Side:レン-4-
俺と廊下で話し合ってからのおふくろというのは、先ほどとはまるで180度別人になったかのようだった。
実は二重人格で、少し薬を服用したら、活発なほうの人格が戻ってきました……とでもいうかのように。
あるいは、宇宙人に時々体を乗っとられて、気分が塞ぎがちになるが、彼が意識の中で寝ている間はおふくろはまともでいられるんですよ、とでも説明すれば良かっただろうか?
なんにせよ、おふくろは慈悲の必要な哀れな凡人たちに寛容にも話しかけてあげてるといった態度で、ミチルの両親はおそらく、おふくろのその態度の中に慇懃無礼な何かを感じたことだろう。
だが、おふくろ自身はどう思っているか知らないが、そういうおかしな人物のことでも極力理解し認めてあげようという姿勢がミチルの両親にはあり、彼らは本当に人格的によく出来た立派な人たちだと俺は思った。
もちろん俺は、このおかしな会食の席が終わったあとで、ミチルの両親におふくろの非礼についてよくよく詫びておくことを忘れはしなかった。
昔、精神病院に入院していて、今も薬を服用してるんです……そういう可哀想な人なんですよ、と嘘をつきたいくらいだったが、残念ながらおふくろに精神病院に入院していた過去はない。
俺は時々、何故そうじゃないのか不思議でならないことがしょっちゅうあるのだが。
まあ、そういった経緯によって俺は飛鳥ミチルと結婚した。
また、彼女の両親が娘に対し、結婚を機に日本へ戻ってきてくれることを強く希望していたこともあって――アフガンへは、シエラレオネから戻ってきた紺野と、他に別のスタッフが数名派遣されることに決まっていた。
それにしても紺野は、つくづくすごい奴だなと思う。
あいつは結婚式は挙げないが、籍だけ入れるという俺のことを呼びだすと、こう言っていた。
「ミチルちゃん、俺がアフガンの孤児院にいる時は「恋愛なんていう馬鹿馬鹿しいこと、あたし興味ないの」っていう態度だったのに、メンバーチェンジしておまえがいくと、なんでいきなり恋に落ちるかねえ。まったく、この俺の一体どこが不服なんだか……」
「紺野みたいな生き方をしてる男に、ついていける女は早々いないだろ。おまえは女に対して、「俺は四百キロでこの地上を駆け抜けてやるぜ!それでおまえは何キロだ!?」とかいうタイプだもんな。普通の人間はせいぜい、五十キロとか六十キロくらいで人生を歩んでるものなんだよ。それで調子のいい時でも七、八十キロってとこ。普通の女にスピード狂のおまえについていくのはまず不可能なんだよ」
ちなみに、紺野の奴は本当にミチルに対して気があったというわけではない。
彼はこの種の軽口を誰に対しても同様に叩くのだ。
「ふーん。でもま、おまえもよく決断したよな。だけどさ、なんでおまえ結婚式挙げないわけ?金ないのはわかるけど、女にとっちゃ結婚ってのは人生の一大イベントだろ?それとも、自分に見合わない容姿の女と結婚するから、式はべつにいいやって感じだったのか?」
「違うって。第一、そういう言い方は俺のワイフになる女に対して失礼だと思わないのか?俺は昔から結婚式とか葬式とか、なんとか式っていうのが嫌いだっていうそれだけの話。確かに心から喜んでたり哀しんでたりすることもあるだろうけど、偽善的に喜んだり哀しんだりっていうのが本当に駄目なんだよな、俺。だから結婚式はしない。それでももしミチルがどうしてもっていうんだったら、そういう偽善に耐えてもいいとは思うけどさ」
「あ~あ、俺は昔から思ってたんだよなー、レンみたいな男と結婚する女は不幸になるってさ。ま、ミチルちゃんが犠牲者第一号にならないことを祈るよ」
アーメン、と言って紺野の奴が十字を切ったので、俺は事務局の休憩室で、「誰が不幸にするか」と言い返してやった。
「だって、そうだろ?「俺、偽善的なのがダメだから、結婚式はナシな?それでいい?」っておまえみたいな男に聞かれて――自分に若干コンプレックスのある女が「それじゃイヤ」って言えると思うのか、おまえ」
「なんだ?話があるから事務局のほうに来れないかって言ったの、紺野のほうだろ。まさかとは思うけど、おまえミチルと結婚式挙げろなんていう話を、俺にしたかったのか?」
「のんのん」と、スノークの真似をしながら紺野は言った。長いつきあいの俺であればこそわかる微妙なジョークだ。
「単にさ、おまえがこれから日本にずっといることを決めたって聞いたから、たぶんちょっとした心の葛藤ってのがレンにはあるんじゃないかと思って――それで呼んだわけ」
俺は自販機からコーヒーを二本買うと、そのうちの一本を紺野に渡した。
こいつにはこれからも、絶対隠しごとが出来ないだろうなと、そう思う。
「日本に帰ってくると、風がヌルいな~ってレンも思うだろ?俺が昔レンの家でおふくろさんに会った時――彼女がこう言ってたの、覚えてるか?地球には国ごとに霊的なステージの違いがあるって。おまえはさ、「こんな気違いの言うこと、無視してくれ」って顔してたけど、俺にはなんかそれ、今はよくわかるんだ。日本は平和なかわりに帰ってくるとなんか空気が淀んでるのがわかる。もちろん、自分の母国だからさ、俺は誰がなんていおうと、地球の中でこの日本って国がいっちゃん好きさ。歴代の首相がクソみたいな奴ばかりでも、その愛着はこれからも変わらないと思う。でもさ、それとは別に、他の国へいくと空気がピリッとしてるかわりに妙に澄んでるってことがよくあるんだよな」
紺野の奴はプルリングを引いてプシュッとあけると、コーヒーをごくごくと飲みほした。
真夏にクーラーのない部屋にいるのは、一種の拷問にも等しい。アフガンなんてもっと暑いぞ、などと過去を回想してみたところで――三十二度という温度計の針が呪わしいことに変化はない。
「だからさ、レンはたぶんこれから、そのヨドヨドした感じが嫌になるたびに、かつて魂の義務を放棄したことを思い出して……罪悪感を感じるんじゃないかって、俺はそのことが少し心配でさ」
「魂の義務?」と、俺はあえて紺野に聞き返した。もちろん本当は、彼が何を言いたいか、俺にはよくわかっていたけれど。
「目の前に二本の道があったら、俺もおまえも、薔薇とかハイビスカスの生えてるほうじゃなくて、イバラとかサボテンの生えてるほうを選ぶタイプだろ?で、俺はイバラロードとかサボテンロードを一生走ることに決めたわけだけど……おまえはさ、今薔薇とかハイビスカスのほうに行こうとしてんのかもしれない。で、一番大変なところに身を置き続けずに逃げたとか、考え方を間違ってほしくないわけよ。俺の言いたいこと、レンならわかるよな?」
「ああ」と、俺もまたコーヒーを飲みながら言った。実はそのことで悩んでいたとは、紺野にはわざわざ言う必要すらなかった。
「俺、レンがアフガンに行こうと思うって言ってくれた時、すごく嬉しかったよ。「ああ、コイツ。俺のためにそこまでしてくれちゃうんだ☆」みたいな感じでさ。もちろん俺はそんなこと、おまえに言わなかったけど……でも俺は、正直いってその時からレンはこっち向きの人間じゃないと思ってた。誤解のないように言っておくと、ボランティアとかそういうのに向いてる人間じゃないっていう意味じゃなく――レンって芸術家タイプじゃん?だからどっかの国で戦争が終わったら、平和の像を作ってそれを記念に進呈するとかさ、絶対そっちタイプだっていうの、最初からわかってたからな。だからまあ、レンはこれから日本でヨドヨドしてたらいいんじゃないかって、俺はそう思うわけ」
「ヨドヨドな。まあそのヨドヨドに飲みこまれないよう虚しく戦い続けるより……思いきってバサーッと海外へいったほうがある意味楽かなって、たまに思わなくもないんだけどな。俺、吾味悟郎さんっていう人に、画廊で働かないかって誘われてるんだ。たま~に客がやって来たらうざくない程度に接客して、他は絵を描いたり彫刻したりする作業に当てていいって言われてるんだけど……どう思う?」
「吾味悟郎!?」紺野が最初に食いついたのはそこだった。「それ、マジで本名なのか!?小さい時、大変だっただろうな~。掃除のたんびに「ゴミだしとけよ、ゴミー☆」とか絶対言われそう……俺が小学生の時、安保って名前の同級生がいて……って、まあそりゃ関係ないな。なんかオイシソーな話だけど、もしかしてウラがありそうな感じなのか?」
「どうかな。本人はゲイだって言ってたけど。俺がそういう傾向にない人間だとか、これから結婚する予定だっていうことも、もちろん向こうは知ってる。あとは、その画廊で吾味さんの叔父さんが首吊って死んでるっていう、気になるのはそんなところかな」
「それで、月給は?」
普通なら遠慮して聞かないだろうことも、紺野はズバズバ聞いてくる。
まあ、いつものことではあったけれど。
「最低保証賃金が月十七万。画廊自体が結構広くてさ、二階は俺が自分の作品を飾る展示室にしたらいいって言ってくれて……で、俺は自分の絵が売れた場合はそのお金を全部自分のものに出来る。けど、一枚でも絵が売れた場合は、十七万はそこにプラスされない。あとは、委託とかその死んだ叔父さんが所蔵してたコレクションが売れた場合は――そのうちの30%のお金と、十七万もらえるっていう感じかな。コレクションっていっても、ほとんど有名画家のコピーとかリトグラフなんだ。だから、実質的な値打ちはないに等しかったりするんだけどね」
「ふう~ん。まあ、もしその画廊の経営者が女性だったとしたら、俺はここで極めてレッドカードに近いイエローカードをおまえに渡してるね。でも相手がゲイにしろ男で、これからおまえを落として「男のセカイ☆」とかいうのに引きずりこもうっていう魂胆じゃないんなら……ま、悪くない話なんじゃないか?それでその吾味さんにどのくらい儲けがあるのかとか、そんなんで画廊続けていけんのかとか、そのへんが少し腑に落ちないけど」
「だよな」
休憩室に他の職員が入ってきたため、俺と紺野は缶コーヒーをゴミ箱に捨てると、なんとはなしそこから出ることにした。
「何よ!あたしの顔を見るなり出ていくって、あんたたちどういうこと!?」
と、事務長の宮坂さんが笑って言った。
「宮坂さん、そりゃヒガイ妄想☆ってやつですよ。俺たちはちょうど、話が終わって外へ出るとこだったんすから」
「あら、だったらもう少しここにいればいいじゃないの。っていうか、あたしがここへ来たの、実はミズシマくんに話があったからなのよね。なんでミチルちゃんと結婚式挙げないのかな~って……」
やっぱりみんなそう思うのか、と俺が少し考え深い気持ちになっていると、紺野の奴が言った。
「宮坂さん、少し前にその話は俺がしたんすよ。ま、そのへんは色々事情があるってことで、女の気持ちを代弁するのはまた今度ってことにしてください。頼んます」
「ふう~ん。ま、あたしが言いたかったのは、借金してでも盛大にパーッと式を挙げて、そこまでしたのに別れるなんて恥かしいから、そこで離婚率下げとけって話だったんだけど。だって、ミズシマくんってモテそうだから、なーんか心配っていうかね~。おばさんとしてはね~」
宮坂さんと紺野の奴が軽口を叩きあっているのを聞きながら、外から見た場合、自分たちはそういうカップルに見えるのかと、俺は少しがっかりしていた。
そして休憩室の時計を見、画廊で吾味さんに会う約束を思いだした俺は、紺野に「サンキューな」と言って事務局を出ることにしたのだった。
吾味悟郎の経営する、画廊のガロ……いや、ここで笑ってはいけない。
というより、その名称のとおり、自分でも少し出来すぎてる感じはするのだ。
もし仮に絵が一枚も売れなくても――最低十七万は必ず支払うだなんて、なんだかとてもおかしな話だ。
もちろん、吾味さんに例の喫茶店で会った時、想像していたより全然まともそうな人だとは思ったけれど。
「お会いできて、光栄です」
クールビズ仕様の半袖シャツに、クリーニング店で今朝受けとってきたばかりといった感じのする、白いズボン……靴はまるでこの日のために磨きあげてきたといったようにピカピカで、彼の歯のほうも真珠のようにピカッと光っていた。
たぶん彼は、吾味などという苗字の家に生まれてくるべきではなかったのだろう。
長い髪を一本に束ねている彼は、まるで銀座のホストのナンバーワンといった感じのする、それでいて清潔感の漂う人物だった。
「その、俺の描いた絵が欲しいっていうのは、本当ですか?」
(大丈夫かな、この人)という胡散臭い気持ちを拭えないまま、俺は窓際の席に座り、マスターにアイスティーを注文した。
「ええ。二百万では少し安すぎるとは思ったんですが……もしその金額でご納得いただけなければ、一千万だしても構いません」
「その……金額の問題じゃないんですよ。あれは俺が随分昔に描いた絵なんです。で、ここのマスターの好意でこれまで何度かただで個展を開かせてもらってて――あの絵はそのお礼としてマスターに差し上げたものなんです。だから、正確には今は俺が絵の所有者じゃない。どうしてもあの絵が欲しいなら、マスターに二百万払ってもらえませんか?」
「そのことは、すでにマスターの中川さんともお話しました」
俺がオーダーしたら、一緒に自分の注文の品も持ってきてくれるよう頼んでおいたのだろう、ウェイトレスの女性が、俺にはアイスティー、吾味さんにはストロベリーパフェを置いていく。
「今の彼女、どう思います?」
スプーンで生クリームをすくって食べながら、吾味さんが聞いた。
「……若くて、綺麗な人なんじゃないですか」
俺はあくまで一般論としてそう言った。
「そうですか。趣味が合わなくて実に残念です……僕、女性のことが好きになれない体質なんですよ。中川さんからも聞いたかもしれませんが、僕は普段スポーツクラブでインストラクターをやっています。まあ、そこにはいわゆる僕目当ての女性っていうのが、何人かいるんですが……彼女たちに触られるたび、本当にゾッとします。そのかわり、男性の筋肉に触れていると、心底ホッとするんですけどね」
「ということは、つまり……」
やはりちょっとオカシイ系の人なのかと思いながら、俺は吾味さんに先を促した。
「ええ、僕はゲイです。女性のあのブヨブヨした肉体には、一切何も感じるものを見出せません。ただ、先にこうしたことを申し上げるのは、あくまで誤解を避けるためです。僕には一緒に暮らしている恋人がいるんですが、カミングアウトすると大抵、エイズが移るんじゃないかとか、実は肉欲の対象として見られてるんじゃないかとか、色々なことを思う方がいるものですから」
「そうですか……」
(その説明、俺に必要ですか?)と思いながら、俺はアイスティーにガムシロップを混ぜて飲んだ。
「ところで、絵のことに話を戻しましょう。マスターの中川さんは、あなたのお許しさえあれば、あの絵を外してもいいとおっしゃっています。ただ、お金のことはミズシマさんと交渉して決めてほしいと……それで、いかがなものでしょうか?」
「どうして、あの絵にそんなに拘るんですか?」
俺はそう言って、喫茶店の中央にある飾り暖炉の上に置かれた、<砂漠のカタストロフ>という絵のほうに目をやった。
「そうですね……そのお話がまだでした」
吾味さんはズボンのポケットからハンカチを取りだすと、それで額の汗を拭っていた。
そのきっちりとアイロンのかけられた木綿のハンカチを見て、たぶん彼はとても几帳面な、きちんとした人なのだろうなと俺は想像した。けれども、その「几帳面できちんとした」彼が実はゲイであるとわかるなり――おそらく離れていった人というのも、これまでいたのだろうと思う。
それと、俺の友人にもスポーツクラブでインストラクターをしている人物がいるのだが、彼は<人気インストラクター>でい続けるために、毎日極限といってもいいくらいに体を鍛えていた。
吾味さんのどこか堅苦しいくらいの礼儀正しさも、もしかしたらそういうところから来ているのかもしれないと俺は思った。
「あの絵は……」ぶるぶると手を震わせながら吾味さんは言った。「叔父の苦悩そのものなんですよ。叔父はあのカタストロフにやられたんです。いうなれば、心の――あるいは魂のカタストロフってやつです」
<砂漠のカタストロフ>という絵は、久臣さんの書いた同名の小説を読んで、俺が制作した絵である。
久臣さんが書いた小説の中で、実際そうしたことが取り扱われているので……「核戦争が起きたあとの地球の風景か」と何度か人に聞かれたことがあったけれど、あれを俺は自分の心の中の風景として描いたのだ。
赤味ががった砂塵の中に埋もれる、廃墟の塔。塔自身も早く砂になってしまいたいと思っているのだが、そうなるまでにはまだ何十年も風に吹かれ続けなければならない。
あるいは、本当に核戦争というものが起きて、この世が終わるというその日まで。
「だったら、いいですよ」と、俺はアイスティーの中の氷を齧って言った。「あの絵は、ただで差し上げます。きちんと意味を理解してくれる人になら、俺は自分の絵に関してはいつもそういう気持ちでいるんです。まあ、これから結婚する予定があるので……お金はあるに越したことはないんですけど、あの絵はもう何年もあそこに飾ってあるのに、お金を出してもいいなんていう人は、吾味さんが初めてでしたから。俺にはその気持ちだけで十分です」
「そんな……そういうわけにはいきませんよ。だったら、こういうのはどうですか?うちの画廊を再開して、そこでミズシマさんの作品を売るんです。まあ、近隣の人はみんな、あそこで僕の叔父が首吊り自殺したって知ってますし、『呪われた画廊・ガロ』みたいな感じで、最初は人が寄りつかないかもしれませんが……でも、僕には自信あるんです。ミズシマさんの作品なら、きっとその良さを理解して、僕のようにいくら出しても構わないっていう人が、絶対現れるに違いないって」
褒めちぎってもらって実に申し訳ないのだが、残念ながら俺は吾味さんと同意見ではなかった。
世の中、また現実とはそう甘いものではない。
「その……失礼かもしれませんが、その叔父さんというのは……」
経営が苦しくなって自殺されたんですよね?と、ズバリ聞くのは憚れて、俺は遠まわしな感じでそう聞いた。
紺野ならこういう時でも(また相手が仮に初対面でも)、そうハッキリ聞けただろうが、何分俺にはデリカシーってものがありすぎた。
「ええ。コレクションしてた絵の中に、どうも贋作が混ざっていたらしいんです。で、画廊の仕事っていうのは結構、信用が大事らしくて……叔父は鑑定士の人に頼んで見てもらったらしいんですが、自分が何十万、あるいは何百万も出して買った絵が――実は数万以下の値打ちしかないってわかった時の衝撃って、想像できますか?ようするに叔父は騙されてたんですよ。絵のバイヤーをやってる人間に、偽の保証書を掴まされてね」
「それが自殺された原因ですか?」
ストロベリーパフェが溶けていくのを見て、俺は「食べたらどうですか」というように、吾味さんに目で促した。
「そうですね。おそらくはそうだったのだろうという、これはあくまで周囲の推測です。遺書というものもありませんでしたし、ただ遺言書には僕の名前だけがあって、警察の連中には随分不愉快なことを色々聞かれましたよ……何しろ、叔父は八人兄弟の一番末っ子で、甥とか姪なら十人以上もいるのに――遺産を残したのはこの僕ひとりだったんですから」
「奥さんとか子供さんは?」
「いません。叔父は僕と同じ傾向にある人間でしたから……ただ、自分ではあまりそのようには思ってなかったみたいです。むしろ女性を愛そうと努力してうまくいかず、一度離婚してるんですよ。叔父と僕の仲が良かったのは確かですが、彼が僕にだけ遺産を残そうとしたのは、そういう理由からだったんだと思います」
このあと、吾味さんがストロベリーパフェを食べ終わるまで話をしていてわかったことは――どうやら彼はいい家の生まれらしく、家族や親戚の多くが資産家で、吾味さんが自殺した叔父さんから受け継いだのは<画廊・ガロ>だけではないということだった。
叔父さんが所有していた土地や家屋は他にいくつもあり、すべて売ればスポーツインストラクターの職もやめて左うちわで暮らせるかもしれないけれど……もしそうしてしまったら、自分が豚以下の人間に成り下がりそうな気がして、少し怖い気がすると吾味さんは言っていた。
「そんなわけで、二百万という金額を提示したのは――何も値切ろうと思ったからではないんです。僕にとって、額に汗して稼いだお金ですぐに出せそうな金額が二百万だったんですよ。でも、叔父は絵のためなら一千万・二千万だしても惜しくはないという人でしたから……才能のある絵描きさんにお金が渡るなら、叔父も許してくれると思うんです。ですから、遠慮なく受けとってください」
吾味さんがバッグの中からお金が入っていると思しき封筒を取り出すのを見て、俺は(参ったな)と思った。
昔は、好きな絵だけを描いて生きていけたらどんなにいいだろうと夢想していたこともある。
だが、俺は今は現実というものにしっかり二本の足をつけて生きていくべきだという認識でいた。
そしてそのことが、ミチルとの結婚を決めた理由でもあったのだ。
「その……とにかくそのお金は、俺には受け取れません」
何故ですか、という真摯な目で問い返されて、俺はまた少しの間言葉に詰まった。
それは俺の魂の問題です、などとはとても言えない気がしたからだ。
「うまく説明できませんが、あの絵は、俺の尊敬するある人が書いた小説からインスピレーションを得て描いたものなんですよ。その人はプロの作家っていうわけではなくて、普段は印刷会社で夜勤の仕事をしてるっていう人なんです。で、夜勤の仕事のはじまるのが大体夜の八時とかですか。電車で通勤するのに一時間くらいかかりますから、七時前には彼は下宿をでます。つまり、彼が小説を書くのに当てているのは、夜勤の仕事を終えてぐっすり眠ったそのあとといった感じですね。今時の携帯小説のような軽いものを書いているわけじゃないから、毎日二時間くらい、集中してようやく二枚書き上がるといった感じのものを、彼は書いています。そうやって<本当のもの>を一日二枚書くために、彼は出世も棒に振りました。夜勤だけではなく昼間の仕事もするなら、もっと上の部署に取り立ててやろうという話は前からあったそうなんですけど……彼は結局、今も変わらず夜勤の仕事をしています。まわりの人には、下宿暮らしのしがないただのおっさん、みたいに思われながらね。そういう彼の書いたものからインスピレーションを受けて描いたのがあの絵なのに――俺にはそれを金と引き換えにするってことは出来ません」
俺のこの説明というのは、吾味さんを相当驚かせたようだった。
あとから聞いた話によると、最初はもったいぶりつつも、最後はお金を受けとってもらえるだろうと、そんなふうに吾味さんは思っていたという。
そうして吾味さんはバッグの中にお金を引っこめると、どこか嘆息に近い溜息を着いていた。
「あなたは、百パーセント完璧な答えを、僕に与えてくれた気がします。では、こういうのはどうでしょう?中川さんから、あなたはアフガン帰りでまだ就職先も特に決まっていないと聞きました。ミズシマさん、僕もまたうまく言えませんが、僕にはあなたがとても――普通のサラリーマンになったりする人には見えないんですよ。また、普段は見るからに落ち着いた生活をしつつ、<本当のもの>のために絵を描く時間をどうにかこうにか二時間捻出するといったタイプの人にも思えないんです……あなたはもう少し破滅型の人間で、ゼロか百か、そのうちのどちらかを選ぶタイプというか、絵を描くなら描くでどっぷりそのための時間をとり、でなければ一切何も描かないかのどちらかという気がします。それなら、その両方を叶えるのがいいと、僕はそう思うのですが」
「どういうことですか?」
そんな、アリストテレスがいうところの<中庸>のような道はないだろうと俺は思いつつ、そう吾味さんに聞き返した。
そして彼の提案したのが、例の「画廊・ガロ」で働かないかという話だったというわけだ。