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天使の瞳
作:みはる



第八章 その2


      2

 鍋島の方は、その頃すでに行動を起こしていた。とは言っても、難波の
パチンコ屋の前で開店待ちの列に並んでいただけだったが。

 この二日間、彼はアパートの部屋からほとんど出ることなく過ごしたのだが、
そのあいだに電話が何本か掛かってきて、そのほとんどが今回彼らの
したことによる様々な反応を伝える内容のものだった。彼は電話を留守番
機能に切り替えており、応対に出ることはなかったが、部屋にいながら
それを聞いているのもなかなか煩わしいものだった。特に純子からの
電話がそうだった。父親が府警を退職したのはつい三年ほど前だったので、
早くもかつての部下から今回のことが耳に入ったらしい。それで純子が
慌てて電話してきたのだ。
 彼女の話によると、父親は特に何も言いはしないが、様子を伺う限り
相当頭にきているらしい。だからしばらくは豊中には帰ってこない方が
いいと純子は兄に忠告していた。親父がどう思おうと知ったことか、と
鍋島は思った。どうせ俺のやることなすこと、あいつは全部気に入らへん
のや。今に始まったことやない。

 その程度の内容なら彼は何とも思わないのだが、耳が痛かったのは
もう一つの話だった。

 ──お兄ちゃん、いったい何考えてんの? もし懲戒免職にでもなったら、
麗子さんとは結婚できひんわよ。たとえ麗子さんが何も言わへんかっても、
麗子さんのお父さまが承知してくれへんわ。誰が大事な娘をクビになった
警察官なんかと結婚させると思う? お兄ちゃんはそういうこと何も考えんと
女の人とつき合うてるの? 無責任よ、お兄ちゃんは。

 その通りだった。それに、純子は言わなかったが、もし自分が懲戒免職
処分を受けたら、間違いなく彼女の縁談も壊れるに違いない。
──ロクでもない兄貴やな、俺は。

 純子のそんな電話を中心として、同僚からの似たような内容の電話が
いくつもあった。中にはかつて彼が所属していた署内の草野球チームの
主将である庶務課の警官が、一週間後に迫った本部二課との試合に
暇があるのなら出てくれないかというお気楽なものもあったが、他は
彼の身を案ずるものばかりだった。彼らは芹沢にも掛けているようで、
芹沢は電話口には出るものの相手を確認するとすぐに切ってしまうらしい。
あいつらしいな、と鍋島は妙な感心をした。

 そんなことが丸二日も続いて、さすがに鍋島もうんざりしたのだ。
三日目の今日、彼は朝八時に起きて朝食をしっかり摂り、出掛ける用意を
した。今日は一日部屋を空けて、誰からの電話も聞かずに過ごそうと
思った。誰が何と言おうと、もう済んだことだ。たとえ純子の言うように
麗子との話が壊れたとしても、それはそれで仕方がない。自分は麗子には
相応しくない男だったのだ。これくらいの年齢になると、愛情だけがたくさん
あっても、それでいいというわけには行かないときもある。

 でも、純子の縁談が壊れたら……俺はどうしたらええんやろう。

 咥えていた煙草を足下に落とし、踏み消しながら鍋島は腕時計を覗いた。
九時四十五分だった。普段なら、もう捜査に出ている時間だ。
「──あれ、鍋島さん?」
 後ろから声を掛けられて、鍋島はしまったと思いながらゆっくりと顔を上げた。
 通りに立っていたのはタツだった。Tシャツの上に派手なスカジャンを羽織って、
だぶだぶのコットン・パンツをはいている。相変わらず図体のでかい男だ。
思わぬところで鍋島を見つけて、何とも嬉しそうだった。
「ああ……おまえか」鍋島はほっとして溜め息をついた。
「こんなとこで何してるんです?」
「パチンコ屋が開くのを待ってるんや」
「そんなこと、見たら分かりますよ」
 タツは呆れたように笑って近づいてくると、急に声をひそめて言った。
「……非番ですか? それとも仕事?」
「ああ、非番も非番。三日前から非番で、この先もずっと非番かも」
 反対に鍋島は声を上げた。
「ち、ちょっと、鍋島さん──」
 タツは慌てて周囲を見回し、怪訝そうに二人を見ている連中に愛想笑いを
した。それから鍋島に振り返ると、今度は困り果てた表情で囁いた。
「困りますよ、そんな大声出されたら」
「何でや」
「この辺は俺の庭みたいなもんですからね。あんたの正体がバレると
ヤバいんですよ」
「俺の正体?」鍋島はにやりと笑ってタツを見上げた。「俺の正体って、
何や?」
「何言うてるんですか、将来有望の刑事デカが」
「それが、そうでもなくなりそうやぞ」
「え? 何て言いました?」
 そう言うとタツは何かをひらめいたように片眉を上げた。
「……あ、もしかして鍋島さん、あんたか? 東条組の山瀬を強引にパクった
っていうの──」
「さすがに耳が早いな」
「その筋の話には敏感ですからね」
 タツは鍋島の耳元で言うと周囲を見渡した。「とりあえず、どっかで話でも」
「ええよ」
 鍋島は頷いて列を離れた。

 三角公園の広場を囲む階段に腰掛けて、二人はたこ焼きを肴に缶ビールを
飲んだ。飲みながら鍋島は、四日前の出来事をタツに話して聞かせた。
「──へえ、そういうことか」
 事情を聞き終えたタツは妙に納得して頷いた。
「そういうことや」と鍋島も頷いた。「今から考えたら、かなり強引やったと
思うけどな。あのときは子供が殺されたのを見て完全に頭に血が昇ってた
から、俺も芹沢も、書類上の手続きなんてどうでも良かったんやな」
「それで……処分されるんですか?」
「さあ。とにかく、ただでは済まへんやろ」鍋島はたこ焼きを頬張った。「自分
とも、これっきりかもな」
「惜しいな。せっかくの縁やったのに」とタツは溜め息をついた。「あんたと
組んでから、新聞やニュースであんたの署が手柄を上げたのを知るたびに、
俺みたいなゴロツキでもちょっとは役に立ってるんやなあと思えて嬉しかった
けどな」
「何やったら、俺の代わりを紹介しよか」 
「そんなん、ええですよ」とタツは顔の前で手を振った。
「誰か心当たりあるんか?」
「違いますよ。俺はあんたやからこうして卑怯なスパイみたいなことをやって
来たんですよ。他のポリなんかにまでタレ込むつもりは全然あらへん」
「へえ、そうか」鍋島は嬉しそうに笑った。
「あんたは、どうも警察マッポらしくない。その──お巡り独特の偉そうな
とこがないし、むしろこっちの世界の人間に近いところがあるよ」
「褒められてるのか、けなされてるのか」
「褒めてるんやって。嬉しくないかも知れんけど」
「いや、充分嬉しいよ」
 その言葉を聞いてタツは満足そうに微笑んだ。しかしその顔からすぐに
笑みが消え、今度は眉をひそめて言った。
「せやけど、あんたもしクビ切られたら、その先どうするんや?」
「さあ、どうしよう」
 鍋島は清々しささえ感じさせる表情で周りを取り囲むビルを見回して言うと
タツに振り返った。「おまえに弟子入りして、パチプロにでもなるか」
「冗談」とタツは大きく首を振った。「だいいち、そんなことしたらあの別嬪の
お姉ちゃんに泣かれまっせ」
「……あいつはそんなことで泣くような女と違うよ」
 そう言いながらも鍋島は表情を曇らせ、俯いた。「俺の収入なんてあてに
してへんからな」
「へえ、そんなによう稼ぐのか?」タツは振り返った。「売れっ子モデルか
何かか?」
「大学の講師。そのうち助教授になるやろ」
「ひえっ、それはまた──」タツは心から驚いていた。「あんた、それこそ
クビになったらヤバいで。愛想尽かされるのと違うか」
「おまえもそう思うか」
 鍋島は真顔でタツを見た。
「……え、ええ……まあ」
 タツはそこで言葉を呑み込んだ。


 その夜、鍋島がアパートに戻ると、留守番電話にはまた新たに二件の
メッセージが加わっていた。
 最初の一件は、少年課の湯川刑事からだった。
《──湯川です。今日、児童相談所の小林さんが巡査部長を訪ねて
こられました。でもお二人がいらっしゃらないんで、たまたま居合わせた
僕にお二人への伝言を残して帰られました。いいですか、言いますよ。
明日午前十一時、田所亮介くんをアパートの大家さんのところへ迎えに
行って、その足で母親の郷里に送って行くそうです。小林さんによると、
亮介くんはお二人に逢いたがっているらしくて、それで是非明日お二人に
アパートまで来て欲しいと──》
 そこで録音時間が切れたらしく、メッセージは終わっていた。
 鍋島は迷った。今さら亮介に合わせる顔がないという思いと、彼が
逢いたがっているのなら行ってやりたいという思いが交錯して、どうしたら
いいのかすぐには決められなかった。果たして亮介は元気を取り戻して
いるのだろうか。いや、一度に家族全員を失ったのだから元気なはずが
ない。しかしあのときはショックで口も利けない状態だったから、それが
今は自分たちに逢いたがっているということは、少しは落ち着いたのかも
知れない。杏子の郷里は岡山だが、親戚でもいるのだろうか。さあ、
どうするべきや? 行くべきなんやろうな。

 もう一件の電話は、彼がこの世で一番大切だと思っている相手、そして
もしかしたら一番恐れているのかも知れない相手、そう、三上麗子からの
メッセージだった。

《──勝也、話があるの。連絡ちょうだい、何時でもいいから》

 たったこれだけだった。
 鍋島は最初にこのメッセージを聞いたとき、思わず顔をしかめて
「うわ、キツ……」
 と呟いた。どうやら麗子にも彼の今置かれている状況が伝わっている
らしい。いったい誰から?……純子や。
 リビングのロー・テーブルの前にきちんと正座し、キッチンのカウンターから
持ってきた電話機をテーブルの真ん中に置いた。受話器を取って耳に当て、
一つ一つゆっくりとボタンを押す。そしてコールを三回聞いたところで突然
フックを押して切ってしまった。
 まだ観念できていなかったのだ。ほっと一息ついた。
 とりあえずその前に風呂に入って、それからゆっくりと電話しようと彼は
考えた。昔から嫌なことは先へ送るタイプの人間だった。

 しかし、女でもないので風呂に入るのにそんなに時間はかからなかった。
おまけに、ゆっくりと湯船に浸かるにはまだ季節は早い。彼は二十分ほどで
再びリビングに現れ、電話の前にあぐらをかいた。
 同じ操作を繰り返し、今度はじっとコールを聞いた。三回、四回──
麗子は出掛けているのだろうか。彼は正面の壁に掛かった時計を見上げた。
十時十分だった。
《──はい、三上です》
 麗子に出られてしまった。
「あ、俺……」
《勝也》
「悪いな、留守にしてて」
《あら、いいのよ》と麗子は意外そうに笑った。《忙しいのはお互いさまよ》
 ──これは皮肉か? 鍋島は咄嗟に思った。
「話って?」
《あ、そうね。そう改まって聞かれるほどのことじゃないんだけど》
「何でや、おまえから言うてきたんやろ」
《ええ、そうよ》
 麗子の声は強気だった。どうやら母親の急逝のショックからも立ち直って
いるようだ。
《ねえ、勝也》
「ん?」
《あたしたち、知り合ってからどれくらいになる?》
「十年経った」
《出会った頃は、まだ二人とも十代だったわ》
「そうやな」
《そのときはお互いの将来がどうなるかなんて、分かってた?》
「まさか結婚しようなんてことになるとは思てへんかった」
《違うわよ、お互いの進む道のことよ》
 麗子はちょっともどかしそうに言った。《あんた、あたしが学者になるなんて
思ってた?》
「いや、正直言うて、まったく思ってなかったな。確かにおまえは秀才やった
けど」
《じゃあ、何になると思ってたの?》
「……何や、何の尋問や?」鍋島はちょっと苛立ってきた。
《尋問?》と麗子は即座に訊き返した。《……刑事みたいなこと言うのね》
 あいた、と鍋島は心の中で言い、片目をつぶった。やはり麗子は知っている
のだ。鍋島は黙り込んでしまった。
《勝也》
「……何や」
《あたし、あんたがどんな警官なのか、具体的に想像したことってほとんど
ないの》
「実際、想像しにくいと思うよ」
《確かにあんたは警官よね。でもそれって、あたしとあんたのつき合いの歴史
から言うと、半分ちょっとの期間に過ぎないのよね。あたしにとってはむしろ
その前の半分がとても大きくて、そしてその期間こそが、今あんたのことを
想ってるあたしを存在させてるんだと考えてるのよ》
 鍋島はどう答えていいのか分からなかった。
《あんたも、大学講師のあたしが好きってわけじゃないんでしょ?》
「まあな」
《あたしもそうなの》麗子は自信たっぷりに言った。《あたしは、あたしのことが
好きだって言ってくれる勝也が好きなの。それだけでいいと思ってるわ》
「麗子──」
《だから、気にしないで》
「え?」
《……あたしのことなんか気にせずに、やりたいようにやって》
 鍋島は麗子の言わんとしていることが痛いほど分かって、とても申し訳なく
思った。
「……ごめんな」
《あら、どうして謝るの?》
「せやかて──」
《あたしだって自分の好きなようにやりたいから、あんたにもそう言っておこうと
思っただけよ》
「分かってるよ」──その言い方、おまえらしいな。
《分かってくれた? ならいいのよ。言いたかったのはそれだけ》
「麗子、あの──」
《勝也、あたしのこと愛してる?》
 麗子は突然訊いてきた。
「でも俺は──」
《どうなの?》
「知ってるんやろ? 俺が──」
《訊いてるのはあたしの方よ》
「ああ、うん」
《答えて。あたしが好き?》
「……ああ、もちろん」
《良かった。あたしもあんたが大好きよ。世界で一番》
 麗子は恥ずかしそうに、しかしはっきりと言った。《じゃあ、もう切るわ。
まだ少し仕事が残ってるの。夏休みの論文の採点よ》
「……うん」
 鍋島は素直に頷いた。そこへ── 
《おやすみなさい。謹慎中の刑事さん》
「!────」
 不意を突かれて返す言葉を失った鍋島を受話器のこちらに置き去りにして、
麗子は電話を切っていった。
 鍋島は受話器を置けないでいた。接続音の鳴るのをしばらくのあいだ
ぼんやりと聞いたあと、ゆっくりと戻した。
 そのまま受話器に手を置いて深く息を吸い込んだ。吐くと同時に笑いが出た。
 恋をしているんやな、とそれだけ思った。














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