Side:レン-5-
画廊のガロは、近くに大きな美術館のある通りから、一本道の引っこんだ場所に位置している。
つまり、その美術館へいった帰りにちょっと他の画廊にも寄ってみてはどうだろうか……といった感じで、ガロ以外にも小さな画廊や古美術商、あるいは稀覯本を扱う古本屋などが並ぶ通りの一角にあるのだった。
俺は吾味さんと約束していたとおり、午後の二時にガロの入っているビルの四階――「ハワイアン」という名前の喫茶店までいったのだが、思っていたとおり、彼は約束の十分前に到着した俺よりも先にその場へ来ていた。
「なんでも好きなもの、注文してください。ここのおかみさん、家賃をもう半年くらい滞納してますから、そのかわりいつ何を食べてもただっていう、僕や叔父とはそういう関係なんです」
平日月曜の午後二時とはいえ、ハワイアンでは閑古鳥が鳴いていた。
この店の一体どこらへんが<ハワイアン>なのかさっぱりわからない、ハワイを連想させるものが一切ない喫茶店で、アンティークなイギリス家具が並んでいるというだけの、地味な店内。
メニューのほうもスパゲッティやドリア、ハヤシライスといった洋食の他に、パフェやコーヒーや紅茶、ケーキセットなどがあるだけの、これからも流行りそうな予感をあまり感じさせない品揃えだった。
「味のほうは、どれもなかなかイケるんですけどね、まあここは場所が悪いんだろうな。一本通りを向こうにいけば、美術館帰りの客がくるオサレな店っていうのがたくさんありますからね。そこからこぼれてくる昔ながらの客が前までは結構いたんですが、最近はなかなか……」
無愛想な顔つきのウェイトレスが注文をとりに来たので、俺はとりあえずアイスコーヒーを頼むことにした。
吾味さんはオムライスやボンゴレなんかも美味しいですよ、と勧めてくれたが、生憎あまり食欲のほうがない。
これも暑さのせいかもしれなかったけれど、喫茶店のハワイアンはしっかり冷房が効いているというだけでも、その時の俺には天国のような場所だった。
「それで、例の話、考えていただけましたか?」
吾味さんはすでにパエリアを注文してあるとのことで、俺のアイスコーヒーと一緒にすぐそれが運ばれてきた。
「ええ、まあ」
俺はアイスコーヒーを飲みながら頷いた。
吾味さんはシーフードのたっぷり入ったパエリアを、美味しそうにスプーンで掬って食べている。
「この喫茶店は、このビルが出来た当時からありましてね。僕は叔父の画廊へ遊びにいくたび、ここへ来るのが本当に楽しみでした。ここへ上がってくるまでにミズシマさんも見たかもしれませんが、このビルは七階建てで、一階と二階が画廊のガロ、三階には美容室、五階にはエステサロン、六階にブティックが入っています。前まで……というのは、叔父が自殺する前までっていうことなんですけど、七階には歯科医院が入ってました。でも、そこを経営していた歯科医が叔父の自殺と同時に退去しましてね。それじゃなくても人の足が遠のいてるのに、これでもう誰も来なくなるだろうみたいに思って、別のビルへ引っ越していったんですよ。まあ、無理もないといえば、無理のない話ですよね」
そうですね、というように俺は頷くと、窓の外の風景を眺めた。
すぐ近くにマンションが建つ予定らしく、工事中の建設現場が目に入ってくる。
あのマンションに住む予定の人たちが、客として流れてきてくれれば、このハワイアンも少しは流行るだろうか、などと思いつつ。
「そこで、ですね。一枚も絵が売れなくても十七万支払うだなんて、ミズシマさんには聞くからに胡散臭い話のように思えたかもしれません。でも、僕がミズシマさんにお願いしたいのは――このビルの管理も含めて、ということなんですよ。ミズシマさんは以前、建物の内装美術であるとか、インテリア・コーディネーター的な仕事もされていたと聞きました。ですからわかっていただけると思うのですが、こういう商業ビル施設などは維持管理が結構大変なんです。オーナーとしてビルを何軒も所有しているなんて聞くと、言葉の響きとしては聞こえがいいでしょうが、実際は揉めごとなんかもあって結構大変なんですよ。たとえば」
と言って、ここで吾味さんは声のトーンを落とした。
「あのカウンターにいるおかみさん、ミズシマさんにはどう見えますか?」
俺は吾味さんがチラッと視線を向けた先に、同じようにほんの数秒だけ、目線を向けた。
「とてもいい人そうに見えますね。身綺麗で髪型もきちっとしてて、人柄のあたたかそうな人に見えますけど……」
そうでしょう、そうでしょう、といったように吾味さんは何度も頷いている。
「でもあのババアは実際、なかなかのやり手です。あの手この手を使って家賃を滞納し、今では半年分も溜まってますが、オーナーの僕がやって来ても実に悠然としたもんですよ。こっちも「そろそろ家賃を……」と言いたいのはやまやまですが、何しろ叔父がああいう死に方をしているでしょう?そのせいで客足が遠のいたとか言われると、こちらも何も言えませんからね。今ではもしや二度と家賃を払う気がないようにさえ思えますが、この場所は特別中の特別だと思ってください。そのかわり、ミズシマさんも好きな時にただで色々食べて構いませんから」
いや、流石にそれはどうかなといったように俺が首を傾げていると、吾味さんはそのまま話を続けた。
「で、三階の美容室と五階のエステサロンについては、何も問題ありません。三階の美容室は月末までに必ずお金を持ってきてくれますし、そうしたらミズシマさんは領収証を切ってくれるだけで大丈夫ですから。五階のエステサロンと六階のブティックは銀行振込なので、何も問題ありません。トイレや廊下などの共用部分については、日曜以外毎日、掃除してくれるおばさんがいます。あとミズシマさんにお願いしたいのは、画廊の中の掃除と接客、それからガスや水道・電気メーターを見にくる人が来たら、一緒に立ち会うことくらいでしょうか。少し特殊な、鍵のかかった場所にあるものですから……あとはボイラーの点検とかエレベーターの点検時にも、鍵を貸したり書類に判を押したりすることがあるかなって思います。まあ、画廊の事務所のほうにそこらへんのビルのメンテナンスについてのマニュアルがあるので、軽く目を通しておいてください。それと、七階が今空室になっているので、時々中を見たいという人が来たら、案内してほしいんです。一応今、バーをやりたいという人がひとりいるんですけど、断ろうと思ってますから」
「どうしてですか?」と、何気なく俺は聞いた。
「飲食店とか、夜の商売っていうのは僕はどうもね」
吾味さんは、ごくごくと水を飲み干して言った。
「このハワイアンも料理自体はとても美味しいのに、これだけ流行ってないんですよ?それなのに、バーなんてやって流行ると思いますか?その人はどうしてもこの場所がいいって言うんですけど、もう二十年もイタリア料理店で修行して、その間に貯めたお金をすべて注ぎこんで商売をはじめるなんて聞いたら――やめておいたほうがいいって僕としては言いたくもなりますよ。もちろん、保証金というのがあるので、向こうが店を続けられなくなってテナント料を踏み倒したとしても、オーナーである僕自身の懐は少しも痛みません。でも、やっぱりこう、どうも良心が痛みますから……あと、他のビルを見ていても、バーとか夜の仕事をしている店って面倒を起こすことが多いんです。酔った客が共用部分にある何がしかの物を壊したとかなんとかね」
「吾味さん、お酒のほうは結構いける口ですか?」
俺は思うところあって、ふとそう聞いた。
「いえ、僕は酒なんてものは一滴も飲めません」
そう答えてから吾味さんは、アイスコーヒーか他の飲み物を追加で注文してはいかがですか、と俺に促した。どうせ何杯飲んでもただなのだから、と。
俺はイチゴサンデーを追加で注文している吾味さんのことを見ながら、(この人は信頼できる人だ)と確信するに至っていたかもしれない。
あとは、吾味さんがイチゴサンデーを食べ終わるまでの間、彼の恋人の話を聞いたのち、エレベーターで一階まで下りて、画廊のガロのほうで細かい仕事話の続きをするということになった。
そして俺は、大理石をふんだんに使った画廊の一階で、受付のカウンターごしに自分が結局お金を受けとらなかった絵――<砂漠のカタストロフ>が飾られている壁を眺め、その絵にこう問いかけられている気がした。
『本当に、これで良かったのか?』と。
それは、吾味さんが事務所で書類の探しものをしている、ほんの五分ほどの間のことだった。
『おまえの言いたいことが、俺にはわかっている』と、俺は自分の描いた絵に対して答えた。
『ここはアフガンのような砂漠地帯じゃない。でもあそこにあったのとまったく同じものが、この世界にもあるとおまえは言いたいんだろう?銃を片手に殺し合いをしているわけじゃないが、巧妙に隠された形で人は血を流しながら生きている……目に見える形で大勢の人が死ぬという形のカタストロフも悲惨なものだが、こちらにはこちらの、目に見えない形で起きるがゆえに、誰にもどうにも出来ない種類のカタストロフがある。そのうちのどっちがいいかと聞かれて、俺はこちらを選んだ。もしかしたら、こっちの砂漠世界のカタストロフのほうが、よっぽど悲惨なのかもしれないのにな』
そのことをわかっていればいいと、自分の描いた絵に言われた気がして、俺は思わず溜息を着いた。
新しく借りたアパートの敷金や前家賃などは、ミチルが自分の貯金から出して支払ったものだ。
俺は以前と同じように内装美術の仕事などがあればいいと思いつつ、二年も日本を離れていたから――この不景気にそううまく事は運ばないだろうと思ってもいた。
もし自分ひとりなら、正直いって生活のことはどうにでもなる。
でもミチルには、来月以降の家賃のことで心配させたり、彼女の稼ぎを当てにするようなことは絶対したくなかった。
そして何より、俺には「絵を描きたい」という欲望があった。
二年の間、子供に絵を描くのを教える以外で、俺は絵筆を取ったことはない。その二年の間に創作意欲がマグマ溜まりのようになっていて、今にも爆発しそうなのを、俺は自分の身内に感じていた。
だから、もし月十七万というこの仕事が最終的にうまくいかなくてもいい、自分がこれまでに描いた絵がいつまでたっても一枚も売れないままだったとしてもいい、とにかく俺は<今>絵が描きたくて仕方なかった。
それが吾味さんの申し出を受けた、俺にとって一番重要な動機だったかもしれない。
「あのさ、ミチルがもし結婚式を挙げたいなら……そう出来なくもないって思うんだけど、ミチルはどうしたい?」
ごはんとお味噌汁に魚、それに野菜という、実に質素でつましい食事をしながら、俺はTVのニュース報道を眺めつつ、何気なくそう聞いた。
タクシーの運転手が山奥まで走らされた揚げ句、そこで後ろから首を切られて殺されたというニュースだった。
盗まれた所持金は七千円ちょっと。
なんともいえない、虚しい犯罪だった。
「わたし、前にもレンに言わなかったっけ?友達にもさー、よく聞かれるんだ。結婚っていうのは一生に一度あるかどうかの、一世一代のイベントなんだよ!みたいに。でもあたし、小さい頃からそういうことに全然興味なかったの。結婚に興味ないなんて言ったら、「本当は興味あるくせに強がっちゃって!」とかって絶対思われるでしょ?でもね、本当にそういうの、あたしにとってはどうでもいいことよ。何より、レンみたいな自分には過ぎる格好いい人が一緒に住んでくれてるってだけでも――あたしには奇跡だもん。これでもしレンが「結婚みたいな古くさい制度に縛られたくないから、一緒に暮らすだけにしよう」って言ったとしても、あたしは満足だったと思う。どうせ宮坂さんあたりが何か言ったんでしょ?でも、気にしないで、本当に」
「そっか」
やはり以前聞いた時と同じく、ミチルが無理して嘘をついているようにも思えなかったので、俺は籍を入れただけで良かったのだろうと判断した。
正直なところを言って、ミチルは俺がこれまでつきあった女性のうちの、どの系統にも属さない女だったかもしれない。
真っ黒に日焼けした顔の、ブルカを被った彼女のことを初めて見た時――俺が思ったのは次のようなことだった。
彼女となら、変に恋愛云々ということを抜きにして、対等なパートナーとしてやっていけそうだし、向こうもクソ暑くクソ忙しい環境の中で、そんなことを思っている暇も余裕もないだろう、と。
まあ、その後結局そうなったのは、自然な流れだったと俺は思っている。
当然のことながら、ああした環境下では、自分のことをうまく取り繕ったりだとか、表面だけ綺麗に見せかけるとか、そういった社交術はほとんど効果を発揮しない。
もちろん、向こうのイスラム文化に対して敬意を払うといったことは極めて重要なことではある。けれど、そういう意味ではなくて――俺は下痢になった時ブリブリいうケツの音を彼女に聞かれたことがあったし、ミチルがゲロを吐いて倒れた時、そんな彼女を介抱したのは俺だった。
俺がミチルとの結婚を決めたのは、一言でいえば彼女の性格に裏・表がなかったそのせいだったかもしれない。
いや、もうお互いに裏も表も見せあう関係になったので、それが自然と恋愛に発展した……と言ったほうがよかっただろうか。
まあ、随分と先の話のことではあるけれど、俺はもしミチルが年をとって認知症になったとしても面倒を見れるだろうし、俺が脳梗塞で倒れた場合、ミチルは半身不随の俺を文句も言わずに面倒みてくれるだろう――といったようなことを思って俺は彼女にプロポーズした。
これが一時的な恋愛の火花であれば、いずれそれは消えてしまうだろう。
でもキャンプファイヤーのような激しい盛り上がりはなくても、俺はミチルのことが好きだったし、それは恋人というよりはもしかしたら<同志>に近い感覚だったかもしれない。
それと、ミチルに対して俺は、自分でも気づかないうちに何がしかの「救い」に近いものを彼女に求めていたらしいことに、俺は彼女と初めて寝たあとで気づいた。
「真に永遠で、女性的なるもの」という言葉を俺が初めて知ったのは、確かマーラーの交響曲を聴いていてだったと思う。つまり、俺にとってそれはおふくろの与えるゴッドマザー的なものとは正反対の意味での<母性>ということだった。
十七歳の頃、マーラーの交響曲を聴きながら、もしそんな「真に永遠で、女性的なるもの」を与えてくれる女がいたとしたら、自分は是非ともそんな女性と結婚したいと思っていたのだ。
もっとも、詩人がいい恋愛詩を書いているのは、大抵は架空の女性が相手である場合が多いので――仮にモデルとなる女性がいたとしても、そこには彼の理想像が塗りこめられている――そういう意味合いにおいて、俺はこの世に「真に永遠で、女性的」な本当の女など、実在しないと当時から思ってはいた。
現実に目に見えないものであればこそ、それをまるで天国のように慕い求める心理が男にはあるのだろう、と。
俺は小さな頃から漠然と、「いつか人を殺すかもしれない」と思っていて(実際には、ネズミ一匹殺したことはなくても)、心の中でずっとある種の殺人劇を何度も繰り返していた時期がある。
ヒルコの神、というのをご存知だろうか?
ヒルコは古事記において、イザナミとイザナギの間に最初に生まれた神なのだが、不具の子であったがために、すぐ島流しにされてしまうのだ。
俺はこのヒルコの神とかいう不具の、手も足もない人間のなり損ないのような奴を――よく心の中で何度もナイフで刺し殺していた。何故そんなことをしていたのかというのは、俺自身にもよくわからない。
もちろんヒルコは神なので、人間にナイフで刺されたくらいでは死んだりしないし、忘れた頃に俺がもう一度こいつに会いに来ると、ヒルコの傷はみな癒えていた。
そして奴には手も足もないので、当然俺に逆らったりすることもできない。そこで俺は安心して復讐を恐れずヒルコいじめが出来るのだが、あいつはいつもただ「ピギャーピギャー」と赤ん坊のように泣き叫ぶというそれだけだった。
ヒルコは本当に可哀想な奴だ。受験勉強に苦しむ俺なんかより、ずっとずっと哀れな奴……何故なら実の親にさえその存在を認めてもらえなかったのだから……。
けれど、この俺の心の中におけるヒルコいじめは、マーラーの交響曲を聴いた時に、ある種の変化を迎えたといっていい。
俺はヒルコの奴をいじめながらも、いつも渇いた心の奥底で<救い>を求めていた。
いつか、天使のような人が現れて――つまり、それこそが真に永遠で女性的なものの化身――ヒルコをいじめている俺のことを抱きしめてくれるのだ。
彼女は「なんていうひどいことを」と言って俺をぶつでもなく、「あなたのしていることは最初から最後まで見ていましたよ」と裁くことすらなく……ただ暖かく優しい胸に俺を包んでくれる。そして当然のことながらヒルコのことも救ってくれるのだ。
俺が手も足もなく抵抗できない存在のことをいじめ尽くしていたと知っていて、そんな俺のことを彼女は赦し、さらには愛してさえくれるのである。
そして俺は、心の底から後悔の涙を流す。「ヒルコ、ごめんね。こんなにいっぱいひどいことして、ごめん」と。
うまく説明できないのだが、それこそが特に宗教を持たない俺の信じる<救い>と呼ばれるものだった。
ミチルと初めて寝た時、何故か俺は随分長い間忘れていた、そのヒルコのことを思いだしていた。
それから微かに唇の開いた彼女の寝顔を眺め――ほんの少しだけ、残酷な物思いに耽った。
つまりは、ミチルの中にこそ俺は「真に永遠なる、女性的なもの」があるのではないかと想像していたのだけれど、彼女の中にもそれはないということに、俺ははっきり気づいてしまったのだ。