プロローグ その3(前)
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翌日、朝の十時から始まった引っ越しは好天に恵まれて順調に進み、
すべての荷物を新しいマンションに運び終えた引越屋が帰っていったのは
午後一時を過ぎた頃だった。
鍋島は芹沢と約束しておいた午後二時を少しまわった頃に新居に現れた。
マンションは明るいベージュ色を基調としたタイル張りで、一階の一角には
美容室と花屋のテナントが入っていた。鍋島はそれらの店とは反対の道路
沿いにある幅広い階段の下に立ち、この上品な集合住宅を見上げた。
各階のバルコニーはゆったりと広く設けられており、その幾つかからは
色鮮やかな鉢植えの葉が垂れ下がっていた。鍋島は視線を落とし、正面を
見た。階段の先には広いエントランス、そしてその奥の大きな一枚ガラスの
自動ドアの向こうには吹き抜けになっているらしい中庭が見える。
大阪の真ん中でこれほどのマンションに住むとなると、いくら景気回復には
まだまだだと言われる現在でも、3LDKならまず五千万は堅いところだろう。
並みのサラリーマンはおろか、ちょっとした会社の役員でも簡単には手を
出せないのではないか。ましてや二十代の公務員が買うなんてのは夢の
また夢だ。
──ちくしょう、芹沢のやつ、親父さんから三千万はもらってるはずやな。
それでも三分の一近くは税金で持って行かれて、残りは結局借金か。
鍋島は相棒の懐事情を計算しながら溜め息をつき、エントランスへと続く
階段を上がった。
部屋に入った鍋島は直ちに荷ほどきに加わり、おおよその収納を終えた
夕方には部屋はそれなりの格好がついていた。
「これでだいたいは済んだかな」
廊下からダイニングへと入るドアの前に立ち、芹沢はまだ空間の目立つ
部屋を眺め渡して言った。
「後は追々片付けて行けよ」鍋島が和室の戸口から顔を出した。
「ああ」
「それにしても、一人で住むには広すぎるな」
「前の部屋の倍以上はあるからな。でも、このために一生働き続けなきゃ
ならねえと思ったら、決して広すぎるわけでもないぜ」
「そうやな。それに、家族が増えたらちょうどかな」
「俺は独りでいるさ」
芹沢はキッチンに入ってシンクの蛇口を捻った。
「そうか? こんなとこにずっと独りでいるのも淋しいもんやで。さっき
来るときに何気なく見たけど、この階で独りもんはおまえぐらいと違うか」
「関係ねえよ、そんなこと」芹沢は平然と言った。「それに、ここはプレイスポット
へのアクセスもいいからな」
「そういうことばっかり考えてるんやな、おまえは」
鍋島は呆れたように芹沢を見て頷くと、キッチンのカウンターに置かれた
電話の前に行って受話器を取った。
「どこに掛けるんだよ?」
「横浜」鍋島は通話スイッチを入れた。「この際言いつけてやる」
「やめとけよ、見え見えの芝居は。あいつの携帯の番号なんて知らねえくせに」
「携帯になんて掛けへんよ」
鍋島は番号を押して耳に当て、にやりと笑った。「うちの署に問い合わせて、
あっちの署に掛けるんや」
「よせよ──!」
芹沢は慌ててカウンター越しに受話器を取り上げ、スイッチを切った。
「シャレや、シャレ」
「……シャレになるかよ」
芹沢の恋人は神奈川県警の刑事だった。三ヶ月近く前、彼女が強盗を追って
大阪へやって来たとき、西天満署刑事課が協力したのがきっかけで芹沢と
恋に落ち、つき合い始めたのだ。
「それやったら言わせてもらうけどな」と鍋島は真顔になった。
「何だよ」
「俺も、ガキやないから他人の女癖をとやかく非難するつもりもないし、野暮な
ことも言いたくないけどな──」
「今さら遠慮か? ガラにもねえ」
「離れてつき合うてると会うこともままならへんし、つい他の女に目移りするのも
分かる。そうやなくてもおまえはマメやからな。ただ……問題はそのやり方や。
昨日も言うたけど、おまえの場合はいつもベッドまでのフルコースやろ。いくら
なんでも、決まった相手のいる今はもうそれはやめとけよ」
「分かってるよ」と芹沢は俯いた。
「知らんからええようなものの、一条が可哀想や」
芹沢の彼女の苗字は一条と言った。
「フルコースはやめとくよ」
「それが当たり前や」
と鍋島は言った。「さあ、メシでも奢ってもらおかな。フルコースでなくてええから」
「おまえとそんなの食いたかねえよ」
芹沢は溜め息混じりで言うと笑った。
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