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Side:サクラ-5-

「ふーっ。暑いわね。今日って一体何度あるのかしら?」

 部屋に籠もってずっとクーラー快適生活なんていうのを送っていると、突然外へでた時、かなりのところ暑さに対する耐性が失われてしまっているように感じる。

『嵐の中で抱きしめて』は、第三回目までが放映になった現在、平均視聴率が19.8%とのことで、最終回の展開についてもあまりとやこう言われることはなかった。

 とはいえ、視聴率なんていうものは水物なので、これからどうなるかなんてわからない。

 しかも最悪なのは、最終回の脚本を持っていったにも関わらず――プロデューサーに次回作の構想についてまで色々聞かれたということだ。

 まあ、とりあえずうまく逃げを打っておいたけど……わたしの中に次回作なんていうものに対する構想は実際のところまるでない。

 今は『嵐の中で抱きしめて』をどうにかこうにか破綻なく終わらせたということで、創作能力を使い果たしてしまったような状況だ。うまくいえないけれど、グレープフルーツかレモンを絞り器で絞ってもう一滴も何も出てこないっていうような、そんな状況。

 だから、わたしがレンに会いたいと思ったのは、そのことが理由でもある。

 もちろんクマ自慢ならぬ彼自慢をするというのが第一の目的ではあるけれど、あいつは一体どんなふうにしてそうした創作能力を保っているのか――その秘密を聞いてみたいような気がしたのだ。

「いらっしゃいま……って、なんだ。あんたか」

 ドアを開けると、チリンチリンと頭上で鈴が鳴った。

 画廊のガロは、クーラーがばっちり効いている環境の、なかなかモダンな感じのする、素敵なギャラリーだったと思う。

 あちこちに観葉植物が置かれた大理石の床は、見た目にもとても涼しげだったし、全体としてアールヌーヴォー調の曲線があちこちに活かされた建物の造りをしていた。

 そしてレンは、Informationと書かれたカウンターの内側で、何かの書類に目を通している最中だったらしく――あたしがシャネルのサングラスを外して彼の手元を覗きこむと、彼は即座にそれを隠すそぶりを見せた。

「『なんだあんたか』とはご挨拶ね。仮にもお客さまに対して、その態度はないでしょ」

「あんたに芸術のなんたるかがわかるとは思えないけどな。第一、三十過ぎた女がそんな短いスカートはいてるなんて、見苦しいぜ。銀座のママみたいなケバイ化粧してきやがって」

 流石のあたしも、珍しくここでグッと言葉に詰まった。

 今日のあたしの格好というのは――確かに、これからホストを買いあさりにいくどっかのマダム風だったということは、自分でも認める。髪の毛は黒と茶とブロンド、それにプラチナのまだらに染まっていたし、グッチの黒の胸元見え見えドレスは、男を誘惑しているようにしか見えなかったかもしれない。

 でも、そのくらい暑いのだから仕方ないというのが、今のあたしの言い分だった。

「あ~あ、いつも思うけどあんたって、他の人にはわりと寛容な紳士ヅラで接するくせに、なんであたしにはいつまでたってもそう辛辣なのかしらね?」

「さあ、なんでだろうな。もしかしたらあんたが俺のおふくろに似てるからかもな」

「なあに、あんた。もしかしていい年して今もマザコンなわけ?」

 今度はレンのほうがグッと言葉に詰まるのを見て、あたしはカウンターに肘をついて二ッと笑ってやった。

 勝利の笑みだ。

「とにかく、仕事の邪魔になるから――」

 レンがそう言いかけた時、入口のドアがまたチリンチリンと鳴った。

 そこでわたしはレンの仕事の邪魔にならないよう、ギャラリーの中を少しまわってみることにした。

 ガラス製のドアが左右に大きく開かれた向こう側の空間には、大体四十万~二百万くらいの値札のかかった、有名画家の複製品がいくつも並んでいる。たとえばミュシャとかロートレックとか、あるいは印象派のゴッホのひまわりとか、そういった作品。

 あたしはその中の、シスレーの絵が少し気に入って、(こういう絵が、クマちゃんとの新居の壁にかかっているのも悪くないかなあ)と思ったりする。

 まあ、ただの複製品で十分満足できるあたり、レンの言うとおりあたしには芸術の素養というか、ようするに見る目がないっていうことなんだろうけれど。

 そしてあたしが隣の部屋にある、<イラク・アフガン戦争展>という写真の並んだ部屋に入ろうとした時――不意に、若い女性の笑い声が耳に届いた。

「そうなんですよお。わたしまだ新人でぇ~。インターンなんです。だからお給料も安くてこき使われてる感じなんですけど、最近お客さんがあんまり来ないもんだから、チーフもイライラしてて……その、やっぱりあんなことがあった場所だからなんですかね」

「そうかもしれませんね。なんにしても、そのうち客足が戻ってくるといいですけど」

 それからレンは、領収証を切ってその美容室のインターンらしき女に手渡している。

 彼女はどこかルンルン気分といった様子で、高く結い上げたポニーテールの髪を揺らしながらガロから出ていった。

(あーあ、こいつも一体どこまで罪な男なのやら)

「なんだよ。言いたいことがあるんならハッキリ言えばいいだろ?そんな蛇がカエルを睨むような顔して黙ってられると、気持ち悪いぜ」

「あんた、指輪は?結婚指輪をしてないっていうのは、どういうことよ?」

 ああ、といったように、レンはカウンターの引きだしの中から指輪を取りだすと、それを左の薬指にはめている。

 プラチナ製のとてもシンプルな、見るからに安っぽそうな指輪。

「説明するのも面倒だけど――俺はあんたの考えてるような理由で、指輪をしてなかったわけじゃない。ただ、今はちょっと事務仕事があってここに座ってたけど、平日に客が来るのなんか数えるくらいだからな。俺はその間そっちのアトリエで絵を描いてて、絵を描くのに指輪が邪魔だから外してたっていう、それだけだ」

「ふう~ん。でもあんた今、モテてまんざらでもないみたいな顔してたわよ?あの子も下の画廊にいるミズシマさんって超カッコいいみたいに思ってるような感じだった。それで指輪してないって、変な誤解を招くと思わない?」

「くだらない」と言って、レンはあたしのことを蔑むように見返した。

「あんた、それで一体今日はここへ何しに来たんだ?まさかとは思うけど、俺の浮気調査ってわけじゃないんだろ?」

「その……まあ、今日は、あんたに聞きたいことが色々あってね」

 それと自慢したいこともあるしね、とは言わず、あたしはレンが小さな金庫にお金をしまい、彼がアトリエと呼んだ場所へ入っていくことにした。

「うわあ~。中学校の時の、美術室の匂いがするわ!」

「どっかそのへん座っててくれ。今、アイスコーヒーかなんか、持ってくるから」

 レンがアトリエと呼んだ部屋には、入って左側の壁にCDがこれでもかというくらい棚に並んでいた。

 たぶん五百枚はあると思うけれど、今ギャラリーに流れているクラシック音楽も、この中の一枚なのかもしれない。

 あとはレンが今製作中と思しき絵がイーゼルにかかっていて――部屋の四隅には色々な画材がゴチャゴチャと置いてある。

 レンが今描いているのは風景画で、あたしはその麦の穂がほたるのように光を放って夜空を彩る光景を、その昔見たことがあるような錯覚に陥っていた。郷愁というか、懐かしいと思う気持ちはたぶん、そこにかつてはいたのに、もう二度と同じ場所へは戻れないからこそ起こる感情なのだと思う。

 わたしには絵のことはよくわからないけれど、そういう意味でレンの描く絵には確かに、人の心を捉える何かがあると思ってはいた。

「ほら、アイスコーヒーな」

 氷のたくさん入ったタンブラーに、並々と注がれているアイスコーヒー。そこにストローをさすと、レンは椅子に座っているあたしの太ももの上に、ガムシロップをひとつ投げてよこした。

「それで、なんの話してたんだっけ?」

「あの……あらためてこういうことって、すごく聞きにくいんだけど」

(本当はクマちゃん自慢をするのが先だったはずなのに)と思いながら、あたしはレンが洗って乾かしておいたと思しき、絵筆を片付ける姿を見守った。棚の中を開けたり閉めたりし、何かを探している様子だけれど、彼が一体何を探そうとしているのかまではわからない。

「なんだよ?あんたの言い分によると、俺はあんたの友達なんだろ?だったら遠慮なくなんでも言えば?」

 おまえらしくもない、と彼が暗に言っているのがわかって、わたしは深呼吸した。

 レンには本物を見抜く力があるというか――<本当のもの>についてわかってしまう能力がある。

 だからわたしは、ずっとレンに聞きたいと思って聞けなかったことを、今初めて聞こうとしていた。

「あの、ね。あんたわたしが脚本書いてるドラマって、どう思う?」

 レンは目当てのものが見つからなかったのだろう、パステルや絵の具などが何色も詰まっている棚をパシンと閉めると、あたしと向き合うような形で、背もたれのない椅子に腰掛けていた。

「いや、どう思うって言われてもな……」

 レンは髪をかきながら言った。

「俺、見てないからさ。一応誤解のないように言っておくと、あんたが脚本書いたドラマだからあえて見なかったとかそうことじゃなくて……俺、基本的にドラマってあんまり見ないんだ。それでもたぶん、誰か知ってる人間――まあ、友達か。友達が書いたものなら興味津々って感じで、普通の奴なら見るのかな。でも俺、そもそもTV自体をあんまり見ない奴だから、そのへんについてはあまり語れないかもれない」

「ほ、ほんとに!?」

 あたしは、まるで中学生がこれから告白する時みたいに、声が裏返ってしまった。

 レンがあたしのドラマを見ていない……不思議と少しがっかりする気持ちもあるけれど、それ以上に大きいのが安堵感だった。

「な~んだ~。だったらもっと早くにそのこと、聞いておいたら良かったな。てっきりあたし、あんたが心の中で『時流に乗ったクソつまんないもの書きやがって』とか思いつつ、あたしが脚本書いたドラマをこき下ろしてるのかと思ったわよ。ふう~ん、あっそ。見てなかったわけね」

「いや、見てほしいっていうんだったら、次から見るよ。金曜夜の十時からだっけ?」

「ううん。月曜の九時。あんたはたぶん、月九なんて言葉を聞いても、さっぱりピンと来ないでしょうけどね」

 てっきりあたしは、「いくらなんでも月九くらい知ってるさ」という言葉が返ってくるかと思ったけど――そうではなかった。おそらくレンは<月九>という単語自体を知らないのだ。

「べつにそんな、『見てなくてほんと悪かった』みたいな本気顔するのやめてよ。単にね、あたしがレンに聞きたかったのはこういうことなの。あんたがアフガンにいってて日本にいない間、あたしはいくつかドラマのヒット作をだしたんだけど、毎回、一作書き上げるごとにこっちはカツカツなわけ。もともと何かの運のよさみたいなもので今こうなってるけど、人間落ちる時っていうのはあっという間でしょ?「川上サクラ?ああ、なんか昔何作かそこそこ面白いドラマ書いてたよね。最近クレジットで名前見ないけど」みたいな。でもね、あたしは実際それでもいいなって思ってたりもするわけ。クマちゃんと結婚するし、結婚したら当然仕事のペースも緩めたいし……でね、あたし少し不思議な感じがしたの。レンってそこらへんの創作意欲とか、どうコントロールしてるのかな~って」

「まあ、絵と文章の世界じゃ、かなり畑違いかもしれないけど」

 レンはアイスコーヒーを飲みながら言った。

 彼はいつもは軽口ばかりあたしとは叩いているけれど、こういう「本当のこと」についてはいつも直球で打ち返してくれる奴だ。

「そもそもコントロールできる創作意欲なんていうのは、本物じゃない。べつに俺も、これから先一枚も絵なんて描かなくても、それで死ぬってわけじゃないからな。でも確かに、俺の心の中では何かが死ぬと思う。アフガンへいってる間、俺は絵筆をとらなかったけど、結局その分の創作エネルギーっていうのが今頃でてきて毎日キャンバスと向き合ってるけど……」

 そう言ってレンは、自分の背後にある麦の穂畑の夜景を振り返った。

「だけどこれもまた、『こんなことをして一体なんになる?』っていう声を俺はたまに聞いたりするわけだ。ここの画廊のオーナーに運よく雇ってもらって、これまでに何点か自分の絵は確かに売れたよ。でもそうなってみて俺が感じた一番のことは、おかしなことに失望感だった。だって、自分の描いたものに自分で値段をつけて売るんだぜ?そういう魂の切り売りみたいなことに、俺は今もすごく抵抗を感じるけど――まあ、一応結婚もしてるし、好きな絵を描く時間も欲しいしで、なんか今、俺はすごく宙ぶらりんな感じだな。絵を描くことに対する情熱とか、描き上げた時の達成感はすごいけど、そのあとそれに値段をつけて売るっていうのが嫌でたまらない。でもまあ、これも生活のためってことなんだろうな」

「そっか。レンにも画家として色々あるってことなんだ。少し意外っていうか……あたし、こういうこと、あんたともう少し前から話しておけば良かった」

 ストローでちるるるる、とアイスコーヒーを飲み、あたしはタンブラーから流れた水滴がスカートにこぼれるのを、手で払った。

「そうだな。でも、こういうことに関してはたぶん、久臣さんがエキスパートなんじゃないか?俺、自分の絵が初めて売れた時――久臣さんに相談しにいったよ。本当は、久臣さんみたいにしてられるのが一番いいんじゃないかと思ってさ。そういえば、小山内氏って久臣さんとめっちゃ仲悪いけど、その理由、サクラはミドリさんから聞いた?」

「うん、聞いた聞いた」と言って、あたしはくすくす笑った。

「ようするに小山内氏は、久臣さんの才能に嫉妬してるってことでしょ?わたし、最初はてっきりいつまでも久臣さんがベルビュー荘に居座ってるから――そういう意味で嫉妬してるのかと思ってたわ。でもミドリさんに話を聞いたらそうじゃなくて、昔っからあのふたりって仲悪かったんですって。言うなれば、そのことが久臣さんが本当に才能あるっていうことの証明かもね。何しろ、他でもないあの変人の小山内氏が嫉妬を覚えるくらいなんだから」

 それからあたしは、ほたるが某俳優と恋仲で、結婚を前提におつきあいしているらしいという話や、花見の時に久しぶりにミズキくんに会った時、イメチェンしててすっかり驚いた、なんていう話をした。

 ミズキくんは茶髪のロンゲで、眼鏡を外してコンタクトにしていた上、ピアスまでしているような感じだったからだ。

「まあ、確実に歳月は流れてるってことなんだろうな。俺は今年で三十だけど、自分が今も二十五か、それよりも若いくらいにしか思えない感じがする。というか、ちょうどアフガンへ行くためにベルビュー荘を出たあのあたりで、時間が止まってる気がして仕方ないんだ」

 あたしもよ、と言いかけて、あたしは口を噤んだ。

 うまく言えないけれど――レンといると、何故かいつも懐かしいような気持ちにさせられる。

 今も、なんだかまるで、中学生が放課後に好きな男の子と美術室でこっそり内緒話をしているような、そんな感じだ。

 三十二歳といえば、実際にはもっと大人になってるような気が昔はしていたけれど……こんなふうに感じるのは、わたしがまだ結婚していなくて、子供も産んだことがないからなのだろうか?

 お互いに言葉もなく、ただ静かにクラシック音楽が流れる空間に、突然電話の音が響いた。

「ちょっと待っててくれ」

 うん、というように頷くと、あたしはレンが事務所までいって電話をとろうとする背中を見送った。

(いつまでもずっと、あいつとこのまま一緒にいたい)というのが、レンに会うたび、あたしが感じる感情だった。

 でも――そんなことは当然のことながら出来ない。

 だからあたしは、レンの口から「そろそろ帰れよ」なんていう憎まれ口が飛びだす前に、画廊のガロから出ていくことにしようと思った。

「ええ、そうですね。個展を開かれる場合は、一週間四万七千円という値段でギャラリーのほうをお貸ししていますが……」

 じゃあね、というように、あたしはシャネルのクラッチバッグを、電話の応対をしているレンに向かって振ってみせた。

 そんなあたしのことを、電話を切ったレンが、画廊の外まで追ってくる。

「あんた、本当に前にいってたなんとかいうクマ公と結婚するのか?だったら今度、ここにでも連れてこいよ」

「うん、わかった」

 手を振って見送ってくれるレンに、あたしもまた手を振る。

 そうして笑顔でレンと別れてから――近くの駐車場まで歩く間、あたしはの心は何故か重かった。

 こういう気持ちになるってわかっているから、レンとは本当はなるべく会わないでおくべきなのに……結局クマ自慢も出来ないままで終わってしまった。

 あいつは、わたしが結婚すると聞いても、微塵も嫉妬心が起きないくらい、<女>のわたしに対しては興味がないのだ。

 そのことは、これまで何度も繰り返し思い知らされていたことではあったけれど……今、最後にレンがあたしに対して放った言葉は、トドメという奴にも近い。

 あたしは胸元にかけたサングラスをとると、それをかけて車に乗りこんだ。

 そして駐車場の隣にある公園から蝉の声が響いてくるのを聞いて――ふと思い出した。

 今年もまた、レンと初めて会った季節が、再び巡ってきたのだということを……。




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◇オリジナル小説サイト『天使の図書館』
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