辛毗~悔恨の館にて(6)
裏世界と化した館で、辛毗は袁紹の真実に向き合うことになります。
辛毗はこれまで、袁紹のことを何の傷もない袁家の嫡子だと信じてきました。
これは袁紹が自分を守ろうとしたためですが、辛毗が騙されたことには変わりありません。
当事者にとってやむを得ぬ嘘であっても、とりかえしのつかない被害を受けた者にとってそれを許すのは想像以上に難しいことなのです。
「こ、これは……」
辛毗はおののきながら変貌した館を見つめていた。
血と膿に覆われた床、金属の飾りはぼろぼろに錆びついている。
さっきまでは屋内とはいえ薄暗い程度だったのに、今は夜と見まごうような闇だ。
突然、近くで何かが動いた。
さっきまでは何もいなかったところに、いつの間にか怪物がたむろしていた。
「行け!!」
袁紹の号令一下、怪物たちが許攸を追って走り出す。
辛毗はそれを見て、胸が締め付けられる思いだった。
(ああ、やはり……怪異の主はこのお方……)
こうして見せつけられると、もはや認めぬ訳にはいくまい。
怪異の主は、かつて愛した主、袁紹だったのだ。
つまり、娼婦のために泣き叫ぶとか、他者を排斥する召使いとか、それも袁紹に関係のあることなのだろう。
これほど高貴で、優雅で、上品であったはずの袁紹に。
辛毗は、袁紹にどう声をかけていいか分からなかった。
殺したいほど裏切られたとは思わない。
しかし、やはりどこか期待を裏切られたような失望感が拭えなかった。
それに、もしそういう不埒な理由であの内紛が起こったのだとしたら……。
思わず、袁紹の傷を押える手の爪が立ちかけた。
だが、それ以上は何もできなかった。
辛毗が黙っていると、唐突に袁紹がつぶやいた。
「すまぬ、辛毗よ……」
はっと我に返ると、袁紹は悲しそうな目で辛毗の顔を見上げていた。
「許攸のいう通りだ。
わしは結局、己の悪夢でおぬしらもひどい目に遭わせてしまった。
謝っても、償いきれぬ罪だ……」
思わぬ告白に、辛毗は慌てて首を振った。
「いいえ、そのようなことはございません!
全ては許攸の姦計であると、私は信じております!!」
言ってしまってから、まずかったと気づいた。
袁紹の目が、さらに深い悲しみを帯びた。
「無理をせずとも良い……許攸の言葉は、事実だ。
生前の高貴なわしこそが、悪夢に作り上げられた虚像にすぎぬ。
そんなわしを、これまで信じてくれて本当に嬉しく思っている」
それを聞いて、辛毗はこぼれ落ちる涙を抑えきれなかった。
やはり、本当に悪いのは袁紹だったのか。
あの内紛の種をまき、兄と一族を殺したのは袁紹だったのか。
自分を鬼に変え、審配を殺させたのは袁紹のせいだったのか。
悔しくて、たまらなかった。
全てが終わってから、こうして袁紹の口から語られたのが、残念でならなかった。
(兄の、仇を……!)
傷を押えていない方の手が、床に落とした鉈を拾い上げる。
視界が涙で滲んで、ろくに狙いも定まらないのに。
「わしを恨むか……無理もない。
ならば全てを聞かせてやろう、もう隠す理由もないのだから……」
苦しい息の下で、袁紹がささやく。
辛毗がしようとしていることを、受け入れるような穏やかな声で。
辛毗は袁紹の傷を押えたまま、そしてもう一方の手で鉈を握りしめたまま静かに聞き耳を立てた。
袁紹は兄の仇だった。
しかし、このまま殺してしまうのは悲しすぎる。
せめて、なぜあのような悲劇が起こったのかだけでも聞いておきたかった。
あの内紛で地獄に引きずり込まれた自分には、その権利がある。
辛毗は、袁紹に膝枕を貸してしばし話に聞き入った。
全ての始まりは、袁紹が袁逢の妾の子として生まれたことだった。
悪夢の始まりは、袁逢の正妻が袁紹を嫌悪して虐待したことだった。
そして虚像の始まりは、袁紹が叔父袁成のもとに養子に出されたことだった。
「さあ紹、今日からおまえは私の子になるのですよ」
袁成の妻……三人目の母は、袁紹を快く受け入れて大切に育ててくれた。
名家の子にふさわしい立ち居振る舞いを教え、将来高い地位につけるようにと学問と教養をつけてくれた。
本当のお母さん……身分の低い娼婦への愛情を捨て去ることを条件に。
袁紹はもちろん、抵抗した。
しかし、抵抗すれば母は怒りと嫉妬に我を忘れ、地獄は終わらなかった。
結局、袁紹は自分が生きていくために、折れるしかなかった。
その時から、袁紹の魂は高貴な虚像と陰惨な深淵の二つに分かれた。
そして悪夢を封印した袁紹は袁成の嫡子を名乗り、母の望むとおりに名家を継ぐにふさわしい立派な若者になった。
許攸と出会ったのも、その頃だ。
「ふふふ、袁紹様にはご機嫌麗しく」
当時、袁紹の周りにはその名声を聞きつけて多くの名士たちが集った。
皆、袁紹の聡明さと威風堂々たる容姿を褒め称え、あなたこそ袁家の後継者にふさわしいと支えてくれた。
袁紹には、それが嬉しくて仕方がなかった。
何もしなくても人が集まってきて、寄り添ってくれる幸せ。
娼婦の子として生まれ、あんなにひどい目に遭ってきた自分に、こんな日が訪れるとは思わなかった。
袁紹は、その幸せを二度と手放したくなかった。
自分が娼婦の子であることを明かせば、それは一瞬で崩れ去る。
名声を慕って集まった人々は、ことごとく去ってしまうだろう。
袁紹は、それを何よりも恐れた。
それが、惨劇の始まりだった。
ここから、袁家内紛の核心に向かって話が進みます。
袁譚編で語られた惨劇を後押ししたのは何だったのか、そして本当に悪いのは誰なのか。
袁紹、袁譚、審配……それぞれの思惑はどこにあったのか、惨劇の舞台裏をご覧ください。