Side:レン-2-
「レンって、ナツミさんのこと以外で、何か他にトラウマとかってないの?」
久臣さん所蔵の日本酒コレクションのひとつ――【死神】の蓋を開け、それを氷で割って飲みながら、サクラが何かの拍子にそう聞いた。
正直いって、その日の夜から明け方まであいつと話したことのうち、サクラが一体どこまでのことを覚えていて、俺もまた一体どこまでのことを話したのかというのは、途中から記憶が定かでない。
翌朝、気がついたら俺はソファの上に寝ており、あいつは廊下で行き倒れたようにいびきをかいているのをミドリさんやほたる、そして久臣さんや小山内氏に発見されていた。
そして、目が覚めてから俺が真っ先に思ったことというのは(まさかとは思うが、あいつに何もしてないよな、俺?)ということだったかもしれない。
なんにしても、とにかくここで記憶を遡らせて、覚えているだけのことを一度思いだしてみようと思う。
「トラウマか。そういえば俺、おまえにおふくろの話ってしたことあったっけ?」
冷蔵庫にあったカニかまやきゅうりやちくわなどをマヨネーズで和えながら、俺は酒のつまみを作っていた。
テーブルの前であいつと隣あって座り、適当に酒を飲みながら。
「ああ、あれでしょ?おかーさんが初出産の時とっても大変だったから、もう二度と子供いらないと思って禁欲……じゃないや、ようするに避妊してたけど、ついうっかり出来たのがあんたなんだっけ?もしかしてそのこと?」
「まあ、トラウマっていうほど、大袈裟なことでもないんだけどさ」
俺は冷蔵庫から適当にとってきた食材をテーブルに並べていたが、今度はトマトの中身をくり抜いて、そこにシーチキンを詰めることにする。
ちなみに、すでに酔っている人間に「おまえは一体何をしているのか?」などという愚問を投げかけてはいけない。第一、トマト×シーチキンというくらいなら、まだまだ理性が残っていた証拠といえるだろうから。
「そのことを聞いたのが俺、まだわりと小さい頃だったんだ。母親はもちろんただの軽い冗談みたいな感じで言ってたんだけど――あ、ちなみに俺に直接言ったってわけじゃなくて、誰か友達と電話で話してたんだよな。いわゆるママ友っていうのか?子育ての悩みについて語りあってて、「もしついうっかりあの時あの子が出来なかったら、わたしも今こんな苦労してないんだけど」みたいにポロッと言っててさ。俺は母親のことを喜ばせようと思って、有名な私立中学を受験するのに結構必死で勉強してて……それからだな。俺があの人のことを軽蔑するようになったのは」
「軽蔑?」
それは流石にちょっと大袈裟なんじゃないの?といったようなニュアンスを感じて、酔っていたせいもあり、俺はこの時かなりムキになった。
「サクラはさ、俺のおふくろを知らないからそんなふうに言えるんだよ」
トングで氷をグラスにぶちこむと、俺はその上に【死神】をドブドブと注いだ。
「あの女は狂ってるんだ。朝起きたら、70年代のディスコヒッツか80年代のそいつがかかってて――アバとかドナ・サマーの曲に合わせてまずはエアロビだろ。それから瞑想のために部屋にこもるんだよ……家にはお手伝いさんがいたから、ごはんとかは彼女たちが作ってくれる。だから俺はおふくろの味ってのを知らない。何故ならあの女が料理なんてしようもんなら、それは天変地異の前触れみたいなもんだからな」
「ふう~ん。なかなか面白いお母さんじゃないの?」
料理をしないからと言って、それが悪い母親とは限らない――今度はそういうニュアンスをサクラの言葉から感じ、俺はカニかまときゅうりとちくわの和え物の真ん中に、グサリと箸を突き立てた。
そして、それを食べる。
「いいか、よく聞け。俺のおふくろは電話で友人とこう話してた……「もうひとり子供を産むなんて正直面倒だし、堕ろそうかとも思ったの。でも、その時ある種の予言が閃いたのよ。安物のコンドームがうっかり破けて妊娠したってことは、これはきっと宇宙の意志に違いないって!」どう思う?コンドームが破けたことが宇宙の意志だぜ?以来、おふくろの奴は――俺が何かの奇跡を起こす子供なんじゃないかと思って、ずっと待ってやがるんだ。こっちはおふくろの希望を叶えるために必死こいて勉強してるってだけなのに、テストでいい点とるたびに、俺には守護天使ガブリエルがついてるから100点とれたとかなんとか……もうウンザリなんだよ!!」
俺の語気が荒いものだったせいか、サクラは一瞬酔いから醒めたといったように、目をパチクリさせている。
そして俺はなんとはなし、決まりの悪い気持ちになって――焼酎を一気に飲みほすことになった。
「そうよね。親の期待って、大きすぎてもツライってことか。その点、あたしは逆かな。母親も父親も姉のわたしには全っ然期待してなかったからね。川上家の期待の星は弟のアキラただひとりっていう感じ。で、この子がすごい出来る子なの。勉強のほうもよく出来たし、アイスホッケーの試合がテレビで流れる時は、親戚中の人間がうちに集まって応援すんの。あの子が高校受かった時は、お寿司とかケーキを頼んで親戚中が大騒ぎだったわ。あたしは三流と四流の真ん中くらいの高校にいってたからね、いわばまあ3・5流の高校に受かった程度では、クリスマスの時みたいに喜んでもらえなかったってわけ」
「ああ、そうか」と、俺は不意にげっぷがでそうになるのを堪えて言った。「だから、なんだな。それであんたは早く家をでて、男の間を渡り歩き、ついには水商売をするようになったってわけだ」
「あら、まるで見てきたように簡単に言ってくれるのね」
今度はサクラのほうが、トマトのシーチキン詰めにグサリと箸を突き立てる番だった。
そして、それを食べる。
「一応いっておくと、あたしは弟のことが好きだったのよ。今だって、自慢の可愛い弟だって言ってもいいわ。だけどね、家には居づらかった。なんでかわからないし、言葉でもうまく説明できないけど、とにかくそうだったの。で、高校二年の時につきあってた先輩の家に転がりこむようになって……まあ、あたしが同棲みたいなことをするようになったのは、それからよ」
「先輩ってことは、高三だろ?家に他の家族はいなかったのか?」
俺は、何かの事情でその<彼>とやらが一人暮らしをしているのかと想像したが、そうではなかった。
「ええ、いたわよ、もちろん。彼……アツシっていうんだけど、彼は看護師やってるシングルマザーのお母さんとふたり暮らしだったの。で、そこにわたしが転がりこんだっていうような形」
「ふう~ん。で、その将来の姑になるかもしれない女性は、寛容にもおまえの存在を許してたってことか?」
「うん、そう。ちょっとびっくりでしょ?それであたしのこと、すごく可愛い可愛いっていつも褒めてくれて……うちのアツシにはもったいないくらいだから、もし将来結婚するんなら、このまま家に住んでくれても構わないってそう言ってくれて」
「でも、現実にはあんた、結婚してないだろ?まさかとは思うが、バツイチなのか?」
ここでサクラの奴は俺のことを横から小突いた。
「まあね。確かにあたしは結婚したことは一度もないわよ。でも、しょうがないの――だってそれが、あたしの運命なんだもの。いつも、結婚しようかなって思うと、横から邪魔が入って……まあ、結局のところ自分が悪いっていうのは、わかってるつもりなんだけどね、これでも」
俺はこの時、なんとはなし、胸の底のほうが痛んだ。
俺が以前、絵のモデルになってくれた女の子を傷つけたのは、結局のところすべて自分が悪いのだとわかっていたから。
「で、この時もね――あたし、こう思ってたの。このお母さん……ルリ子さんっていうんだけど、彼女とならうまくやっていけそうだし、先輩もその時すでに就職先が決まってて、このままいわゆるヤンママっていうのになるのも悪くないかなあ~なんてね」
「それで、どうなった?第一、おまえの両親も少しおかしーんじゃねえのか?いくら弟にばっか期待してたとはいえ、娘がよそ様のお宅で世話になってるって状況、普通ならもっと憂えるものなんじゃねーの?」
「あんたって時々、変な日本語使うのね」
そう言って、サクラの奴は微かに笑った。
その時に俺はふと(そういえばこいつ、俺より二歳年上だっけか)と思いだしたりしていた。
「確かに、うちの両親はおおいに憂えていたみたいよ?弟の話によるとね。母さんはまず、ルリ子さんに電話してきて、「娘を家に帰してください」って言ったの。でもあたし、その時までに川上家が一見立派に見えながらもおかしな家だっていうことを彼女に話してたから――ルリ子さんはあたしのことを庇って、「本人か帰りたければ帰るんじゃないですか?だって、二本の立派な長い足があるんですから」ってそう言ったの」
サクラがくすくすと笑ったので、俺もつられてなんとなく笑った。
「でもね……そういう彼女の善意を何もかも台無しにしちゃったのよ、この馬鹿な女はね。アツシには実をいうと、レンの家と同じように年の離れたお兄さんがいて、六つだか七つだか忘れちゃったけど、とにかくそのくらい年の離れたフーテンの寅さんみたいなお兄さんがいたのよ」
こっから先は説明しなくてもわかるわね?というようにサクラが俺の顔を見たので――俺は意味がよくわからなくて、首をひねった。おそらく酔っていたためにいつもの勘が働かず、サクラは寅さんの妹だろう?といったようなことを考えていた。
もちろん、彼女が言いたかったのはそういうことではないのだが。
「このお兄さんね、普段は家にいないんだけど、ある日フラっと実家に帰ってくるんですって。正直、お母さんのルリ子さんも、彼がどうやって生計立ててるのかなんて、さっぱり知らないみたい。ただ、フラっと家に帰ってきて、またフラっと家を出ていくから――せめても帰ってきた時だけは、居心地よく過ごさせてあげようってそう思ってたみたいで……わたしも一応、アツシからお兄さんのことは聞いてたのよ。そんなわけだから、ある日突然家に知らない男がいても、泥棒と間違えないでくれよなって。それで、あたしアツシにこう言ってやったわ。もしそれが本当に泥棒なのに、お兄さんと間違えたらどうするの?って……まあ、ここからの話は簡単よ。っていうか、世間には似たような話が掃いて捨てるほどたくさんあるに違いないわね。ある日、アツシのお兄さんがフラっと帰ってきて――で、弟の彼女がめっぽう可愛かった。それでふたりは恋に落ちたってわけ」
「めっぽう可愛いとか、自分で言うなよ。っていうより、それであんたどうしたんだ?そのお兄さんと駆け落ちでもしたのか?」
「流石にわたしもそこまで馬鹿じゃないっていうか……ううん、馬鹿にはバカだったけど、アツシのお兄さんは生活能力が本当にゼロって人だったの。一緒にいたら、リヤカーでも引いて物乞いするしかないっていうくらいね。そのかわり顔だけはめっちゃカッコいいのよ。アツシとは父親違いのお兄さんなんだけど、たぶんそっちの血を強く引いたのね。ルリ子さんも美人だったから、それがこううまくブレンドされて……」
「俺、あんたのそのDNAの講義には興味ないな。それより、お兄さんと弟を天秤にかけて、あんたはイケメンの兄のほうを選んだってことで、話は合ってるのか?」
「まあね。っていっても、具体的にどうこうってことじゃないのよ。お兄さんの登場で家の中の空気が微妙になったっていう、そういうこと。お兄さんは弟の可愛い彼女が好きだけど、当然弟の彼女だから手は出せない。あたしもお兄さんには心惹かれるものがあるけれど、道徳的っていうか倫理的に考えて、そういう関係にはなれないわけでしょ?そんでもってアツシって、通ってる高校も3・5流なら、顔のほうも3・5流でね……でも性格だけめっちゃいいって奴だったのよ。つまり、どういうことかっていうと、そういうお兄さんとあたしの間に流れる微妙な空気に全然気づかないくらい、鈍い奴だったの!だけど、ルリ子さんは勘の鋭い人だったから、ある日突然あたしにこう言ったわけ。「その二本の立派な長い足で、この家から出ていって欲しい」って」
「ま、当然だな。というより、あんたの口から道徳的とか倫理的って言葉がでてくるとは思わなかったぜ。意味わかってて使ってるんだろうな?」
サクラの奴はここでまた、俺のことを横から軽く小突いた。
「あたしだって――あたしなりに、その時々で色々あって結構大変だったのよ!あんたみたいな芸大に現役で入れるお坊ちゃまとは違ってね!それ以来、いつも結婚しようかなっていう一歩手前くらいのところで、別の違うタイプの男が現れて、それで駄目になっちゃうっていうことの繰り返しだったんだから!」
サクラが突然わっと泣きだしたのを見て、正直俺は狼狽した。
何故といえば、たぶん酔いが相当まわっていたそのせいだろう……サクラのことがちょっと前にこいつが自分で言っていたとおり、やたら可愛く見えてきたからだ。
いつもの俺なら、自己憐憫の涙を流すような女はうざいとしか思えない。
考えてみれば、俺は坂道の途中にあるあのベンチに座っていた時から――こいつが目に夜景の光を宿らせているのを見て、一瞬ドキリとはしていたのだ。
でもその時はほんの束の間の目の錯覚だと思い込もうとし、今もまた、こいつがスーツスタイルなのを見て何故か安心していた。
たぶん、サクラが『ゼウスとプロメテウス』を見た時にしていたような格好、もし今あんな感じだったら、俺の理性も軽くやばかったのかもしれない。
このあとサクラは、それからつきあった男のことをひとりひとり上げて説明しだし、正直俺は彼女が話したことについては、ここ以降さっぱり思いだすことが出来ない。
ただ、全体的な印象として――もし仮に何かの間違いで俺が彼女と寝たとしても、それは長く続くような「何か」ではないということだけははっきりわかった。
俺はサクラの中を通りすぎていった何人もいる男のひとりにすぎず、そんな関係になるよりは<友達>でい続けたほうがずっといいのだと、俺はそう決断するに至っていたといっていい。
そして次に目を覚ました時、俺はテーブルの上を見回して唖然とした。
廊下からは、「ぎにゃ~!!」などという、意味不明の言葉が聞こえてきている。声から察するにサクラだというのはわかるのだが、一体何が「ぎにゃ~!!」なのかまではわからない。
「レンくん、きのうの夜はサクラちゃんと随分盛り上がったみたいね」
ミドリさんが若干呆れ顔で、テーブルの上の素敵なオードブル類を指差す。
えんどう豆と納豆の牛乳溺れ死に、野菜とマカロニのカルピス原液漬け、小エビとルッコラの酸っぱい匂いのするよくわからないもの……たぶん、作ったとしたら俺だろうが、何故こんなことになっているのかまでは、さっぱり思いだすことが出来ない。
サクラの昔の男語りにだんだん飽きてきて、それで何か無造作に手を動かし続けていた気もするのだが、今の俺にあるのは、食べ物を粗末にしてしまったことに対する罪悪感だけだった。
「すみません、ミドリさん。俺……」
べつにいいのよ、といったように肩を竦めて、ミドリさんは居間のテーブルの上を片付けはじめていた。
床の上には久臣さん秘蔵の酒ビンが何本も転がっており、このことについてもあやまらなくてはならない……俺がそう思った時、藍染めののれんの前を、バタバタと見慣れない姿が通りすぎていくのが見えた。
「小山内さん、やめてくださいっ!!そのペン絶対油性でしょ!?」
「いかにも。でも、右頬にだけヒゲが生えてるなんてバランスが悪いじゃないか。だから左頬にもチャーミングな三本線を入れてあげよう」
もしかして、あの人も酔っているのか……と、俺が重い頭で考えた時、のれんの向こう側からサクラが居間へ飛びこんできた。続いて突っこんでくる小山内氏。
俺にとって彼は、随分長い間憧れの存在だったはずなのだが――「べらぼうに愉快な」人とつきあうというのは、もしかしたらそれはそれでとても疲れることなのかもしれないと、俺はズキズキと痛む頭の奥のほうで考えはじめていた。
サクラはその後、「あんたあの時のこと、どのくらい覚えてる?」と、やけに神妙な顔をして俺に聞いてきたことがある。
俺がアフガニスタンへ戻る一日前くらいのことだったと思うが、俺にとって小山内氏や他のベルビュー荘の住人たちと過ごしたこの年末年始というのは、忘れられないとても楽しい記憶として今も残っている。
いってみればまあ、俺にとっては<青春の最後の思い出の一ページ>といったところだ。
どうもサクラは、自分の過去の男関係についてすべてしゃべってしまったことを恥じている節があり、俺がいくら「途中からは完全に酔ってて記憶が飛んでるんだ。だから本当に全然覚えてない」と言っても、疑わしい目つきをしたままだった。
ある種の同情心や優しい気遣いといったものから、俺が「忘れたふり」をしてくれているのだと、どうやらそんなふうに思っていたらしい。
おそらく、俺自身もそうなのに違いないが、人間というのは大抵、思いこみが激しく、人を容易に信じることの出来ない性質を持っているのだろう。
サクラはその前にも(ちなみにこれはまるっきり酔ってない時の話だ)、俺が彼女の横顔を描いたその絵を、自分が部屋に忍びこんで覗き見することがレンにはわかっていたんでしょ?といったようなことを自白していたことがある。
無論、俺はまさかサクラが自分のいない間に2号室へ忍びこみ、あの絵を見るなどとは想像もしていなかった。
だが、彼女の口調から察するに――俺がいくら「そんなことは思ってもみなかった」と言っても、サクラは絶対に信じないということがわかっていたので、「べつにどうでもいいことだろ」と俺は答えた。「それより、人の部屋に無断で入るなんて、それは不法侵入と呼ばれる犯罪なんじゃないのか」と。
「ねえ、あんたはなんであたしの絵なんか描いたのよ?あたしって、あんたにとってはそういう意味でそそられない女なんでしょ?」
「まあ、確かにな」と、今では少し違っていたが、俺は嘘をつくことにした。「いわゆる気まぐれってやつかな。あの時、なんであんたが泣いてるのか、俺にはさっぱりわからなかったから……その時の印象がなんとなく心に残っててさ。俺は自己憐憫以外で女が泣いてるところなんて、見たことがなかったから」
「ふうん、あっそ」
その話はそれきりになってしまったが、サクラの横顔を描いた絵を、実をいうと俺は今も持っている。
何故なのかはわからないが、途中まで描いたその絵は、続きを描いて着色することも出来ず、中途半端なところで描き終わっていながら、同時に完成されているようでもあり、俺にとっては捨てることも消すことも出来ない何かを持っている、不思議な絵だった。
結婚してから、まさか妻がそれを見つけてずっと心に引っかかるものを感じていたのだとは――俺は彼女の口から直接そうと聞くまで、わからないことだったけれど……。