠もったものばかりだ。
「呆れた。殆ど手作りの品ばかりじゃない? それも念の籠もる物ばかり。どういう神経なの? こんなの持ってるなんて?」
「伊達はさ―――」
 砕いたハードディスクを土に埋めた神崎君は、小枝や枯れ葉を集めながら答える。
「自分が気に入るかどうかが判断の基準なんだ。物に籠もる念なんて最初から頭に無いんだよ」
「明美がここに居たら、本気で伊達君と別れたかもね」
 私はブレスレットとネックレス、指輪にミサンガを、いつも持ち歩いてる粗塩の袋に入れる。ある神社の魔祓いの塩なんだが、念の強さからして再利用は効かないな。
(灰は灰に。塵は塵に。土は土へ帰るべし)
 念を籠めて、塩の袋を小枝を抱えて戻って来た神崎君に手渡す。
「これ、水辺の土に埋めてもらえる?」
「はい。随分簡単だけど、これで良いの?」
「あら? 特別の塩なのよ。お祓いもしたし十分だと思うけど?」
「ふぅん。魔法陣刻んで『エコエコアザラク』とか唱えるのかと思った」
「それ、テレビの見過ぎね。召還魔術じゃないんだから、そんな手間かけないわ」
 そういうもんなんだと呟きながら、神崎君は集めた小枝と枯れ葉をまとめて置くと、塩の袋を受け取って水辺へ行く。
「深く埋めた方が良いのかな?」
 神崎君の声に私は答える。
「30センチ位でいいよ。流れてばらけるようにしてくれたら良い」
「わかった」
 そんな、なんでもないやりとりが私には染み入るように嬉しかった。ちょっと前までは話しかけることも出来ず、ただ見つめるだけの日々だったのだ。一気にキスするまでの仲になれるとは思わなかった。
 伊達君の呪詛もそういう意味では歓迎すべきなのかもしれない。
 そんなことを考えながら、私は座ったまま葦をかき分けて作業をする神崎君を見つめていた。
 戻って来た神崎君は鞄からライター用のオイルを取り出すと、枯れ葉の山にオイルをかけた。
「後のは燃やすだけで良いのかな?」
「……うん」
 どこか呆けたように神崎君を見つめながら私は頷く。両足を抱いてその上に顔を置き、神崎君の一挙一動を見つめ続ける。
 夕焼けに染まる川辺に炎が上がる。
 小泉さんが愛情を注いだマフラーやセーターが燃やされる。
 感傷が湧いた。
 もし自分が、愛情を注いだ贈り物を燃やされる立場になったらどうなるのだろうと……。
 想像したら身を切るような切なさを覚えた。駄目だ。私には耐えられない。
「……うっ」
 火に小泉さんの思いの品々をくべていた神崎君が顔をしかめる。
 肉を焼く臭いがした。想像通りだ。あれらの品は小泉さんの血肉そのものになっていたのだろう。呪詛の媒介にもなっていたに違いない。
 全てを火にくべて、神崎君は私の横に座った。
「これで少しはマシになるのだろうか?」
 神崎君は炎を厳しい目で見据えて言う。
「無理でしょうね……」
 私は膝の上に埋めていた顔を神崎君に向けて、感傷的な思いを消して言う。我ながら冷たい声だった。
「―――ああなってしまったら、小泉さんはもう人ではいられないわ。祓えても小泉さんは救えない。自我崩壊して狂うのがオチよ。それに小泉さんは生きている。生きている間は偏執的に伊達君を狙い続けていくでしょうね」
 神崎君はため息をついた。
「理屈は分かるよ。彩宮さんは正しいんだろう。でもさ、生きているんなら、やり直しが効く筈なんだ。そうでないと嘘なんだ」
 神崎君は炎を見つめながら決然と言う。頑固だ。でも、私は神崎君を守ると心に決めたんだから―――だから確かな繋がりが欲しくなった。
「ねぇ」
 膝の上に顔を乗せて神崎君を見つめながら私は言う。
「なに?」
「キスして」
 神崎君は息を飲んだ。なによ。そんな化け物を見たような顔で引くことないじゃない。
「な、なにを……」
「さっきみたいのじゃなくて、大人のキスをして。貴方から」
 私は視線を外さず、姿勢も崩さず、じっと神崎君を見つめたまま言う。
 神崎君は引いた姿勢のまま周囲を見回す。見回すまでもない。周囲に人の気配はない。「あ、あのさ―――」
 神崎君は耳の後ろを掻きながら、私の視線を避けて言う。
「僕。これでもHなんだよ。そのキスだけで済ます自信がない」
「いいよ。Bくらい」
 私は抑揚のない声で答える。
 それでもたじろぎを見せる神崎君に、私は怜悧とも言える声で命令した。
「キスするの!」
「わ、分かった。良いんだね?」
 神崎君はそう言うと私のあごを左手でクイと上げて、唇を重ねて来た。右手で私の体を抱きしめる。
 その右手が私の乳房をまさぐった。その感触にビクンと体が反応する。声が漏れた。その隙をつくように、神崎君の舌が私の口に入って来た。本能的にその舌を自分の舌でまさぐり返す。粘膜と粘膜の接触は、私が知らなかった感応を直接脳にたたき込む。脳が白熱して、意識がホワイトアウトする。体は声を上げ、酸素を求めるが、絡み合う舌がそれを許さない。自分でもいやらしいと思う喘ぎ声が漏れた。
 気付くと私は自分から神崎君に抱きつき、さらなる接触を求めていた。
 ―――――――――。
 永いキスが終わった。
 私は神崎君に抱きついたまま、荒い呼吸を繰り返していた。
「……スゴイ。キスだけでこんなにスゴイんだ」
 神崎君も呼吸が荒い。それは疲れではなく欲望から来る息だと分かった。
「―――ちょっと、彩宮さん。離れて。これ以上は僕、我慢出来なくなるから」
 私は神崎君の首にしがみついている自分に気付き恥じ入った。
 そっと離れる。
 それから二人して視線を合わせないようにして、目の前の炎へと向き直る。
 体の芯が疼いている。乳房が熱い。私は自分の体が神崎君を求めているのに気付いた。
「神崎君―――」
 妙に色っぽい声が出た。
「……うん?」
 神崎君は熱の籠もった視線で私を見る。
「伊達君のことが終わったら、ちゃんとセッティングしてね。私、早く貴方とひとつになりたいから」
 普通、女から言う台詞じゃないと思うけど、口に上った物はいたしかたない。
「私、貴方を守るからね」
 真っ直ぐに神崎君を見据えてそう言った。  
神崎君は固まってしまった。
 そして気の利いた台詞が思いつかなかったのだろう。
 彼は私の頭をクイと胸に抱きしめた。
「ありがとう」
 ただ、その一言を耳元で囁いた。
 形は不器用で、体を重ねた訳でもなかったけれど、私達は一つになれたのだと思った。それからは二人無言で永いこと炎を眺めていた。でも手はしっかりと握り合っていた。
 夕日は落ちかけている。川辺には夜のとばりの気配が訪れていた。炎も燃え尽きようとした頃、その気配がした。
「―――はぁ」
 私は吐息をついた。
「偶然かな?」
 後ろを振り返らずに神崎君は言う。
「このタイミングじゃ、考えにくいわね」
 私も後ろを振り返らずに答える。
 気配は近づいて来る。六人と私は読んだ。
「よう。よう。お二人さん。この暑いのに焚き火とは焼けるねぇー」
 恐ろしく頭が悪そうな声が背後で響いた。
 追従するような下卑た笑い声が上がる。
 二十歳そこそこのガラの悪い男達が私達の背後を囲んでいた。
「なにか用かい?」
 音も立てずに立ち上がり、神崎君は顔に『馬鹿です』と書いてある連中と向き合った。
 臆した様子は微塵もない。
 男達はゲラゲラと笑った。
「てめえに用なんざねぇよ。そこの可愛い子ちゃんを渡してくれれば、怪我しないで済むぜ」
 リーダー格らしい金髪の男が言う。
「断る。僕の彼女だからね」
 それだけの台詞で切れたのか、「おどりゃー」と鉄パイプを持った男が神崎君に殴りかかる。
 当然、当たる訳がない。足払いをかけられて川に叩き込まれる。
「てめえ!!」
 男達が殺気立つ。格の違いには気付いていないようだ。
「今、帰れば君たちも怪我をせずに済むと思うよ」
 神崎君は涼しい声で言う。
「ぬかしやがれ!」
 男達は吠えたが、完全に神崎君に気迫負けしている。
「ちょっと待って」
 私は立ち上がると、金髪男の目の前へ歩みよった。視線は無論「絶対零度」。
「用があるのは私だけ?」
「……お、おうよ!」
「誰かに頼まれたの?」
「……へっ」
 金髪男は唾を吐いた。
「上の公園でよ。変な爺に頼まれたんだ。女は回せ。男は殺しても構わんとかぬかしやがった」
 素直である。
「幾ら貰ったのかしら?」
「50万だよ! 悪いか?」
「いいえ。それなら治療費にはなるわね」
 底冷えのする声で答える。
「貴方」
 私は金髪男を指さした。
「そして、貴方と貴方」
 そこそこ使えそうな男を指さす。
「私が相手をしましょう。私が負けたら好きにして良いわ」
「なっ――」
 指さされた男が声を呑む。
 二人目を川へ投げ飛ばした神崎君が、私に声をかける。
「彩宮さん、こういう時は男に華を持たすものだよ」
 神崎君は笑っている。どうやら私の力量は見取っていたらしい。
「私は貴方を守ると言ったでしょ? 三対三。平等じゃない?」
 そう言った時には、神崎君はナイフを抜いてかかって来た男の逆手を取り、メキッと言う音を立てて折っていた。表情は柔和なままである。
 腕を折られた男はみっともない叫びを上げて、のたうち回る。
 残る三人は表情を引きつらせた。まぁ、力むこともなく、淡々と骨を折ってしまうような相手は恐怖だろう。
「こっちは終わったよ。手伝おう」
「無用よ。最近実戦がないから欲求不満なの。まぁ見てて」
「て、てめえら。ここまでやって無事で済むと思うなぁー!」
 金髪男がわめく。
 うるさい。
 私は整地された土の上に正座した。
「な、なんだ? 今更、土下座のつもりか?」
 追いつめられているのがどちらか、金髪の男には分からないらしい。
「これが私の構えよ。臆することなくかかっていらっしゃい」
 それで金髪男は逆上した。「なめるなー!!」とさけぶと、体重の乗った良いローキックを私の顔面に放って来る。空手の心得があるらしい。私は男の足首に絡ませるように手を出した。心得がない者には拙い防御に見えただろう。だが、その瞬間に私は男の足首を決めていた。
 男の蹴りのパワーをそのまま流して、その体を宙に浮かす。ビシッとアキレス腱の切れる音が静かな川辺に響いた。その痛みに男の体は硬直した。まるで一本の棒だ。その棒を後頭部から叩きつける格好で、私は金髪男を投げ飛ばした。首から叩きつけられた瞬間、男はグキッと嫌な音を立てて、数メートル程地べたを滑った。動きが止まった時には、口から泡を吹き痙攣していた。地面が舗装されていたら間違いなく死んでいる。
「富田流柳返し」
 綺麗に決まったのに、神崎君を含めて、皆、彫像のように固まった。血の気も引いている。気分を害して私は言った。
「次!」
 私は又、正面に向き直る。
「勘弁してください。参った。降参です!」
 残り二人は泣きながら土下座した。

 まぁ、呪詛なんてややこしい事するくらいならヤクザかチンピラ雇う方が話は早い。
『変な爺さん』とやらは手間を省いたつもりだろうが、いかんせん、こちらの方が実戦では上だった。それだけの話だ。
 しかし、これで、別の呪詛師がいるのははっきりとした。
 呪詛と言うのは、相手に呪われていると実感させる方が効果が出やすいと言う。
 伊達君だけじゃなく、私と神崎君が呪詛の対象とされているのは確実だった。
 陽の暮れた公園を私達は駅へと歩いて行く。
 無論、絡んで来たチンピラには情けもかけずに放置して来た。
 私と神崎君はどちらともなく、しっかりと手を繋いでいる。
 それで私はにやけてしまう。恥ずかしいような嬉しいような、こそばゆい気分だ。ちなみに絡んで来た馬鹿のことは微塵だに脳裏にない。
「―――しかし、ややこしいことになったなぁ~。彩宮さんまで、狙われるなんて」
 神崎君は耳の後ろを掻きながら、困惑したように呟く。
「あら?」
 私は微笑んで神崎君の顔を覗き込む。
「まるで貴方が巻き込まれるのは織り込み済みのような言いぐさね」
「あ、いや―――」
 私の突っ込みに神崎君は困惑を深める。
「分かってるわよ。貴方、いざとなれば伊達君の盾になるつもりだったんでしょう? なら、私が巻き込まれるのは当然よ。私は貴方を守るんだから」
 そう言ってにっこり笑うと、神崎君は苦笑した。
「実戦でも、彩宮さんの方が強そうだ。正座が構えの武術って、伝え聞く会津藩の秘技くらいしか知らないよ? なんだい? あの技は?」
「小太刀よ。富田流と言うの。神崎君も剣道しているんなら、中条流くらいは知ってるでしょう?」
「中条流? 佐々木小次郎が免許皆伝した流派だね。小太刀から物干し竿と言う長剣に移ったのは皮肉だけど……」
「富田流は中条流を工夫して出来た流派なの。小太刀は使うけど、ほとんど体術に近いわ。所謂、古武術って奴ね。今の格闘技には正座している相手を想定して戦うこと考えてないから、初見では有利よ」
 神崎君は感嘆の声を上げた。
「凄いな。そんな古武術、何時から習ってるの?」
「三歳からだったと思うわ。父の知り合いの宮司が富田流を継承していてね、ウチまで来て教えてくれていたのよ。十四歳で免許皆伝取ったのよ。凄いでしょ?」
「そりゃ凄い。三歳から始めたのも凄いけど。十四歳で免許皆伝かぁ~ 沖田総司みたいだね……」
 そう言って神崎君は苦笑した。
「それでも、さっきのは過剰防衛じゃないかい?」
「笑いながら手を折るような人に言われたくないわね」
「あれは、ナイフなんか出すからだよ。怖いじゃないか」
 そう言って神崎君は明るく笑った。
 誰にでも優しいのかと思っていたが、なんだ、男には冷酷なんだ。
 公園の出口にさしかかった所で、神崎君はぴたりと足を止めた。私もその気配にぴたりと足を止める。
 水銀灯の下のベンチに、小さな黒い塊が座っている。
 凄まじい瘴気を放っていた。
 その塊はゆっくりと顔らしきものを私達に向けた。黒い和服の小柄な老爺だった。背は曲がり、杖を持っている。百歳以上生きているのではと思われる程に、醜いしわくちゃの顔をしていた。
「やはりな。チンピラを差し向けた程度では、動ぜぬか。流石は儂の呪詛を破っただけのことはある。いや、あっぱれじゃ」
 しわがれた低い声は汚物が肌に染み込むような不快感を覚えるものだった。
 神崎君が私を守るようにして一歩前へ出る。
「貴方が、あの可哀相な男達をけしかけたのですか?」
 冷徹な声で神崎君が問う。
「いかにも」
 くくくと嗤いを押し殺して老人は答える。
「暗示をかけて凶暴化させたのじゃが、まさか、武道にも長けているとはな。流石じゃ。特に、お嬢ちゃん。大の男を片手で投げ飛ばすとは思わなんだわ」
 愉快愉快と老人は嗤う。私の不快感は増すばかりだ。
「――見ていたの? 隠れて」
 私はこれ以上無いくらい冷たい声で老人を詰問した。
 老人は笑顔を消した、眼光だけが異様に鋭い。その眼光で私を見据えた。私は気圧された。
「契約を交わした時点で、あの者等は儂のくぐつよ。あの者等の目は、儂の目よ。一部始終見せて貰ったぞ。今時、浄眼を持つとは希有な娘御じゃな。お嬢ちゃん。察するに儂の呪詛を破ったのもお嬢ちゃんじゃな?」
 神崎君は老人の視線から私を守るようにした。能面のような顔で、無言で老人を見据えている。
「呪詛と言うのは、伊達の部屋の呪詛のことか?」
 その声の響きに私は背がぞわりとするモノを感じた。普段の神崎君の声じゃなかった。
 それまで私ばかりを見据えていた老人は、ようやく神崎君をまともに見た。
「―――ほう!」
 老人は感嘆の声を漏らした。
「祟神を背後霊に従えているとはな……なるほど主ら二人を相手にしては生中な呪詛は通ぜぬ」
「貴方は呪詛を生業としているのか?」
 怒気を孕んだ声で神崎君は言う。
「まぁ、そうじゃ。今回は商売ではないがの……」
「小泉さんから、離れてもらいたい。貴方のような汚れた人間がいては、小泉さんは救われない」
「―――救う? 救うじゃと? 小僧?」
 瘴気の塊の老人は耳に触る甲高い声を上げた。
「何様のつもりじゃ? 儂の可愛い孫は、あの伊達と言う小僧に傷物にされたのじゃ。それをどうやって救うと言うのじゃ? お主が? 幸恵はすでにあの小僧を呪っておる。呪いの成就こそが幸恵を救うものじゃった。だが、お主とそこのお嬢ちゃんで、その救いを断ち切ったではないか?
 おかげで幸恵は病院行きじゃ。
 返しの風で臓腑が腐る苦痛にのたうち回っておるのじゃ!
 それをお主が救えるか?
 だから、儂はお主等を狙う事にした。
 1ヶ月かけた呪詛をお主等に狙いを変えて発動させた。
 じゃが、お主等は浮かれてそこにおるではないか?
 儂はお主等が憎い。幸恵もお主等を憎むに決まっておる。
 こういう闇の思いをお主は分からぬか?」
 老人の罵倒は鬼気迫るものがあった。闇の中で這い蹲って生きて来た者の怨念を吐き出していた。
 だが、神崎君は動じなかった。
「闇がイヤなら這い出せば良かったんだ。手を伸ばせば救いの糸は在ったはずだ。貴方が闇を選んだだけの話だ。だが、貴方の世界に小泉さんを引き込むな。呪いで人は救われない。彼女は僕が救ってみせる」
 神崎君は臆する事なく言い切った。
「言うな。小僧。いや、神崎浩平。ならば貴様の思い上がり、切り捨ててくれるわ!」
 老人は憤怒の表情で神崎君を見据えた。
「――ちょっと、待って!」
 私がその会話に割って入る。
「孫娘と言ったわね? 貴方、小泉さんのお爺さんなの?」
「彩宮鈴香と申したな? お嬢ちゃん。いかにもじゃ。儂は幸恵の母方の祖父じゃよ」
「じゃぁ、小泉さんに呪詛を教えたのは……」
「いかにも、儂じゃ。イザナミ流完部派第二十八代宗主・完部玄白よ」
 誇らしげに老人は名乗った。
 ―――イザナミ流。
 私は息を飲んだ。日本最古の呪術集団。そしてイカサマではなく、実行力のある呪詛を行う一団。標的にされれば逃れる事は適わないと言われる闇の一族ではないか。
 小泉さんは端から闇の血統だったのだ。
「お嬢ちゃんには、儂の言葉の意味が分かるようじゃな。それで良い。主らにはもう明るい未来はないと思え」
 老人は落ち着きを取り戻し、くくと嗤った。
「――かんべげんぱく……」
 抑揚のない声で神崎君は呟いた。
 今までにない無機質な声。およそ生きる者全てを凍り付かせる口調だった。ぞっとして神崎君の顔を見上げると、能面のような顔に人間には成し得ない笑みが浮かんでいた。
「な、なんじゃ? お主は? 何者じゃ?」
 完部玄白と名乗った老人は、ここに来て初めて恐怖の色を示した。
「――かんべげんぱく。なるほど。これがここまで動く訳だ。覚えておくぞ。その名前」
 私は愕然とした。
 違う。
 今、喋っているのは神崎君じゃない!
 恐怖に膝が震えた。
 恐怖に震えるのは私だけではなかった。完部玄白もまた、恐怖に震えた。
「知らぬ! あり得ぬ!」
 老人は恐怖に立ち上がり、見かけよりしっかりした足で公園から駆け逃げた。
「か、神崎君――」
 私は彼の肩を掴むと揺すった。彼の体は驚くほどに冷たくなっていた。 

(四)
「神崎君!!」
 私が激しく肩を揺すると、彼はうつろな目を私に向けた。
「お爺さん、逃げちゃったね……」
 呆けたように神崎君は呟いた。
 良かった。意識がある。
「逃げちゃったねって……。貴方が脅したんじゃない? 又、覚えてないの?」
「脅したって……名前を覚えておくって言っただけだよ?」
 何か根本的な齟齬を感じて、私は諦観の思いを込めた吐息をついた。
 怒っても仕方がない。彼は分かっていないのだ。それに私には確かめる術がある。
「貴方、分かってないわ。貴方は自分を『これ』って言うの? 自分の体がどうなっているか分かってる?」
 そう言って彼の右手を自分の頬に当てた。夏の夕べだと言うのに氷のように冷たい。
「うわっ!」
 彼は驚きの声を上げた。
「彩宮さん、凄く熱いよ? 大丈夫? 熱あるんじゃないの?」
「貴方が冷えているのよ! 夏の盛りだと言うのに!」
 私は彼の右手首の関節を決めて、強く私の頬に右手を当て続ける。私の熱が伝わるように。私の命を注ぐように。彼の右手を頬に当てる。
「あれ? あれ?」
 神崎君は目に見えて狼狽える。
「なんで? さっきまでなんともなかったのに、寒気がする。凄く寒い」
「―――良かった。戻って来たのね。私を抱きなさい」
 そう囁くと、神崎君は顔を朱に染めた。
「ぇ? ―――だって、ちゃんとセッティングしてって……」
「違う! 寒いなら私を抱きしめなさいと言ったの!」
 真っ赤になって私は叫ぶ。
(―――全く。男って奴は。それしか頭にないのか?)
 神崎君は無言で私を抱きしめた。ぞっとする程、冷たい体だった。
 神崎君は小刻みに震えている。余程、寒いのだろう。
 体温を半分持って行かれた気がした。が、それも数分。
「―――ありがとう」
 神崎君は耳元で囁くと、そっと体を離した。
 耳元で囁いて、体を離すのは反則だなと思った。
 彼はとんと前へ一歩踏み出すと、まだ陶然としている私を振り返る。
「帰ろう。彩宮さん。送るよ」
 にこっと笑う。
 ああ。その笑顔も反則だ。
 天の邪鬼な私は仏頂面で答えた。
「ええ。送って頂くわ」

 母屋で藤沢さんと二人きりの夕食を済ませ、私は蔵へ戻った。
 今日は鴉揚羽をあしらった淡い紫の浴衣である。
 蔵の二階が誰も立ち入らない私だけの場所である。机の前で正座する。私の勉強机は和風のオーダー物だ。屋久島の千年杉から切り出した一枚板を、父の知人のインテリアデザイナーが手がけて、湾曲した半円形の変わったものである。私はその上のMACに電源を入れて、インターネットに接続する。伊達君から聞き出した小泉さんの住所を入力すると衛星写真がモニターに映し出される。
(―――なに? これ?)
 内心驚愕を覚えながら、画像をアップする。三叉路の右側に二等辺三角形の形をしたマンションが拡大される。三角形の頂点は北北東を向いていた。鬼門に向いたマンションなのだ。古来、鬼門からは魔物が来ると言う。この建物は意図的に魔物を集める設計になっている。建物そのものが呪詛装置なのだ。
 むっと眉間に皺を寄せて眼を閉じる。意識をそのマンションに飛ばす。上空から俯瞰して見るとマンションは丸く見えた。瘴気の渦がマンションを覆っているのだ。いや、瘴気は半ば実体化している。私には黒く巨大な蛇がマンションにとぐろを巻いているように見えた。
 と、その時、目を閉じていた蛇が目を開け鎌首を上げた。赤い眼光がぎらりと光る。
(――見られた?!)
 私は慌てて意識を戻した。あんな化け物とやり合う気はない。
「―――ふぅ」
 私は大きく吐息をつき、後ろ手に背を伸ばす。今のは久々に冷や汗が出た。再度、居住まいを正して、瞑目する。今度は意識を私の心の中へと向ける。そこは深い闇だ。私はその闇の奥へ意識を集中する。無限に広がる闇の中へ私は立った。
『迅鬼いる?』
『―――御前に』
 眼前に紺の作務衣に身を包んだ精悍な男が片膝をついた姿勢で現れる。目を手ぬぐいで隠した男だ。周囲の闇と同化している。
『私が見ていたものは分かるわね?』
『禍々しいくちなわでござったな』
 低い声で迅鬼は答える。
『あそこの405号室に忍び込める? どういう呪詛をしていたか知りたいのだけれど……』
『たやすきこと』
 迅鬼は笑いを含んだ声で答えた。迅鬼は手ぬぐいを外す。左目が青。右目が茶色の瞳のオッドアイだった。
『この魔眼をもってすれば、いかなる目であれ惑わし候』
『そう。では頼んだわ』
『承知』
 迅鬼は消え失せる。
 これが『式』の使い方だ。神崎君は『式』の使い方を知らない。お姉さんは『式』ではない。逆に神崎君が使われている。主従逆転甚だしいのだが、まぁ相手が『お姉さん』では仕方がないのかもしれない。
「鮮花! 淡雪!」
 そう呼ぶと私の背後に二人の幼い少女が現れた。市松人形のような髪型。黒地に牡丹をあしらった振り袖。瓜実顔のリスの様な容貌はうり二つだ。
「ぁぃ。鈴香様」
 二人ははもって答える。
「飛びます。体の守護をお願い」
「行ってらっしゃいませ。鈴香様」
 二人は丁寧に頭を下げる。居住まいを正して正座していた私の首が、こくんと前へ傾く。
 その様を私は上から見上げていた。幽体離脱したのだ。鮮花と淡雪は天井近くにいる私の幽体に、もう一度、深々と頭を下げる。
 屋根をすり抜け夜空へと私は飛んだ。
 満月が輝く夜空に鴉揚羽が飛翔した。

 ――奇景だった。
 切り立った五色の岩。その崖の下には、どこまでも清い青い川が流れている。神崎君の後ろのお姉さん(・・・・・・・)は憂いを帯びた表情で崖っぷちに立ち、川の流れに見入っていた。私はお姉さんの背後五メートルの所に降り立ち、跪く。びりびりと体が痺れる。霊気の流れが凄いのだ。ここは間違いなく有数の霊地だった。お姉さんは当然、私の気配には気付いているのだろうが、振り向かない。どこで仕入れたのか花魁衣装を身にまとい、およそ、お姉さんには似合わない憂いを深めて川を見つめている。
「―――宮滝と言う」
 嘆息するようにお姉さんは呟いた。それがここの地名だと理解するには数秒かかった。
「現世での宮滝ではない。本来あるべきここの姿だ。我が受肉していた頃は、夏の盛りはここで過ごした。巫女にはうってつけの土地じゃからな」
 落ち着いた大人の女性の声でお姉さんは喋る。その声色には人の心を惑わす響きがある。
「―――鈴香よ」
 お姉さんは私の名を呼び振り返った。その表情があまりに色っぽかったので、私は返事を忘れて生唾を飲んだ。
「あれの裏の顔は我にも分からん。これで三度目だが、恐怖まで覚える。あれが浩平の真の姿なら、我と契約など必要ない。念じるだけで我が存在ごときは消し去るだろう」
 お姉さんは眉をひそめてそう言った。
 衝撃を受けた。
 神崎君のあの変化した正体を、守護霊であるお姉さんですら分からないと言うのだ。では、あれはなんだ? 人の姿をした明らかな冷たい異形。あんな存在は古今東西聞いたことがない。背筋をぞっと怖気が走った。
「―――神崎君はそのことに?」
「無論、気づいてもおらん。あれはうつけだからな」
 守護霊も指導霊も駆逐して、どんと空席に居座ったパラサイトのような存在に馬鹿扱いされる神崎君に哀れを覚える。
「うつけと言えば――鈴香。そなたには謝らねばならぬ。浩平は男になった。そなたに操は捧げられぬ。止めることが、かなわなかった」
 お姉さんは口惜しそうに目を閉じて、唇を噛む。
 まぁ、予想していたことだ。私は諦観をもって受け入れた。
「気にしないでください。殿方に操を求めるほど酔狂ではありません。それにこれからは、私が手綱を握ります。他の女に目を奪われるようなことはさせません。その意味で貴女との契約は切れておりません」
 きっぱりと言い切ると、お姉さんは「くくく」とようやく笑った。
「よくぞ申した。それでこそ我が見込んだ女じゃ」
「一つ聞きたいことがあります」
「申せ」
「完部玄白。この男を如何見ましたか?」
「ああ。忌々しい物部の呪詛師じゃな。軽々しく見ることは出来んが、我とそなたが浩平に付く以上、呪詛の成就はあり得ぬ。これは請け合おう」
「すでにくちなわ(・・・・) が形成されているのですが……」
「……ほう」
 お姉さんは目を細めた。凄みのある表情に戻った。
「忘れたか? 鈴香。我は祟神であったのだぞ? くちなわ程度取るに足らんわ」
「神崎君はそのくちなわを浄化するつもりです。一人で」
 お姉さんは大袈裟に肩をすくめてみせた。
「うつけじゃな。浩平は。確かにあれが考えそうなことじゃ。我の知る限り禍つ(まがつへび)を浄化した話はない。だが、浩平なら、あるいはそれを成すかもしれん。だが、それも浩平の問題じゃ。我らはあれを守れば良い。それにむざむざ殺られる玉ではないぞ。浩平は。あの大異変の際に、すでに魂を菩薩の位に高めた男じゃ。そこは信じて良いと思うぞ」
「安心いたしました」
 私は本当に安堵の息をつき、平服して答えた。神崎君の裏の顔が分からなかったのは不安だが、今後の方針はこれで確定した。挨拶をして戻ろうとすると、お姉さんに引き留められた。
「手渡す物がある」
 お姉さんはそう言うと懐から白い絹布に包まれた棒状の者を取り出した。絹布には丸に二枚の鷹の羽を交差させた家紋が透かし彫りがなされていた。妖気が漏れている。
「―――それは懐刀ですか?」
 やや腰を引いて私は尋ねた。漏れている妖気は微量だが、人を迷妄させる希有な妖気だ。私の反応に、お姉さんはくすりと微笑んだ。
「そう警戒するな。これはそなたの母の形見じゃ」
「―――お母さんの? 懐刀ですか?」
「ああ、いずれそなたの物になるものだ。概念だけでも先に渡しておこうと思ってな。これならばイザナミの呪詛でも切れる」
 私は恐る恐るその短剣を受け取った。ずんと重く感じたのは懐刀だからではない。孕んでいた妖気が予想以上に強かったのだ。こんな物騒な物は家にはなかった筈だ。
 そんな私の考えを読んだかのようにお姉さんが言う。
「ああ。その短剣はそなたの家に今はない。持ち主に祟ると言う代物なのでな、どこぞの貧乏絵師が今は預かっている。
 だが、今のそなたには使いこなせる。そして、今のそなたに必要な物だ。実物は近々、届けられよう」
 そう言う絵師には心当たりは一人しかいない。
「……天野さん」
 呆然と私は呟いた。
 ああ、あの人は今も私を守ってくれていたのかと思うと、心に温かなものを感じた。
「抜いて良いですか?」
 現物ではないにしても、これだけの妖物(ようぶつ)、開放すればお姉さんにも影響が出る。
 お姉さんは微笑んで私を見つめた。
「構わぬ。好きにしろ」
 私は頷くと絹布を解いた。それだけで青白い澄んだ空気のような妖気が放たれる。
 短剣は白鞘だった。絹布を口に挟んで、私は剣を抜き放った。乱れ波紋のその刃は凜とした孤高の妖気を放っていた。
(―――村正!)
 息を飲んだ。徳川家に祟りをなし、持つ者を鬼籍に貶めたと言う希代の妖剣。現代の科学ですら、その切れ味を測定出来なかったと言う代物だ。これが私の物になると言うのか?
「その短剣ならば―――」
 お姉さんは言う。
「我を滅する事も可能であろう。鈴香よ。そなたなら……」
 どういう心情なのだろう? お姉さんは憂いを含みながらも慈愛が籠もった笑顔を向けていた。
「いえ―――」
 私は刀を懐にしまうと、お姉さんに跪く。
「形はどうあれ、貴女は神崎君の守護者です。お仕えしてお守りすることがあっても、反することはいたしません」
 私の礼をどう取ったのか?
 お姉さんは愉快気に「くくく」と笑った。そして言った。
「鈴香よ。そなたは魂抜けをたしなむようじゃが、控えよ。それは癖になる。守りは置いてあるようじゃが、無防備には変わりない。我に会いたくば夢を渡れ。かような場所に人の身で来るものではない。そなたには我のようになって欲しくない」
 驚いた。お姉さんに情をかけられた。私は素直に頭をたれた。
「あい分かりました。今後は控えます」
「急いで戻れ。そなたの式が魔所より帰っておる」
「では、失礼いたします」
 私は空へ飛び、肉体に戻った。

 居眠りから目覚めるように、私は垂れていた頭を戻した。
「お帰りなさいまし。鈴香様」
 私の両脇にちんまりと正座していた鮮花と淡雪が可愛い声をはもらせて出迎えてくれる。私の背後には迅鬼が片膝を立てた姿勢で鎮座していた。
「ただいま。ご苦労様でした。鮮花。淡雪。もう戻って良いわ」
 微笑んでそう答えると、二人はにんまりと笑って空気に溶けるように消える。
 私はくるりと後ろを向き、迅鬼と対面する。
「早かったわね。迅鬼。首尾は?」
「生半に長居出来る所ではありませんでしたな」
 迅鬼は苦笑する。この男がこういう弱音じみた台詞を言うのは珍しい。迅鬼は懐から橙色の和紙で作られた人形を出して私の前へ置く。お姉さんに渡された懐刀とは違い、実物であった。
 独特の人形はやはりイザナミ流の物だ。人形の頭に象形文字のような文字が描かれ、その下に『伊達正彦』と記されていた。字は鉄錆のような色をしていた。
「……これ、墨じゃないわね。なにかしら?」
「私めが人であった頃、これと同じ物を見たことがござる。イザナミではなく真言立川流の呪詛でしたが……」
「なに? 焦らさずに教えなさい」
「経血でござる。経血を持ってして呪う相手の名を記せば、たちどころに死に至らしめると申します。まこと、女性の情念は業が深いものですな」
 ぞわりとした。只の怖気ではない。女として生理的嫌悪を交えた怖気だ。自分の生理の血を持って呪う相手の名を記す。そこにはどれほどの念が込められているのだろう。いずれにせよ、その行為、常軌を逸している。小泉さんはそこまで追いつめられていたのだろうか?
 その情念はもう救えない。救いようがない。
「―――あのくちなわですが……」
 珍しい。迅鬼が私に言葉をかけられる前に口を開いた。
「主がおらぬで、眠っていたようでござる」
「……完部玄白がいなかったと言うの?」
「いえ、あの希代の術師はおりもうした。だが、くちなわの主ではござらん」
 緊張から私は目を細め、迅鬼を見据える。
「小泉幸恵。この小娘がくちなわの主でござる」
(くちなわの主が小泉さん?!)
 迅鬼の言葉に心胆が冷える思いがした。それではもう、小泉さんは悪鬼羅刹の域を越えて怪物の域にある。神崎君は彼女を救うと言ったが、もはや相手は人でなくなっている。もう不可能だ。
 それでも神崎君は小泉さんを救おうとするだろう。彼の性格は概ね理解出来たつもりだ。なにしろ、一人で病院へ見舞いに行くつもりで、私には何も語ろうとしなかったくらいなのだから。
 ただ、彼は隠し事や嘘は苦手だ。すぐ顔に出る。
 私が看破して、病院へも一緒に行く約束を無理矢理取り付けておいて良かった。
 今の小泉さんは飢えて傷を負った野生の猛獣に近い。
 私は自らを弁えている。毒には毒をもって制するしかない。つまり私が村正で小泉さんを殺すのだ。
 そこまで考えて、ふと目前に跪く迅鬼に気づいた。律儀な男だ。
「迅鬼。ご苦労様。下がって良いわよ」
 が、迅鬼は下がらない。
「一つ、無礼を承知で申し上げたあい事が在り申す」
「聞きましょう」
 迅鬼はオッドアイで私を見つめた。
「申し上げます。くちなわは長く保つものではござらん。守りに徹していれば自滅するもの。ましてや主殿は呪詛の標的にすらなっておりません。何故に関わることがありましょう?」
 私は嘆息した。
「―――見て見ぬ振りをしろと言うのね? そんな事は分かっているわよ。ただ、思い人が頑な変人なので、巻き込まれることになるのよ。もう標的にされているしね」
 肩をすくめて苦笑する私に、「なんと?! すでに巻き込まれたとおっしゃるのか?」迅鬼は叫ぶ。
 頷くと迅鬼は怒りを抑える表情に変わった。
「主殿の思い人を悪くは言いとうありませんが……。その者、男としての覚悟がないように思えます。やるのならば、勝手に一人でやるべきかと……」
「迅鬼。割り込んだのは私なの。その人は全て一人でやるつもりだった。そこに私が無理に割り込んだの。彼のことは悪く言わないで」
「―――――」
 迅鬼は黙り込んだ。
「話は終わりよ。迅鬼。早々に戻りなさい」
 それに答えず、迅鬼は思い詰めた表情で言った。
「主殿―――。私は生前忍びでござった。秀でた忍びの条件は何かお分かりますか?」
 きょとんとした表情で小首を傾げる私に迅鬼は言った。
「それは、生き残ることでござる。敗走であろうと、役目を果たせなかったにしろ、生き残ることが忍びの信条でござった。主殿にも、その信条、貫いていただけますか?」
「分を弁えぬ発言ね。でも、有り難く受け取っておくわ。何があっても生き延びる。それは私の信条としておきましょう」
 微笑んで言う私に迅鬼は平服した。
「主殿の心遣い、身に浸みました。これほどの主を持てて迅鬼は果報者でございます」
「背中がこそばゆいわ。迅鬼。引きなさい。私ももう寝ます」
 迅鬼は一礼すると霧散した。
 部屋に一人になって、私は大きく嘆息して大の字に横たわった。
「本当。貴方、罪人よ。神崎君」
 そう独りごちると何故か微笑みが浮かんだ。

 神崎浩平は闇の帳が落ちようとする中、家路を急いでいた。
(ヤバイ。マジ遅くなった)
 心中冷や汗をかいている。早く帰って晩飯を作らないと妹の浩美の陰湿なイジメに遭うのは明白だった。
 公園に近づいた辺りで歩みを遅めた。
(警察沙汰にはなっていないようだな……)
 神崎浩平は安堵を覚える。過剰防衛の自覚はあった。警察沙汰も覚悟していた。彩宮鈴香の度肝を抜く冷酷さは、チンピラ達に余程の恐怖を与えたのだろう。
 再び、歩を早めた所で「えい!」といきなり後ろから羽交い締めにされた。背中に当たるボリュームのある双球の感触は覚えがあった。と言うか生々しい。
「遅いぞー! 少年。ご休憩でもしたのかなぁ?」
 耳元に息を吹き当てながら背後の女が言う。おそらくは公園の影に気配を消して隠れていたのだろうが、神崎浩平に気配を感じさせないのは、並の陰形ではない。
「―――っ。離せよ! 響子姉(きようこねえ)! 悪ふざけにも程がある」
「あーら? 遅いから心配して待っていたのに、つれないんだ~」
 手を離した響子姉(きようこねえ)はぷいと膨れる。
「有り難いけど、他にやりようがあるでしょう? それに心配されるほど子供じゃありません」
 その言葉に響子姉(きようこねえ)は、にぱっと笑う。
「そうだね。もう大人になったんだよね。立派な男になったんだよね!」
 揶揄を含んだ響子姉(きようこねえ)の言葉に浩平は顔を朱に染める。この辺りまだまだウブだ。
「―――もう! それで何か用だったんですか?」
 恥じらいを誤魔化すように浩平は声を上げた。
「うん。ちょっとね。辻褄が合わない気がして落ち着かなかったのよ」
 響子姉(きようこねえ)は真面目な口調で言った。
 長年の付き合いで分かる。響子姉(きようこねえ)は何か大事なことを伝えようとしている。
「なんです? 辻褄が合わないって?」
「それなんだけどね~」
 響子姉(きようこねえ)は腕を組んで難しい顔をする。似合わない仕草だった。
「私、美人だから良く妬まれて、生き霊が来たりする訳よ。で、その経験則から言うと話が合わないのよ」
 自分で自分を美人と言うか? と言う細かい突っ込みは置いておいて、浩平は話を進める。
「合わないって何が?」
「伊達君って前の彼女に余程酷い事した? ネットにヌード写真をばらまくとか?」
「それはないです。あいつはそういう事だけは絶対にしません」
「じゃ、なんで恨まれるの?」
「そりゃ、三枝に乗り換えたからでしょう? いきなり心変わりされたら、そりゃ恨みますよ」
 響子姉(きようこねえ)は眉間に皺を寄せた。
「男はどうかしらないけど、女はそれでは男を恨まないわ。取った相手を恨むわよ。三枝さんがまるっきり無事で、伊達君だけが命まで狙われるのは理屈に合わないのよ。私なんか何人の女に恨まれているか分からないわ。女の思いは一途なの。好きな男と復縁望んでも、殺そうなんて絶対にしないわ。殺すなら取った女よ!」
「―――あっ!」
 浩平は声を上げた。純粋に驚いた。
 そうだ。小泉さんの伊達への思慕は篤いものだった。伊達との復縁を望むならまだしも、殺す理由がない。ましてや自分や彩宮さんを標的にする理由はないのだ。三枝が一人茅の外なんて話は矛盾している。つまり―――操られていると考えるべきだったのだ。
「ありがとう! 響子姉(きようこねえ)!」
 浩平はそう叫ぶと家へ走った。響子姉(きようこねえ)が何か叫んでいたが聞こえない。
(早く、彩宮さんに伝えないと!)
 その思いが足を早める。
 完部玄白。
 怒りをもって、その名を脳裏に浮かべる。
 小泉さんを暗示にかけたな!
 ならば救える。
 完部玄白の呪詛から、一刻も早く小泉さんを切り離さなくてはいけない。
 浩平はぎりりと唇を噛んだ。
 鈴ちゃんの浩平への思いはとても重いものです。それでも受け容れられる浩平の懐の深さは凄いと思います。
 イザナミ流の呪詛は本気で怖いので注意。
+注意+
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