幕間 その2(前)
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ドアを開けて彼を出迎えたのは麗子ではなく、野々村真澄
だった。
「あ──」
鍋島は驚きの表情を隠すことができず、思わずぽかんと口を開けて
呟いた。
「来てくれたんやね、勝ちゃん」
真澄は言った。落ち着いた光沢のある濃紺のブラウスに真珠のネックレスを
着け、同色のラップスカートをはいた小柄の女性で、憂いを帯びた大きな瞳で
鍋島を見上げている。そして弔問客を迎えるにはむしろ相応しいとも言える、
疲れの色も伺えた。
真澄は麗子の従妹で、亡くなった麗子の母親は彼女の母親の姉だった。
京都の歯科医の娘で、女子大卒業後は自宅で茶道と華道を教えており、
アメリカ育ちで自立心旺盛な麗子とは正反対の、箱入り娘タイプの女性
だった。だが年齢は二十六歳と麗子と近く、アメリカと日本とに離れては
いたが、二人は子供の頃から仲が良かった。
鍋島とは四年前に麗子を通して知り合っており、そして長い間彼に恋心を
抱いていた。それを知った鍋島も一度は彼女とのことを前向きに考えようと
したが、肝心なことには極めて優柔不断な彼は結局、彼女の気持ちには
応えなかった。そして鍋島が本当に心に想っているのは麗子なのだと知った
真澄は身を退き、自分も親のすすめる見合いをしたのだった。その後も
彼女は彼への想いを引きずってはいたが、最近になってようやく気持ちの
整理がついたのか、見合い相手とまもなく結婚することが決まっている。
「どうぞ、入って」真澄は言った。「昨日から来てた親戚の者がさっき帰って、
今はおじさまと麗子だけやから」
「ああ、うん」
鍋島は頼りなく頷き、真澄に促されて中へ入った。
広い廊下を右へ行き、鍋島は二間続きの和室へ通された。普段彼が
麗子を訪ねたときに入るのはもっぱら今の廊下を左へ行ったリビングか
ダイニング、あるいは二階の麗子の部屋だったので、この和室に入るのは
初めてだった。
奥の八帖間に仏壇があり、今はその前に真新しい位牌に遺骨、そして
黒く縁取られた白黒の母親の遺影などが並ぶ斎壇が設えてあった。
手前の六帖間には隅っこにたくさんの座布団が積み上げられ、真澄の
言ったとおり昨日は多くの弔問客がここを訪れたようだった。鍋島は
その六帖間の下座に正座し、隣の部屋の遺影をぼんやりと眺めた。
するとまた十六年前のあのときがおぼろげに思い出され、麗子の母親の
顔が自分の母親に見えてくるようだった。
やがて緑茶の茶器を乗せた盆を持ち、真澄が静かに入って来た。
鍋島の前に少し控えて座り、しとやかな手つきで茶を差し出す。そしてまた
静かに立ち上がって床の間の脇にある明かり取り窓の障子を少しだけ
開けた。こういうときの立ち居振る舞いの美しさが、さすがは茶道や華道の
先生だと感心させられた。
「──勝ちゃんは今、相方さんのとこにいるんやってね?」
真澄が訊いた。
「ああ、ちょっと仕事の都合で子供を預かってるから。料理番や」
「相方さん、新しいマンションに引っ越さはったって聞いたけど」
「それであいつに役目がまわってきたんや。子供を預かれって」
鍋島は苦笑した。「あいつ、悪戦苦闘してるよ。想像つくやろ?」
「うん。女の人の扱いには馴れてはるみたいやけど、子供はね」
と真澄も微笑んだ。
長いストレートの髪を後ろで一つに束ね、白い肌を輝かせて顔をほころばせて
いる。ここ半年ほどのあいだに急激に大人っぽくなったように鍋島には思えた。
「あの──麗子は?」
鍋島は遠慮がちに訊いた。麗子に対する自分の気持ちに気づくのが
遅かったせいで、慕ってくれていた真澄に辛い思いをさせてしまったことに
ずっと負い目を感じていたからだ。
「ええ、それが──」真澄は鍋島から視線を外した。「ここ数日、よく眠れへん
日が続いてたみたいやの。それに、さっきまで親戚の者が来てたから、
ちょっと疲れてしもたみたいで。勝ちゃんが来るって分かってたし、待ってる
つもりみたいやったらしいけど……とうとう眠ってしもて──」
「そうか」と鍋島は言った。「別にええんや。今日はあいつに会いに来たって
言うより、お悔やみを言いに来たんやから」
「おじさまはもう来られると思うわ。今、着替えてはるみたい」
「──ああ、うん」
「あれ?」
真澄は悪戯っぽい目をして、俯いている鍋島の顔を覗き込んだ。「勝ちゃん、
緊張してるでしょ」
鍋島はちらりと真澄を見た。依然として嬉しそうに微笑み、しかもわざとらしく
余裕を見せて胸の前で腕を組んでいる。左の薬指には、小さな真珠を
あしらった指輪が光っていた。
「おまえ……面白がってるな」
「そんなことないって」
そう言った真澄はしかし、明らかに面白がっていた。そしてさらに意味
ありげな笑顔になると、ゆっくりと立ち上がり、戸口に向かった。
「あたしはいつでも勝ちゃんの味方やからね」
真澄が部屋を出ていくのを見送り、鍋島は大きく溜め息をついた。それから、
じっと待っていても仕方がないと思ったのか、ゆっくりと仏壇の前までにじり
寄っていくと、上着の内ポケットから香典を出して斎壇に置いた。線香を
取って蝋燭の火を移し、灰の中に立てると数珠を持って手を合わせた。
「──や、お待たせしました」
その声で鍋島は振り返った。
長袖の黒のポロシャツにグレイのスラックスをはいた麗子の父親が、
穏やかな笑みを浮かべて部屋に入ってくるところだった。
「久しぶりだね、鍋島くん」
父親は言った。ほっそりとした優しそうな男性で、六十歳前後と思われた。
少し長めの白髪混じりの髪が、いかにも外国暮らしの長い学者らしかった。
「御無沙汰してます」
鍋島は向き直り、深く頭を下げた。
「確か──六年以上経つね。ちょうどきみや麗子が大学を出るとき以来
だから」
「ええ、そのくらいやと思います」そう言うと鍋島は俯いた。「このたびは、
本当に突然のことで──お悔やみ申し上げます」
「それはわざわざご丁寧に」
今度は父親が頭を下げ、そしてゆっくりと顔を上げた。「……もう、諦める
しかないと思っているんですよ、私も麗子も。いくら悔やんでも、妻は戻って
こない。それより早く立ち直って、二人で妻の思い出話ができるように
ならなければと思っています」
鍋島は黙って麗子の父親が話すのを聞いていた。
「鍋島くんには、麗子がいろいろお世話になっているそうで。お礼を言います」
「いえ、そんな……」
鍋島は戸惑いを隠せずに顔を上げた。父親が娘の男に対して言う、
お決まりの嫌味にも聞こえたのだ。
「俺──僕なんかには何もできませんから」
「本当なら、麗子ときみのことで私たち夫婦に話があったらしいけど」
「そのことなら、こんなときですので、またいつか改めてということで。僕は
それで構いませんから、どうぞ──」
「いや、そんなお気遣いは無用ですよ」
と父親は鍋島の言葉を制した。「と言うより、できれば今日ここできみの話を
聞いておきたいんです。妻の霊前で」
「そうですか」と鍋島は小さく頷いた。
「それと言うのもね、鍋島くん。きみにとっては迷惑な話かも知れないが、
実は私たち夫婦はもうずっと以前から、きみのような青年が麗子の相手に
なってくれればいいと思っていたんですよ、そう、きみたちがまだ学生の
頃から。だからきみがそういう気持ちになってくれて、私は本当に喜んで
いますよ。いや、私だけじゃなく、きっと妻もそうだと」
「はあ……」
学生の頃の自分のどこがそんなに気に入られたのか分からない鍋島は、
半ば不安げな表情で返事をした。
「麗子を、あなたにお願いしていいんですね?」
父親は穏やかに訊いた。
「はい」
鍋島も静かに、しかしはっきりと答えた。
「幸せにしてくれますね?」
「……幸せにできるかどうか、それは自信がありません」
鍋島は言った。「でも、大切にしますよ」
父親はほっとしたように息を吐き、それから話し出した。
「あの娘は──麗子は、一人娘ということで甘やかしてしまわないようにと
気を遣い過ぎましてね。小さい頃から必要以上に突き放して育てたせいで、
あんな風に可愛気のない娘になってしまって……正直な話、結婚なんて
してくれるんだろうかと心配してたんです。そのくせ私たちは仕事の都合で
一緒に暮らしてやれない無責任なありさまで、実際妻とは、このまま
あの娘が一人でいても何の文句も言えないなという話までしてたくらいで。
だから鍋島くんにそう言ってもらえて、本当に感謝してますよ」
「僕の方こそ」と鍋島は言った。「ご存じやと思いますが、僕は公務員で、
安月給です。そのくせ仕事の中味は決して穏やかなものではないし、
時間にも不規則で、彼女みたいな大学の先生の相手には相応しくないと
自分でも分かっています。それが分かってても一緒にいたいと思うのは、
僕にとって彼女が──自分の人生と引き替えにしても惜しくないほど
大切な人やからです。長い間それに気づかへんかったのが不思議なくらい、
今となっては他の何にも、誰にも代えられないんです」
「……そんなに、娘のことを?」
「はい。遅くなりましたけど、そう思ってます」
父親は頷きながら目を細めて彼を見つめると、満足げに微笑んで言った。
「──鍋島くん、麗子はもうすでに幸せだと思いますよ」
「やとええんですけど」
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