Side:サクラ-10-
「そろそろ一度、家に戻るよ」
レンがそう言った時、あたしはなんとなく別れの予感が胸をよぎって、もう二度と彼には会えないのではないかという、そんな不安な気持ちに駆られた。
もう随分昔のことになるけれど、レンが「ネパールへ井戸を掘りにいく」(本当はそれはアフガニスタンだったわけだが)、と言った時に、彼とはもう二度と会えないのではないかと感じたのと、まったく同じ気持ちだった……第一、あたしは男が「妻とは(いつか)別れるよ」と言った言葉を、これまでただの一度として信じたことがない。
「そんな顔、するな。必ずすぐにまた戻ってくるから」
「あんたは、あたしにとって期待と希望の星だってこと、忘れないでよ」
あたしは、わざと無理に笑ってレンにそう言った。
「そこらへんにいる普通の男が浮気して、愛人に嘘をつき続けるような話、腐るほどあるでしょ?あたしはあんたにはそんな男でいて欲しくない。レンがもしそんなどこにでもいるような陳腐な男だってことがわかるくらいなら――あたしたちは最初からこんなふうになるべきじゃなかったのよ。あたしの言いたいこと、わかる?」
「ああ、わかってる」
レンはそう言って、(誓いの)キスをしてから、あたしのマンションを出ていったけど……あいつが本当に「わかってる」のかどうか、また「わかってる」にしても、どこまでわかってるのかというのは、限りなくあやしいものがあるとあたしは思っている。
たとえば、最初は別れ話を切りだすつもりでいたけれど、情に流されるあまり結局切りだせなかったとか、あとになってから「今は時期が悪い」なんて言われたとしたら――あたしにとってこれ以上に打撃となることはない。
(レン、あたしはあんたに、そこらへんの陳腐な<普通の男>に成り下がって欲しくないのよ)
わたしがレンに別れ際に言った言葉というのは、本当は嘘だ。
そのことはあいつもわかっていると思う……「最初からこんなふうになるべきじゃなかった」なんて、今もあたしはまったく思わない。むしろ、最初から今みたいになるべきだったのに――何かの運命の悪戯から、ひどく遠回りをしてしまったのだと思っていた。
この三日というもの、レンがあたしのことを紛れもなく愛してくれているという以外、あたしには何ひとつとしていいことがなかった。
一応、TV局とかメディアに関連した仕事をしているとはいえ――あたしはマスコミに追いまわされたことなどないし、ほたるにそうしたことを漏れ聞いて「有名人は大変ね」と、ひたすら同情するだけの立場だった。
何かウィンドブレーカーのようなものを頭に被せたまま、行きつけのバーから警察車両へ乗りこんだ数馬には、おそらく理解できないに違いないけれど……あたしはとっくに、彼のことを許していた。
彼の取調べをする予定の刑事にでも、「川上サクラさんはあなたのことを許すと言っていましたよ。だから、がんばって更生してくださいとも彼女は言っていました」――そう伝えてもらおうかと思ったくらい、あたしは自分が死んでいたかもしれないにも関わらず(そしてレンがあの時偶然にもやって来なければそうなっていたにも関わらず)、数馬に対しては同情的な気持ちしか持っていなかった。
そう――たとえば人生をあたしのように三十二年やってきて、一度も「死にたい」と思ったことがない人間がいたとしたら、わたしはそんな人間のことは尊敬するというよりは軽蔑してしまうだろう。「運がよくてお羨ましい」とでも言って侮蔑的に褒めちぎるか、「随分薄っぺらな金メッキ的人生を送っておられるんですね。素晴らしい!」とでもいうしかないというか、何かそうした気持ちにしかなれない。
もちろん、そうした人というのはたぶん……ある幸運な条件がいくつも重なってそうなのか、あるいは本人の魂の性質が善良で、自分が人生というものに対して払った対価をバランスよく<運命>から押し戻してもらえる、その循環がうまく回っている人なのかもしれない。
わたしが何故こうもあっさり、殺されかかったにも関わらず、その殺そうとした相手のことを許せるのかといえば――それには理由がある。そしてこのことについては、レンにもすでに説明しておいた。
電話線を引き抜き、携帯電話もオフにしてから、ようやく静かになった部屋の中で。
「ねえ、レン。『ベルビュー荘のべらぼうに愉快な奴ら』の初演が終わった日の夜――あたしがあんたに話したこと、今も覚えてる?」
「ああ、昔の男の話だろ」
その件についてはもう蒸し返して欲しくないという顔をレンがしたので、あたしはもしや彼が今ごろになって嫉妬を覚えはじめたのだろうかと思ったけれど――そうではなかった。
「あのね、あとからあたしがあの日の話をどこまで覚えてるかって聞いたら、レンは言ったわよね?酔ってて途中から自分が何をしていたのか覚えてないって……あたし、あんたが優しい気持ちから忘れた振りをしてくれてるのかなって思ったんだけど、実際のところ、本当はどこまで覚えてるわけ?」
「あのな」と、ダイニングでテーブルに肘をつき、あたしと向き合うような格好でレンは笑った。
「おまえがすっかりそう思いこんでるみたいだったから、それ以上何も言わなかったけど――俺、おまえの昔の男語りなんて、半分以上まともに聞いちゃいなかった。記憶としてはっきり覚えてるのは、家になんとなく居づらくて、ボーイフレンドの……アツシさんとかいう人の家に転がりこんだっていう、そこまでだな。そこへフーテンの寅さんを格好よくしたみたいなお兄さんが帰ってきて、おまえがルリ子さんっていうアツシさんのお母さんに「その立派な二本の足で出ていってくれ」って言われたっていう、そんなところまでだ」
「ねえ、それって本当に絶対そうなの?」
あたしは疑わしい目でレンのことを見返した。
「嘘ついたってしょうがないだろ。もちろん、そのあともおまえが何かしゃべくってたってことは覚えてるよ。それで途中、たぶん酒の力のせいでそう見えたんだと思うけど、俺はサクラのことがちょっと可愛いなと思って……手をだしそうになったことは漠然と覚えてる。それで、「頭を冷やしてくる」とか言って、トイレに行ったんだ」
「ええっ!?あんた、どうしてそれをもっと早くに言わないのよ!?」
「その時は、酒の力による目の錯覚としか思わなかったからな」
――とはいえ、かくいうわたしも、レンの奴が「頭を冷やしてくる」なんて言って、席を立ったことはまるで記憶にないあたり……実際あたしも、どこまでレンに自分の過去話をしたのか、今さらながらわからなくなっていた。
そうなのだ。正直、わたしは今もアツシの家を出てからのことは、人に話して聞かせたいとはあまり思っていない。ルリ子さんに出ていってほしいと言われた時、あたしは物凄くショックだった……今も、ショックだったのはアツシと別れることではなく、彼女との関係を断ち切られたことのほうがショックだったのだと、あたしはそう思っている。
その時のあたしはまだ若く、たったの十七歳で、路頭に迷った白い子羊のような女の子だった。
つまり、その可愛そうな子羊のことを連れ帰ってくれるなら、そうした他人の善意や好意に甘えることに、なんの遠慮も感じないくらい、純粋で初心な娘だったといえる。
一流どころか二流、また三流ですらない高校へ通う長女を恥かしいと思う母とは違い――ルリ子さんはあたしのそういう状態を<ありのまま>受け容れてくれた女性だった。
「ただし、避妊には気をつけないとね」と、一緒に暮らしはじめた最初の頃、ルリ子さんはあたしにそう言った。
あたしが今まで何人もの男の間を渡り歩いてきたにも関わらず、一度も堕胎の経験がないのは、この時のルリ子さんの助言によるところが大きい。彼女はその時、評判のいい整形外科病院で看護師をしていたけれど、それまでに内科・外科・精神科・脳神経外科など、色々なところで働いた経験のあるベテラン看護師で――まだ看護学生だった頃、産婦人科で「堕胎手術」の現場に立ち会ったことがあったという。
「今の子もたぶん、五ヶ月くらいまでならなんとか堕ろせると思ってるだろうけど……五ヶ月にもなったら、それはもう立派な命として息づいてるのよ。あたしがその時見たのは、医者の先生が何かバキュームみたいなもので、緑色の命の元みたいのを吸いとってるってところだったの。アツシの兄がお腹に出来た時、あたしは今よりずっと若かったから、もちろん堕ろうそうかとも思ったけど――あの緑色の命の元みたいのが頭にちらついてね、どうしてもそう出来なかったわ。第一、堕胎っていうのは妊婦の体をボロボロにすることでもあるから……相手は妻子のある人で、認知もしてもらえないってわかってたけど、生んだの。それからアツシも、父親は医者なのに、ふたりとも頭のいい父親のDNAをさっぱり受け継がなかったみたい。もちろん、あたしの育て方が悪かったのかもしれないけどね」
ルリ子さんがその時に言った、<緑色の命の元みたいなもの>という言葉は、その後、あたしの頭を離れなかった。もし彼女からこの言葉を聞いていなかったとしたら――あたしは堕胎というのは、何か子供を堕ろす薬を飲んで、あとはおしっこと一緒に何かが流れてきて終わり……くらいにしか思っていなかったかもしれない。
そんな馬鹿なと笑う人もいるかもしれないけれど、学校では避妊については授業で教えてくれるけど、堕胎についてはそんなに詳しく教えていない。だからほんのたまに、公衆トイレで赤ん坊を産み落とし、そのまま公共のゴミ箱に捨てた未成年の少女……なんていう話がでてきたりするのだ。
あるいは赤ちゃんポストに子供を捨てる女性に対して、世間はとても冷ややかな視線を浴びせる。
肉欲の結果として、避妊もせず性交した罪の結果がそれだ、とでもいうように。
でもわたしが思うに――十代、あるいは二十代前半くらいの女性というのは、本当に初心で男とのつきあい方がわかっていない場合がとても多いと思う。
相手の要求にこたえなければ嫌われてしまうと思いこんでいたり、どうしていいかわからなくて相手の言うなりになってしまう女というのはいまだに多いし、しかもそれを「愛」だとか錯覚してる場合が極めて多いような気さえする。
「それはあんたのただの性欲であって、愛じゃないわ」――ということを、わたしは口にだして男に言ったことはないけれど、正直そう思ったことは何度もあった。
何故わたしが自分を殺そうとさえした数馬のことを「許した」のか、また「許せる」のか、その部分をわかりやすく説明するには、わたしにってとても長い言葉が必要になる……だから、アツシの家を出てから一度実家へ戻った、そのあとからさらに長い話を続けなければならない。
実家へ戻ったその後も、空中椅子で腹筋を鍛えているような居心地の悪さと緊張感があったため、わたしはまた家出を繰り返すようになっていた。わたしが通っていた3・5流の高校では、誰もまともに授業など受けている生徒はいなかったので(あたしは男の同級生と、授業中はいつも花札かトランプをしていた。先生はあたしたちのほうを見ない振りをしながら、架空の生徒を相手に授業を続けるといったような按配)、放課後はもう気力があり余っているといった状態だった。
そんなわけではあたしは、友達の家を転々としながら、今度はアルバイトをはじめることにしたのだ。
お金をためて自分ひとりの力でやっていくためにはそれしかないと思ったし、実際自分は接客の仕事に向いているとさえ思った……金メッキを磨きあげるように、表面だけ笑って客と接していればお金をもらえるだなんて、本当に素晴らしい仕事だとも思った。
そして特にこれといって何事もなく、喫茶店のマスターや他の従業員たちともうまくやっていた時――いわゆる暴走族というのか、その時代でさえとっくに死に絶えたと思われていた種族が、しょっちゅううちの店へくるようになったのだ。
ライダースーツを着こんだ、偽のラモーンズのような連中がドカドカ入ってきて、二十席ほども座席を占めると、当然他の善良な一般客はそそくさと逃げ帰っていった。
そんなことが五、六度繰り返されたあとで、ヘッドの右腕とかいうポジションにいると思しき男が、会計の後あたしにこう言ったのだ。「仕事が終わるまで待ってる。そのあとバイクでどこかへ行かないか」と……。
その男が声をかけてくるまで、この連中が帰ったあとに他のウェイトレスが言っていたのは、大体次のような言葉だったかもしれない。
「一体なんなのあの連中!?」
「今時あんなの流行らないわよね~。っていうかダサすぎww」
「そもそも、自分たちが社会の害悪、ゴキブリかダニ以下の人間だっていうの、わかってないんじゃない?」
――ご想像のとおり、わたしはこの社会の害悪、ゴキブリかダニ以下の連中と次第につきあいを深めていくようになった。
結局この時勤めていた喫茶店もやめざるをえず、あたしは暴走族グループのマスコットガールといったような存在になり……自分のことを最初に誘った男と一緒に暮らすようになっていた。
彼は名前を赤石五郎といい、あたしは彼のことを「ゴロちゃん」と猫のように呼んだ。
わたしは彼らのグループを暴走族といったけれど、それは世間一般が彼らのことをわかりやすくそう呼んでいただけであり、彼ら自身は自分たちのことをあまりそう思っていなかった節がある。
つまり、どういうことかというと、彼らはただのライダー仲間のようなものであり、確かに群れてバイクを走らせてはいるけれど、それ以外ではまったく硬派な男気のある連中だったということだ。
ちなみに、会の規則のようなもので、通常彼らの仲間に女性は加えてもらえないということだったけれど……わたしの場合はまあ、奥手でシャイなゴロちゃんが初めて惚れた女ということで、特別に仲間に入れてもらえたのだ。
ゴロちゃんと暮らしたのは大体二年くらいだっただろうか。
彼は高校を卒業後、自動車整備工場で働いており、収入のほうもふたりで暮らしていけるくらいにはなんとかギリギリあったと思う。
でもあたしはもう少し自分の物を自由に買えるお金が欲しかったので――バーでホステスとして働きはじめることにしたのだ。
そう。これもまたありがちな話だが、わたしはホステスとして着飾るために、次第にブランド物の服やバッグを買い漁るようになり、ゴロちゃんとは喧嘩の絶えない関係となっていった。そして、他に男が出来たのが原因で、別れることになったのである。
あとはもう、わたしの人生は「普通の人」の目から見たとすれば、<転落の人生>として映ったとしてもまったく不思議はなかったと思う。
あたしはこの頃にはすっかり学んでいた――男に効率よく金を貢がせるにはどうすればいいかを。
また、仮に相手の男がデブで禿げているような男でも、彼にお金さえあれば、そうした男と寝たり愛人になったりすることに、なんの抵抗も感じなくなっていた。
ただし、わたしのことをふたりの男とシェアしたい(ようするに俗っぽい言い方をすれば3Pとかいう関係)という男と、あたしに子宮内避妊器具をつけてはどうかと提案した男だけは金を持っていても断った。
それというのも、わたしはどの男に対してもこの「避妊」ということに対してはうるさかったからだ。
あたしはいつも彼らにこう言った――「ねえ、あたしに<緑の命の塊>を吸いとらせるような手術、受けさせたいってわけじゃないでしょうね?」と。すると大抵の男はすぐに押し黙った。正確には、ルリ子さんから聞いた時には<緑の命の元>だったと思うけど、あたしは彼らにその話をする時には必ず「塊」という言葉を使った。
でもレンにはこんな話、当然していない。
何故ならわたしは彼を愛しているので、愛の行為の結果として子供が出来るのなら――わたしにとってそれは、彼のことを繋ぎとめることの出来る、とても嬉しい重要な要素だったから。
いや、レンとのことはわたしにとって本当に特別なことなので、彼とのことはまたあとで述べるにしても……何故わたしが自分を殺そうとした数馬のことを許せるのかという、今はその話を先にしたいと思う。
正直いって、本当には愛していない男に抱かれる影で、あたしは泣いていた。
表面的には、自分の欲しいもの――ブランド物の服やバッグ――を買い与えられ、暮らしになんの不自由もない生活をあたしは送っていたが、当然それはあたしが本当に欲しいもの、欲しい生活ではなく、「本当に欲しい」ものを得られない代わりの代替品のようなものだったといえる。
わたしにはその頃、レンのように自分の思っている感情を言葉で言い表したり、あるいは絵で表現する芸術的センスといったものも持ち合わせがなかったので、ただこう思った。「死にたい」と。「こんな死んだような生活、これ以上続けてなんになるの?」と何度も思った――わたしが愛人になった男の中にもし、あたしの首を絞めて殺してもいいというくらい愛情のある男がひとりでもいたら、あたしは今この世に存在していなかったかもしれない。
そう……わたしが数馬のことをすぐに許すことが出来たのは、何よりもその点だ。
言葉で説明しても、人にはなかなかわかってもらえないかもしれない。でも、あたしは十八くらいまでは本当に、無知であるがゆえに汚れがなく、もし本当にその頃のあたしに「人生で一番大切なこと」を教えてくれるような人が身近にいたら、その時点ですでに人生は180度変わっていたかもしれないのだ。
うまくいえないけれど、あたしはそうしたことを他でもない<ベルビュー荘>で学んだ。
ゆえに、数馬の気持ちもわかる気がする……最初は汚れなく清らかな志を持って舞台に上がった青年が、やり方次第で大金がいくらでも手に入る裏の世界を知ってしまった時――何かが狂ってしまったのかもしれないという、そのことは。
数馬が何故他の人間のところへではなく、よりによってあたしの元へやって来て、自分の人生がうまくいかない憂さを晴らしにきたのか、その理由はあたしにもわからない。
ただ、彼には近いうちに必ず、あたしは会いにいくつもりだ。
そして彼のことを許していることを伝え、何か援助できることがあったら、遠慮なく助けの手を差し伸べるつもり……あたしはこうしたことを、実は心密かに<ベルビュー荘のやり方>と呼んでいるけれど、何よりそのことをあたしに教えてくれたのが、他でもないレンの奴なのだ。