辛毗~悔恨の館にて(5)
辛毗は許攸にそそのかされ、勘違いの末に袁紹を傷つけてしまいます。
しかし、袁紹は本当に辛毗が恨むべき存在ではないのでしょうか。
袁家滅亡の裏に潜んでいた事情を知った時、果たして辛毗は袁紹に刃を振るったことを後悔できるのでしょうか。
辛毗は、喉が裂けるほど絶叫した。
目の前に倒れているのは、袁術ではなく、袁紹。
心から慕って仕えた、かつての主だ。
「あああ、どうして、どうしてこんな事に……!!」
震える手で羽織を脱ぎ、急いで傷口を押える。
しかし、そんなことをしても血は止まらない。
振りかざした刃が上に滑ったのは、袁紹の首のすぐ下……鎧の部分に当たったせいだ。
袁紹は袁術より背が高い。
そのせいで、首の位置が袁術の分身と思しき怪物より高かったのだ。
幸い、直接当たらなかったせいで首がちぎれるほどではない。
しかし、袁紹は苦悶の表情を浮かべたまま動かなかった。
「ああ、殿、どうか目を開けてください!
違うのです、こんなことをする気はなかったのです!!」
うろたえる辛毗の前で、にわかに扉が開いた。
「くっくっく、思ったとおりだ。
よくやったぞ辛毗!」
驚いて顔を上げると、許攸がいやらしい笑みを浮かべて立っていた。
「何、よくやっただと……?
おい、これはどういうことだ!?怪異の主とは、袁術ではなかったのか!!」
辛毗には許攸の言った意味が分からなかった。
だって怪異の主は袁術で、許攸はそいつから逃れたかったのではないのか。
いぶかしむ辛毗に、許攸は冷たく言い放った。
「私は、怪異の主が袁術であるとは一言も言っておらぬぞ?」
その瞬間、辛毗は己の失敗を悟った。
またしても、許攸に欺かれた。
やはり許攸は辛毗の知らない何かを知っていて、おそらく袁紹のことも気づいていたのだ。
そして、自分が袁紹に恨まれていて近づけないため、辛毗に袁紹を仕留めさせたのだ。
待ち伏せを提案したのも、より確実に袁紹を討たせるため。
顔が見える状態で対峙したら、辛毗は袁紹を攻撃しなかっただろう。
全ては、袁紹の恨みから逃れたい許攸の姦計だった。
「な、何ということを……私は、許攸に乗せられて袁紹様を……」
悲憤に打ち震える辛毗を見下ろしながら、許攸は言った。
「ふん、かたき討ちはお互い様よ!
おまえだって、心の底では袁紹が憎かったのだろう?
袁紹がきちんと袁譚を後継者にしていれば、一族が殺されずに済んだのだからなあ!」
その言葉に、さすがに少しだけ心が揺れた。
しかし、辛毗はがんとして首を振った。
「袁紹様を恨んではおらぬ、あの争いは審配と劉氏のせいだ!
あの二人がいなければ、長幼の順で袁譚様が後継者となり、全ては丸く収まっていたはずなのだ。
あのような争いは、袁紹様の望むところではない!」
それを聞くと、許攸は実に気味の悪い笑みを浮かべた。
「袁紹の望むところではない?なぜそれが分かる。
私は知っているぞ、袁紹は確かに袁尚を後継者にと望んでいた。
あの不毛な惨劇は、全て袁紹の望みから起こったのだ!!」
許攸は辛毗をあざ笑う目で見ながら、ゆっくりと告げた。
「私は知っている、袁紹の過去も何もかも。
そしておまえには、袁紹を殺す理由がある」
辛毗の背に、冷たいものが流れた。
頭の中で、警鐘が鳴る。
これ以上聞いてはいけない!!
しかし、言い返すことはできなかった。
自分は確かに、袁紹の過去を人づてでしか知らない。
若い頃から奔走の友と呼ばれていた許攸は、辛毗よりはるかに多くのことを知っているはずだ。
どうやら知らない方がよさそうな、袁紹の本心さえも……。
辛毗が何も言えずにいると、許攸はますます得意気な顔で口を開いた。
「教えてやろう、袁紹は本当は……」
「おのれ許攸、そこにいたか!!」
許攸の言葉は、突然の怒声に遮られた。
重傷を負った袁紹が突如として目を見開き、許攸を睨み付けたのだ。
「許さぬぞ貴様……官渡だけならず、死してまでも……!
ここで地獄に引きずり込んでくれる!!」
袁紹の宣戦布告とともに、袁紹の首から流れ出た血がざあっと床に広がった。
そればかりか、壁を這い上がり天井にまで浸みこみ、この館そのものを染め上げていく。
「ちぃっまだ息があったか!」
許攸が身を翻して逃げ出した。
その足元も廊下の先も、急速に血の穢れに染まっていく。
辺りを濃い闇が覆い、空気がざらりと重くなる。
ようやく辛毗がその異変を認識した時、周囲はさっきとは比べ物にならない悪意と恐怖に支配されていた。
そして、許攸の姿は、変貌した館の血濡れた廊下の先に消えていた。
館が裏世界に変貌し、しかし許攸はまた逃げてしまいます。
袁紹の一声で許攸が秘密をばらすのは避けられたものの、辛毗の心に刺さった棘は抜けません。
袁紹にとって知られたくないこと、辛毗にとって知りたくなかったこと……真実を語りつつ、物語は加速します。