プロローグ その3(後)
マンションは地下鉄の天六(天神橋筋六丁目)駅にほど近く、芹沢の言うとおり
立地条件は良かった。二人はマンションの筋向かいにあるオフィスビルの
地下の寿司屋で食事をし、その後隣のビルのバーで酒を飲んだ。九月に
入ってもまだ日中は蒸し暑く、今日のように力仕事をするとあっという間に
たっぷりと汗を掻いた。しかし夜になるとその暑さも幾分衰え、二人がバーを
出た十時頃には、外では透き通った初秋の空気が流れていた。
「──さてと。ほな俺、帰るわ」
交差点の前で鍋島が腕時計を見て言った。
「悪かったな。デートのキャンセルさせて」
「そう思うんやったら、最初から頼んでくるなよ」
鍋島は笑いながら言うと前に伸びた横断歩道に足を踏み出した。「じゃあな」
「ああ」
そのとき、横断歩道の向こうから一人の少年が走ってきた。胸のあたりで
腕を組み、少し俯き加減で全力疾走してくる。そして同じように下を向いて
歩き始めた鍋島の腕に肩をぶつけると、バランスを崩して前のめりに倒れた。
「大丈夫か?」鍋島は少年に近づいた。
六、七歳くらいのその少年は何も言わずに立ち上がり、転んだ拍子に
抱え込んでいた両腕からこぼれ落ちて車道に散らばったインスタントラーメンの
袋やレトルト食品を拾い始めた。
「おい、危ねえよ。信号が変わっちまう」舗道にいた芹沢が声を掛けた。
しかし少年は相変わらず黙ったままで、夢中で地面に這いつくばっている。
鍋島と芹沢は仕方なく彼を手伝った。
「ほら、これで全部や」
鍋島は少年を舗道に引き入れ、拾った食品を差し出した。「怪我ないか?」
少年は二人を見上げた。真っ黒に陽灼けした小さな丸顔で、同じように丸い
黒目がちの瞳を大きく見開いている。団子鼻が腕白そうだった。
そして彼は鍋島の手から食品をひったくるとくるりと背を向け、再び全力で
走り去った。
「ちぇっ、何やあれ?」鍋島は舌打ちした。「自分からぶつかって来といて、
何の挨拶もなしか」
「よっぽど腹が減ってんじゃねえの」と芹沢が言った。「こんな時間にあんな
ガキが独りでうろうろしてるなんて、親は何やってんだろうな」
すると、今さっき少年が走ってきたのと同じ方向から、今度は三十代半ばの
男がこちらに向かって走ってきた。太めの身体を重そうに揺らして、黒縁の
眼鏡を小鼻のあたりまでずらしている。やがて横断歩道の前まで来ると速度を
落としたが、目の前の信号が青なのを確認するとまたすぐに走り出した。
「……解った。ガキが急いでたのはあれが原因だな」
芹沢は走ってくる男を見ながら言った。
鍋島も男を見た。そしてすぐにその意味を理解した。男はひと目見てそれと
分かる、有名なコンビニの制服を着ていたのだ。
「す、すいません……!」男が二人に声を掛けてきた。「今、こっちに男の子が
来ませんでしたか?」
「来たけど、行っちまったぜ」
男は二人の前まで来ると立ち止まり、息を弾ませた。「……どっちへ?」
「あっち」と鍋島は自分の後ろのビルの角を指差した。「けど、もうずっと先へ
行ってしもてるで」
「ちくしょう……」
「派手にやられちまったってとこみたいだけど」芹沢は男に言った。
「ああ、迂闊やった」男は言うと首を振った。「こっちが別の客の相手してる
うちに、ごっそり持っていきよった」
「そいつは気の毒に」
「どこのガキか、分かってんの?」
と鍋島が訊いた。職業柄、つい尋問癖が出る。
「いや、分からん。見たこともない顔やった」
「おたくの店はどこ?」芹沢も尋問癖を出した。
「二筋向こうのコンビニ」
男は親指を後ろに向けた。しかし二人の顔を眺めると、怪訝そうな表情を
浮かべて言った。「あんたら、何モンや?」
「いや、別に。俺たちもあのガキにぶつかってこられて、腹立ててるもんでね」
「ああ、そうか。……ったく、油断も隙もない」
「盗んでったものって、インスタント食品ばっかりやったよな」
「そや、見たか?」男は鍋島に向き直った。「きっと、親が仕事か何かで留守
なんや。それでこの時間になって腹が減って──」
「それにしたって、家に食い物くらい置いといてやりゃいいのにな」
男はとんでもないとでも言いたげに顔の前で手を振った。「親がちゃんと
しとったら、子供があないなるかいな。子供と親は合わせ鏡やからな」
「だとよ」
芹沢は言うと鍋島に振り返った。鍋島は面白くなさそうに口を歪めた。
やがて男は「今度見つけたら、ただではおかん」と呟きながら疲れた足取りで
来た道を戻っていった。鍋島ももう一度芹沢に別れを言うと、横断歩道を渡って
天六方面へと向かった。残った芹沢は鍋島とは違う横断歩道を渡り、越してきた
ばかりのマンションへと帰っていった。
少年はまだ走り続けていた。盗んだ食品を両手でお腹の辺りに押さえ込み、
ビルの間の路地を通り抜けていく。路地が表通りにぶつかるとぐっと速度を
落とし、人目を盗むように通りに出る。やがて上手に人の流れに紛れ込むと、
今度はゆっくりと歩き出す……。
こんなことを彼はもうひと月近くも続けていた。
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