辛毗~悔恨の館にて(4)
辛毗と許攸は袁紹の家臣団の中でも、袁紹との親しさが異なっています。
許攸は若い頃、袁紹の「奔走の友」と言われ、有事にはすぐかけつけるくらいの親友として付き合っています。
そんな許攸は何も知らない辛毗に、何をさせようというのでしょうか。
扉が背後で閉まったとたん、辛毗は軽く後悔した。
これで、自分はまんまと安全地帯を奪われてしまったことになる。
(やれやれ、私はまた騙されたのかな……?)
しかし、今回はそれほど怒りを感じなかった。
今自分の身がそれほど危険な訳ではないし、安全地帯はここだけではない。
危険を感じたら、最悪さっきの手紙があった部屋に戻ればいい。
それに、辛毗が怪物にあまり攻撃されていないのは確かだ。
遠くに見かけたものは襲ってこないし、邪魔になるものをこちらから攻撃しても仲間が集まってくることはなかった。
その理由が、今は分かる。
怪異の主は、おそらく許攸を襲撃する方に多くの戦力を裂いていたのだろう。
だから優先度の低い辛毗にはあまり構ってこなかったのだ。
そんなことを考えているうちに、ぎしぎしと足音が聞こえてきた。
だが、鎧の音は聞こえない。
(ふむ、これはただの怪物かな?)
辛毗は鞭を柱にくくりつけて、即席の罠を作った。
そして両手で鉈を構え、壁にくっついて相手の来訪を待つ。
数秒後、真っ白い体がぬっと姿を現した。
「たあっ!!」
出会いがしらに一撃、渾身の力で鉈を振り下ろす。
鉈はざくりと肉に食い込み、どす黒い血が飛び散った。
「ギョガアアア!!!」
やはり、怪物だ。
白くぶよぶよとたるんだ肉、大きな口しかついていない顔、昆虫のような爪を持った細い手足……明らかに人間ではない。
初めて見るが、これも手加減する道理はなさそうだ。
辛毗は力をこめて鉈を引きぬき、数歩後ろに下がった。
この位置で、次の一撃で勝負を決める。
怪物は一しきり悲鳴を上げると、重たそうに体をもたげて辛毗の方を見た。
「……ノクセニ、キタナラ……イ……」
穴が開いたような口から、かすかに聞こえた。
怪物が、しゃべったのだ。
「えっ!?」
辛毗が驚いて目を丸くした隙に、怪物は爪を振りかざして走り込んできた。
しかし、辛毗は逃げなかった。
ここまでは、想定内だ。
突然、怪物の体が前につんのめる。
足が、狭い通路を横切るようにしかけられた鞭に引っかかったのだ。
次の瞬間、怪物は派手な音を響かせて廊下に倒れた。
「さて、どうしたものか……」
辛毗はすぐに鉈を振り下ろし、怪物の片腕に深い傷を与える。
最初の計画ではここで首を狙うはずだったが、今ここですぐ殺すのはためらわれた。
怪物が言おうとした言葉……まだしっかり聞き取れていない。
これが人間でないことは、見れば分かる。
しかし、その言葉の中には何かヒントがあるかもしれない。
怪物が、身をよじり、また言葉を発する。
「……ショウのクセニ、汚らシイ……下賤の、クセニ……」
「もうよい、分かった」
辛毗は言葉の意味を理解するや否や、怪物の首めがけて鉈を振り下ろした。
どす黒い血を噴き出して、怪物が体をひきつらせる。
しばらくすると、怪物はもう二度と動かなくなった。
(娼のくせに汚らしい……か、袁術が想って泣き叫んだという娼婦のことか)
辛毗は、何となく想像がついた。
このぶよぶよとたるんだ肉は、贅沢に肥満した袁術を思わせる。
時代や情勢を見る目もなく、あるのはうわべだけの言葉を吐き連ねる口だけだ。
この怪物は、袁術の分身に近いようなものか。
それゆえに、自分を捨てた娼婦を恨む袁術の気持ちが凝縮しているのかもしれない。
泣くほど慕っていたのだ、捨てられた恨みがあの言葉なのだろう。
そこまで考えて、辛毗は怒りが込み上げてきた。
(そんな男に、なぜ私が殺されねばならんのだ!!)
自分に殺された審配が自分を狙うなら、まだ分かる。
たとえ殺されても、因果応報だと納得できたかもしれない。
しかし、相手が袁術となれば話は別だ。
あんな役立たずの怨霊に!!
こればかりは、許攸と同じ気持ちだった。
だから曲がり角の向こうから再び足音が……金属音を伴った足音が聞こえてきた時、辛毗の心には一かけらの情けもなかった。
(おのれ偽帝め……一撃で葬ってくれる!!)
再び壁に背をつけ、今度は鉈を横に構える。
だいたいさっきの怪物の、首と同じ高さだ。
相手が生きた辛毗であることが分かれば、袁術は逃走するかもしれない。
そうなれば、再び探すのは大変なことだ。
決して逃がさぬよう、一撃で致命傷を負わせるのだ。
ギシギシと床がきしみ、カチャカチャと金属音が近づく。
辛毗は息を殺してその時を待った。
壁ごしに、かすかな息遣いが近づく。
それでもはやる胸を抑えて、待った。
そしてついに、ガチャリと重い音とともに足が見えたその瞬間……
「きええええい!!!」
鋭いかけ声とともに、辛毗は鉈を横に薙ぎ払った。
次の瞬間、ガキャッと金属音がして鉈がわずかに上に滑る。
それでもこめられた力は緩まず、刃はざくりと肉にめりこんだ。
「ぐがあぁ!!?」
嗚咽混じりの悲鳴を上げて、怪異の主は倒れ伏す。
その悲鳴に、辛毗は聞き覚えがあった。
そうだ、河北で聞いた。
冀州城で、前の殿と会議をしている最中に……。
前の殿……袁紹様が急に血を吐いて倒れられた時、こんな声だったような……。
それでもとどめを刺そうと倒れた敵を直視して、辛毗は驚愕した。
なぜだ、どうしてこうなった。
どうしてこのお方がここにいるのか。
辛毗の鉈を持った手が、だらりと垂れさがった。
体ががくがくと震えて、視界が定まらない。
「どうして、なぜあなた様が……!!」
嘘だ、嘘だ、自分はこんなことがしたかった訳じゃない。
目の前で、首からどくどくと血を流して倒れ伏したその人は……。
見慣れた高貴で整った顔を、苦痛に顔を歪めるその人は……。
「そんな、嘘だ……袁紹様ああーっ!!!」
辛毗は名族としての袁紹を信じるあまり、館にあった数々のヒントを曲解したあげく敬愛する袁紹本人を斬りつけてしまいました。
公孫瓚のように元から袁紹を憎んでいたならまだしも、辛毗は袁紹を慕っていた分こちらのほうが悲劇です。今回は袁紹と辛毗両方が被害者です。
二人は許攸の妨害を超えて、再び手を取り合えるのでしょうか。