Side:レン-11-
結婚式の当日、俺は少し大袈裟な言い方をしたとすれば、恐怖と不安におののきながら式場へ向かったといえるだろう。
今のところ、おふくろとサクラの戦いというのは、0対1といったところ……このままおふくろが黙っているはずがないのに――特にこれといった妨害工作もなく、当日を迎えていたからだ。
結婚式専用のチャペルに牧師の大谷さんを招き、式を執り行ってもらったところまでは良かった。
だが披露宴のある約二時間ばかりの時間が何事もなく無事過ぎるものなのかどうか、俺は心配なあまり、途中でサクラに何度も「花婿なんだから、もっと嬉しそうな顔しなさいよ!」と小声で注意されなくてはならなかった。
正直、ケーキ入刀とかなんとか、俺は内心では「何故こんな虚飾的儀式に参加することになったんだろうな」と思いつつ、それを行っていた。まあ、横にいるサクラがあまりに綺麗で、彼女がかつて見たことがないほど光輝いているように見えたから――今日の俺のポジションというのはまあ、男のバレエダンサーがプリマバレリーナをくるくる回すといったような役どころでいいのだろうと思ってはいたけれど。
結婚式当日に至るまで、ウェディング・プランナーとの打ち合わせといったようなことはすべて、俺はほとんどサクラひとりに任せきりにしていたといっていい。
どんなにサクラが頑張ったところで、最後にそうした彼女の努力を打ち壊す出来事が待ち受けているだろうとわかっていたため、あまり積極的に関わりたいと思えなかったのだ。
それでも彼女のほうに目に見えてストレスが溜まっていっていることがわかったため――せめて、引き出物くらいは自分が作ると申しでることにした。もっとも、「こんなどうでもいいもの、貰っても始末に困る」と招待客全員が思う可能性の高い、それは縦三十センチ、横五十センチくらいの彫刻作品だったけれど。
何しろ、水嶋家にいわゆるセレブと呼ばれる人たちが多かったため、サクラも見栄を張ったのだろう……俺としては、あくまでも内々に親戚とベルビュー荘の人たちくらいを呼んで、こぢんまりとした心のあたたまる式を挙げるというのが理想だったのだが、結局披露宴には四百名近い招待客を呼ぶという結果になっていた。
「ねえ、レン。なんだかあたし、金メッキ(世間体)のために結婚するのか、それとも純金(本物の愛)のために結婚するのか、だんだんわかんなくなってきたわ」
サクラは夜眠る前に、溜息を着きながらよくそう言っていたっけ。
「まあ、その違いがわかっていれば、大丈夫だろ」
「そーお?でもこの調子でいったら、金メッキを最高に磨き上げた結婚式ってことになりそうで――なんだか怖いのよ。レンのいうカタストロフって奴が、近いうちに起きるんじゃないかって、そんな気がして……」
――そしてある意味、サクラのこの予感は的中した。
けれどもまあ、それは俺が思ったほど大きなカタストロフではなく、言ってみれば比較的小規模なカタストロフではあった。
おふくろがスピーチの時に、マイクを片手にこんなことを言いはじめたのだ。
「レンは本当に素晴らしい、わたしにとって自慢の、最高の息子でした。それなのに、こんな男性経験豊富な女性と結婚することになって、とても悲しく思っています。彼女は十六歳の時に初体験を持ち、十七歳で男と同棲、十八歳でまた別の男と二年ほどそのような関係にあったようです。その後、バーでホステスをし、何人もの既婚男性の愛人になるという、転落の人生を送ってきた女性なのです。わたしは今ここで、息子にこう呼びかけたいと思います……今からでも遅くないわ。目を覚まして、お母さんの元へ戻っていらっしゃいと!!」
会場内は一瞬ざわついたが、おそらく「何もなかった、聞かなかった」ことにするのが社会人としての礼儀と思ったのだろう。やがて儀礼的な拍手さえ起こり、次に新婦側の親族がスピーチする番になったのだが、サクラのお母さんはいたたまれない思いになったのだろう(のちに彼女はあんなに恥かしい思いをしたことはないと言ってこの時のことを述懐している)、司会進行役のアナウンサーの女性が名前を呼んでも、席から微動だにしなかった。
俺は隣のサクラもまた、この時ばかりは流石に実の母と同じ態度だったため(つまり、下を向いたまま青ざめている)、しょうがないなと思って立ち上がることにした。
「え~と、今俺のおふくろ……いえ、母が言ったようなことは、まったく根拠のないデタラメとは言いませんが、大体のところ俺も彼女から聞いて知っていることです。というより、そんなことを言ったら、俺は幼い頃から母に精神的虐待を受けて育ったといっても過言ではないでしょう……」
ここで、おふくろが「そんなこと、デタラメよ!!」と叫んだが、当然俺は無視した。
「なんにしても、事情はこういうことなんです。おふくろは俺が彼女と結婚するのが気に入らなかった。いえ、仮に俺がどんな非の打ちどころのない素晴らしい女性を連れてきたとしても、いつでもそうなんです。でもだからこそ俺は、彼女のような女性に惹かれたのかもしれません……披露宴のほうが実際の予定にない順序で進むことになってすみませんが、次のスピーチは兄貴が担当してくれってことで頼む」
何しろ兄貴の奴は、こういう場所に腐るほど出席していて、場慣れしている――兄貴は、会場が俺の言葉で笑いに包まれていると、マイクを片手にうまいこと切り抜けてくれた。
「えーと、川上サクラさんは、義理の兄である僕から見ても、実に素晴らしい女性です。最初に出会った時から僕はそう思っていました……」
続いて、新婦のことを褒めちぎる数々の言葉が兄貴の口から十分ほども洩れでたあと、何故かここで突然、佐々木凛太郎さんが前に進みでてきて、マイクスタンドの前に立っていた。
「サクラちゃんは、わたしが結婚しようと考えたほどの、本当に素晴らしい女性です。みなさんもおそらくはご存知でしょうが――彼女は一年ほど前、さる俳優の男に首を絞められて殺されそうになりました。その時、恋人として報道されたのがこの水嶋くんなのです。実は当時わたしはサクラさんとおつきあいをしていて、本当なら今彼女の横にいるのは自分だったのにと、先ほどまで思っていました。でも、彼女の命を助けたのは他でもないこの水嶋くんなのです。ふたりはその時から恋仲になり、わたしは彼女と別れることになったのですが……わたしはそのあとも水嶋くんが殺人鬼に殴られて死ぬといった不慮の事故に遭った場合――サクラさんとよりを戻したいとすら思っていました。ようするに彼女は、そのくらい男の気を惹きつけることの出来る、魅力的な女性なのです」
この時になってようやく、サクラは顔を上げ、佐々木さんのほうを涙の盛り上がった眼差しで見つめていた。
本当に、一体彼はどこまで人が好いのか……あるいはどこまでサクラの奴に惚れていたのか、と俺はあらためて思った。
サクラが謝意を伝えるように、強い眼差しで彼のほうをじっと見つめると、佐々木さんは「いいんだよ」というように、彼女に向かって手を振り、円形のテーブルのほうへ戻っていった。
俺は座席表の中に彼の名前があるのを見た時――正直いって、彼はなんのために来るのだろうとすら思っていたけれど……というより、隣に若い美人の秘書がいたため、自分は「君よりも若くていい女と今つきあっている」と暗に言いたいのだろうかとさえ思っていた。
でも、そうしたことがすべて自分の勘違いであったことがわかり、俺はその時サクラとはまったく別の意味で己の器の小ささが恥かしくなっていたといっていい。
佐々木さんのスピーチがすんだあとは、何故かベルビュー荘の人たちが順にマイクを握ることになり――ミドリさんは俺とサクラの馴れ初めのことを話し、ミズキの奴は『ロマンス通り113番地』に出てくるレンという青年は俺がモデルなのだと暴露した。それからさらに久臣さん、ほたるとスピーチが続いて、場はすっかり和やかなムードになっていたといっていいだろう。
こうして俺とサクラは、多くの人の善意……金メッキのお飾りの招待客でない、純金の心意気を持つ人たちに助けられ、無事披露宴を終えることが出来たというわけだ。
最後には、サクラが自分の母に対し、「本当に馬鹿な娘で、恥かしい思いをさせてごめんなさい」と素直にあやまり――ふたりは泣きながら互いに互いの体を抱きあっていた。
あとになってからサクラは、もし俺のおふくろの一言がなかったら、自分の母親に対して冷たい気持ちを持ち続けたままだったかもしれないと言っていたことがある。
「だから、あれはあれで良かったんでしょうね」と。「お義母さんのスピーチがあった時は、これで世界は終わったっていうくらいのカタストロフがあたしの中であったけど……それに、あれだけ苦労して完璧にしつらえた結婚式が、これでもうすべておじゃんだとも思ったわ。こんなことなら、見栄を張って仕事関係で付き合いのある人まで呼ぶんじゃなかったとも思ったけど……あとでみんな、「あれはあれで良かったよ。というか、ああいうハプニングでもないことには、みんな座席で半分寝たまんまだっただろう」とか言ってて。本当に、人の善意って大切よね。ほとんど義理で出席したような人までが、披露宴を盛り上げるために予定になかった芸を披露してくれたり、物真似をしてくれたり……といっても、あたしはみんなが引き出物を受けとって帰るまで、生きた心地がしなかったけどね」
――そうなのだ。そういう意味で、真に哀れなのは俺のおふくろのほうだったに違いない。
おふくろの奴は式がどこかでメチャクチャになるといいと、彼女の信仰対象の「スピリチュアルな神」とやらに終始祈っていたに違いないが、おふくろの崇める偶像神は、心あたたかい人々の善意に完膚なきまでに敗北していた。
そして生まれて初めて心の底から「実の母親を許せた」と感じたサクラとは違い、俺は自分のおふくろのことを、これで生涯許すことは出来ないだろうとすら思いはじめていた。
父は金銭的なことで母に尻尾を握られているため、浮気すらできない小心な人物に成り果てているし、兄貴は兄貴で、メイドの和歌子さんとのことを涼子さんにバラしてもいいの?といった具合に、おふくろのコントロールを受けている……おふくろは式場から立ち去り際、「覚えておきなさいよ!」と捨てゼリフを吐き、引き出物を受け取ることさえせずに帰っていたけれど――幸いなことに、父や兄貴のようには、俺はおふくろに対して弱味が何もなかった。
だからその日の夜、ホテルのスイートで花嫁と初夜を過ごしたあと、俺はサクラにこう言った。
「俺、結婚式なんて最初はくだらないと思ったけど、実際には金メッキ的事業に参加するのも、たまには悪くないみたいだな」
もちろん、結果として人々の善意に溢れた良い式になったからということもある。
でもそれ以上に――おふくろの一言があってからのサクラというのが、その後俺にとって一生忘れられないくらいのインパクトを残す美しさを持っていたからかもしれない。
その前までの彼女は、「自分はどこからどう見ても完璧にビューティフル!!」とでも言いたげに、どこかその笑顔には傲慢なところさえあったけれど……サクラの、どこか恥じらいを残しつつ、そして遠慮がちに微笑むその後の姿というのは、図らずも俺にとって「これ以上もない最高の女と自分は結婚した」という印象を残した。
そして、彼女に対してなら大谷牧師の前で誓ったこと、例の「病める時も健やかなる時も彼女のことを生涯愛しぬくことを誓います」という言葉を守れそうな気がしたのだ……もちろん俺は、そんなことをサクラにあらためて口にだして言うほど、サービス精神に溢れた口の軽い男というわけではなかったけれど。