第六章 その3
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通りに面したバルコニーで、鍋島はパジャマ姿の亮介と一緒に、あたりに
そびえ立つビルの四角い明かりを眺めていた。
「刑事さんらの警察はどこ?」
亮介が訊いた。
「ずっと向こうや。高いビルで見えへんけど」
鍋島は見慣れた景色を目でたどりながら言った。目の前の高層ビルに
遮られて遠くまでは見渡せなかったが、視界に広がる単一色のステンド
グラスを張り巡らせたような街並みの半分は彼らの所轄区域だった。
この三年近く、彼らはその中のあちこちを行ったり来たりしながら、
街の生きたゴミを掃除して回っているのだ。
「亮介、お母ちゃんが戻ってきてくれて嬉しいか?」
鍋島は答えの分かりきった質問をした。
「うん、嬉しい」
亮介は、最初に出会った頃の彼には見られなかった、子供らしい笑顔で
鍋島を見上げた。
「よう我慢したもんな」
「刑事さんが『今は我慢するしかないやろ』って言うたから」
「ああ……そんなこと言うたっけな」
鍋島は照れ臭そうに俯いて言った。そしてやがてゆっくりと顔を上げると、
ほぼ円に近い形に膨らんだ月のぽっかりと浮かぶ夜空を見上げた。
「なあ、亮介」
「なに?」
「これから、まだまだいろんなことがあると思うし、もしかしたら今まで以上に
苦しいことが起こるかも知れんけどな。そんなときでも、絶対にひねくれたら
あかんぞ。ひねくれて、どうでもええなんて思たらあかん。おまえには、
おまえのことを頼りにしてる菜帆がいてるんやってことを忘れんようにしろ。
……たとえこの先、菜帆と離れて暮らすようなことになってもな」
「うん」
「死んだ俺の母親がよう言うてたよ。『嫌なことやら哀しいことがあった
ときは、いつも夜になるまで我慢して、夜になったら空を見上げて星を
探してごらん』って。大人になるにつれてそういうことがくだらなく
思えてくるし、おまけにこんな街で暮らしてると、星なんかどこにあるのか
分からへんけど、探せば必ず見つかるもんなんや。で、見つけられたら
それに願いごとをするとええらしい。『今の苦しみから抜け出す勇気が
持てますように』ってな。そしたら必ずいいことがあるって……そう言うて
いつも俺のことを慰めてくれたんや。病院のベッドの上から」
鍋島は亮介に振り返った。「覚えといたらええよ」
「うん。分かった」
「おまえやったら、頑張ったらどんなことでも乗り越えられると思うしな」
そう言うと鍋島は手に持っていた煙草の箱から一本を抜き取り、
ライターで火を点けた。
「もう一人の刑事さんはどこに行ってはるの?」
「あいつは今、彼女と一緒や」
「カノジョって?」
「好きな女の人のことや」
「すぐに帰ってきゃはる?」
「朝には戻るって、さっき電話があったけど──それもどうか分からんな」
「ふうん」
亮介は面白くなさそうに返事をすると空を見上げた。「あ、星があった。
小さいけど」
「小さく見えるんや。空が汚れてるから」
「──お母ちゃんと、ずっとずっと一緒に暮らせますように──」
鍋島は亮介の心からの願いに胸の詰まる思いがした。こんな当たり前の
ことを、他の何よりもまず願う子供なんて、今どきどれだけいるだろうか。
「さあ、もう中へ入れ。そんな格好で長いこと外へ出てると、今度はおまえが
風邪ひくぞ」
「うん」
亮介は頷いて、テラス用の椅子から足下を探るようにしてゆっくりと下りた。
亮介を部屋の中へと促しながら、鍋島は振り返ってさっきの星をじっと見ていた。
翌朝、北村刑事に連れられた杏子が子供たちを迎えに西天満署に現れたのは、
午前九時を少し回った頃だった。
刑事課で連絡を受けた鍋島と芹沢は、子供たちをつれて一階のロビーへと
向かった。亮介が廊下の先を行き、二人はそのあとをのんびりと続いた。菜帆は
芹沢の手に引かれていた。
階段を下りると、ロビーの長椅子に杏子の姿があった。
オフホワイトのニットアンサンブルにゆったりとしたベージュのパンツという、
昨日とはまるで違う飾り気のない格好で、髪にはヘアバンドの代わりにパンツと
同じ色のリボンを結んでいた。化粧も薄く、こうして見るとどこにでもいる
ごく普通の母親以外の何者でもなく、男から横取りした拳銃を盾に、暴力団相手に
強請りを働こうとした女だとはとても思えなかった。
「──あ、お母ちゃん!」
「亮ちゃん……!」
杏子は母親らしい笑顔で立ち上がった。
亮介は走り出した。杏子はしゃがんで手を差し伸べ、飛び込んでくる亮介を
抱き留めた。そしてしばらくは亮介の頭を撫でながらしっかりとその肩を
抱いていたが、やがて近づいてきた鍋島と芹沢を見るとぎこちなく頭を下げた。
「菜帆ちゃん」
杏子は亮介を抱いたまま、今度は芹沢に連れられた菜帆に手を伸ばした。
芹沢は菜帆からそっと手を離し、彼女が杏子に引き寄せられるのを見送った。
ゆっくりと立ち上がると、杏子は居心地の悪そうな顔をして二人の刑事を見た。
「──すみませんでした、あの……」
「いいんですよ」と芹沢は言った。「あなたがこれから、ちゃんとこの子たちの
母親をやってくれるんなら、俺たちはそれで」
「……ええ」
「まず亮介くんを学校に通わせる手続きをとってください」
鍋島が言った。「彼は頭がええから、すぐにみんなに追いつけると思いますよ」
「それから、菜帆ちゃんの方も。児童相談所か、市の福祉課に相談するといいと
思います」芹沢が付け加える。
「分かりました」
「本当に、約束していただけますね?」鍋島の目は厳しかった。
「はい」
「お願いします」
芹沢が亮介の前にしゃがんだ。「じゃあな、悪ガキ。元気でやれよ」
「うん」
「妹のこと、ちゃんと守ってやるんやで」
「うん、分かってる」
芹沢は今度は菜帆に振り返った。口に入れている親指をそっと外して
やると、ほんのりと赤い頬を人差し指でそっと触り、にっこりと微笑んで言った。
「二十年経ったら会いに来てくれよ」
「……おいおい」鍋島が溜め息をつく。
そして二人は杏子に会釈して階段を戻っていった。
「刑事さん……!」
亮介に呼び止められて、二人は振り返った。亮介は杏子の手から
離れて二、三歩前に出ると、そこで立ち止まって言った。
「僕……僕、大きくなったらお巡りさんになりたい。刑事さんたちみたいな」
二人は一瞬視線を合わせた。子供にそんなことを言われるのは初めて
だったし、また日頃からそう言われたいなどとも思っていなかったので、
彼らには亮介のその言葉が意外だった。
やがて二人は照れ臭そうに笑い、亮介に向き直るとそれぞれ手や首を
振りながら言った。
「やめとけ」
「……何で?」亮介は腑に落ちない様子だった。
「いいから、悪いこと言わねえよ」
芹沢はにやにや笑って言うとそのあとすぐに真顔になり、亮介の後ろに
立った杏子をじっと見つめながら言った。
「……拳銃なんか、絶対に持つなよ」
杏子は後ろめたそうに俯いた。
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