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Side:レン-7-

 俺はきのう、初めて妻の待つ自分のアパートへ戻らなかった。

 近くのコンビニで剃刀やタオル、歯ブラシなどを買い、ミチルには「今日は泊まりこんで絵を描きたいから帰らない」と連絡しておいた。

 彼女はいつものように、どこか平坦な声で「うん、わかった」とだけ答え――そして俺は電話を切った。

 エアコンのほうは、サクラの奴が帰ってから、何故か元どおり動くようになり、何も問題はなかったけれど……もしそのままなら、業者に頼んで点検がてら直してもらう必要があっただろう。

 なんにせよ、今大切なのはそういうことではない。

 俺は何かに取り憑かれたように、サクラのことをモデルにした絵の続きを描いていた。

 幸いなことに、サクラは俺があいつをモデルにしていると気づかなかったようだけれど――大体、絵のイメージ自体がビッチのあの女とは程遠い感じだったから、よく見ないかぎり他の誰かとしか思えないくらいだったに違いない。

 サクラの奴はいつも、クチナシの香りのする香水をつけているが、俺が今描いているのはちょうど、そのクチナシの花の精のような女だった。

 この間の日曜日、あいつが佐々木さんと一緒に画廊へやってきた時――サクラの奴は、まるで外人のような金髪をしていた。あれでたぶん、ブルーのコンタクトでもしていれば、外国のモデルか何かに見えたに違いない……正直なところをいって、そんな女と並ぶクマちゃんこと佐々木凛太郎さんという人は、金と権力にものをいわせて若く綺麗な女とつきあっているスケベ親父といったようにしか見えなかった。

(まあ、世の中そんなものだよな)などと思いつつ、佐々木さんと俺は握手したわけだが、彼は思った以上にものを見る目のある、まともな人のようだった。

 自分の買った絵が本当に五百万もの値打ちがあると思っているかどうかについては、俺は今もあやしいものだと思っているけれど……おそらくはサクラの奴が、「レンは絶対将来大物になると思うの!そしたらクマちゃん、随分安い買物をしたなって過去を振り返って思うわよ!」とかなんとか、先に吹きこんでいたに違いない。

 そして佐々木さんは佐々木さんで、十歳年下のこれから新妻となる女のことを喜ばせたいあまり――五百万という小切手を、軽やかに切って寄こしたというわけだ。

「絵、一枚売れたよ。五百万で」と言った時、ミチルは彼女らしくまるで動じていない様子だった。

 鈴木氏のワイフとは違い、金銭的なものに対して、即喜びの表情を浮かべるような低俗な女ではないのだ、彼女は。

「良かったわね。でも五百万なんて――少し、アフガニスタンの孤児院のほうに送ってもいい?きのう、向こうから絵葉書が届いたのよ。レンも見るでしょう?」

 もちろん、というように俺は頷いた。

 かつて紺野が言っていた、<魂の義務>というのを放棄したような罪悪感が心にのしかかってくる……けれど、よく考えてみれば、五百万もあったらミチルと一緒にアフガニスタンへ行って少し向こうへ滞在することも十分可能だと俺は思った。

 そしてそのことのほうが――川上サクラのセレブ婚などをハワイで目撃するより、俺にはより重要なことのように思えていた。

 この時俺は、ミチルと一緒に絵葉書を見て、二年前にアフガニスタンであった色々なことを話し、久しぶりに会話が弾んだ。それから俺は一度この部屋に来たことのあるサクラのハワイ婚について話すのはやめ、そのうち都合がついたら一緒にアフガンへいく約束をミチルとしたのだった。

 たぶんそうすれば、切れてはいないが限りなく細くなっている、ミチルとの心の絆をもう一度取り戻せるかもしれないと思ったから……。

 にも関わらず――俺はその四日後、これから年収億超え男と結婚しようという女と、なんの間違いからかキスしてしまった。

 あえて聞き苦しい言い訳させてもらうとすれば、その原因は匂いだ。

 サクラのつけていた、クチナシの香水の香り……たぶんあれのせいで、脳の中の何かの感覚が一時的に麻痺してしまったのかもしれない。

 あの匂いがアトリエから完全に消えてしまうと思うと、せっかく久しぶりにいいインスピレーションがきたと思ったのに、それがなくなってしまうような気がした。

 俺はこれまで、モデルになってくれた女性とひとり残らず寝ている――だから、つい昔の悪い癖が出てしまったのかもしれない。

 けれど、何より俺にとってショックだったのは、サクラが体を押しのけてきた時、彼女が「あんただけは違うと思っていたのに」という眼差して、俺のことを刺してきたことだろうか。

 今の俺にあるのはただ、せっかくあった信頼関係を自分から裏切ってしまったことに対する罪悪感だけだった。

 だから、俺はこれからサクラが住んでいるマンションまで出向いていき、一応表面上は忘れた傘を届けるという名目で、彼女に会いにいこうと思っていたのだ。




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