Side:サクラ-1-
あたしが三十歳の時、弟の明良は二十六歳で結婚した。
そして二年が過ぎ、あたしが三十二歳になる頃――突然電話が鳴った。
母さんと嫁の間で板挟みになっていてとても苦しい、だから相談にのってもらえないかと弟のアキラは言った。
その頃、あたしは「嵐の中で抱きしめて」という陳腐なタイトルの(でも中身は面白い)ドラマの脚本を書いている最中で――「悪いけど、そんな暇ないわね」というのが本音ではあった。
ベルビュー荘をでたあと、二度ほど引っ越しをして、今あたしは昔の男が買ってくれたマンションと同じくらいの場所に住めていたといっていい。
今ではその頃と同じくらいの量の靴やブランド服に囲まれることが出来ている……違いといえば、男に買ってもらったか、自分で買ったかというそれだけのことだった。
そういえば、レンがアフガンから帰ってきて初めてうちへ来た時――こう言っていたことがあったっけ。
「まあ、自分で働いた金で優雅な暮らしをしてるんだろうから、何も言えないけどな」
呆れたような溜息を着き、何も言えないと言いながらもやはり奴はこう言った。
「犬は自分が吐いたゲロに再び戻るっていう言葉があるの、知ってるか?おまえ、ベルビュー荘でなんにも学ばなかったとか言わないよな?金もなく友もなく恋人もなく……でも、そこから夢を見つけたとか、俺の中じゃあそういう美しいストーリーが生まれていたんだけどな」
「べつに、いいじゃないの」
あたしはレンの毒舌にも気分を害することはなかった。
何故といって、結婚するためとはいえ、レンが日本へ戻ってきてくれたことがとても嬉しかったからだ。
「ボロは着てても心は錦って言うでしょ?あれはね、着る物も心の中も錦なのが本当はいいけれど、今の自分は超貧乏で錦なのは心だけ……みたいな意味なのよ、たぶん。ベルビュー荘にいた頃のあたしは、ちょうどそれだったわけ。でも今はお金も手に入って着る物も心も錦になりましたってこと。アフガンで砂にまみれて貧しい生活を送ってたあんたには、わかんないでしょうけどね」
「ああ、わっかんねーな」
レンの奴は巨大なクマのぬいぐるみを脇へのけると、白い革のソファに腰かけている。
「クマちゃん!」
あたしは即座にレンの奴がどけたクマのことを抱きしめに走った。
まるで、ここぞとばかりに。
「なんてことすんのよ、レン。あたしの大事な大事なクマちゃんに!!」
「なんだよ。クマのぬいぐるみ虐待防止命令とかいう法律が、俺のいない間に日本では可決されたのか?」
べーっと舌を出してやりながらあたしは続けた。
「このクマちゃんはね、あたしが今つきあってる彼がくれたものなの。彼のかわりに大切にしてるんだから、いじめたりしないでちょうだい!」
「いじめっておまえ……邪魔だからちょっとよけただけだろーが。っていうかおまえ、また男変えたのかよ、このビッチめ」
「ふーんだ。あんたこそ、結婚するんでしょ?テニスコートでパンチラしない女と。その点あたしは違うわよ。クマちゃんとはね、スカッシュクラブで知りあったの。スカッシュって、有酸素運動としてすごくいいのよ。で、クマちゃんはスカッシュコートでバンビのようにすらっと足の長いあたしと恋に落ちたってわけなの」
「ふーん、あっそ。なんにしても可哀想なクマ公だな。こんなビッチなバンビになんの間違いから惚れたのかは知らないけど」
――レンとあたしの会話というのは、大体いつもこんな感じだ。
あいつがアフガンにいる二年の間にわたしは奴の言うとおり何人か男を変えたし、事実ビッチと呼ばれても仕方ない人生だとも思う。
でもレンは知らないだろう。もしいつかレンが帰国して、その時あいつに恋人の影がなかったら、わたしが何を置いてもレンとそういう関係になりたいと思っていたことなんて。
なんにしてもあたしは、レンが結婚するという相手のことが気になって、かなり強引に奴の新婚家庭へ押しかけていったことがある。
その時にレンの結婚相手の飛鳥ミチルさんに対してわたしが感じた第一印象というのは――(あんまり美人じゃない。よかった、バンザーイ!!)というものだっただろうか。
もちろんこれは、相手があんまり美人じゃないから、これから自分にレンのことを向かせられる可能性があるとかなんとか、そんなことじゃない。
単に、人道支援なんていうものをやっている上、非の打ちどころもない美人だったりしたら、わたしの心の中で何かがとても惨めだという、そういう話。
ミチルさんはわたしと会うなり、「出来れば三十秒で帰ってほしい」といったような、困惑した顔をしていたけれど、もしわたしが彼女の立場なら、ミチルさんとまったく同じことを思ったに違いない。
愛はあるけど、ボロいアパートの二間しかない狭い部屋、そこで「お客さんが来るってわかってたら、ちゃんとお茶菓子用意しておいたのに」などと言われつつ、ぼりぼりとせんべいを貪るわたし。
「レン、あんたって意外に甲斐性ないのね。まさかとは思うけど、これから生活保護でも受けて暮らしていくつもり?」
「馬鹿言え。就職先くらい決まってるって。ミチル、こんな奴に茶なんか出す必要ないぞ。というより、こいつが帰ったら、塩でもまいとけ」
「ひっどーい!!なんなの、あんた。せっかくオトモダチが心配して遊びにきたっていうのに!」
「嘘つけ。大体俺とあんたが友達だったことがあるか?」
「あら、あたしとあんたがもし友達じゃないなら、一体なんだっていうのよ?」
差し出された麦茶を飲みつつ、あたしはレンのことを軽く睨んでやった。
「たぶん、ただの知り合いだろ。それか昔同じ下宿で暮らしてたよしみってやつか?どっちにしろ、俺これから用があるから、さっさと帰ってくれ。駅までなら一緒に歩いていけるだろ」
「ふう~ん、あっそ。なんかごめんなさいね、新婚家庭にお邪魔虫が突然やってきたみたいで……あたしって、あんたにとってはただの知りあいクラスってわけね、友達でもなんでもなく」
「わかったよ、友達ってことにしとけばいいんだろ。っていうか、人んちに来てせんべいの食べカス、そんなに大胆に飛ばすなって……まあ、べつにどうでもいいけどな」
――この時のレンの態度というのは、ベルビュー荘の大事な住人たちを守ろうした時と、大体似たような反応だったといっていい。
ビッチの吐く腐臭に清らかな妻が感染したら大変だとか、そんなふうに思っているのが見え見えの態度だった。
そして駅まで一緒に歩いていきがてら、あたしはレンに「ミチルさんは、真剣にテニスの試合に熱中するあまり、パンチラのことなんて考えてもみないんじゃない?」と言ってやることにした。
そしたらあいつ、なんて言ったと思う?
「ああ、だから好きなんだ」
だって!!まったく、ムカつくったらないわよねえ?
あたしは電車がやってくるまでの間(ちなみにレンとは乗る方向が逆だった)、自分には愛しのクマちゃんがいて、たぶん彼と結婚するかもしれない、なんていうことを奴に話していた。
そして、あいつと別れたあとで泣いた。
もうとっくに諦めたつもりでいたのに、あらためてこれが現実なのだと知り、それから二週間は感情的に浮上できないまま、自分の部屋で暗く過ごした。
といってもまあ、今ではすっかり立ち直ったとはいえ……恋のボディブローはあとからじわじわ利いてくるぜ、お嬢ちゃん?てな具合で、その後もレンに会うたびに、奴の幸せそうな顔を見るたび、あたしは顔は笑っていながらも心の中は微妙だということが、何度かあった。
そしてそのたびにあたしのことを救ってくれたのが、恋人のクマちゃんと、ドラマの脚本を書くという仕事だったかもしれない。
実際のところ、人間幸せなばかりでいると、ろくなものなど書けやしない。
そういう意味でレンに失恋したのは悪いことばかりとは言えなかったけれど、もしあいつがいつか「実は俺、離婚することになった」なんて言おうものなら――わたしは「サンクス、ジーザス!!」とばかり喜ぶに違いなかった。
一応、表面上はその<喜び>をひた隠す礼儀くらいはわきまえていたにせよ。
なんにしても、あのレンが結婚を決意したほどの女性なのだから、まあそんなことはありえないとわたしはよくわかっているつもりだ。
だから、そうした事情について何も知らず、とにかくひたすらわたしの元気がでるようにしてくれたクマちゃんと、結婚しようかとわたしは今かなり本気で考えている。
ちなみにこのクマちゃん、レンに見栄を張るためにあたしの脳みそが考えだした架空の人物ではない。
とりあえず、彼については後述することにして――今は弟と彼の抱える問題に一旦焦点を当てたいと思う。