Side:サクラ-11-
これまであたしは、愛人契約が切れた時含め、随分多くの男との別れを経験してきた気がする。
でもクマちゃんとの別れは、ゴロちゃんとの別れ以来の、あたしにとって本当に久方ぶりの、つらい心の痛手となる出来事だった。
ゴロちゃんは、その頃からすでにビッチの萌芽が見られていたあたしにとって、もったいなすぎるくらいの純な相手だったと思う。当時は今より若かったため、彼の言っていることに素直に聞き従うことが出来なかったけれど……今にして思えば、彼の言っていたことはすべて正しかったのだ。
「ホステスなんて、なんでそんなところで働くんだよ。俺、サクラのことを他の男がそういう目で見るなんて、絶対嫌だ」
「馬鹿ねえ。べつにキスしたりそれ以上のことをするわけじゃないのよ。ちょっと楽しいお酒をお互い飲んで、それでお金を稼ぐってだけなんだから、そんなに深く考えないの」
それからあたしは、家計簿をつけて新作のビデオを借りるのを控えるようにするとかなんとか、そんな生活はもう嫌なのだとゴロちゃんに説明した。この手のことをあたしが言うと、ゴロちゃんは大抵押し黙り、あたしの言い分を認めてくれたものだった。
また、彼とは子供のことでも意見に相違があった。彼とのセックスの際には必ずコンドームが用いられており、ゴロちゃんはそれをとても嫌がっていた。
「べつにいいだろ。生のままで出してもさ……もし子供が出来たら、結婚すればいいじゃん。俺、見たいなあ。サクラの花嫁姿」
ゴロちゃんは何度もこの種のことを言ったが、あたしは決して気を緩めなかった。
<緑の命の塊>のことを思うとゾッとしたし、何よりこんな若い年で結婚するだなんて――冗談じゃないとその頃には思いはじめていた。アツシとつきあっていた頃は、このままヤンママになるのも悪くないかなと思っていたけれど、その後考えが変わったのだ。
そして子供――子供を産んで育てるには、ゴロちゃんの収入ではとても足りなかった。
いや、産んでしまえばそのあとのことはなんとかなる、愛さえあれば……とかいう人が多いのは知っている。でもわたしは裕福であるにも関わらず不幸な子供として成長したので、よくわかる。
子育てには絶対、保険が必要なのだと。
だからゴロちゃんと別れてからは、あたしはいつも潤沢な子育て資金のある男と結婚したいと思っていた。そしてクマちゃんと結婚しようと思ったのは、彼がそういうあたしの考えを理解してくれる人でもあったからなのだ。
「ねえ、クマちゃん」と、ある週末を高級ホテルのスイートで過ごしている時にあたしは言った。クマちゃんの胸毛を引っ張ったりして、くすくす笑いながら。
「うん、なんだい?」
彼は望みのものを十分与えてもらって、とても満足といった様子だった。
「わたしとクマちゃんとの間に、もし子供が生まれたとして――その子が仮に男の子だったとするでしょ?そして、不幸にもクマちゃんのこの毛深いDNAを受け継いでしまった場合、いつごろエステに連れていけばいいかしらね?」
わたしは至極真面目な気持ちでそう聞いたのだけれど、クマちゃんはただの面白い冗談だと思ったらしく、ただ笑っただけだった。
「笑いごとじゃないのよ、クマちゃん」と、あたしは少し拗ねたような振りをして言った。「小学生の時って確か、プールの授業とかあるでしょ?その時にもし普通じゃありえないくらい体がもじゃら~っとしてたら、いじめにあったりするんだから!あたしたちの子が「モジャモジャくん」なんて呼ばれて、いじめられてもいいの!?」
「参ったな」
そう言って、クマちゃんはあたしの長い髪を愛しそうに撫でた。
「もちろん、その不幸な遺伝子は俺から受け継いだものなんだから、当然俺に責任があるってことだよな。でも俺はそんなこと、考えもしなかったよ。自分がこの体のせいでいじめにあったりしなかったせいかもしれないけど――女の子ならともなく、男の子はね、まあ多少毛深くてもそんなものだろっていうふうにしか思ってなかった。君は案外……そんな真っ赤な爪をしている割に、いい母親になるかもしれないな」
「そう?」
と言ってあたしは、そのあと彼の胸に軽く爪を立てたりして遊んだ。
つまり、わたしが何を言いたいかというと――わたしが先に言った子育てにおける保険とは、そういう意味あいのものだということ。
今のあたしを知っている人は、てっきりあたしが小さい頃からズバズバものをいう、我儘な子供だったと想像するに違いない。でもそんなことは決してなく、むしろわたしは自分の言いたいことをなかなか表現できないような控え目な子だった。
そして母親に対していつもこう思っていた……何も言わなくても、娘が何を一番欲しいと思っているかを察してほしいと。
でも彼女は全然見当違いのものをたくさん娘に与えたあと、こう思ったようだった(少なくとも、娘のあたしの目にはそう映った、ということ)。
こんなに長い年月をかけて、お洋服とかおもちゃとか食べるものとか色々、アフリカの難民の子がびっくりするくらいたくさん与えたにも関わらず――この子はさっぱり自分の思ったとおりに育たなかったわ、と。
まあ、流石にアフリカの難民のくだりは表現としてどうかと思うけど……でも、それに近いものがあったのは確かだ。そして子供というのは、親の経済状況というものをよくわかっている。わたしが実の母親から本当に与えられたかったのは、物とか金によって交換できない種類のものだったけれど、もし自分の子供が本当に欲しいものが、お金のかかるものだったとしたら――あたしはそのために子供に不自由をさせたくないと思っていた。
あたしのこの考え方を、随分贅沢なものと思う人は多いかもしれない。第一、いちいちそんな保険が必要だったら、もう誰も子供なんて生めなくなるだろう、とも。
でも、今の世の中狂ってるので、あたしは子供が何かの拍子に学校へ行きたくない、行けば毎日ゲロを吐きそうな気分になるし、いじめられるから嫌だと言ったとしたら――たとえば家庭教師をつけるとか、何がしかの方法を子供にとってあげたいと思っている。
自分が3・5流の高校をでているので、学歴がないと生きていくのが大変だということもよくわかっているし、そのためにはやっぱり保険としてお金が必要なのだ……金の力というのは、<正しい使い方>さえすれば、実に偉大なものだということをあたしはよく知っている。
「うなるほど金が欲しい」なんて聞くと、大抵の人はその言葉に下品さを感じて、眉をひそめるかもしれない。もし心の中では喉から手がでるほど金が欲しかったとしても、言葉にだして言う人間のことは、大概の人が軽蔑する。
でも、あたしはお金に保証された幸せな結婚が欲しかった……どうしても。
そしてそれを叶えるのに、クマちゃんは考えられうる最高の男だとあたしは思っていた。
それなのに――あたしはレンが相手なら、彼がもし仮に貧乏画家でも、何をおいても絶対に彼と一緒にいたいと思うのだ。
たとえば、レンがもしヒモのような存在でも彼自身がそれで構わないなら、あたしはない脳みそをしぼって、なんとかこれからも脚本を書き続けて、お金を稼ぎだしたいと思っただろう。仮に中には「どうしようもない駄作」の烙印を押されるドラマがあったとしても、レンには「絶対見ないで」と言っておけばすむことだという十分な言い訳が成立する。
(クマちゃん、ごめんね。本当にごめんなさい……こんなに愚かで馬鹿なバンビを許して)
そしてあたしが、別れ話を切りだす前から足が震え、泣きそうになっていると――中央に、イギリスにあるような赤い電話ボックスの置かれた店内に、クマちゃんが入ってきたのだった。
(絶対に、涙を流してクマちゃんの同情を引くような真似だけはすまい)
そう決意をあらたにしながら、あたしはなんでもない振りを装って、アイスコーヒーを飲んだ。
良心の呵責からか、(おまえたちのことはもう何もかも知っている)とクマちゃんの厳しい横顔が語っている気がしたけれど――クマちゃんは愛想のいいウェイトレスにコーヒーを注文すると、いつもの優しい笑顔に戻ってこう聞いた。
「それで、話っていうのはなんだい?」