Side:レン-8-
こんな晴れた日に女物のベージュの傘を持って歩くなんて――俺の人生でもしかしたら生まれて初めての経験だったかもしれない。
アフガニスタンから日本へ帰ってきた時、俺はまずベルビュー荘へ挨拶しにいったのだが、その時偶然サクラがそこにいて、「自分は今めっさいいところに住んでるから、是非とも遊びにきなさい!!」と言ったのが、一等地に建つこの二十階建ての新築マンションだった。
そして遊びにいったのはいいのだが、部屋の中については「THE・悲惨な女の一人暮らし☆」といった感じだったかもしれない。
ソファの背もたれにはこれでもかというくらい衣服がかかり、奥の部屋のクローゼットからは、一体何十足あるのだろうと、数えるのも嫌なくらいの真新しい靴と、ブランド物のバッグがあちこちの棚からはみでているといったような按配だった。
「……おまえ、あの靴が一体何足あるか、数えてみたことないだろ?」
「ないわね!」と、まるで勝ち誇ったようにサクラは答えた。
そして、部屋中に脱ぎ散らかした服などを寝室へ放りこみ――俺に白い革のソファへ座るよう勧めた。その際にどでかいクマのぬいぐるみを脇へどけると、あいつは「あたしのクマちゃんになんてことするのよ!」とか言って、怒っていたっけ。
俺は電車を下りてから、サクラの住むマンションの場所まで歩く十分ほどの間に、あいつになんて言ってあやまろうかと頭を悩ませていた。
今回のことは、誰がどう見ても100%自分が悪いと、よくわかっていた。
まあ、あいつがもし「あんなの、蚊に刺されたようなものだから」とでも言って笑って許してくれればいいのだが……奇妙なことに、実のところ俺はあいつにあまり本気であやまりたいとは考えていなかった。
そしてそのことについて、何故なのだろうと考える。
最初に会った時、俺は確かにあの女に<生理的嫌悪>に近い何かを感じたはずだった。それはたぶん七津美さんに関する記憶と関わりがあるせいではないかと俺は分析していたけれど……どうも最近、実はそれは、あいつが俺のおふくろに似ているそのせいなのではないかという気がしてきたのだ。
もっとも、あいつはおふくろのように占いにも風水にも凝っていなかったし、いつだったか、テレビで星占いの番組が五分ほど流れていた時に――あいつはこう言っていたことがある。
「レンって、一月生まれの水瓶座でしょ?」
「ああ、そうだけど」と、反射的に身構えつつ、俺はつっけんどんな調子で答えた。
「あたし、あんたの目から見て、何座に見える?」
サクラの奴は、至極不機嫌そうに眉根を寄せて、そう聞いた。
「さあな。蠍座とかか?」
俺がいかにも軽蔑しきった様子で、当てずっぽうに答えると――あいつは、がっくりと肩を落として沈んだ顔をしていたっけ。
「なんで一発で当てるのよ!!大体、水瓶座と蠍座の相性って最悪らしいわよ。あたしとあんたの気が合わないのは、もしかしたらそのせいかもね」
「ふうん。おまえにピッタリじゃん、蠍座って。いかにも蠍の毒で男を殺しそうなタイプだもんな。美川ケンイチの歌でも歌って一生暮らせば?」
「シャラップ!!あたし、だから星占いって嫌いなの!!あと、血液型占いもキライ!!なんでみんな、AB型には変人が多いって勝手に決めつけるわけ!?」
――あれはたぶん、俺が初めてサクラに対して好感を持った、最初の瞬間だったに違いない。
そしてお互いに言いたいことをズバズバ言いあえるってあたりが、俺にとってはあいつの一番の美点に思えることなんじゃないかっていう気がする。
つまり、自分のおふくろにいくらひどいことを言おうとも、相手は必ず底のほうでは自分を愛しているとわかっているから、好きなことを言いあえるみたいに……俺は知らない間にもしかしたら、あいつに随分甘えていたのかもしれない。
そして今、(なんにせよ、自分のおふくろにキスして嬉しい男がいると思うか?)と、阿呆なことを連想しつつ、なんとか俺はあいつを自分の性欲的な対象から外そうと必死だった。
日曜に画廊へ来た時には金髪だったあいつの髪は、今度は黒髪に戻っていて――正直なところ、画廊の入口で何か叫んでいる女の姿を見た時、それがサクラだとは、一瞬俺には思えないくらいだった。
たとえていうなら、物凄くいい女が理由はよくわからないにしても、自分の部屋のドアを叩いていて、自分は結婚して妻がいるにも関わらず、ついうっかり心の扉を開けてしまったような感じだ。
そう、本当はあの時点で、(比喩的な意味合いにおいて)俺はあいつのことを入れるべきではなかったのだと思う。
雨に濡れてブラウスから下着がすけて見えるとか、ぴったりした膝丈のスカートの曲線であるとか……あいつのそういう何かが、俺に対して効果を発揮したことはほとんどないはずなのに――唇に触れてしまったことで、俺の目は今多少、というかかなり狂いはじめている。
(よりにもよって、あの女をモデルに絵を描いてしまうとは、俺の人生最大のミステイクだ)
なんていうことを無理に自分に信じこませようとしつつ、俺があいつの部屋番号を玄関口で押そうとした時――マンションの住人らしき人物が、半透明の扉をくぐっていくところだった。
(まあ、ついでだな)
オートロック付のマンションっていうのも、意外に無用心なもんだなと思いつつ、俺は自分より前にエレベーターへ乗りこんだ、赤いTシャツを着たおばあさんに続き、三基あるエレベーターのうちの一基へ乗りこんだ。
「あんた、ここのマンションの人じゃないね?」
ランニングをして帰ってきたといった感じのおばあさんは、十階のボタンを押した。
「で、一体何階に用があるの?」
「……十七階です」
(なんでわかったんだろうな)と思いつつ、俺は彼女が十七階のボタンを押すのを見守った。
「お宅は、年のほうはいくつなの?」
白髪のひっつめ頭をしたおばあさんは、俺のほうは見ずにそう聞いた。
そして俺は、そんな彼女の姿を鏡越しに見やりながら答える。
「ちょうど三十歳ですが……」
「ふうん、あっそう。それじゃあまあ、お達者でね」
エレベーターから下りる時、おばあさんはくるりと振り返ってそう言った。
そして「暑い暑い」と言いながら、首にまわしたタオルで額の汗を拭き拭き、廊下を歩いていったのだった。
(軽く痴呆症を患ってるのかな)……そんなことを思いつつ、俺は十七階で下り、それからインターホンを押した。
暫く待っても返事がなかったので――俺は、傘をドアノブのところにかけて帰ろうかと思った。
その時、ドアノブが不意に動いて、鍵がかかっていないことに気づいたのだ。
「……サクラ、いるのか?」
無用心にも、鍵もかけずにあいつが寝てるんじゃないかと思って、俺はそう呼びかけた。
続く、ガタン、という大きな物音。
「サクラ!?」
リビングに駆けこんでみると、そこでは誰か知らない男が――俺にはすぐに、彼が上月数馬だとはわからなかった――彼女のことを押し倒し、暴力を振るっているところだった。
「このっ……!!」
男を強引にこちらへ振り返らせ、そいつのことを俺は力いっぱい殴ってやった。
床の上にナイフが転がっているのが目に入り、それを蹴って彼の手に届かないようにする。
「くそっ、もう少しだったのに!!」
何がもう少しなのかは、俺にはすぐわからなかったが――とにかく男は逃げるように廊下へ走っていき、それから玄関の閉まる大きな音が続いた。
「おい、大丈夫か!?」
あとにして思うとたぶん、その時のサクラの顔というのは、スッピンの上、顔に痣が出来ているといったような状態で、相当ひどいものだったんじゃないかという気がする。
けれど、この時にはそんなことより何より、彼女が本当に生きているかどうかのほうが心配だった……首に、赤く絞められたあとがあり、もし自分の来るのがもう少しでも遅れていたらと想像しただけで、俺は心底ゾッとした。
「ゲホッ。げほげほっ!!」
「しっかりしろっ。救急車、呼ぶか!?」
いい、と掠れたような声で答え、この期に及んで、なおもサクラは冗談を言えるような女だった。
「あ~、よかったあ。こんなTシャツにホットパンツなんていうダサい格好で死ななくて……しかも今、スッピンだし、首しめられたことで、顔もむくんでそう。どうせ死ぬなら、もう少し気の利いた死に方したいもんよね」
「バッカっ……おまえっ、こんな時に何言って……」
口では冗談を言っているけれど、彼女の俺の腕をつかむ手は震えていた。
「あたし、あいつに首しめられてる間、ずっと、レンのことだけ考えてたの……あたし、あの時キスされて嬉しかったのに、どうして拒むようなことしちゃったのかなって。どうせ死ぬんなら、自分の本当の気持ち、伝えておいたらよかったって、そう思って……」
――そのあとのことは、正直よく覚えていない。
正確には、覚えていないのは当然嘘だが、あえて説明したいとは思えないということだ。
俺は泣きじゃくりはじめたあいつのことを抱きしめると、彼女のことを寝室まで運んだ。
クローゼットから、ブランド物の靴やらバッグやらが、これでもかというくらいにはみでているあの部屋だ。それと、あの知り合いの男を部屋に通した時、慌ててリビングを片付けたのだろう、そのために寝室の入口はゴミためと化していたが、そんなことも今の俺にはどうでもいいことだった。
そしてサクラのことをベッドへ下ろした時、体を離そうとした俺の腕を、不意にあいつが掴んだ。
「ずっとじゃなくていい……でも、せめて今はそばにいてほしいの」
たぶんサクラのことがあんなに可愛く見えたのは――俺の人生史上はじめてのことなんじゃないかという気がする。
それから、あいつと初めて寝て俺が気づいたのは、実はあいつが相当にいい女で……俺はそのことに随分長く気づかなかった大馬鹿男だったということかもしれない。