辛毗~悔恨の館にて(3)
袁紹が生前周囲に対してどのようにふるまっていたかは、劉備編で語られています。劉備編ではそれが災いして、大変なことになってしまいました。
果たして、辛毗は本当の袁紹を受け入れることができるのでしょうか。
突然、バタンと大きな音がして扉が開いた。
慌てて顔を上げると、そこには怪物よりも胸が悪くなる男の姿があった。
「許攸!!」
先ほど自分を怪物に襲わせて、一人逃げ出した許攸だ。
許攸は急いで背後の扉を閉めると、肩で息をしながら額の汗を拭った。
「やあ辛毗……こんなところにいたのか。
ずいぶん探したぞ!」
親しげに歩み寄ってくる許攸に、辛毗は険しい眼差しを向けた。
「探した、だと?白々しい!
私を死地に追い込んでおいて、よくもそんなことが言えるな!」
しかし、許攸は動じることなく愛想笑いを浮かべて言った。
「まあまあ、そんな怖い顔をするなよ。
あの時は私も気が動転していてね、悪かったとも。
今はそのお詫びに、ここから抜ける方法を君に教えに来たのさ!」
「ここから抜ける方法、だと……!?」
辛毗は思わず、鉈を下ろして許攸の顔を見つめた。
許攸がそれを本当に知っている保証はない。
今回もまた、それを餌にして自分を陥れようとしているのかもしれない。
だが、本当でない保証もない。
辛毗は迷った。
自分はまだ、この怪異から抜ける方法が分からない。
今許攸にすがれば、道が開けるかもしれない。
戸惑う辛毗に、許攸はニヤリと笑って言った。
「信じる信じないは、君の自由だとも。
しかし、これは君にしかできないことなのだ」
つまり、辛毗が動かなければ自分は何もしないぞということだ。
辛毗はぎりっと唇を噛んだ。
「このままここで朽ちたければ、何もしなければいい。
君があの役立たずの怨念に負けて、犠牲になりたければの話だがね!」
ぐさり、とその言葉が辛毗の胸を刺しぬく。
自分は、死にたくない。
それも、袁術のような社会のゴミに殺されたくはない。
自分は、生きたい。
「……話を、聞こう」
生への欲求に負けて、辛毗は許攸の話に聞き耳を立てた。
だが、許攸の言うことが事実である保証はない。
それに、許攸が事実を口にするのは……もっと悪いことを考えている時だけなのだ。
身構える辛毗をよそに、許攸は本題に入った。
「さて、君は見たところあまり怪物に襲われていないようだね。
それに引き替え、私は……どうもこの怪異の主は、君と私を差別しているようだ」
許攸に言われて、辛毗ははっと気が付いた。
この屋敷に入ってから、辛毗はあまり怪物に襲われていない。
屋敷の外で遭遇したような、囲まれるような群れには出くわさなかった。
自分たちはむしろ、より恐ろしい世界に追い込まれているはずなのに。
それで攻撃の手がむしろ緩んだのは、確かにおかしい。
ふと見れば、許攸は着物がさらに着崩れて、ぼろぼろになっていた。
体中に、血や膿のような粘液、さらに生々しい血の手形までがついている。
あの臆病で計算高い許攸が、こんなになるとは……。
「初めに出会った時、君が割ときれいな格好をしているのに驚いたよ。
私はもうすでに、だいぶ追い掛け回されていたからね。
怪物どもは明らかに、君より私を激しく攻撃している」
許攸は、困ったように頭を抱えて続ける。
「それで私は考えた、君と私のどこが違うのか?
答えは一つ、私は死人で君は生きた人間だ!」
それを聞いて、辛毗は少し眉をつり上げた。
「おや、さっきは私が死んでいるような言い方をしたくせに。
今は手に平を返すのかね?」
辛毗の棘のある突っ込みに、許攸は慌てて首を振った。
「はははっあの時はまだ私にも状況がよく分からなくてね!
しかし今は分かる。
怪異の主は、君が生きた人間であるせいでうまく攻撃できないのではないかとね!」
許攸の仮説に、辛毗はなるほどとうなずいた。
確かに、辛毗と許攸が受ける攻撃に差があるとすれば、その可能性は大いにある。
もちろん、間違いの可能性もあるが。
辛毗は攻撃に差があると聞いたとき、真っ先に別の仮説を思い浮かべた。
それは、袁術との関係の深さだ。
許攸は袁紹と若い頃から付き合っていたが、裏を返せば、それは袁術にも若い頃から知られていたということだ。
それに比べて、自分は袁術と関わったことがほぼない。
そのせいで攻撃に差が出たのではないのかと。
しかし、どちらの仮説にも確証はない。
結局、どちらが正しいかは試してみるまで分からないのだ。
そして今、試す方法があるのは許攸の方の仮説だ。
「それで私の考えはね、君なら悪夢の主に近づくのが簡単だと思うのだ。
私がさっき追われていたせいで、悪夢の主は近くに来ている。
あまり攻撃されない君が近づいて速攻で倒してしまえば、我々は晴れてここから出られるのではないかね」
やっぱり、危ない目に遭うのは辛毗だ。
しかし、これは確かにやってみる価値がある。
辛毗が覚えている限り、許攸と二人でいた時の方がよく怪物に襲われている。
もし、怪異の主が辛毗をあまり相手にしたくないのだとしたら……。
もちろんこれが許攸の出まかせでない保証はない。
しかし、今のところ他に方法は見つからないのだ。
そして辛毗が実行しなければ、この仮説が正しいかどうかは分からない。
辛毗はしばらく考えた末、許攸の提案に乗ってみることにした。
「分かった、やってみよう。
私とて、袁術のような役立たずの怨霊に殺されるのはごめんだ」
それを聞くと、許攸は一瞬目をぱちくりした。
辛毗は不審に思って許攸に尋ねた。
「どうした、怪異の主というのは、袁術なのであろう?」
それを聞くと、許攸は愛想笑いに戻って答えた。
「ああ、そうだとも。
だが、まさか君が気づくとは思わなくてね……」
くぐもったような声でぼそぼそと答えて、許攸は辛毗を扉の前に誘った。
「さあ、怪異の主は近くにいる。
この辺りは曲がり角が多くて視界がききづらいが、何、奴は鎧をまとっているせいで音がするからすぐ分かる。
曲がり角で待ち伏せでもして、その鉈をぶちこんでやるといいさ!」
辛毗は何となく嫌な予感を覚えたが、やらない訳にはいかなかった。
やらなければ、自分も助からない。
辛毗が外に出ると、許攸は小声でぶつぶつとつぶやいた。
「そうか、あいつはあれを袁術と……。
まあいい、今はその方が都合がいい」
ギイギイと扉が閉まる音にまぎれて、その声が辛毗の耳に届くことはなかった。
許攸はまたしても辛毗を惑わし、辛毗に怪異の主を討たせようとします。
一方の辛毗は、怪異の主が袁術であると結論を出してしまいました。
そして許攸が攻撃の仕方まで詳細に指示した意図はどこにあるのか……次回、ようやく袁紹と対面です。