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天使の瞳
作:みはる



第四章 その3(後)



 鍋島に連れられた亮介が刑事部屋に入ると、そこにいた刑事たちは
皆一様に安堵の色を浮かべて彼を見た。
「おい坊主、もう迷惑掛けるなよ」
 課長は苦笑しながらも、心底ほっとした様子で言った。
「良かった……亮ちゃん、心配したのよ」
 香代も満面の笑顔で亮介に近づき、正面まで来ると上体を屈めて
彼の顔を覗き込んだ。
 しかし亮介の手を引いた鍋島は何も言わずに香代の前を素通りすると、
そのまま自分のデスクまで彼を連れていった。
「──え?」と香代は立ち上がった。「あの、巡査部長──」
 香代の言葉で、窓際に立って外を眺めていた芹沢が振り返った。そして
直感的に鍋島のただならぬ様子を感じ取った彼が「鍋島」と声を掛けるが
早いが、鍋島は亮介の頬を音を立てて叩いた。
「あっ──!」
 香代は自分がビンタを食らったかのように小さく飛び上がり、両手で口を
塞いだ。
 亮介は二、三歩後ずさりしながらよろめき、しりもちをついた。
 驚きのあまり立ち上がれないでいる亮介を見下ろしながら、鍋島は静かに
言った。
「……今は我慢するしかないやろ。妹を見てみろ。ちゃんと我慢してるぞ」
 亮介の目はみるみる涙で膨らんだ。そしてすぐに小さな肩を震わせて
泣き出した。それでも鍋島は彼の前に立ちはだかったままで、今度は
吐き捨てるように言った。
「おまえがそんな根性なしの薄情もんやとは思わへんかったな。それでも
兄貴か。がっかりや」
 周囲の者たちは何が起こったのかすぐには分からず、唖然とした表情の
まま鍋島を眺めていた。
「お、おい、芹沢──」
 課長は焦ったように言いながら芹沢に振り返り、何とかするようにとの
目配せを送った。
 芹沢には鍋島の気持ちがよく分かった。亮介にもっと強くなって欲しいのだ。
まだ小さいとはいうものの、彼よりもっと小さな菜帆にとっては今や亮介
だけが頼りなのだから。十六年前の純子にとって、鍋島がそうであった
ように。
 芹沢は黙って俯き、重い溜め息を漏らした。

 それから一時間半後の午後三時、横浜の一条刑事から芹沢の携帯に
電話が入った。
 用件はもちろん、ホテルニュー横浜に田所杏子が現れたのかどうかの
回答で、結果はノーだった。一条は自分の他に五人の制服警官をわざわざ
私服に着替えさせて連れていったらしい。しかしホテルに杏子の姿を
見つけることはできなかった。それどころか、そのあいだに管内で起こった
強盗事件の現場に駆けつけるのが大幅に遅れてしまったと、彼女は芹沢に
愚痴をこぼした。

 一条いわく、
《──考えてみたら、いくら規模の小さなホテルだからって、全体でいったい
いくつの出入口があると思うの? 待ち合わせらしいって言うから、一応は
ロビーやラウンジなんかを重点的に張ってたんだけど、それらしい女は
現れなかったわよ。突然頼んできて、具体的な待ち合わせの場所が
分からないんじゃ話にならないわよ。もしかしたら宿泊してて、部屋で
相手を待ってたのかも知れないし。だとしたら然るべき令状を取って、
一部屋ずつ確認してまわるしか方法はないわね。一応、フロントにも
写真は見せたけど、全員見覚えはないって言ったわ》

 ということだった。そんなことは芹沢たちにも重々分かっていたが、
それでも一縷いちるの望みを持って一条に託したのだ。彼女はさらに、

《暴力団やストーカーに追われてる可能性があるって言ってたじゃない。
だったらもう消されたのかもね。もう一度その辺から洗い直してみたら?》

 などと言い、自分よりも三年先輩の芹沢に指図したのだった。
 いくら彼女が東大出のキャリア官僚組で警部の階級にあり、芹沢はその
二階級下の巡査部長だとしても、彼女は現場に出てまだ二年にもならない
のだ。
 芹沢は恋人のこの相変わらずの鼻っ柱の強さにいささか閉口し、
そのくせ虫も殺さぬような清純で気品の高い自分好みの容姿を思い
浮かべて、そのアンバランスさに愛しささえ感じながら満足げに電話を
切った。
 つき合い始めて二ヶ月のあいだに彼女と会ったのはまだ六度ほどで、
喧嘩らしい喧嘩もなく──ただしそれ以前にはさんざんぶつかった──
自分でもまさかこうなるとは思ってもいなかったことだが、彼女が可愛くて
仕方がなかった。ただそうだとしても、これまで女に不自由したことなど
一度もない自分がどうしてわざわざ女刑事なんかとつき合い──しかも
遠距離恋愛で──自分をストイックな状況に追い込んでいるのかいまだに
分からなかったが、それが現実だった。

 さらにそのあとすぐ鑑識からの報告が届いた。上島が上着のポケットに
遺していた新幹線の切符からは西川の指紋が多数採取された。それから、
上島の履いていた靴の爪先にわずかだったが古い血痕が付着しており、
慎重に照合した結果、西川の血液型と一致したと言うことだった。
 これまでの状況証拠に加え、上島が西川殺しの犯人だと断定するに足る
そこそこ十分な物的証拠が揃った。しかし皮肉なことに、それらは上島が
死んだことによって見つかったものばかりだった。

 結局、覚醒剤密売人西川一朗殺しに関する一連の捜査は、容疑者
上島武の事故死という思わぬ展開を迎えて終了するに至った。犯人を
逮捕せず、調書も取れず、つまりは被疑者死亡による書類送検という
形にしかならなかったが、とにかくこれで終わったのだった。

 しかし鍋島と芹沢は上島の死に大いに疑問を抱いていたし、杏子の部屋を
荒らしたという作業着の男の存在も気になっていた。相変わらず杏子が
姿をくらましていることも、西川や上島の死に無関係だと思っていない。
だいいち、子供たちはどうなるのだ。このままではあまりに宙ぶらりんで、
かと言って施設に行くにしても、作業着の男の正体がはっきりしないことには
また施設側が必要以上に恐れて受け入れを断るだろう。

 二人は自分たちが引き続いてこの一件を捜査できるよう、課長に頼んだ。 
 課長は芹沢の予想していたとおり、ケリの付いた事件をしつこく掘り返す
ことをとても嫌がり、それほど一係は暇ではないと言って渋った。しかし
一方で課長は日頃から、二人の刑事としての鋭い洞察力を評価もしていた。 
 そしてその二人が揃って事件の処理の仕方に注文をつけるのなら、
調べを続けさせる価値があるかも知れないと考えた。それに何より、
子供たちの世話を二人に任せてしまっているという負い目がある。
 そこで課長は、新事実が出てこない限り自分がやめろと言った時点で
すぐに手を引くことと、これから先の仕事に支障のない範囲で──つまりは
空いた時間に──動くということを条件に二人の要望を聞き入れてくれた。 
 要は、二人で勝手にやれと言うのだ。これは鍋島の予想していたとおり
だった。

 そしてこのことが、後に二人をとんでもない行動へと駆り立てる引き金と
なるのだ。













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