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桜ヶ丘高校の『哲学者』と『絶対零度の魔女』 作者:桐生 慎

第二章 絶対零度の魔女

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第1章 桜ヶ丘高校の哲学者

 異色ホラー学園物となります。呪詛と生き霊をベースにしたホラーで学園恋愛物にもなっています。ご一読の上、感想頂けると嬉しいです。
 第一章 桜ヶ丘高校の「哲学者」

 (一)
 寺社仏閣が子供の頃から好きだった。
 僕は「やんちゃ」な子供だった。近所の子供達のリーダーで近くの神社で鬼ごっこをしたり、三角ベースをしたりして遊んだものだ。
 その一方で、夕方、一人で海を見に行ったりもした。
 夕日が沈む海は鈍い銀色に輝き、波紋は縦横無尽に模様を変えて目に染み入ってくる。波の音が耳朶を打ち、思考は消えて、やがて自分が海そのものになるような感覚に覆われる。そうなると帰宅を忘れ、闇が帳を降ろす頃には母が呆れ顔で迎えに来るのが常だった。
 神社に一人で行くのも好きだった。近所の神社はこぢんまりしたものだったが、歴史は相当に古い物であったらしい。ご神木の大樹は樹齢七百年を数えると言われていた。だが、子供の僕には関係がない。一人でご神木の洞の中に入り何もせずに空を見ていることも多かった。
「変な子供」
 母はよく僕のことをそう言った。
 家が暇であると、仏壇の前にただ無言で小一時間過ごす子供だったからだろうか?
 そういう時の自分には「自己」という意識がない。海を眺める時も、ご神木の洞に籠もるときも、「自分」と言う感覚が消えてしまう。そして僕はその感覚が好きだったのだ。
 引き籠もり? そう思ったそこの君。それは失礼と言うものだよ。
 最初に言ったじゃないか? 僕は子供達のリーダーだったって……
 子供には時間が迂遠だ。
 ちゃんと同年代の子供達と遊ぶ自分と、「自己」が消える感覚を好む自分が内在していただけの話だ。
『あの日』の自分がこんな歪な自分を作ったのだと思う。
 そういう僕も高校三年生になった。
 もう、飽きるまで海を眺める時間も許されない。
 受験と言う峻険を繋ぐ一本橋を渡らないといけないのだ。
 表現が大袈裟だって?
 いや、それは受験の苦しみを知らない、あるいは忘れてしまった人の言うことだ。
 大学受験は自分の子供時代の終わりを告げるものに等しい。そして未来を自分で決めないといけないんだ。これが人生の一大事でなくてなんだと言うのだ?
 こちら側はまだ子供の自分。あちら側は大人の自分だ。そしてそれを繋ぐ橋は空中サーカスの綱渡りのように頼りない。落ちてしまうことを恐れない人はいない。
 幸い僕は勉強が出来る子供だった。別にガリ勉してたわけじゃないよ。勉強は単純に面白かったのだ。僕の知らない知識の海がそこには広がっていた。だから貪るように勉強をした。
 高校も中学の先生が都会にある受験高校を薦めてくれたが、僕は自転車で行ける近所の高校へ進んだ。部活は中学からしていた剣道を選んだ。ところがこの高校。桜ヶ丘高校と言うのだけれど、剣道は県内トップクラスの高校だったのだ。僕の高校生活は地獄の特訓に明け暮れたと言っても過言ではない。体育会系のノリは肌に合わなかったが、僕は好き嫌いをはっきりさせる性格ではなかった。すぐに馴染んだ。二年生には試合のレギュラーメンバーになっていた。剣道の世界も僕を堪能させるものだったからだ。のめり込む魅力が剣の道にはある。
 成績は落ちなかった。元々、学年トップクラスで入学したのだ。相変わらず知識欲も旺盛だったから成績は逆に伸びた。ただ、勉強に睡眠時間が削られるのが辛かった。そして、いつの間にか桜ヶ丘高校の文武両道の有名人になっていた。
 嫌みなことを言う。
 そう思う人もいるだろう。
 僕も語っていて、そう思う。でも、事実なのだから仕方がない。
 先生方の受けも良く、ただ自分の世界に埋没する奇癖は変わらなかったので、『桜ヶ丘高校の哲学者』と言うはなはだ遺憾なあだ名をつけられるに至った。
 独善的な生き方をしたつもりはない。同級生とくだらない与太話もしたし、後輩の面倒もきちんと見てきたつもりだった。だが、彼等から見ると僕はどこかで線引きをしているように見えたのだろう。
「オジン臭い」とも良く言われた。

 昼休みは雨でも降らなければ、屋上で弁当を食って昼寝と言うのが僕のライフスタイルだった。友人と一緒に飯を喰う時もあれば、一人の時もあった。
 夏休み前、灼熱した日差しが降り注ぎ、屋上のモルタルも溶けるのではないかと思われるある日。早飯を済ませた僕が昼寝をしている時に、それは起こった。
 僕・神崎浩平と彩宮鈴香との出会いだった。

 お気楽なことに、僕は天女の夢を見ていた。青く雲一つない空に七人の天女が五色の着物を着て浮かんでいた。それぞれ楽器を持って妙音を奏でていた。
(ああ、美しいな……)
 そう思い陶然と眺めていると、一人の天女が舞い降りて来た。天女は寝ている僕の頭の横に舞い降りて、屈んで僕の顔を見つめた。リスのような瞳をした美しい人だった。そして天女は僕の頬に口づけをした。天女の口はびっくりするほど冷たくて、僕は目を覚ました。
 目を覚ますと、天女とは似ても似つかぬ無骨な顔をした男が、冷えたコーラの缶を僕の頬に当てていて、目を覚ました僕を見て笑った。
「あはははは。ようやくお目覚めか? 哲学者? しっかし、お前、こんな暑いところでよく寝れるねぇ~」
 かんらかんらと笑うこの男は、中学生から腐れ縁が続いている伊達正彦と言う奴だった。あだ名は『桜ヶ丘高校の伊達男』。別に美男子ではないのだが、とにかく格好が派手なのだ。なにしろ髪の毛を紫に染めている。言動もとにかく目立つ男だ。剣道部の主将を務め、全国大会で三位まで行った奴だが、原色の派手な服装と髪の毛は注意されても治らない。桜ヶ丘高校は一応制服もあるのだが、私服も許されている割と自由な高校だ。僕は面倒臭いから、学校指定のブレザーで済ましているが、制服組は学園の3割程度である。
 伊達男の横ではやはり中学生からの友人である三枝明美が笑っている。
 彼女はブレザーにスカートの制服組だ。弓道部の主将で、ずば抜けた腕を持つ。中学の頃から全国大会入賞している常連で弓道界では名が通っている。きりりとした整った顔は男前で同性からラブレターを貰うのを苦にしているのは内緒だ。
 あだ名は『姉御』。下級生からは『お姉様』とも呼ばれている。
 本人はそのあだ名を酷く嫌っているので、誰も本人の前では言わないが、僕等の間で『姉御』と言えば彼女のことである。
 僕ら三人は良くつるんでいる。だから、こいつらが来るのは不思議ではなかったのだが、三枝の後にあまり見かけない美少女が隠れるように立っていたので、僕は少し緊張した。先程の夢に出てきた天女に似ていたので動揺してしまう。
「貴重な睡眠時間をうばうなよ」
 ぼやきながら、上半身を起こして、缶コーラを受け取りぐいと飲む。
 頭が少しすっきりした。
 伊達が僕に向かって手をさしのべる。
 目で「なに?」と尋ねると「百二十円」と答える。
「おごりじゃないのかよ~」抗議すると、伊達は「俺が男におごるタイプに見えるか?」と言う。
 確かに伊達は男におごるタイプではない。
 しぶしぶと財布から小銭を出して渡すと、やって来た三人は自然に円陣を組むように座った。
(はてな?)と思った。伊達と三枝は分かる。この少女は誰だろう?
 三枝に目線を流すと、こう答えた。
「あ、この子知らない? 去年のミス桜ヶ丘よ。『絶対零度の魔女』って聞いたことない?」
 噂は聞いたことがある。
 と言うか写真は見ていた。伊達の秘蔵品だ。
 写真に比べると遙かに愛らしく楚々としているので気づかなかった。
 写真集の彼女はするどい刃物を思わせる近付きがたい美人さんだった。
 彼女も制服派のようである。
 ミスコンでは制服姿で現れるなり、自己紹介もせずMELLのRed fractionとか言う歌を熱唱して、それまでのイメージを払拭すると共に、歌唱力の高さで場内を興奮させたと聞いている。
 ただ歌詞が英語のスラングでかなり強烈な内容のハードロックであったため、ますます近寄りがたくなったとの話だった。
 そのイベント直後に写真集を出した光画部は侮れない。
 ストーカー集団かと思われる。
「ああ。去年の文化祭で光画部が写真集一冊千円で売って騒ぎになった人か! その節はお気の毒だったね。ども、はじめまして。神崎浩平です」
 頭を下げると『絶対零度の魔女』は無言で頭を下げた。
 なんだか眼力(めぢから)のある人だ。
 くりくりした目で、科学者が分析するような感じで全身を見る。
 なんか解剖された気がした。
 彼女は無表情のまま「彩宮鈴香です」と名前通りの鈴が鳴るような声で答えた。
 でも、声に感情がないので、僕は対応に困った。
 ぽりぽりと耳の後ろを掻いてみる。
 姉御が言った。
「鈴香は占い師なのよ! もう百発百中で当てるの。文学部では占い目的に行列が出来るんだから」
 ああ、百発百中の占い師だとの噂は聞いた。
 行列が出来る占い師だと言う。
 生徒どころか教師まで占って貰っているらしい。
 おかげで彼女は本来の部活が出来ずにいると言う。
「ふぅん。占いはタロットかな?」
 彩宮鈴香嬢に尋ねると、「ルーン占い」と短く答えた。
 愛想がない。
 僕は警戒されているのだろうか?
 それにしても、ルーン占いとはまた奇抜だなと思った。
 ルーン文字の成立は神話の世界に遡る。
 北欧神話で大地の父・オージンが世界樹ユッグドラシルに自らを捧げ物として吊るし、九日間槍で刺されると言う苦行の下、得られたのがこのルーン文字とされている。
 アルファベットの原型であるこの文字は、現代では魔術や占いの世界で良く使われる。組み合わせで呪符にもなると言う代物だ。
「カード? 水晶?」
 そう尋ねると彩宮鈴香嬢はポケットから赤い皮の袋を取り出して僕に渡した。
 ずっしりとした重みがある。
「見ていいの?」
 尋ねるとこくんと頷く。
 袋を開けて見ると足の親指の爪ほどの大きさの楕円形で平板の水晶の石がたくさん出て来た。
 中央にルーン文字が刻まれていて金箔で色取られている見事なものだ。
 重く感じるのは使い込まれているからだろう。
「すごく良い物だね。手作りみたいだけど、作ったの?」
 我ながら疑問形ばかりの台詞が続く。
 彩宮さんは袋を受け取ると、じっと僕の目を見据えて言った。
「貰ったの。家の客人の絵描きさんから」
 なんか目眩がした。
 えらく時代錯誤な台詞を聞いた気がした。
 黙り込んだ僕のフォローに三枝が入る。
「ほら、H区の駅前の風致地区にさ、お屋敷みたいな和菓子屋さんがあるじゃない? 『彩宮』って言うの。創業二百年たらなんちゃら言うの。彼女そこの娘さんなのよ」
 驚いた旧城下町のお嬢様ではないか。
 なんかイメージが違う。
 いや、今、眼前にいる彩宮鈴香はイメージ通り旧家のお嬢様なのだが、あの写真集や『絶対零度の魔女』の通り名がイメージにそぐわない。
「鈴ちゃん、鈴ちゃん、こいつもな『れいのうしゃ』なんだぜ『れ・い・の・う・し・ゃ』。人が昨日何したかなんて分かるんだぜ。なんか守護霊て言うの? 奈良時代の巫女さんが憑いていて、なんでも教えてくれるんだとさ。すげえ、いやな奴だと思わない?」
 伊達が人の頭を掴んで揺すりながら言う。
『霊能者』と呼ばれるくらいなら、『哲学者』の方がまだマシだ。
 三枝も「そう。そう」と笑って頷いている。
 うん。なんか腹が立った。
 いきなり人の秘密を暴露するのは宜しくない。
「そうだな。伊達がこの春、一年に渡って性欲のはけ口にしていた二年一組の小泉さんを無碍に捨てたのは知ってる。それで小泉さんは引き籠もり、今、生き霊になって伊達に憑いてる。にも関わらず、お前は『本当に好きなのはお前だ!』などとのたまい、三枝と付き合い始めてる訳だ。だが、厳格な三枝は、双方の両親に挨拶すること、体を許すのは大学生になってからと決めつけて……」
「うわーー! よせ! やめろ! やめろって!」
「ちょっと、お願い。黙って!」
 伊達が僕の頭を振り回し、三枝が力まかせに僕の口を塞ごうとする。
 こいつらは僕を殺す気に相違ない。
 僕が喋るのを止めると、伊達と三枝の二人は大汗をかいて肩で息して脱力している。
 彩宮さんはと見ると表情一つ変えていない。
 静かに野菜ジュースのストローをくわえていた。
 なるほど、『絶対零度』の異名の所以が分かった気がした。
「……はぁ。はぁ。ホントに、もぉー。神崎ぃー。あんた誰から聞いたのよ?」
「後のお姉さんが教えてくれる。霊能者なんて言うから悪いんだよ。姉御」
「こいつは、こういう奴なんだ。明美。本当に悪魔のような奴だぜ」
「……ほぉ? 悪魔と言うか? 外道が? じゃあ、肉欲の塊である伊達が泣いてすがってBまでは許してと―――」
 ごん! と頭が鳴った。
 痛かった。
 三枝が両手を組んでハンマーのようにして僕の頭を殴ったのだ。
「……泣くぞ!」
 三枝は本当に目に涙をためていた。
 ちょっとやりすぎたらしい。
「すまん。三枝。やりすぎた。でも、小泉さんの生き霊が憑いてるのは本当だぞ。これは忠告だ。伊達の方からきちんと方をつけないと、君達の恋も実らない。それにしても、親友である僕に相談もしないとは二人とも水くさいじゃないか?」
「今日、これから話そうと思ってたのよ―――でも、神崎、アンタ本当に本物だったんだ?」
「なぁ、俺に幸恵の生き霊憑いてるって本当か?」
 三枝と伊達がなし崩しに、また詰め寄って来る。
 こいつらと居るのは苦痛ではないが、静けさは望めない。
 僕の平穏な昼休みを返して欲しい。
 そう思っていたら、ジュースを飲み終わった彩宮さんがぼそりと言った。
「本当に憑いてるよ。呪詛までしてるみたいだから、きちんと話して分かって貰わないといけないわ」
 伊達と三枝が凍り付く。
 そうか。
 小泉さん呪詛までしてるんだ。
 追いつめられてるなぁ~。心なし同情する。
 でも、『絶対零度の魔女』にこんな台詞言われたら、さぞかし怖いことだろうな。
 三枝には同情するが、伊達は一度とことん痛い目に会っておかないといけない気がした。
 彩宮さんが、ちらりと空を見上げた。
 屋上の上の時計塔を見ている。
 もうすぐ昼休みが終わる。
「まぁ、小泉さんの件は後日ゆっくり相談するとしてだ。―――結局、何の用だったの? 僕に? 昼休み終わるよ?」
 そう言うと、伊達と三枝は目を見交わして、驚きの表情をする。
 そしてアイコンタクトの後、伊達が言った。
「要約するとだ、来週から夏休みな訳だ。俺たちは部活からも解放される。そこでだ、隣町に出来た巨大プールに行こうと言う話になったのだ!」
 どどーんと波しぶきを上げる海を背景にする勢いで伊達は言った。
「二人で行けば良いじゃん」
 僕は冷めた声で答えた。
「明美が鈴ちゃんと一緒じゃないとイヤだと言うんだ。で、バランスが取れないじゃないか? そこでお前さんの登場と言う訳なのだ!」
 伊達は人の肩をばんばん叩きながら言う。
 僕は吐息をついた。
「あのな? 僕たち、受験生だぞ? 遊んで良いと思うか? そりゃ、伊達と三枝は体育大学に推薦決まってるから良いよ。でも、僕はこれからエンジンかけないといけないんだ」
 三枝が「ふふん」と鼻で笑った。
「鈴が神崎君となら行っても良いと言ったのよ? どう? 貴方に、これが断れて?」
 その言葉に驚いて、僕は彩宮さんを見る。
 彩宮さんは人形のような表情で、本当だとこくんと頷いた。
 僕は正直たじろいでしまった。
 頭の中を彩宮さんの水着姿が横切る。いかん。これでは伊達と同じだ。ぶんぶんと頭を振って妄念を払い落とす。すると彩宮さんが言った。
「神崎君は私とじゃイヤ?」
「いや。全然OK。カムカムエヴリュバディーだから!」
 訳の分からぬ事を口走る。
「じゃ、話は決まりね! 来週の日曜日朝九時に駅前のミスドに集合だからね!」
 三枝が話を纏めて立ち上がった。伊達も合わせて立ち上がる。
「「おーしっ! 」」三枝と伊達が気合いを入れて手を合わせた。
 本当に気が合っている。こういう所は羨ましい。
「神崎君」
 立ち上がりながら彩宮さんが呼びかけてきた。狼狽え気味に「なに?」と返した。
「神崎君。去年の秋くらいから春まで、部活が終わると、丘の大桜の樹のそばで半時間くらい休んでいたでしょ?」
 確かにそんなこともあった。桜ヶ丘高校の名前の由来となっている大きな桜の木だ。
 でも、彩宮さんが何を聞きたいのか分からない。無言で頷くと、「私ね。ずっと見てたの。神崎君、優しいね」
 彩宮さんはにっこりと笑った。
 その表情がずきんと胸を打った。
 彩宮さんはとっとっとっと昇降口に消えて行った。
 僕はこうして恋に落ちた。

 さてと困った。
 実は初恋だったのだ。
 小学生の時、担任の若い女性教諭に淡い憧れを抱いたことはあったが、それは恋ではなかった。僕は女友達も多いが、それは異性を意識していなかったからだ。僕はこれまで論理的に生きて来たつもりだった。女の子に告白されたことはあるが、そのときも論理的に今は異性に興味がないことを丁寧に説明してきた。それが酷く残酷な行為であったことに今気づいた。
 恋は熱病のようだ。熱に浮かされて彩宮さんの顔が授業中でも頭に浮かぶ。授業に集中出来ないなんて、これまで一度もなかったのに!
 昼休みの自分の言動が酷く滑稽で彩宮さんに呆れられたのではないかと不安になる。自分が自分でない気がする。小泉さんの苦しみが手に取るように分かる。
 なんて失態!
 どこが『哲学者』だ?
 僕は感情と言うものが希薄だっただけじゃないか。受験と言う現実の問題が吹き飛んで、感情が喜と哀の間をめまぐるしく行き来する。口から「助けて」と声が漏れそうになる。この日、僕は中学以来続いていた皆勤賞に終止符を打ち、学校を早退した。

 ―――本当に熱病に罹ったかもしれない。
 帰路、自転車をこいでいてそう思った。あまりに暑い。道が歪んで見える。自転車がふらつく。まともな思考が出来なくなる。ただ彩宮さんが見せた笑顔だけが頭に浮かんで来るのだ。
 思考が出来ないなんて小学生の三年だった『あの日』以来だ。思えば、『あの日』から僕の感情は死んでいたのかもしれない。あまりにも多くの死。地獄もかくやと言う業火。「助けて」という声がこだまする。
 吐き気を覚えて僕は家の近くの公園で自転車を止めた。家まであと少しだと言うのに、その距離が迂遠に思えた。
 水気を求めて公園の奥の噴水へはいずるようにたどり着き、周囲の視線を気にせず頭を噴水に突っ込んだ。
 水の中は無音だった。冷たさが心地よい。ほどよく頭が冴え、呼吸が続かなくなって、ぶはっと僕は顔を上げた。
 幼子を連れた主婦達が子供をたぐり寄せ、遠巻きに僕を見つめている。
 そんな中で一人僕の側に立ってる人がいた。
「やーーっ」
 その人は手を挙げてひまわりの様な笑顔で僕を出迎えた。お姉さんだった。
 正確にはお隣のお姉さんで、杉浦響子さんと言う。
 東京の一流大学に受かって外務省に勤めたのに、すぐ辞めて実家に戻った人だ。お母さんが亡くなられて、お父さん一人になったから帰って来たと言っているけど、多分、嘘だと思う。僕にとっては本当のお姉さん以上の人だから分かるんだ。今は家事手伝いと称してプー太郎を決め込んでいる。びっくりする程の美人でモデル顔負けのプロポーションをしている。Gパンに白のTシャツと言う洒落っ気のない格好だが、ノーブラなのは如何かと思う。健全な高校生の男子には目の毒と言うものだ。
「おはよう。(こう)ちゃんがサボり?  な、わけないか。調子悪いの?」
 そう言って、いきなり屈むとおでこをくっつけに来た。思わず尻込む。長い黒髪が顔に当たって、シャンプーの匂いがした。
「おはようって、もう昼過ぎだよ」
「私はさっき起きたんだから、おはようで良いんだよ。声かけたのに気付かないで、いきなり噴水の中に頭を突っ込むからびっくりしたわ~
 (こう)ちゃん、熱あるね。木陰のベンチで休もう♪」
 輝く笑顔でそう言って僕の手を取った。僕はなんだか救いを得た気がして、それに従った。僕をベンチに座らせると響子姉(きょうこねえ)は自動販売機でポカリスェットを買って来てくれた。
「暑気中りかもしれないからね。水分取らないとね」
 僕はボトルを受け取るとグイと飲んだ。グイグイと続けて飲んだ。本当に体から水気が無くなっていたようだ。ボトルの中身は半分になった。助かった。少しまともになってきた。
 響子姉(きょうこねえ)はベンチに上半身を預けて、天を仰ぎながらジンジャエールを飲んでいる。
 何も聞いて来ないのは助かった。この自由奔放な人が横にいるだけで気持ちが楽になってくる。思えば『あの日』も響子姉(きょうこねえ)が一晩中抱きしめていてくれたのだ。それで僕らは、姉弟になった。響子姉(きょうこねえ)は、僕にとってライナスの毛布のような存在なのかもしれない。
「さっきさ」響子姉(きょうこねえ)は空を見上げて言う。「久しぶりに裸の浩ちゃんを見た気がしたよ」。
 僕はその言葉にむせかえりそうになる。
(こう)ちゃんは『あの日』から自分を鋼の鎧で包んで、自分を見せなかったじゃない。今は苦しみを外に出せたんだ。それは良いことだよ」
 そう言って、僕の顔に視線を送り、優しげな笑顔を向けてくる。ああ、やっぱりライナスの毛布だ。響子さん、いや、お姉ちゃんなら相談に乗ってくれる気がした。
響子姉(きょうこねぇ)って、一目惚れしたことある?」
 我ながら直球だとは思ったが、他に言葉が浮かばなかった。
「―――!」
 響子姉(きょうこねぇ)は驚愕の目で僕を見るとジンジャエールを飲んだ姿勢のまま固まった。口の中のジンジャエールを無理矢理飲み込んで、響子姉(きょうこねぇ)は僕に向き直った。
「話してみ」
 僕は昼休みの出来事をつぶさに語った。
「あはははは!」
 僕の悩みは(キヨウ)()(ネエ)に一笑にふされた。
「一目惚れで初恋なのかぁ?そりゃ大変だね。まぁ、安心した。浩ちゃんも、ちゃんと男の子してるんだ」
「僕には笑い事じゃないだけど……こんなの初めてで、自分をもてあましてる」
「でしょうね。でも、もうWデートの約束してるじゃない。女の子は好きでもない男に水着姿なんか見せないよ。彩宮さんだっけ? その子、浩ちゃんのこと好きだと思うよ。それにしても、その彩宮って娘凄いね。笑顔一つで浩ちゃんの鎧をはぎ取ったんだ。うん。私は見てみたいな。その娘。『絶対零度の魔女』なんて言われるんだから、きっと凄い娘だよ」
 ―――あっ! うっかりしてた!
 そうだ。あの彩宮さんの水着姿を見るんだ! 心臓がバクバク言い出した。
「良いなぁ。そんな初恋。私なんかときめきを無くしてるよ」
「響子姉は選り取り見取りしてるんじゃない?」
「まあね。肉欲の方は問題なく片付けているんだけど、心がときめく相手はいないなぁー私はそのうち男に刺されるかもね」
「あはは」と笑いながら穏やかで無いことを言う。この人は何か危ういものを感じさせる。
 そして下から僕の顔をのぞき込んで「私が慰めてあげようか?」などと悪戯っぽく言ったりするのだ。顔を真っ赤にして答えられない僕の肩をとんとんと叩いて、
「今はそれどころじゃないよね。浩ちゃん、夜の7時まで家の人帰ってこないんでしょ? それまで私の部屋で休んでいなさいな」
 そう言って響子姉(きようこねえ)は僕の手を握って椅子から僕を立ち上がらせてくれた。

 響子姉(きようこねえ)の部屋に入るのは久しぶりだった。最後に上がらして貰ったのは5年前だ。響子姉(きようこねえ)が上京する時だった。部屋は壁が板張りで天窓がある。部屋は片づいている。と言うか年頃の女性の部屋にしては、質素に過ぎる気がした。
 まぁ響子姉(きようこねえ)なら下着が散らかったままと言う可能性もあったのでその辺は安心した
 セミダブル位の大きさのベッドがどうにも目立つ。ここで響子姉(きようこねえ)が寝ているのかと思うと、なんか生々しかった。
 ベッドの横には勉強机。小学校に入学した時、買って貰ったのを今でも愛用している。机の上にノートパソコンとルータが置いてあるのが目新しかった。勉強机には色あせたセーラームーンのシールが貼ったままなのが、彼女らしい無頓着さだった。
 部屋の中央には何故か、小さなこたつが鎮座している。僕の記憶では、このこたつは片づけられたことがない。
 昔はアイドル歌手のポスターなんかが壁に貼っていたのだが、今は世界の絶景をテーマにしたカレンダーがあるばかりだ。
 唯一、女の子らしいものと言えば電灯の紐に吊された『熊のプーさん』くらいだろう。首つりしてるみたいでシュールではあったが……
 ただ部屋全体に良い香りが満ちている。芳香剤の匂いじゃない。おそらく始終アロマキャンドルを焚いているのだろうと思われた。
「はーい。アサッムの良いのがあったから、煎れて来たよ。プチ・ジュールのチーズケーキもあるよん」
 響子姉(きようこねえ)は明るい声で茶托を持って部屋に戻ってきた。僕はこたつの前に正座したままだ。
「呆れたぁ? なに正座なんかしてるの? 浩ちゃん自分の部屋だと思って良いのよ」
 良いのよと言われても、緊張するものは仕方がない。今の今まで気付かなかったけど、響子姉(きようこねえ)は異性としてすごく色っぽいのだ。フェロモン出まくりと言う感じだ。東京から帰って来て女に磨きがかかった感じがする。俯いて黙っていると、「まだ辛い?」と尋ねられた。
「いや、大分マシ。響子姉(きようこねえ)のおかげだ」
 にまっと響子姉(きようこねえ)が笑う。
「足、崩しな」
 紅茶を入れながら響子姉(きようこねえ)は言った。いわれるままに足を崩した。とたんにどっと疲れが出た。大きな吐息を僕はついた。
 響子姉(きようこねえ)は無言だ。ただ微笑んで僕を見つめている。僕はなんだか間が保たなくて、ぽりぽりと耳の後を掻いた。その仕草を見て響子姉(きようこねえ)は玩具をみつけた猫のように目を輝かせた。
 温めたミルクを入れたポットを片手にじわじわとにじり寄って来る。
「ご主人様ぁ。ミルクはいかがですかぁ~?」
 耳元で囁くのは止めて欲しかった。響子姉(きようこねえ)はくすくすと笑いさらににじり寄る。
「もう、ミルクは自分で入れますから。あまり近寄らないで……」
 ミルクを紅茶に混ぜ、チーズケーキを頂く。
「あ、美味しい!」
 思わず声に出た。
「そうでしょう? なんか予感がしたから昨日買っておいて良かったわ」
 響子姉(きようこねえ)は僕のすぐ側で胸を張った。あの、ノーブラ、Tシャツだと透けて見えるんですけど……
「なぁ、響子姉(きようこねえ)、胸……」
 まっ赤になって呟く。
「なに? 見たいの?」
 響子姉(きようこねえ)は笑っている。これはあからさまに苛めているのだと気付いた。
「ブラくらいしろよ。垂れるぞ」
 僕は精一杯の虚勢を張って言った。
「自分の部屋でブラする子はいないよー。締め付けるからしんどいんだぞ。それに私の胸は特別。もっこり固いFカップのロケットおっぱいなのだ」
 確かに見事な隆起だけど、年頃の男の子の前で言うな。
 で、なんとなく二人身を寄せ合って紅茶を啜り、ケーキを頂くことになった。さっき、起き抜けだと言っていた。多分、朝風呂をしゃれ込んだのだろう。響子姉(きようこねえ)からはシャンプーと石鹸の匂いがする。なんだか、くらくらする。今日は理性が揺るぎっぱなしだ。
 ケーキを食べ終わると、響子姉(きようこねえ)はこたつの中央に置かれた籠の中から処方薬を取りだして飲んだ。
「あれ……? 姉さん、どっか悪いの?」
「うーん。これ? 抗鬱剤だよ」
 鬱?! 響子姉(きようこねえ)のイメージにはほど遠い台詞を聞いた気がした。
「嘘だろ?」
「ん。鬱」
 怠げに響子姉(きようこねえ)は言う。
「やっぱ、『あの日』の影響は大きいわ。東京行って痛感しちゃった。私達には『あの日』は強烈だったけど……東京の人達何もないって顔してるの。東海地震がどうのこうのと言って騒いでる癖に、こっちの地震はもう記憶にもないのよ。
 違う所へ来ちゃったとつくづく思ったわ。―――なに? 浩ちゃん、酷い顔だよ」
 そりゃ酷い顔にもなる。響子姉(きようこねえ)を勝手にライナスの毛布にしていた自分が情けない。傷ついたのは僕だけじゃない。この町の人たちはみんな生き残りなんだ。それなのに超然とした振りをしていた自分が憎くなる。
「東京で……東京でなんかあったのかよ!」
 絞り出すようにして訊いた。体に力が籠もってしまう。響子姉(きようこねえ)は鳩が豆鉄砲喰らったような顔をした。そして視線をそらして「ふっ」と笑った。およそ響子姉(きようこねえ)らしからぬ笑い方だった。
「どこだろうと生きてりゃ、何かあるわよ。やめてよ。浩ちゃん、そんな顔されたら、私困ってしまう」
「僕は。僕は響子姉(きようこねえ)に救われた。姉さん、なにか出来ることあるなら言ってよ」
「……ずるい。ずるいよ。浩ちゃん。その台詞で、姉さんなんて呼ばれたら、私、何も出来なくなるじゃない……」
 響子姉(きようこねえ)は拗ねた口調でぷいと横を向いてしまった。正直分からない。僕のどこがずるいと言うのだろう? 考えあぐねていると、いきなり横から響子姉(きようこねえ)が抱きついて来た。勢い押し倒された姿勢になる。そして、響子姉(きようこねえ)は身をよじりながら濃厚なキスをして来た。それを拒めず受け入れてしまう自分がいる。響子姉(きようこねえ)の豊満な胸の感触が、いやおうなく雄の生理現象を招いてしまう。
「流されてはいけない!」理性が警戒警報を鳴らしている。なのに体は響子姉(きようこねえ)を抱きしめ逆にキスを求めていた。
 永い接吻が続いた。唇だけでこんなに感じるのか? 僕の身体は性欲に踏みにじられている。だけど理性は不思議とあった。抱き合っている僕と響子姉(きようこねえ)を中空から眺めている『僕』がいた。
「正解よ。浩ちゃん。ここで拒まれたら私達の関係は終わっていたわ」
 唇を離した響子姉(きようこねえ)が荒い息で言った。いや。姉ではない。目の前にいるのは傷ついて助けを求めている一人の女性だ。愚直なまでに生きようと、何かにすがろうとしている危うい女性だ。
「浩ちゃん。私、今だけお姉さんやめる。そうしたら生きていけるから……」
 響子姉(きようこねえ)が何を言いたいか分かっていた。なによりも僕の肉体がすでに応じている。その一方で論理的な僕が『やめろ!』と叫んでいる。
 でも中空に浮かぶ冷めた『僕』がOKを出していた。
 この日、僕は少年から男になった。
 僕は童貞を失った。
 なんともお手軽でスピーディーだった……

(二)
 夕食を終えて、僕は自室の布団に大の字に寝転がった。
 まったくとんでもない一日だった。
 ギャルゲーならフラグ立ちまくり。最終攻略編突入で喜ばしいことなのだが、現実世界では許されない展開である。伊達のことを悪く言えない。
 取りあえず何を悩んで良いのか分からなくなった。学校からの連絡で、仕事先の病院から直行便で帰って来た母親が「あんた今日は何もしないで寝てなさい」とありがたいお言葉を伝えてくれたので、そそくさと夕飯を食べて、仏壇を拝んでから、自室に戻った。妹の浩美が不満げに「今日はお兄ちゃんが夕食当番なのに……」とぶつぶつ言っていたが、あれは単に拗ねているのだ。浩美も中学三年生だ。受験で気が立っている。母が夕食をした時には後片付けをさせられるのを嫌がっているのだ。後、食事に限らず家事全般に僕の方が腕が良いのも一因だろう。浩美は僕の作るご飯を楽しみにして生きている節がある。

 とんとんとんと階段を上って来る足音がした。あの足音は浩美だ。そしてふすまの前に立つ気配。
「入ってもいいよー」と声をかけると、すーと音を立てないようにふすまが開いた。そして、また音を立てないように閉める。なに忍者みたいな真似してるんだろ?
 僕は大の字に寝たまま、顔をふすまに向けた。ゴスロリ系と言うのだろうか? 黒のぴらぴらしたシャツに判別不能な英文字と十字架がプリントされたのを着て、下は黒のチェックのミニスカート姿だ。上品な顔をしてるのに、こう言う格好はもったいないと思う。
 浩美は追いつめられた子猫みたいに『むー』とした顔をしていた。
「どうした? 悪いけど今日は勉強見てやれないよ。本当に疲れているんだ」
「お兄ちゃん。今日どこにいたの? 杉浦さん()?」
 びっくりした。響子姉(きようこねえ)の家から出るのを見られたのかと思った。落ち着け自分。ここは落ち着いて誤魔化すのだ。準備はOKか? 優しいお兄ちゃん? よし! ラリホーだ。
「だから公園で休んで寝てしまったと言ったじゃないか? なんで、そんなこと言うんだい?」
 ここで、優しく微笑みかける。良し。完璧だ。
「公園でお風呂入ったの?」
 浩美はさらに険悪な表情で言った。どきんとした。もしかしてこいつもお姉さんとか憑けているのか? だが、ここで狼狽えてはいけないぞ。余裕をかませ自分。
「そんな訳ないじゃないか。気の所為だよ。悪いけど寝かせてくれないか?」
 ちょっと辛そうに笑顔を浮かべる。これで同情を引きつけるのだ。
 浩美は口惜しそうな表情で視線をそらす。ここで軽く嫌みを言って退場して頂こう。
「浩美、その服似合ってないよ。もっと可愛く清楚な服の方が似合うって」
「――――――っ」
 浩美は俯いて黙り込んでしまった。だが、いつものように出て行ってはくれない。
 どうしたら出ていてくれるのだろうと考えあぐねていると、浩美が俯いたまま、ぼそりと呟いた。
「……匂いがした」
-「えっ?」
「響子さんが使っている石けんの匂いがした!」
 心臓をぐさりと抉られた気がした。
「ウソツキ!」
 そう小さく叫んで浩美は出ていた。浩美はピンの抜けた手榴弾を僕のハートに残して出て行った。
 ―――――――――。
 どうしましょう? 神様。僕は悪いことしましたか?
 ……したな。いっぱい。今日一日だけで―――
 どんと落ち込む。頭の中で彩宮さんと響子姉(きようこねえ)がルンバを踊っている。

 とにかく、まず浩美のことは置いておこう。彩宮さんも何かがあった訳でもないから、取りあえず普通に対応しておこう。何故か浮気をしたような罪悪感を彩宮さんに感じるが、そもそも彼女ではないんだし……
 そうなると響子姉(きようこねえ)がやっぱり一番問題だよな。勢いでしちゃったから避妊もしなかったし……
「いいよ。気にしなくて。出来てたら私一人で産んで育てるから。授かり物だもの。認知
してなんて言わないから気にしないでね。一度きりの過ちだから」
 事が終わってから謝ったら、響子姉(きようこねえ)は笑ってそう言ったけど、男として責任持たないといけないと思う。響子姉(きようこねえ)はあれで頑固だから、責任を持つとか面と向かって言うと怒るだろうけれど。
 冷静になってみると。響子姉(きようこねえ)は僕なんかと比べものにならないほど追い込まれていたんだ。
 寝物語に、響子姉(きようこねえ)は囁くように語った。
「浩ちゃんさ『あの日』の二日前から、泣き叫んで狂乱状態になったじゃない? 『怖い! 怖い!』 『死んじゃう! みんな死んじゃう!』『パパが死んじゃう!』って叫び続けて、わんわん泣いて、その結果、市民病院の小児科へ引き取られたでしょ。
 私も付き添ったけど、本当に狂っちゃったのかと思ったわ。あの病室には同じような子供が5人いたわね。そしたら二日後の明け方、あの大地震でしょ? 幸い私達の地域は倒壊も少なくて、怪我人は出たけど死者はでなかった。でも、地域の人はみんな毛布を被って外へ出た。
 そしたらN商店街の空が炎と煙で赤黒く染まっていた。当時、私には付き合っている人がいたのよ。N商店街の人だった。私は両親の制止も聞かず、彼の家へ走ったわ。浩ちゃんが言っていた『死んじゃう! みんな死んじゃう!』と言う言葉の意味が分かったの。頭の中で浩ちゃんの声がこだましていた。N商店街は酷い有様だった。殆どの家が倒壊して空襲にあったようだった。火の気と煙にまかれながら私は進んだ。火の粉が風に舞って私の髪が焦げた。物の燃える臭いが固まりみたいに口に入ってきた。
 彼の家の前に行って、私は一瞬息をするのを忘れたわ。3階建てだった彼の家は巨人に踏みつぶされたようにぺちゃんこになっていた。それから私は半狂乱になって叫んだの。
『秀ちゃん! 秀ちゃん! どこにいるの! 私よ! 響子よ!』って、そしたら家のガレキの中央あたりから『響子……』と言う彼の声が聞こえた。私は嬉しかった。まだ生きてるって。それで『秀ちゃん。どこ? 出れないの?』と叫んだ。『動けない。背中になにか重い物が乗っている』『待ってて! 今、助けるから!』私は必死で屋根瓦の破片をどけていった。周りに、
『誰か助けて! 人がいるんです! まだ生きているんです!』
 そう叫びながら、手を血まみれにしてガレキをどけていった。
 でも、周囲のどの家もそうなの。みんな家の下敷きになっていたの。何人か大人の男の人が来て、屋根板をはがしてくれた。彼は梁の下敷きになっていた。大人の男の人たちが折れて落ちていた柱をてこにして梁を持ち上げようとしてくれた。でも、その時には火がもう目の前に来ていたの。立ってるだけで雨のように火の粉が降って来るようになった。
『あかん! お嬢ちゃん、逃げるんや!』
 周りの人はそう叫んだわ。でも、私は逃げようとしなかった。『秀ちゃん! 秀ちゃん!』そう叫び続けた。そしたらね。秀ちゃんは『逃げろ! 響子! 逃げてくれ!』そう叫んだの。そんなこと出来る訳ないじゃない? 生きてるのよ? 助け出さないと生きたまま焼かれるのよ? 私が逃げないのを知って彼は言ったわ。『逃げろ! 俺の分まで生きてくれ!』私は無理矢理大人の人にその場から引き離された。
 彼は叫んでいた『愛してる! 愛してる!』って。
『痛い』とか『熱い!』とか言わないの。ただ『愛してる!』とだけ叫んだの。その後のことはよく覚えていない。気づいたら病院で浩ちゃんに抱きしめられていたわ。浩ちゃんは覚えていないかもしれないけど、『響子姉(きようこねえ)。生きていてくれてありがとう』貴方は、そう言ったのよ。私は泣いた。浩ちゃんを抱きしめて声を上げて泣いた。あの部屋にいた五人は誰も泣いていなかった。知っていたのね。何が起きるのか。そして周囲の人より早く、精一杯に泣いたから、事が起きてから泣くことも出来なくなっていたんだわ。浩ちゃんはずっと私を抱きしめてくれていた。『あの日』助けられたのは私の方よ。浩ちゃんが抱いてくれたから、私は秀ちゃんの死を受け入れることが出来たのよ」
 響子姉(きようこねえ)と僕の記憶は逆さまになっていた。僕は響子姉(きようこねえ)が抱きしめてくれたから助けられたと思っていた。響子姉(きようこねえ)はさらに続けて僕に囁いた。
「上京してから、私、また彼氏が出来たの。思えば秀ちゃんに似ていたから好きになったのかもしれない。私は処女を捧げたわ。でもね、体を重ねる度に、彼はどんどん機嫌が悪くなっていった。
『違う』彼はそう言うの。
『お前は俺に抱かれているとき、他の男を思ってる』って……
 仕方ないじゃない。忘れられるはずがない。そう怒鳴られても私は黙るしかなかった。所詮『あの日』の出来事は私達しか分からないもの。その日も彼は怒って私の部屋を出て行った。そしてバイクの事故で死んだの。そのとき私は泣けなかった。ただ呆けていたわ。そして追いかけるように母さんの『死』が伝えられた。覚えてる? お葬式の時、父さんは泣いたけど、私泣かなかったでしょ? もう心の穴が広がる一方で何も出来なくなっていたの。今日、浩ちゃんが私を泣かせてくれた。私は浩ちゃんの救いの主じゃない。浩ちゃんこそが私の救いの主だったのよ」
 響子姉(きようこねえ)は言い終えるとついと涙をまたこぼして、僕の胸にしがみついた。ただ抱きしめるしか僕は出来なかった。
 ―――――――――。
 やっぱり響子姉(きようこねえ)は放っておけないと思う。あんな事があっても、僕の心の中で響子姉(きようこねえ)の立ち位置は変わらない。でも、重みは随分と増した気がする。体を重ねる事はもうないと思う。でも、せめて響子姉(きようこねえ)が幸せに結婚するまでは側にいなければいけないと思った。
 彩宮さんに感じたときめきは忘れようと思う。
 そう決めた時、響子姉(きようこねえ)が別れ際に言った台詞を思い出した。
「浩ちゃん。良く分かったでしょ? 人間は動物なんだよ。最後の最後ではいぎたない野生の獣だよ。だから論理的に生きようなんてやめなさい。獣としての自分を受け入れてから、正しいと思う道を歩んでね」
 初めてのくせに避妊もせず、抜かずの五発を決めたケダモノの自分を思い返す。かぁと体が熱を持った。『若さ故の過ちは認めたくないものだ』と言った人がいたけど、確かに認めたくない。でも、響子姉(きようこねえ)は認めて前を向いて歩けと言うのだ。
 前なんて分からない。どうしても今日を振り返る自分がいる。
「ほぉー」と深い深い吐息が漏れて、どっと眠気が襲って来た。僕は問題を整理出来ぬまま泥のような眠りに落ちた。

 夏の朝は早い。朝焼けの光で僕は目覚めた。随分、すっきりした目覚めだった。
「よし!」自分に気合いをいれて起きあがる。母も浩美も眠りの中にいるようだ。ここは前向きに朝飯の支度でもしますか。僕にとっての前向きな姿勢なんて所詮、この程度なんだ。
 ネギを刻み大根を切ってみそ汁に入れる。和食党の浩美に合わせた朝食だ。浩美の好物の温泉卵も作っておく。メインディッシュは塩鮭の焼き物。三人分だからすぐに出来上がる。青物はほうれん草のおひたし。残り物を集めて仏壇に供える。チンと叩いて両手を合わせて拝む。
「父さん。僕は男になったよ」
 そんな事を呟いてみる。後ろのお姉さん(・・・・・・・)はご立腹らしく姿をみせない。まぁ、僕は後ろのお姉さん(・・・・・・・)の奴隷じゃないし、昨日の響子姉(きようこねえ)との事だって間違っているとは思わない。
 目覚まし時計がけたたましく鳴り出した。母と浩美が起き出して来る頃だ。
 食卓に料理を並べてしばし待つ。
 低血圧の浩美が六時過ぎに寝間着のまま起きて来た。寝癖が酷くて爆発頭をしている。
「……うー。おはよう。お兄ちゃん」
「おはよう。今日は温泉卵を作ったぞ」
「えっ? 本当! やったー」
 浩美は予想通り喜んでくれた。
「髪、整えておいで」と言うと「うーす」と素直に洗面所に行く。あれは昨夜のことを忘れてるか、まだ寝ぼけて思い出せないかのいずれかだ。その後に続いて母も起きてきた。
 浩美と同じく爆発頭だ。父のストレートのきめ細かい黒髪を引き継いだのは僕だけだ。
「おはよう。浩平。ご飯作ってくれたの?」
「昨日、心配かけたからね。今日は気分が良いんだ」
 母は訝しげに僕を見ている。
「なに? 洗面所なら今、浩美が使ってるよ。今日は早番じゃないんだろ? ゆっくり食
べなよ」
「浩平。おまえ昨日何があったの?」
 母は椅子に座ってじっと見つめてくる。
「なにもないよ。ちょっと疲れが出ただけだよ」
 勘の鈍い母を騙すのは簡単だ。
「そうかい? 一日で人変わりしたよ。おまえ」
「男子一日合わざれば刮目して見よってね。成長期だから変わりもするさ」
 みそ汁をお椀に注ぎながら何食わぬ顔の演技をする。実は心臓バクバクものだったのだが自分の何が変わったのか分からない。実際、童貞失っても変わるものはなかった。その行為そのものも想像通りだった。大きな変化があったとしたら、それは響子姉(きようこねえ)の重みだけだった。

 いつもより早めに家を出て登校する。昨日、早退で部活を休んだので、朝練はしっかりやろうと思っていた。三年生になると朝練は義務ではないが、今日は心身共に鍛え直そうと思った。
 家から大通りに出ると突き当たりに公園がある。昨日、響子姉(きようこねえ)と出会った場所だ。その公園の入り口の柵に腰掛けて足をぶらぶらさせている女性がいる。響子姉(きようこねえ)だった。目が合った瞬間、金縛りになるかと思った。
 響子姉(きようこねえ)は「やー」と手を振っている。なんとなく手を挙げて応じて、響子姉(きようこねえ)の側に行く。
「おはよう。絶倫少年」
 響子姉(きようこねえ)は夏の朝にふさわしい爽やかな声で、夏の朝にふさわしくない生々しいことを言った。
 その一言で頭に血が上る。僕は赤面して俯いてしまった。
「凄いね。浩ちゃんは。私、腰抜けるかと思ったよ。今も腰が痛い」
 うーんと伸びをしてから響子姉(きようこねえ)は腰を叩く。その肢体を見ていると、否応なく昨日のことが頭を駆けめぐる。ぶんぶんと頭を振り理性を総動員させる。
「……その、おはようございます。なにしてるんですか?」
 響子姉(きようこねえ)は一瞬、むっと顔をしかめたが、すぐ悪戯っぽい笑みを浮かべて答えた。
「ま・ち・ぶ・せ……ふふ。ストーカーみたいだね」
「ま、待ってたって? 僕を?」
「うん。言い忘れていたことがあるからね。ちゃんと聞いてくれる?」
「はい!」思わず背筋を伸ばす。
「昨日はありがとう。そして、ごめんなさい。もう、あんなことはしないから許してね」
 響子姉(きようこねえ)は頭を下げて僕を拝んだ。
「や、止めてよ。響子姉(きようこねえ)。謝らないといけないのは僕の方なんだ。……その、責任だって取らなきゃいけないと思ってる……」
「責任? また論理で考えてる。違うの、浩ちゃん。私は嫉妬で浩ちゃんの童貞奪ったんだ。強姦したんだよ。浩ちゃんの初めての人は、私がなりたかっただけなの。だから謝りに来たのよ。責任なんて言わないで」
 響子姉(きようこねえ)は必死な顔をしていた。
「……分かった。責任なんて言わない。でも、響子姉(きようこねえ)。僕は地元の大学に進学する。いつでも側にいるから、頼ってくれたら嬉しい」
 響子姉(きようこねえ)は両手を胸元に寄せ、目を丸くしてしげしげと僕を見た。
「……凄いな。浩ちゃん。そんな台詞が言えるようになったんだ」
「あのな、人を幾つだと思ってるの? それに僕を男にしてくれたのは響子姉(きようこねえ)じゃないか。その事はわすれないよ。僕だけはいつまでも響子姉(きようこねえ)の味方だよ」
 響子姉(きようこねえ)は黙って立ち上がると、少し頬を染めて、コンと小石を蹴った。
 しばし沈黙。
 そして響子姉(きようこねえ)は顔を上げた。
「ありがとう。浩ちゃん。嬉しいよ。でも、覚悟してね。私頼るときはなりふり構わず頼ると思うから……」
「まかしてよ!」
 僕は胸を叩いた。響子姉(きようこねえ)はそれでひまわりのような笑顔を取り戻した。
「じゃ、私、帰って寝るわ。浩ちゃんも学校頑張ってね」
 響子姉(きようこねえ)は駆け足で家へ戻っていた。なんだか、一つ形がついた気がした。

 だんっ! 裂帛の気合いの下、強烈な突きを胸に受け僕は道場の壁まで吹き飛ばされた。
 稽古を終え、僕と顧問の鳴神先生の打ち合いを眺めていた部員達から「おー」と感嘆の声が上がる。
 背中と後頭部をしたたかに壁に打ち付けたが、それより胸の痛みが酷い。心臓を抉られたようだ。呼吸もままならない。苦しい息の下、「ま、参りました」と絞り出すように言う。うむと鳴神先生は開始線に戻る。僕も多少頼りない足つきで開始線に戻る。互いに「ありがとうございました」と礼をする。鳴神先生は「稽古終了! 全員正座!」と高く通る声で言った。声は若い女性のものだった。鳴神先生は全日本女子剣道を七連覇した化け物である。桜ヶ丘高校が剣道部顧問に特別招致したのだ。剣道の世界では連覇すら困難だ。実力が伯仲しているから、連覇はほぼ不可能と言っていい。その中で七連覇を去年達成した鳴神先生は、『平成の女沖田』と呼ばれている。沖田とは新撰組の沖田総司のことだ。幕末の天才剣士・沖田総司にしか出来ないと言われた『三連続突き』を鳴神先生は放つ事が出来るのだ。
 ちなみに「三段突き」を継承できたのは伊達と僕だけだが、実戦で使えるレベルではない。鳴神先生の三段突きは一挙動に見えるほどに早い。噂では全国レベルの社会人男子ですら、鳴神先生には勝てないのではないかと言われている。
 僕は上座へ戻る鳴神先生の後をそそと付け歩く。正座した鳴神先生に「失礼します」と声をかけ、先生の面を外す。上気した鳴神先生の顔があらわになる。学校では化粧などしない鳴神先生だが、化粧すれば人目を惹く美人さんになるんではないだろうか? 年齢も響子姉(きようこねえ)と変わらないはずだ。
 面を脱いだ鳴神先生は僕を振り返り微笑んだ。
「剣筋が変わったな。神崎。筋が一本きっちりと通った。私も高校生相手に本気でやれるとは思わなかったよ」
 そう言って笑顔を向ける。
「ありがとうございます」
 僕は深々と頭を下げる。が、視線は鳴神先生から離さない。別に鳴神先生に見とれている訳じゃない。剣道の世界では礼をする時も目線は相手から離さないのが常識だ。
「お前なら折り紙をつける。今からでも伊達と一緒に体大に推薦でいかないか?」
「すいません。自分の進路はもう決めていますので……」
「そうか。残念だな。よし席に戻れ」
 その声に応じて、僕は上座の自分の席に戻った。三年生は上座。一,二年生は下座だ。
 面を外して「双方礼!」と言う鳴神先生のかけ声で正座のまま黙礼をする。「神前! 礼!」そのかけ声で全員が道場の神棚に頭を下げる。
 三年生はこれで解散だが、一,二年生は汗にまみれた道場の掃除がある。夏場の剣道の激しさは、言語を絶する。かかり稽古だけで二kgは体重が減る。夏場の道場は汗で水を流したようになる。
 シャワールームで汗を流していると隣のシャワールームから伊達が声をかけてきた。
「おめえ、凄えな。鳴神先生に三段突きを出させるなんて……もしかして、マゾか?」
「うん? どちらかと言うと言葉責めのサドだが……流石にあれは避けられるものじゃないな。二段目で肩射抜かれて三段目でとどめだ。参ったよ」
「いや、俺が言っているのは、おまえが強くなったって話なんだが……今の俺じゃお前に勝てる気がせん」
「マンガじゃあるまいし、いきなり強くなったりしないよ。剣道は。試合だって三本に二本は伊達が取るじゃないか?」
「そりゃ、昨日までの話だ……」
 はぁ、とらしくないため息をついて伊達はシャワーを止めた。
「お前の剣は正直、木訥だった。だから出籠手とかの小技で俺に分があったんだ。今日のお前の剣は木訥だが性根が据わっていた。心技体の一致と言うのかな? 大きな波のような勢いがあった。あれじゃ、小手先の技なんざ通用しない。だから、鳴神先生も本気になったのさ。一体なにがお前さんを変えたんだ?」
 伊達の言うことは言葉としては理解出来たが、正直、自分では分からなかった。童貞捨てたから剣道が強くなるはずもないだろう。
「自分じゃ分からない」
 そう答えて会話は終了した。もくもくと着替えていると思いついたように伊達が言った。
「ああ、そうだ今日の朝練、鈴ちゃんが見学に来ていたぞ」
 心臓がどきりと鳴る。
「彩宮さんが?」
「鳴神先生の気合って、本気になるとギャオス並の超音波だろ? 学校中に響き渡る。今朝は道場の窓に見学者が鈴なりだった」
 伊達はにやにやと笑いながら僕を見ている。その笑顔が気色悪くて僕は目線で「なんだ」と尋ねた。
「ぶっちゃけた話、どうよ? お前、鈴ちゃんをどう思う?」
「可愛いと思う」僕は即答した。
「ほうほう」伊達は人の顔を覗き込みに来る。
「……でも、性格とかは掴みようがない女性(ひと)だな。うん。不思議な女性(ひと)だ」
「鈴ちゃんはお前のこと興味があるみたいだぜ」
 伊達は真顔で言った。どうやら真面目な話らしい。
「あのさぁ」僕は切り出した。
「お前と言い、三枝と言い、彩宮さんと随分親しいみたいだけど、何時からの付き合いなの?」
「あ、俺はこの春から。明美に付き合ってくれって言ったら、強引に文学部まで連れていかれて『この人との相性占って!』って、それからかな? 明美は一年からの付き合いらしい。鈴ちゃんって雰囲気独特だろ? 他人を寄せ付けない感じするだろ? 人の悩みは聞いて占うけど、自分の悩みを聞いてもらう相手がいなかったみたいなんだよ。そこに明美が現れたわけ。一年の時、同じクラスだったんだよ。あの二人。明美は頼りがいあるらしいからな、親友になったんだ。去年のミスコンも、あいつの推薦で出たんだよ」
 なるほど納得がいった。確かに彩宮さんには神秘的で近寄りがたい雰囲気がある。自分からミスコンなんかに出るようにも見えない。姉御なら、そんなもの気にせず付き合うだろう。しかし、あまりにも好対照な組み合わせだなと思った。
「……で、なんで今になって僕がその中に巻き込まれるの?」
 伊達は顔をしかめて呆れ顔をした。
「お前さ、その朴念仁ぶり犯罪的だぜ」
 むっとした。伊達に犯罪者扱いされるのは心外である。黙って伊達を睨むと、伊達はやれやれと言う表情で肩をすくめた。
「ぶっちゃけた話、お前、女の子キライか? ホモか?」
「女の子キライなら、お前からエロ本借りたりしないぞ」
「じゃあ、なんで今まで誰とも付き合わなかった? 俺が知ってるだけでも3人振ってるぞ。お前。みんな可愛い子だったじゃないか?」
 こう突き詰められると自分でも何故だろうと思った。分からない。ときめかなかったからと言うしかない。
「……ときめかなかったから」
「はぁ? なに? それ? 思春期の男の言葉とは思えねぇ! 普通、女の子に『好きです』って言われたらときめくだろう?」
 伊達の言う普通が世間の常識なら、僕は普通ではないのかもしれない。けれど僕は昨日、自分がただの雄だと痛感している。
「それは、お前だけの常識だな。僕だってときめくことはある」
「……なるほど。選り好みがあるわけだ。色男は違うね。じゃ、直球で訊くぞ。お前、彩宮鈴香にときめかなかったのか?」
「……パスはなしか?」
「なし!」
 僕は黙り込んで、耳の後ろを掻く。
「ときめいたよ」
 正直に口にすると彩宮さんの笑顔が頭に浮かんだ。思わず赤面した。我ながら節操がないと思う。響子姉(きようこねえ)とあんなことがあったのに、僕は同級生のろくに知らない少女にときめいているのだ。浮気性なのかもしれない。
「よし!!」
 伊達は強く僕の肩を叩いた。
「そういうことならお膳立てはしてやる! 気張れよ! 少年!」
 伊達は呵々大笑した。
 響子姉(きようこねえ)、ごめんなさい。貴女の弟はとんでもない人でなしです。

(三)
 昼休み。
 僕たちは三年校舎の裏庭の木陰にいた。昼飯を食うには絶好の場所だが、競争率も高い。紫頭の誰かさんが授業をさぼって場所を確保したらしい。伊達の言うお膳立てがこれなら次回からは止めさせないといけない。それに周囲の視線が痛いように感じる。
 ミス桜ヶ丘と並んでお弁当を広げているせいだろうか?
 でも、女生徒からも痛い視線が飛んでくるのはなぜだろう?
 彩宮さんのお弁当は年期の入った漆塗りのお重に入っていた。流石、老舗のお嬢様は違う。彩宮さんはこの場所で三枝と並んで座って、僕を待っていた。僕を見て彩宮さんは驚いたように目を見張った。そして感情のない声でのたまった。
「お姉さん。凄く怒ってるよ。怒らせるようなことしたの?」
「いや? 彩宮さん、マジ視えるんだ。この女性(ひと)凄く気まぐれだから、気にしないで」
 僕は引きつった顔で答えた。視えるなら声も聞こえるかもしれない。後ろのお姉さん(・・・・・・・)が昨日のことを彩宮さんに話さないか、僕は気が気でなかった。
 僕の答えに彩宮さんは黙り込み。僕は周囲の様子と彩宮さんに気を遣う状態に陥っていた。
 三枝が周囲を気にする僕の様子にクスクスと笑っている。
「なにがおかしい?」
 多少、八つ当たり気味にそう尋ねると「いやー。妬まれてるねぇ~? お二人とも」と、答える。僕が妬まれるのは分かるが、なんで彩宮さんが妬まれるのだろう?
「なんで、彩宮さんが妬まれるのさ?」
 ごく当たり前の僕の問いに、三枝と伊達が同時にため息をつく。彩宮さんは顔を赤らめながらゴボウのサラダを上品に突っついていた。
「神崎は本当に朴念仁だねぇ~ 鈴、覚悟しなよ。靴に画鋲くらいは入ってるかもよ?」
「―――ん。それ位は覚悟出来てる」
 彩宮さんは無表情で頬を染めると言う器用な真似で頷いた。
「なんでだよ?」
 再度尋ねる僕に三枝はこめかみを手で押さえて本格的なため息をついた。
「神崎ぃ~ あんた自分がどんだけモテるか分かってないでしょ? その癖、誰にでも優
しいし……タチが悪いよ。
 あんた、この二年間で何人振った? 覚えてないでしょ? 五人だよ。五人。振った理由が『まだ、女の子に興味ないから』だよ。女子の間じゃ『哲学者』じゃ仕方ないかと暗黙の了解が取れていたのに、『ミス桜ヶ丘』と仲良くお弁当食べてたら妬まれる。つうか、恨まれるよ」
 三枝は指を立てて僕を叱りつける。なんだか理不尽なことを言われている気がした。
「全校男子からも恨みを買うな」
 うんうんと伊達も頷く。
「ちょっと待てよ。僕はモテたりしてないぞ。それに女の子とお昼ご飯なんか昔は良くや
ってたぞ。なんで彩宮さんが妬まれたりするのさ?」
「そりゃ、お前。二年生までの話だろう?」
 三枝と同じ品揃えの弁当をそそくさと開いてかき込みながら伊達が言う。
「お前と一緒に弁当喰うのは女子が圧倒的に多かったろう? あれはお前のフアン倶楽部だったのさ。で、お前の鈍さに呆れた女子は不可侵条約を結んだ訳だ。三年になってから一人で飯喰うようになったのに気づかなかったのか?」
 ん? と伊達は目線を送ってくる。
 知らなかった。僕はもてたんだ。
 三枝はさらに畳みかけて来る。
「鈴はねぇ、協定違反覚悟であんたと付き合うんだから、神崎もきちんと守ってあげないといけないんだぞ!」
「ちょっと待てぃー!」
 僕は思わず叫んだ。
「いつ、僕と彩宮さんが付き合うことになったんだ?!」
 伊達と三枝は目を見交わして再び同時にため息をつく。
「鈴があんたとならプールに行っても良いって言ったと言うたでしょうが?」
「お前も鈴ちゃんは可愛いと言うたべ……」
だから、伊達! そういう恥ずかしいことをばらすな!
「鈴はあんたの子供頃から知ってると言ってたわよ!」
 三枝がたたみ込む。
「……へっ?」
 思わぬ言葉に我に返った。思い返したが、こんな可愛い娘が側にいた記憶がない。
「僕たち、子供の頃、会ってた?」
「……ん」
 彩宮さんは小さく頷く。
「思い出せないなら良い……」
 彩宮さんはそう呟くと黒豆をつまんだ。無表情なのがなんだか怖い。必死で思い出そうとしたが、どうしても思い出せない。
「……彩宮さん、ごめん。思い出せない。なんかヒントくれない?」
 愛想笑いを浮かべて、彩宮さんを拝む。
 彩宮さんは三秒ほど真っ直ぐ僕の瞳を見つめてた。やっぱり眼力(めぢから)が強い。そして彩宮さんは「やっ」と拒否して、そっぽを向いた。この怒り方は知ってる。妹の浩美が最近やる怒り方だ。根が深いから、関わらぬ方が良い。
「くわばら。くわばら」
 伊達が囁く。お前がするな!
「今日は部活終わったら、鈴の家行くから覚悟しておきな」
 三枝がにやりと笑った。
「聞いてないぞ! そんな話!」
 僕の抗議は三枝の一言で却下された。
「今聞いたでしょ?」
 三枝は指をぴっと立っててのたまった。三枝はどうやら本気で僕と彩宮さんをカップリングさせる気のようだ。見合い写真を持ち歩いて、結婚勧めるおばさんみたいだ。そりゃ、悪い話ではない。気持ちは嬉しい。けど、昨日の今日で彩宮さんの家に行くのは如何なものかと思った。
 響子姉(きようこねえ)のこともあって、彩宮さんのことは諦めようと思ったのは昨日の晩だ。妹の浩美も、機嫌を損なわせる訳にはいかない。やはり、ここは断ろう。
「いや。今日は母が遅番なんだ。妹を一人に出来ないから行けないよ」
 そう答えると、三枝はむーと頬を脹らませる。案外可愛い表情になることに今気づいた。
 彩宮さんは小首を傾げるような仕草で、こちらを見てる。人形のようで表情がやはり読めない。
「なんだ、浩美ちゃんなら大丈夫さ! そんなに遅くならないし、俺がメールしといてやるよ!」
 伊達はズボンのポケットから携帯電話を取り出し、素早い仕草でメールを打った。
 なんで、こいつが浩美の携帯のメアドを知っているのだろう? なんだか癇に障った。
 返信は速攻で来た。伊達はそれを見てVサインを出す。携帯をずいと僕に見せつける。
『分かった~♪ お兄ちゃんをヨロシクね!』
 奇妙な絵文字で装飾されたメールの返信だった。
「グッジョブ!」
 三枝が伊達にウインクを送る。
 伊達の携帯を見つめたまま動かない僕の背中を三枝が叩いた。
「どう? 断る理由。他にある?」
「……いや。ない」
 僕は白旗を挙げざる得なかった。念のため僕も浩美にメールを打ったが、部活が終わっても返信は無かった。

 H区は桜ヶ丘高校の最寄り駅から一駅行ったところにある。お屋敷が多い場所だ。小高い丘には城跡がある。
 僕たち4人は、空いた普通電車に並んで座っていた。夕日の赤い光が車内を照らしている。
 伊達と三枝の会話を遠くに聞き、適当に相づちを打ちながら、僕はぼんやりと夕日を眺めていた。彩宮さんは借りて来た猫のようにおとなしかった。なんだか家に近づくほど、おとなしくなるような気がする。
「おい。着いたぞ」
 伊達に言われて、はたと我に返った。電車を降りて皆に聞く。
「なぁ、なんで彩宮さんの家へ行くわけ?」
 僕の問いに伊達と三枝は顔を見合わせる。確かに今更の質問だった。
「表向きは勉強会なんだけどな……」
 伊達が言葉を詰まらせる。
「小泉さん対策して欲しいのよ。神崎は霊感あるし、鈴は言うまでもないでしょ。二人ともなんとか助けてね」
 三枝が僕と彩宮さんを拝む。僕はこめかみを押さえた。それならそうと言って欲しかった。友人とは言え、修羅場に巻き込まれるのはご免だった。それでも僕は女の子に頼まれるとイヤとは言わない主義だ。で、僕は耳の後ろを掻く。
「姉御の頼みじゃことわれないな……」
 吐息と共にそう呟く。わざとあだ名で呼んだのはささやかなしっぺ返しだ。
 伊達と三枝が「すまん」と頭を下げた。
 いや、伊達よ。悪いがお前が頼めば断っていたよ。三枝が女の子だから行くだけだ。

 彩宮さんの家は、駅前の城下町を通り抜けた坂の上の高級住宅地にあった。漆喰の土塀に囲まれた純和風のお屋敷が彩宮さんの家だった。門の上に防犯カメラがある。チャイムを鳴らした彩宮さんは、仇を見るような目つきでカメラを見据えながら「私です」とインターホンに語りかけた。
 門はなんとお手伝いさんが開けてくれた。お手伝いさんなのである。もう、僕のような市井の民には想像出来ない世界だった。
「あら? お嬢様、お客様ですか? ご連絡いただければ、ご用意いたしましたのに。あら、三枝様も」
 人の良さそうな中年女性は三枝と面識があるらしい。お手伝いさんは僕と伊達を品定めするような目で見た。つうか、あれは確実に品定めしている目だった。僕はぎりぎり合格したようだが、派手な格好の伊達はあからさまに怪しげな視線を送られた。
「こんにちは。お世話になります」
 流石、弓道部の主将。三枝は折り目正しく礼をする。僕と伊達もそれに習い、礼をして名を名乗る。僕らも剣道部だ。礼儀作法は厳しく仕込まれている。お手伝いさんの僕らを見る目が少し変わった。
「では、客間のほうにご用意いたします。お嬢様」
「ちょっと勉強教えてもらうだけだからいい」
 彩宮さんは本当に無機質な声で答えた。
「私の土蔵でもてなすから、来なくて良いわよ。藤沢さん」
 とりつく島もない。彩宮さんはきびすを返すと母屋ではなく裏庭と思える方向に進んで行く。三枝は「藤沢さん」と呼ばれたお手伝いさんに「本当におかまいなく」と頭を下げて、彩宮さんの後を追って行く。僕と伊達は呆然としたまま、彩宮さんと三枝の後を追った。

 ―――土蔵だった。

 本当に土蔵だった。普通の木造二階建ての家くらいの大きさの土蔵だ。彩宮さんは鉄製の扉の閂の錠前を古びた鍵で開けた。ぎぎぃと重い音で鉄製の扉を開くと、そこは洋風の玄関になっていた。靴を脱いで上がると、赤い絨毯が敷かれた居間になっていた。度肝を抜かれた。普通、土蔵は倉庫代わりで、こんな装飾は施されていない。彩宮さんが玄関横のスイッチを入れるとシャンデリアが点った。その部屋にはアールデコ調の造り付け家具とTVがあった。和洋折衷と言うやつだ。アンバランスな感じは無く、落ち着ける。桐の大きな座卓が置いてあり、そこに座るよう言われた。
 土蔵の外観と、中との差異に僕と伊達は開いた口が塞がらなかった。
「ちょっと着替えてくる」
 彩宮さんは無機質な声で言うと、玄関側の階段を上がって行った。
 彩宮さんがいなくなると、急に緊張が解けて僕と伊達は大きな吐息をついた。三枝はチェシャ猫のように、にやにや笑っている。
「驚いたでしょう? 次はもっと驚くよ」
「こんなんだったら、俺、ちゃんとした制服で来たのに……」
 伊達は三枝にそうこぼす。
「あんたは髪の毛戻さないと次は敷居またげないよ」
 三枝はくつろいだ様子でくすくすと笑う。
「驚くって何に?」
「鈴の私服。パンチ力あるよー」
 三枝はそう言うとにんまりと笑う。なにかをたくらんでいるような、宜しくない笑顔だった。
「お待たせしました」
 そう言って、足音も立てずに二階から下りて来た彩宮さんは着物姿だった。振り袖でも浴衣でもない。付下げと言う普段着用の着物だ。淡い桃色の下地に見えるのは、白地に桜吹雪を描いてあるからだ。帯は淡い緑色だった。
 僕は見とれて声が出なかった。確かにパンチ力がある。蔵に着物の美少女とは耽美小説のような設定ではないか?
「おおーー! スゲェ! 鈴ちゃん、無茶綺麗やん?!」
 大声で騒ぐ伊達の横で、僕は黙り込むしかなかった。僕は想像を絶した出来事に遭遇すると黙り込む癖がある。周囲の人間は、物事に動じないと見ているようだが、違う。殻に籠もって動けなくなっているだけだ。そんな僕の背中を伊達が叩きつける。
「神崎ぃー! こういう時はちゃんと感想を言うべきだぞ! しかめっ面してるんじゃねぇ!」
 彩宮さんは、ちらりと僕に視線を流した。明らかに返事を求めているのは僕でも分かった。ちょっと上ずった声で僕は感想を述べた。
「その、凄く似合ってる。お人形さんみたいだ」
「家では着物で過ごすように言われているの」
 彩宮さんは頬を染めて俯くとぼそりと言った。
「パンツもはいてないんだよ」
 そう囁く三枝の頭をぽかりと彩宮さんは叩いた。驚いた。三枝の頭を叩けるんだ。彩宮さんは。
「お茶の用意してくるね」
 彩宮さんはそそくさと居間の奥へと進む。簡単な炊事場もあるらしい。この土蔵には。
「ああ、私も手伝うよ」
 姉御はそう言って立ち上がり、彩宮さんと共に奥へと消えた。
 女二人が消えた後、僕と伊達は顔を見合わせ、大きな吐息をついた。
「着物は反則だよなぁ~」
 伊達はそう言って座卓の上に上半身を倒す。
 僕は後ろ手をついて、背中をのけぞらせた。
「確かにパンチ力あるわ……」
 着物姿の彩宮さんは本当にお人形さんのようで、触ると壊れそうだった。
「パンツはいてないんだ……」
 伊達が脱力したように呟く。そこが感心するポイントなのか? 伊達よ?
「想像しただけで、俺、勃っちまった……」
 本当に肉欲の塊なのである。この男は……
「羨ましいよ。お前の性格」
 僕は吐息をつく。
「僕はダメだ。あんな姿見て、そんな想像は出来ない。なんか、ますます遠くなった感じだな。……流石は『絶対零度の魔女』。つけいる隙なんかないよ」
 伊達は無言でしばらく僕を見つめた。そして上体を起こすと、今から試合をするかのような目で僕の顔を覗き込んだ。
「お前な。少しは男見せろや。お前の守備範囲が狭いのは知ってる。お前の基準はお隣のお姉さんだからな。だがな、あんな美女そうそういるもんじゃねぇ。それに女は外見じゃねぇぞ。鈴ちゃんの方からアプローチかけているんだ。お前が応えないで、どうするよ?
 そりゃ、俺はお前から見れば性欲魔神かもしれん。だがな、健全な高校生男子なら普通だよ。
 お前さんは、いかれてる。どこで間違えたのか知らんが、まともじゃない。これからもそんな態度取るんなら、ケツの穴に竹刀突っ込んでやるからな!」
 響子姉(きようこねえ)の話題が出たので、正直うろたえた。伊達はどういう訳だか本気で怒っているらしい。しかし、彩宮さんは本当に僕にアプローチしているのだろうか? なんだか、伊達と三枝に、なし崩し的にそういう形に嵌められている気がするのだ。
「OK。分かった、伊達。尻に竹刀突っ込まれるのはゴメンだ。努力するよ」
 伊達は納得のいかない顔でしばらく僕を見つめていたが、ぷいと横を向き黙り込んだ。
 男二人の沈黙が気まずくなる前に、三枝のキャイキャイ騒ぐ声と共に彩宮さんが台所から出て来た。
 彩宮さんはお盆にティーカップとティーポットを持っている。三枝はやはりお盆にケーキを乗せていた。
「プチ・ジュールのチーズケーキだぞ」
 三枝は笑顔で言う。響子姉(きようこねえ)の幻影が頭を通り過ぎる。どういう偶然だ? これは?
 彩宮さんは丁寧な仕草でティーカップに紅茶を注ぐと、それををそれぞれの前に並べる。ティーカップはマイセンだった。流石にお金持ちは違う。目の前のティーカップからは芳潤な香りがした。
「これ、アールグレイ?」
 独特の香りに僕が尋ねると、彩宮さんはかすかに微笑んだ。
「うん。詳しいね。神崎君」
「知り合いに紅茶好きがいるんだよ。子供の頃から飲まされてるから、覚えたんだ」
 紅茶を一口飲むと芳香が口中に広がった。この茶葉は間違いなく最高級品だ。
「凄いな。この茶葉」
「フォートナムメイソンから仕入れているの」
 彩宮さんは小首を傾げて微笑んだ。そのなんと言うか凄く可愛い。どぎまぎする。
「神崎が紅茶に詳しいとは意外だわ」
 三枝が言った。
「なんつうか、味とか品質なんかには無頓着だと思っていたわよ」
 大きな誤解である。そりゃ、出されたものは残さず食うが、食へのこだわりは人一倍強い。ウチでの料理は、最近では僕が一手にまかなっていると言って過言ではない。無添加の本物自然食を仕入れて料理しているのだ。
「このケーキ。無茶旨(うま)だぞ!」
 伊達が叫んだ。この騒がしい二人がいるおかげで、僕は彩宮さんとの間を保てている。
「プチ・ジュールのケーキは基本は予約制だし、夕方には売り切れるんだよね」
 三枝はそう言いながら、案外上品な仕草でケーキを口に運んでいる。まぁ、食べながら喋ると言う時点でお上品ではないのだが。

「……そろそろ始めようか?」
 彩宮さんのその一言で、暫しの穏やかな時間は終わった。
 彩宮さんは黒いビロードの布を広げて、赤い革袋に入ったルーン文字の石を全部、布の上にばらまいた。
「……伊達くん」
 彩宮さんは強いまなざしで伊達を射抜く。
「目を閉じて、石をかき混ぜて一個ずつ石を選んで。選んだ順に左から三枚並べて」
「お、おう」と伊達は流石に緊張した様子でルーン文字を刻んだ水晶を混ぜると自分の前に三枚並べた。
 左端にニイドの逆位置。真ん中にハガル。右端がウインの正位置と出た。
(ありゃ? ハガルが出ちゃったよ)
 僕は内心そう呟く。ルーンには詳しくないが、ハガルが大凶に近い意味を持つ事は知っている。
 彩宮さんは氷の彫像のようにその石を見つめていた。やがて無言で伊達の前の石を回収し、上から粗塩を振ってかき混ぜる。
「明美」
 短く凛とした声で三枝を呼ぶ。
「はい!」
 三枝は背筋をピンと伸ばして答えた。三枝も緊張しているらしい。
「貴女も今の要領で石を三枚引いて頂戴。伊達君のこと思ってね」
 三枝は緊張した面持ちで、堅く目を閉じると石を引いた。三枝が引いたのは、左からエオー・ラグ・ウインであった。全部、正位置である。ウインのルーン文字は僕も知ってる。大吉みたいな意味の石だ。
 彩宮さんは、きつい目線で三枝が引く石を見つめていたが、ウインの石が出ると、軽く吐息をついた。
 そして彩宮さんは自分でも一枚石を引いた。ラグの逆位地だった。
「結論から言うわね。貴方達は上手くいく。結婚するかもしれないわ。でも今の伊達君の状況は最悪。小泉さんは伊達君と復縁したい一方で、激しく貴方を呪っているわ。懐柔策はないわね。貴方達が付き合っている事は隠した方が良いわ。そうすれば、明美の力で伊達君は守られる。でも、ばれたらダメ。三すくみになっちゃうわ。卒業するまでは、貴方達のことは内緒にして。私から言えるのはこんなところよ」
 彩宮さんはそう言い終わると僕を見た。
「神崎君はどう読んだの?」
「読んだって、ルーン文字かい? それなら僕には知識がない、でも二人の未来にウインが出たのは良いことじゃないかな? 彩宮さんが最後に引いたのは、小泉さんの現状だよね? ラグの逆位地と言うことは嫉妬と恨みを現すんだよね?」
 三枝はぽかーんと僕を見た。
「……神崎。あんた詳しいじゃない?」
「詳しくないよ。中学の時に嵌ったけど、もう文字の意味もうろ覚えさ」
「……俺、他に好きな女が出来たって幸恵に言ったんだけど、大丈夫かな?」
「大丈夫じゃない。事故とかには気をつけて。明美を大事にしていたら幸せになれるよ」
 彩宮さんは冷徹な声でそう言うと、再び僕を見る。何か問いたげな目だった。
「……なに?」
 そう問うと、
「後のお姉さん(・・・・・・)が何か言ってるでしょ?」
 怖いなと思った。彩宮さんは本物の霊能者のようだった。
「まぁ、言ってるというか、イメージは来てるけど……」
「どんなイメージ?」
 三人揃って尋ねて来る。
「いや、多分、呪詛返しの方法なんだと思うけど……寝る部屋の真ん中に(たらい)を置いて、
井戸で汲んだ水を張って、その中に、背面に黄色の五芒星を書いた鏡を置いて寝ろと……」
「――うわ! エグ!」
 彩宮さんは珍しく、表情を変え、嫌悪を現した。
「なに? そうしたら、俺、幸恵の生き霊から助かるの?」
 伊達は僕と彩宮さんを交互に見ながら、身を乗り出した。
「お姉さんが言うなら確かだけど……ヤバイよね?」
 僕はちょっと冷や汗をかきながら、彩宮さんに問う。
「……単なる呪詛返しじゃないわね。倍返しよ。やれば小泉さんは死ぬか狂うかどちらかね……」
 ああ。やっぱりそうなんだ。後のお姉さん(・・・・・・)はキツイからなぁ。
「なに? やっぱ、神崎も霊能者なんだ!」
「違うよ!」
 姉御の突っ込みに僕は即答した。本当である。僕は幽霊が見えたりしない。気味が悪いとかの気配を感じることはあっても見えはしない。お姉さんが気まぐれに映像を送ってくるだけなんだ。
「子供の時は後のお姉さん(・・・・・・)いなかったよね? どこで拾ったの?」
 彩宮さんが小首傾げて尋ねてくる。なんとなく、これがこの()の甘えの表現なんだなと思った。でも、子供の頃って何時だろう? 彩宮さんのことが思い出せない。
「奈良の神社で括られていたのを助けたら、取り憑かれたんだよ。殺されかけたんだぞ。契約しておとなしくなったんだ。大変だったんだぞ」
 僕は三人に言い聞かせるように言った。
「ああ、神崎は人気のない夜の神社とか好きだものなぁ?拾うのは分かるわ」
 伊達が頷く。
「どんな契約したの?」
 彩宮さんが僕の顔を覗き込むようにして尋ねる。誰にも話してない秘密なんだが、後のお姉さん(・・・・・・)からサインがない。言っても良いらしい。
「僕が死んだら一緒に上がること」
「なに? それ?」
 三枝と伊達がはもる。彩宮さんは次の言葉を待っている。
「後のお姉さんは人柱にされて、神社に括られていたんだよ。それを解放してあげたら、祟って来たんだ。誰でも良いから恨みを晴らしたかったんだな。だから、僕が死んだら一緒に天界に上げる。そう約束したんだよ」
「何? それ?」
「意味、分からねぇー」
 三枝と伊達が抗議に似た声を上げる。仕方がない真実なんだから。それに理解されようとは思っていない。こんなことは一生分からない方が幸せと言うものだ。
 彩宮さんは大きく溜息をついた。
「―――呆れた。人が良いにも程があるわ」
 彩宮さんの言い口に僕は少しむっとした。
「……仕方ないじゃないか。祟神なんだから。僕の所で止めておかないと、誰か死ぬんだよ?」
 彩宮さんはじっと僕の瞳を射抜くように見る。
「それが男性だったら、貴方、助けた?」
 彩宮さんはずばりと言った。痛い所を付く。僕は言葉に詰まった。確かに男なら相手にしない。近付かない。僕が黙り込んだのを、彩宮さんは肯定と受け止めたようだ。
「ほらね。女なら誰にでも優しいのよ。神崎君は。そういうの節操がないと言うのよ」
 表情を変えずに歯に衣を着せぬお言葉をおっしゃる。彩宮さんって本当はキツイ性格なのかもしれない。
「神崎って生身じゃない女が良いんだぁーー!」
 三枝が驚いたように言う。
 心外である。なんだか人を変態のように言う。
「そういうんじゃない。今日だって三枝が頼んだから来たんだ。伊達の頼みなら見捨てたさ。言おうとする意味分かる? 男は自立しなきゃいけないじゃないか。女の子守るのは男の役目じゃないか!」
「……ひでぇーな。お前」
 伊達がジト目してるが気にしない。
「―――神崎って、古風だなぁ~ 今は女が男守る時代だよ。それに、そんなに困った女の子助けてたらキリがないし、誤解されるよ」
 三枝はしみじみと語った。彩宮さんは妙に怜悧な表情で頷いていらっしゃる。
「話がそれてない? 小泉さんの生き霊対策じゃなかったの?」
 あえて話題を戻してみる。
「だから、あれだろ。要するに俺も明美も卒業まで今まで通りの対応をしていれば良いのだろ?」
 伊達は楽観していらっしゃる。気楽で羨ましい。生き霊の怖さを知らぬのだろう。
「彩宮さんが言ったのは対処療法だよ。仲良く同じお弁当食べてる場合じゃないよ」
 僕は表情を消して言った。姉御と伊達が凍り付く。彩宮さんは静かに眼を閉じた。滅多に出さない僕の地の顔だ。大概の人は恐怖する悪魔の顔だ。別に般若のような形相になる訳ではない。彩宮さんのように表情が消える訳でもない。逆に薄っすらと笑みを浮かべていたりする。曰く、僕の地顔は「悪魔が心臓を鷲掴みにしたときの顔」なんだそうだ。慈愛と酷薄さが同居したあり得ない表情。それが僕のもう一つの地顔なのだ。
 その表情は広隆寺の弥勒涅槃思惟像に似ているらしい。
 弥勒は神様なんかじゃない、人類と言う汚れが消え去った世界で只一人薄ら笑みを浮かべている魔物なのだ。
「生き霊に取り憑かれるとね、まず精神がやられる。自殺、心中を考える。初期は事故が起きやすい。交通事故などは代表だね。運が悪いと家の階段から滑り落ちて死ぬこともある。呪詛が続くと何ごとも上手く回らなくなり、精神状態がおかしくなる。まぁ、鬱になるのさ。気味の悪い夢も見るようになるしね……」
「やめて! 神崎くん!」
 彩宮さんの一喝で僕は元に戻った。
 今、僕は何をした? 伊達と三枝の恐怖を煽っていなかったか?
 僕は固まっている三枝と伊達に頭を下げる。
「すまん。今、どうかしてた」
 三枝は涙目になっていた。伊達は無理矢理、表情を変えて笑った。不自然極まりない笑顔だった。
「だ、大丈夫だよ! 明美ー! 俺が鬱になるタイプに見えるか? そんな顔すんなって!」
「……だよね。アンタがそんな繊細な神経してるわけないか」
 三枝も無理に笑った。
 彩宮さんは無表情のまま、伊達と三枝を見つめている。心配なのだろう。どんなに図太
い奴でも、相手が無意識に発生させる生き霊には対応策がないのである。

 ――仕方ないか。

「彩宮さん、なにか紙ある。便箋みたいので良いのだけど?」
 彩宮さんは僕の考えが分かったらしい。
「折り紙の方が良いでしょう? 取ってくるわ」
 彩宮さんは再び二階へ上がる。
 三枝と伊達は、同時に吐息をついた。
「神崎ぃー! あんた、怖すぎ。マジ、びびった」
 三枝が口をとがらせて言う。
「お前がああいう顔をするとは、初めて知った。悪魔か? お前?」
 伊達が追従する。まぁ、悪魔かと? 訊かれても否定出来ない自分がいるわけで、なんともし難い。
「すまない。もう、あんな顔はしない」
 そう言った時、彩宮さんが下りてきた。和紙の折り紙セットを持って来た。
 三枝の横にちょこんと座ると「はい」と手渡して来る。高そうな折り紙セットだ。
「鋏と筆はいる?」
「あ、鋏は貸して。筆は要らない」
 折り紙の中から赤と黄色を一枚づつ選び、半分に折って鋏を入れて人形を作る。それに息を吹きかけて、赤を三枝に、黄色を伊達に渡した。
「はい。お守り。折って財布にでも入れておいて」
「……なんか、お前、無茶苦茶怪しいんだけど?」
 伊達が言う。
「まぁ、気休めさ。気味が悪くても持っててくれ。実際、僕に出来るのはここまでだ」
 彩宮さんは三枝が恐る恐る手にしている赤い人形を覗き込む。
「なるほど……式を吹き込んだのね? お姉さんの眷属?」
 驚きもせず、彩宮さんは言う。本物だわ。この娘。マジ霊能者だ。
「こういう真似は霊能者みたいでイヤなんだけど、脅したからお詫びだよ。お願いだから霊能者扱いはやめてね」
 僕はおどけた仕草で三枝と伊達を拝む。
「……これ、大丈夫?」
 三枝は彩宮さんに訊く。僕の台詞はスルーかよ?
「神社のお守りなんかより、余程効くわよ。大事にしなさい」
 彩宮さんの答えに、ようやく三枝と伊達が安堵の表情を見せた。
 そんなに怪しげだったのかよ?!
 僕が多少不愉快な思いをしたのは言うまでもないだろう。三枝はそんな僕の気配を察してか、テーブルの上の僕の手をそっと握った。どきりとする。柔らかい温かみのある女の子の手だった。
「神崎君……ありがとう」
 上目使いに僕を見てそう言う。なんだ? こいつ? 滅茶良い女じゃないか?! 今の今まで気付かなかった。なるほど伊達の審美眼にかなう女だ。
 彩宮さんが無表情で三枝と僕の手を見つめてる。三枝がぱっと手を離した。
「ごめん。鈴。勝手に触っちゃダメだよね」
「……別にいいけど……」
 彩宮は無感情な声で答える。
 僕は話を変えるつもりで、彩宮さんに訊いた。
「彩宮さんは、なんでこの土蔵に住んでるの? この内装に水回りまで通しているから、普通の家を買える値段かけてるだろ? 立派な母屋があるのになんで?」
 彩宮さんは氷のような目で僕を見た。じっと見据えて答えない。
「―――ご、ごめん。何か立ち入ったこと訊いたみたいだ」
「壊れなかったから……」
 彩宮さんは、ぼそりと呟く。
「えっ?」
 低い声だったので、僕たち三人は同時に尋ね返す。
「この土蔵だけは『あの日』壊れなかった。だから、あの後もここに籠もったの。どうしても母屋に行かないから、父が改築してくれたのよ」
 僕たちは声を無くした。『あの日』に触れるのはお互いにタブーになっていたからだ。
 僕は唐突に思いだした。他人と接するのを嫌い、ずっと僕の服の袖を掴んで後に隠れていたお人形のような女の子。
「もしかして、病院で一緒だった『鈴ちゃん』?」
 彩宮さんは、ぱっと花が開くような笑顔を浮かべた。
「やっと思い出してくれた!」
 喜色の籠もった声を上げる。その表情が嬉しくて僕は言った。
「そうかぁ~ 鈴ちゃんかぁ~ 様変わりしたから、気づかなかったよ。言ってくれれば、すぐ思い出したのに。でも、良く僕のこと覚えていたね?」
「貴方、変わらないもの。入学式で貴方と出会ったとき、声も出ないほど驚いたわ。嬉しくて堪らなかった。ずっと、貴方を見つめていたの。昔みたいに気軽に声をかけられる歳でもなかったしね。剣道の練習も、放課後のランニングもいつも遠くから見ていたの。明美がそれに気付いて話せるようにしてくれたのよ」
 そう一気に喋ると最後に、くすりと笑って僕の顔を見た。
「昔みたいに守ってくれる?」
 胸に矢が刺さるような台詞を言った。
「う、うん!」
 僕はまっ赤になって、そう反射的に答えた。
 伊達と三枝がはやし立てる。
 こうして僕と彩宮さんは付き合うことになった。
 我ながら節操がないのである。

(四)
 夏休み最初の日曜日。
 これでもかと言う位に陽が差す朝。
 公園のベンチで伊達を待っていた僕は、とんでもなく悪い幻を見た。反射的にその幻から逃げようとしたところ、その幻が僕の両手に抱きついた。
 右腕には白いインド木綿のシャツに着古した青のジーンズの美女。
 左腕には黒のゴスロリ服の少女が抱きついている。両方とも胸の谷間に僕の腕を巻き込んでいた。
「おはよー少年!」
「おはよーお兄ちゃん!」
 二人とも満面の笑みを浮かべている。後ろのお姉さんがケタケタと笑い転げていた。あんた、僕の守護をするんじゃなかったのか?!
 遙か後方に精根尽き果てた表情の伊達が見えた。
「嘘だ! これは悪い夢だ!」
 思わず叫ぶ僕に二人は笑い声を上げる。
「あら? お姉さんを悪い夢と言うの?」
「実の妹は悪い夢?」
 二人はさらに僕に密着して来る。響子姉(きようこねえ)は今更だが、浩美! いつの間にそんなに発育した? B? いやCカップはあるぞ。そのわざとらしい甘え方は恐怖だぞ!
 生まれて初めてのデート。Wデートとは言え、初めてのデートだったんだ。朝からシャワー浴びて、気合い入れてお洒落して来たんだ。
 これは悪い夢に違いない。
 きっと、僕はまだ布団の中にいるんだ。セーブポイントからやり直せるはずだ。さぁ、気合いを入れて目を覚まそう!
 僕は目を堅く瞑り、そして気合いを入れて目を開けた。
 僕の腕を笑いながら振り回す二人がいた……。
 がっくりと項垂れている伊達に僕は叫んだ。
「伊達! 状況を説明しろ!」
「すまん。神崎。俺は朝駆けで拘束された。止められなかった」
 伊達の顔は今まさに死刑を執行される罪人のそれだった。

 要約すると、土曜日にショッピングモールで水着を選らんでいた伊達を浩美が発見したらしい。
 浩美は伊達に声をかけた。
「伊達先輩。明日プール行くんだよね?」
 にんまりと浩美は微笑んだらしい。悪魔の微笑みなのだが、伊達には初々しい乙女の笑みに見えた。
「お兄ちゃんと行くんだよね?」
 その引っかけに伊達はまんまと乗った。
「ああ、そうだよ」と迂闊に口を滑らしたらしい。(僕は家族には図書館へ行くと言っていた。恥じらいがあって隠したのだ)
「じゃあ、私も行くね」
 浩美はにぱっと笑ってそう答えた。そこで初めて伊達は罠に嵌ったことに気付いたが、手遅れだった。
 なんとかなだめすかして止めさせようとしたが、浩美が言うことを聞く訳がない。
「いいもん。私は勝手に行くもん!」
 最後には、そう言って意地でも動かなくなった。
 押し問答をしている所に(最悪のタイミングで!) 、響子姉(きようこねえ)が通りかかったのだ。こういう話をやんやと喜ぶのが、響子姉(きようこねえ)だ。
「ああ! Wデートの話ね♪」
 暴露したらしい。
「デートですって?」
 浩美は据わった目で伊達を見て言ったそうだ。
「激しく聞いてないわ!」
 日本語、間違えてるし……
 で、伊達は泥沼に嵌った。「絶対に行く!」と言い張る浩美に苦渋していると、響子姉(きようこねえ)が言ったそうだ。
「じゃ、浩美ちゃん。私と行こう。保護者同伴で現地別行動。これで問題ないでしょ?」
 妥協策としては妥当だと伊達は判断した。甘い男である。
 で、今朝方、浩美と響子姉(きようこねえ)が伊達家に朝駆けしたと言う訳だ。
 僕は空を仰いだ。
 青いなぁ~ このまま一人帰って寝ると言うのは無理なのかなぁ~
「達観してるな? 性少年!」
 意味も無く笑って、響子姉(きようこねえ)は僕の背中を叩く。他にどうしろと言うのだ? 何気に語感が違うし……
「心配しなさんな。ちゃんとデートの時間は作ってあげるから。浩美ちゃんの単独特攻よりは、なんぼかマシでしょ?」
 耳元で囁く。確かにマシではあるが、浩美を止める選択肢は無かったのかなぁ?
「伊達よぉ? 三枝にどう言う気? 流石の姉御も怒るぞ」
「メールした。『大馬鹿者!』と返信が来たよ」。
 血の気が引いた顔で伊達は答える。姉御は怒ると怖いからな~。彩宮さんとセットで攻められたら、命が危ないかもしれない。というか、なんで僕がそんな災禍に巻き込まれねばならんのだ?
「お兄ちゃんはなんで、浩美に嘘ついたのかなぁ?」
 浩美は僕の腕を逆手に極めて言う。痛いし、怖い。
「普通、妹に言わないだろ?! こんなこと!」
 力ずくで手を振りほどいて、僕は言った。筋が痛んだ。

 午前九時半。僕たちは駅前のミスドに着いた。乱入者のおかげで遅刻してしまったのだ。ギャルゲーだとポイントダウンも著しいシチュエーションだ。つうかバッドエンディング直行だな。恋人に惨殺されたりするんだ。
 おそるおそる店に入ると姉御と彩宮さんが満面の笑顔で僕たちを迎えてくれた。
「遅いぞー! もうドーナツ食べちゃった」
 姉御が叫ぶ。
「おはようございます」
 席から立って、深々と頭を下げる彩宮さん。
『おい、伊達。姉御も彩宮さんも怒ってないじゃないか? 大丈夫なんじゃないか?』
 僕は伊達に耳打ちする。
 伊達は太いため息をついた。
『これが怖いんだよ。全く分かってないな。お前は。今日は一日針のむしろだと覚悟しろ』
 伊達は怯えていた。
 三枝と彩宮さんは当然私服である。三枝はパステルカラーの黄色の半袖のポロシャツにオレンジ色のジーンズと派手な服装だが、元々艶やかな顔立ちだから良く似合っていた。
 彩宮さんは淡い茶色のおとなしめにフリルが付いたワンピース姿だった。うん。可愛い。
「杉浦先輩! お久しぶりです!」
 三枝は立ってお辞儀する。響子姉(きようこねえ)と僕らが在校中に顔を合わしたことはないが、桜ヶ丘高校の生きる伝説だったりするのだ。響子姉(きようこねえ)は。
 三年期末の全国実力テストをオール満点で全国トップに立ったことがあるのだ。弓道部にも在籍していたから、三枝には神格化されて見えるのだろう。
『パーフェクト・ビューティー』こんな恥ずかしい通り名が今も残っている。
「いやだー! そんな仰々しい挨拶やめてよー」
 響子姉(きようこねえ)は照れながらバンバンと三枝の肩を叩いた。一流モデル級の美女が高校生と騒いでいるのだ。店中の視線が集まっている。あっちのテーブルでは響子姉(きようこねえ)に見とれて呆けている彼氏の腕をつねっているカップルがいる。
 つまりはこういうことだ。フェロモン垂れ流しの響子姉(きようこねえ)といる限り、どこであろうと目立ちまくるのだ。
 彩宮さんは、響子姉(きようこねえ)のテンションが下がるまで、ピンと背筋を伸ばしたまま彫像のように動かなかった。三枝とのじゃれあいが終わった一瞬の時を狙って、彩宮さんは深々と礼をした。
「お久しぶりです。お姉さん」
「―――えっ?」
 響子姉(きようこねえ)は一瞬言葉を失った。それも一瞬だった。
「もしかして、市民病院の五人組の鈴ちゃん?」
 どういう記憶野を持っているのか、響子姉(きようこねえ)は普通ならすぐ忘れている出来事を覚えていた。
「はい。彩宮鈴香と申します。改めてご挨拶させていただきます」
 無表情のまま、彩宮さんは怜悧な声で言う。強い眼力(めぢから)響子姉(きようこねえ)を見つめていた。
「杉浦響子よ。よろしくね。鈴ちゃん。あの日はショックだったなぁ。鈴ちゃん、私に『浩ちゃんをとらないで!』って言ったのよ」
 あははと笑う響子姉(きようこねえ)に彩宮さんは、「今でもいやです。私の神崎君を取らないでくださいね」
 彩宮さんはにっこりと笑みを浮かべて答えていた。
 怖ぇ~ マジ怖ぇ~ 後、『私の神崎君』と言う台詞に照れたりする。
 響子姉(きようこねえ)は流石に笑みを引きつらせたが、すぐ、にぱーとしたいつもの笑顔で答えた。
「大丈夫よー。鈴ちゃん。こんな可愛い彼女がいるのに浩ちゃんが、こんなおばさん相手にするもんですか! ね、浩ちゃん!」
 響子姉(きようこねえ)は僕の肩をひっぱたく。なんか本気で叩いてないか?
「こちらが妹さん?」
 彩宮さんは浩美に視線を移す。浩美は珍しく彩宮さんの強い視線にたじろいでいた。無意識だろうが、僕の後に隠れようとする気配を見せる。
「ああ、妹の浩美。無理矢理付いて来たんだ。ごめんな」
 僕の言葉に彩宮さんは小さく頷くと、浩美に頭を下げた。
「はじめまして。彩宮鈴香です。浩平さんとお付き合いさせて頂いています。ふつつかものですが、宜しくお願いします」
 あ、今度は『浩平さん』だ。くらっとする。浩美は彩宮さんの礼儀正しい挨拶に口をぱくぱくさせていた。響子姉(きようこねえ)が浩美の肩を軽く突いた。
「ど、ども! 神崎浩美です。ついて来てごめんなさい!」
 浩美はドタバタとした仕草でぺこりと頭を下げた。面白い。あの浩美がたじろいでいる。
「今日は楽しみましょうね」
 彩宮さんは普段の怜悧な顔に戻って浩美を見つめながら言った。浩美はその言葉に血の気を無くして、小声で答えた。
「……そ、その、よろしくお願いします。彩宮先輩」
 流石だ。絶対零度の魔女は、初見でこの個性豊かで我が儘な女性陣相手に、イニシャティブを握っていた。
 さて、朝食も済ませ、プールへ行く途中、響子姉(きようこねえ)がひそひそと話しかけてきた。
「ちょっと、浩ちゃん。まさか、鈴ちゃんに私と寝たなんて言ってないでしょうね?」
 心臓が口から出るかと思った。朝っぱらから天下の往来で何を言うんだ? この人は。
「ば、馬鹿! そんなの言える訳ないだろ?」
「あからさまに敵意を向けられている気がするのだけど……?」
「気のせいだよ。彩宮さんは人付き合いが苦手なんだ。昔もそうだっただろ?」
 う~んと響子姉(きようこねえ)は小難しい顔で腕を組み、小首を傾げる。
「……確かに人見知りの激しい子だったけど、敵意は向けられていなかったわよ。昔は。ポッキーあげたら懐いたし……。
 そか!  餌付けしないとダメなんだ。何か奢ってあげようかな?」
 他人(ひと)を野生動物のように言う。悪意もなく天然にそう思ってしまうのだ。響子姉(きようこねえ)は。
「あのな。頼むから余計なことはしないでください。今日は浩美のブロックをお願いします」
 本気で頭を下げて頼む。
「浩美ちゃんねぇ……」
 響子姉(きようこねえ)は後ろを振り返る。しょんぼりと肩を落として遅れて歩く浩美が響子姉(きようこねえ)の視界に入る。
「そんな覇気残って無いような感じだよ。蛇に睨まれたカエル? 流石、『絶対零度の魔女』! 石化の魔術でも使えるのかしらねぇ?」
 本当に浩美は元気を無くしていた。三枝が気を利かせて何か喋りかけている。兄としては心配な限りだが、伊達と並んで前を歩く彩宮さんの視線が痛く感じる。本能的にこれ以上、響子姉(きようこねえ)や浩美に関わるのは危険だと感じた。
響子姉(きようこねえ)、悪いけど離れてくれ。浩美を頼みます。彩宮さんが見てる」
「ほっ?」
 響子姉(きようこねえ)は前方に目を向ける。
「あちゃー。威嚇射撃受けてるやん。私。まぁ、浩ちゃんの幸せ第一だからねぇ~ おばさんは退散しますー」
 浩美の方へ行こうとして、響子姉(きようこねえ)は振り向いて僕を見つめた。
「浩ちゃん、あの()。情が怖いよ。覚悟しなよ」
 真顔で言った。
 僕は深く頷くと伊達と彩宮さんの間に入った。
「なんの話してたの?」
 さりげなく爽やかに声をかける。伊達はげっそりした顔で振り返り、僕に助けを求めていた。
 彩宮さんは僕を冷たく一瞥すると言った。
「杉浦さんが凄い美女だと言う話『パーフェクト・ビューティー』って杉浦さんのことだったんだ。神崎君、昔と同じで、相変わらず仲が良いのね?」
「まぁ、本当の姉弟みたいに育ったからなぁ~ あれで人は好いんだよ」
「姉弟? 本当にそれだけ?」
 彩宮さんは一瞬、恫喝するような視線で僕を見据えた。僕は激しく狼狽えたが、感情の起伏が激しくなればなるほど、表情が消える性癖が幸いした。
「それだけだよ。それ以上でもそれ以下でもない」
 外見は落ち着き払って、そう答えることが出来た。誰しも墓の中まで持って行かねばならない秘密がある。この歳でそんな秘密を抱えるのはどうかと思うが、響子姉(きようこねえ)とのあのことは、誰にも口外出来るものではない。
「そう……」
 彩宮さんは呟くような小さな声で答えた。
「素敵なお姉さんと妹さんがいて羨ましいわ。慕われているのね」
 哀しげに視線を落とす。僕はなんだか悪いことをした気分になった。でも、不器用なので声が出ない。しばし沈黙があった。唐突に彩宮さんは顔を上げ、明るく笑った。
「私ね、今日のために水着を新調したのよ」
「あ、僕も」
 ぽろりとこぼす。
「どんなの買ったの?」
 彩宮さんは微笑んで下から僕の顔を覗き込む。頬が紅潮した。
「トランクス。パステルピンクの。学校の水着しか持ってなくてさ。デートっぽくしないといけないかなって……」
 あはははと笑う。
「それよ」
 彩宮さんは人差し指で僕の鼻先を差す。
「デートよ。私もデートは初めてなの。水着はねぇ~ 裸見せるより恥ずかしいわよって明美が言うから、神崎君に見せて恥ずかしくないように、明美と丸一日かけて選んだの」
 僕はこの台詞を聞くまで、女の子とプールに行くのが、どんな大事か分かっていなかった。彩宮さんの水着姿を想像して赤面する。
「ど、どんなの買ったの?」
「ふふ。ひ・み・つ。プールサイドまでおあずけよ」
「うわっ! それって生殺しだよ!」
「そうよー デートなんだから私しか見てはダメなのよ。杉浦さんとか明美とか見つめたらお仕置きだからね。私、嫉妬深いんだからね。あ、妹さんもダメよ。貴方、シスコンぽいから!」
 彩宮さんはぎろりと僕を睨む。怖い……。
「了解。善処する」
 そう答えたものの、大丈夫なんだろうか? 自分? 響子姉(きようこねえ)の水着って裸よりエロイ感じがする。
「嵐が来るぞー」
 俯いたまま、伊達がぼそりと呟いた。サラ・コナーではない僕は「知ってるわ」と答える根性はなかった。

 で、でかい……
 全天候型ドームプールはまさに偉容を放っていた。夏休み最初の日曜日と言うこともあって学生と子供連れの家族がドームを囲むように列を作ってる。
「うわぁー大きいー」
 浩美がようやく本来の元気を取り戻して驚きの声を上げた。
「ホント! 凄い大きいねぇー」
 三枝がそれに頷く。
 対照的にげんなりした声で響子姉(きようこねえ)が言った。
「えー? あんなに並ぶの? 私、やだぁ~」
 傍若無人の声を上げる。
「浩ちゃん、伊達君、並ぶの任せた。私、茶店で待ってるから順番来たら携帯鳴らして」
 女王様か? 響子姉(きようこねえ)
「さ、女性陣は涼みましょう。三枝さん、鈴ちゃん、浩美ちゃん、おいで~ 奢るよ~」
「えっ? でも……」
 三枝が戸惑い顔で伊達に視線を送る。体育会系だから、こういうのを他人任せに出来ないのだ。
「いいよ。明美。行ってこい。三十分以上は並びそうだからな」
 伊達が格好をつける。ちなみに、彩宮さんと浩美はちゃっかり響子姉(きようこねえ)に付いて行っていた。響子姉(きようこねえ)は本気で餌付けをする気らしい。
「んじゃ、よろしくね~」
 響子姉(きようこねえ)は三枝の腕を引っ張りながら、喫茶店へと消えて行く。去り際に、彩宮さんはペコリと頭を下げて行った。無言である。
 デートなんですけど? カップルなんですけど……。なんで躊躇わずに見捨てるんですか? 彩宮さん。
 まぁ、そんな具合で男二人でバカ話しながら待っていると、順番が来た。携帯で呼び寄せると女性陣はすぐ現れた。響子姉(きようこねえ)の餌付けは本当に効いたみたいで、女性陣は和気藹々としていた。
 まぁ、善哉。善哉。
 更衣室の出口で待ち合わせにして、男女別れて(当たり前だが)更衣室に入る。
 伊達の水着は迷彩模様のバミューダパンツだった。やけにぶかぶかに見える。
「……なんだよ?」
 異物を見るような僕の視線に気づいて伊達が言う。
「いや。重装備だな? お前なら競泳用とか履きそうなイメージだったんだが」
「女性陣の面子考えろよ。明美の水着を見るのも初めてなんだ。その、身体が妙な反応したら困るだろ?」
 ああ、納得。女性陣は百花繚乱。その水着姿に本能が反応しない保障はない。
「お前も、三枝の水着教えて貰っていないんだ……」
「お前も、鈴ちゃんの水着、聞いていないの?」
「三枝と一緒に買いに行ったらしいんだが、水着は女の勝負着だからとはぐらかされた」
 ぽりぽりと耳の後ろを掻く。
「杉浦さんの水着は?」
「聞きすらしてない」
「あの人は別格だからなぁ~ 期待もあるけど、怖いよな」
「彩宮さんに他の女に見とれるなと、釘刺されたよ」
「聞いてた。鈴ちゃん、お前とだったら普通に喋るよな?」
「そうか? お前等、二人の時、何話してたの?」
「会話にならねぇよ。何を話しても、無言で刺すように俺の瞳見つめるだけだからな。明美くらい懐広くねぇといけないんだろうな」
「……お前、守備範囲広いのに?」
「鈴ちゃんとか、杉浦さんは別格だよ。平気で話せるお前が分かんねぇ」
 伊達はそう言って荷物をロッカーに詰めて鍵をかけた。
「じゃ、行きますか?」
 僕と伊達はプールサイドへ向かった。

「おおっ?!」
 僕は伊達と共に感嘆の声を上げた。
 でかい! 広い! これなら多少並んでも甲斐がある。
「おい! 見ろ! ウオータースライダー、十メートルはあるぞ!」
「あっちの滝はナイアガラの滝だぜ!」
 男二人で盛り上がっていると、いきなり背中に抱きつかれた。
「浩ちゃん、お待たせー♪」
 背中に当たるメロンのように巨大でマシュマロのような双球は間違いなく響子姉(きようこねえ)のモノだった。身体の一部が変化する。
「うわーーー!!」
 僕は叫ぶと、響子姉(きようこねえ)の腕を振り払い、プールに飛び込む。収まれ! 自分!
「いきなりなにするんですか?  アンタは!」
 僕はプールに下半身を隠して抗議する。そして響子姉(きようこねえ)の水着に息を飲む。金ラメのハイレグビキニの水着はゴージャスとしか言いようがなかった。ロケットおっぱいとは良く言った。Fカップの良く張った隆起に目が行く。少ない生地に溢れんばかりの肉体を押し込んでいる感じだ。峰不二子さんですか? 貴女?
 響子姉(きようこねえ)の登場にプール場全体がどよめいた。気のせいではない。男ばかりか女性まで、響子姉(きようこねえ)の肢体に見入っていた。人を引きつけるオーラがあるのか? フェロモン分泌が異常なのか? とにかく目立つ。
「なによぉ~? 逃げなくても良いじゃない!」
 響子姉(きようこねえ)は腕組みしてジト目でこちらを睨んで来る。
 そんなに派手な肉体と水着で、思春期の少年に抱きついてはいけません。
 響子姉(きようこねえ)の真横にいた伊達は前屈みで、こそこそと離れて壁際で膝を抱えて座り込む。どこかの天才探偵みたいだ。
「なに? なんで伊達君まで逃げるかな?」
 伊達も身体に微妙な変化を来してるんだろうな……
「いや、お姉さん。綺麗すぎ! とても側にいれません」
 伊達は引きつった笑顔で答える。
「なるほど。浩ちゃんも伊達君も私のナイスバディーにノックアウトなのね?」
 うんうんと僕と伊達が頷く。
「でも、今からそんなんじゃ、保たないわよ。私はあくまでトップバッター。これから本命にダークホースもいるんだから」
 響子姉(きようこねえ)は悪戯っぽく笑った。
「なーに? なに騒いでるの?」
 響子姉(きようこねえ)の言葉に応じるように現れた声は三枝のものだった。僕と伊達は救いを求めるように更衣室の出入り口に目を向けた。
 脳が発熱して視界がホワイトアウトした。
 深紅のビキニ。バストは84のEカップと見た。ウエストは56。ヒップは87あるのかな?
 あの服の下にこんな肢体が隠されていたとは、三枝、恐るべし。トータルバランスのとれた肉体は水着モデルで食っていけそうだ。伊達はおあずけを食った犬の目で三枝を見つめている。響子姉(きようこねえ)と並んでいると、更に人目を引きつける。いや、響子姉(きようこねえ)と水着で並ぶ根性が裏打ちされている肢体が素晴らしい。響子姉(きようこねえ)が絢爛豪華な華なら、三枝は深紅の薔薇だ。
 集まる視線に妬みが混じり始めた気がする。
「……賑やかね」
 その怜悧な声に、僕の視界は新緑の色に染まった。言うまでもない。彩宮さんの登場なのだが、正視出来ない。水着は新緑の色のワンピース。所々にパステルイエローのラインが走っている。問題はそのカッティング!
 胸元とお尻のすぐ上にハート形の大胆なカッティングが施されている。メッシュで補強されているが、あまりにも際どい。見えそうで見えない所が視線を引きつける。その肢体は若鮎を思わせた。サイズは79・55・80と言ったところだろうか?
 思考とか理性は消え失せた。スリーサイズは三枝には劣るけれど、小柄でスリムだから、トータルバランスでは申し分がない。このワンピース、ビキニ着るより根性いるんじゃないだろうか?
 ミス桜ヶ丘の清楚な美少女の大胆な水着は、さらにギャラリーを増やした。
「……あら?」
 響子姉(きようこねえ)が小首を傾げる。
「ダークホースが来ないわね」
 彩宮さんは女子更衣室の奥へ視線をやって言った。
「出て来なさいな。浩美さん」
 浩美はバスタオルで身体を隠して、背を曲げてジト目で現れた。
「隠してちゃ、意味ないじゃない?」
 響子姉(きようこねえ)の揶揄を含んだ声に、浩美は意を決したようにバスタオルを勢いよく外した。

 ……黒のハイレグ紐ビキニ……。

 一瞬、呆気に取られた後、僕はプールから飛び出し、落ちたバスタオルで浩美を隠す。
「伊達ー! お前は見るな! 目を瞑れ!」
「いや、見るなと言われても……」
「お前に見られたら妊娠する!」
「ひでぇなぁー。おい」
 伊達がジト目で抗議するが、もちろん却下だ。愛する妹のあられもない姿を伊達なんかに見せる訳にはいかない。
「浩美! お前もお前だ! いつも可愛い格好をしろと言ってるだろ。ここはウオータースライダーもあるんだぞ。そんな格好で水着が外れたらどうするんだ! ここは水着も売ってるから買ってやる。ワンピースに着替えろ!」
「ヤダ! お兄ちゃんなんかキライだ! 杉浦さんも来るのに普通の水着なんか着れない! ウオータースライダーなんか行かないもん!」
 今までにない激しい拒絶。思わず息を飲んでいると、響子姉(きようこねえ)が割って入った。
「まぁまぁ、浩ちゃん。いいじゃない。似合ってるし、人目も集めてる。この歳で色気出せるなんて凄いわよ~ そういう事で収めてね。今日は浩美ちゃんは私と来ているんだから」
「私も良いと思うけど……」
 彩宮さんが後ろ手に半眼で僕を見据えて言う。あれは僕の狼狽えぶりを非難する冷たい目だ。
「まぁ、私らも浩美ちゃんが冒険してくれたから、恥ずかしさも半減した訳だから、許してあげなよ。神崎」
 三枝まで浩美擁護に走る。
 伊達はと見ると「グッジョブ!」と浩美に親指を立てていた。
 この女性陣を敵に回す度胸は僕にはない。
「……まぁ、皆が言うなら良いけど……浩美、何があっても僕は助けないからな」
 一応、拗ねてみた。何がおかしいのか女性陣はくすくすと笑った。

 それからは遊んだ。遊んだ。百メートル自由形競泳とか、流れるプールで浮き輪からの落とし合いとか。
 ウオータースライダーでは響子姉(きようこねえ)が浩美を引き離し、僕と彩宮さんと伊達と三枝をカップリングで行かしてくれた。
 人気のあるアトラクションなので、階段に行列が出来ている。
 彩宮さんはいつの間にか僕の手を握っていた。
 それまでひたすら体を動かす事で妄念を紛らわしていた僕は、その柔らかな手の感触にどぎまぎした。これから体を密着させて滑り台を降りるのかと思うと、鼓動が激しくなった。
「……ねぇ」
 彩宮さんが顔を俯かせて小声で囁いた。
 返事の代わりに手を強く握る。
「水着の感想聞いてないんだけれど……」
 それだけで心臓がドクンと音を立てた。
 僕は無言で繋いでいた彩宮さんの手を自分の左胸に押し当てた。
「分かるだろ? こんなにときめいてる」
 唖然とした表情で僕を見上げていた彩宮さんは、一瞬で顔を朱に染めた。僕の胸から手を放し、素早く一歩後ろに下がる。
「貴男と言う人は―――」
 顔を朱に染めたまま、まなじりを決する。
「天然の女たらしねっ!」
 そう言った。
「……はい?」
 思わぬ言葉に僕は呆然とする。
 彩宮さんは、赤らめた顔のままそっぽを向き、「いいわ。スライダーで目に物見せてあげるから!」
 はて? なにをして彩宮さんを怒らせたのかなと考えていると、彩宮さんは僕の左腕にぎゅっと抱きついて来た。
 正直、慌てた。
「ちょっ! ちょっと、彩宮さん?」
「これ位なによ? これからもっと凄い事になるんだからね!」
 彩宮さんは悪戯な子猫のように笑った。
 どうやら怒らした訳でもないらしい。

 そして、ウオータースライダーは僕の意識を真っ白にする程のものだった。

 彩宮さんは「きゃーきゃー」悲鳴を上げて喜んでいたが、僕は楽しむどころじゃなかった。なにしろ意志に反して体が触れる。急なカーブで彩宮さんを落とすまいと掴むと、あらぬ所へ手が行くのだ。理性が保てる訳がない。
 降りきった時には肩で息をしていた。僅か数分、滑り台を降りるだけで真夏の道場でかかり稽古を三本するより疲れた。
 なんだか堅めのマシュマロで出来た桃の実の様な物を思いっきり触った感触が生々しく残っていた。
 彩宮さんは僕に腰を支えられた格好でプールに着水すると、とんとプールの床を蹴って前へ出る。そして「おもしろーい!」と笑い声を上げて、僕を振り返った。
「もう一回♪」
「へっ?」
 あれをもう一回するのかと思うと呆然とした。
 そこに後続の暴走カップルが、けたたましい笑い声と共に下りて来る。
「神崎ー! どけーー!」
「邪魔よぉ~!」
 伊達に抱えられて滑り下りて来た三枝は、その勢いで、一瞬宙に浮き、僕の背中にWキックを決めてくれた。僕は前のめりにつんのめって、プールの水をしたたかに飲む。
「きゃははははは!」
 三枝と彩宮さんが異様なハイテンションで笑った。
( 彩宮さんって、こんなキャラだったけ?)
 水の中でぼんやりと考える。
「よーし! ラスト三周決めるわよー!」
 三枝が叫ぶ。
 あと三回これをやるのか?
 なんだか天国なのか地獄なのか、良く分からなくなった。

 ―――好事魔多し。

 みんなで昼食を済ませ、三組に分かれてビーチバレーの真似事をしている時にそれは起きた。
「おっしゃ! シュート!!」
 プールに轟く気合いで、響子姉(きようこねえ)は浩美が上げたビーチボールを伊達の顔に叩きつける。遠巻きに見ている人から歓声が上がる。
 伊達・三枝組。vs僕・彩宮さん組。vs響子姉(きようこねえ)・浩美組。
 運動神経・基礎体力で伊達・三枝組が圧勝するかと思ったビーチバレーだが、観戦者が出る程の熱い接戦になっていた。
 浩美はまだ分かる。小学校の二年生から僕と同じ剣道場へ通っていて、試合のレギュラーメンバーだ。運動神経も良い。
 だが、響子姉(きようこねえ)がここまで天才的な運動神経を持っているとは思わなかった。どんな球でも拾うし、上背を生かしてのシュートは鋭い。
 それでも伊達・三枝組の方が分があったはずだった。問題は、響子姉(きようこねえ)と浩美の肢体を覆う布地の少なさだった。伊達は思わずたわわに揺れる肢体に見とれて、動きが一瞬遅れるのだ。
 そのために先程のように顔面でシュートを受けていたりする。三枝はそのフォローに縦横無尽の動きを見せていた。
 伊達の顔から落ちるビーチボールをパスの形で三枝が彩宮さんに渡す。
 彩宮さんも、イメージとかけ離れた敏捷さを見せていた。受けられない球は殆ど無い。
 今、三枝から回ったビーチボールを僕の前へ高く上げる。きちんとシュートポジションに上げてくれる。僕はその球を八つ当たり気味に浩美の胸へ叩きつけた。
「きゃっ!」
 と悲鳴を漏らしながらも、浩美はなんとか受け止めて響子姉(きようこねえ)にパスをする。
 再びシュートを決めようとした響子姉(きようこねえ)は「あら?」と声を上げて動きを止めた。
「?」
 全員響子姉(きようこねえ)の視線の先を見る。伊達が溺れていた。水の中に沈んで、虚空を掴むように手をバタバタさせている。水深は1メートルのプールだ。普通溺れない。
「正彦ー。あんた、さっきからなにやってんのよ?」
 三枝が溜息混じりに伊達の首に手をかける。
 とたんに「きゃっ!」と言う可愛い悲鳴と共に三枝も沈んだ。
 僕と彩宮さんは顔を見合わせ、二人同時に潜った。
 三枝は伊達から手を離して、水上に出ている。
 目を疑った。
 伊達の右足の脛が、プールの底に三分の一程埋まっている。僕は思わず伊達の足にしがみつき、プールの底から引き上げようとした。とたんに凄い力で引っ張られた。
 いったん水上に出る。大きく肺腑に息を吹き込む。同様に水上に出て空気を溜めてる彩宮さんと目が合った。それでお互い何をしようとしているのか分かった。
 二人して計ったようなタイミングで水の中へ潜る。
 伊達の足へ向けて、唱えるは破邪の印!
「←(ティール)!」
「カーン!」
 その瞬間、コンクリートのプールの底がガラス板のように透けた。
 ガラス板の向こうにパジャマ姿の少女がいた。
 子鹿のような愛くるしい少女だが、今は般若のような形相で伊達の足首を掴んで引っ張っていた。
 元が愛くるしいだけに、その憤怒の表情は吐き気がするほど醜かった。
 目が合った。
 少女は驚愕の表情を浮かべた。伊達の足首を放して、向こうの闇へ消える。伊達の足はコンクリートの底から解放された。
 水を飲んだ伊達は激しく咳き込んでいる。
 僕は伊達の体を抱えて、プールの外に出た。
「なに? なにがあったの?」
 狼狽える三枝に「ただのこむら返りだよ」と嘘をつく。
 プールサイドで、伊達は上体を起こして座り込み激しい咳を続けていた。女性陣が心配気に見守る中、僕は伊達の背中をさすっていた。
 彩宮さんはと言うと、僕らに背を向け仁王立ちで、野次馬達を睥睨している。その冷え切った刃のような視線は、野次馬達を石化させて近寄らせない。
 正直、助かった。大事になると後が困る。
「す、すまん。助かった」
 ようやく伊達が声を上げた。
 三枝を筆頭に全員安堵の息を漏らす。
「……俺、どうなったんだ?」
 伊達は自分の状況を把握していなかった。僕の口からトドメをさすようなことは言えな
い。
 響子姉(きようこねえ)が伊達の右足首を指して小さく叫んだ。
「これ、なに?!」
 それを見て「ひっ」と叫んで三枝がへたり込む。
 伊達の右足首には青く手の痣が浮かんでいた
 これで第1章となります。第2章ではヒロインである彩宮鈴香をベースに話が進みます。
+注意+
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