辛毗~悔恨の館にて(2)
今回辛毗が招かれたのは、袁譚と同じ悔恨の館です。
そこには、特定の人が見ればすぐに事情が分かる断片がありますが、それを正しく読み取れるかどうかはあることを知っているか否かに左右されます。
果たして辛毗は、どちらなのでしょうか。
人気のない屋敷の中に、一部屋だけ妙に生活感のある部屋があった。
大きな鏡台と優雅なデザインの寝台、机には花が飾られている。
部屋全体から、高貴な夫人の残り香すら感じられるようだった。
その部屋の机の上に、辛毗は開きっ放しになっている手紙を見つけた。
「……?」
辛毗は少し悪いなと思いつつも、その手紙を手に取って読み始めた。
<袁逢様へ
率直に申しますと、私はあの子を甘やかしたくなかったのです。
あの女のように、ただ暴力を振るった訳ではありませんわ。
あれは、れっきとした躾の一環なのです>
流麗で、柔らかな文字……書いたのは、女性だろうか。
この部屋の住人かどうかは分からないが、文字を知っている女性であれば相当に身分が高いはずだ。
(袁逢様……?)
手紙の宛先に記された名前を見て、辛毗は首をかしげた。
袁逢、その名は辛毗も知っている。
かつて仕えていた君主、袁紹の叔父に当たる人物だ。
袁逢という人物は、もう何十年も前に死んでいる。
それなのに、この人物あての手紙がここにあるのはどういうことか。
(袁逢が実は生きている……いや、それはないか。
怪異の主が、何かを伝えようとしている?)
何を伝えたいのかは、これだけではとうてい分からないが……。
辛毗はとりあえず続きを読み始めた。
<私もできる事なら、あの子を傷つけたくはありません。
でも、あの子はあの娼婦を思って泣き叫ぶ限り、名門の当主にはなり得ませんわ。
私はあの子の幸せを思って、心を鬼にしているのです>
名門の当主と娼婦という言葉に、琴線に触れるものがあった。
(この手紙のあの子、とは……袁術か?)
辛毗は知っている。
袁紹の叔父である袁逢の息子で、酒と女に溺れていた男がいた。
袁紹の従弟、袁術だ。
袁術は、袁紹と違って不埒で誘惑に弱かった。
だから、袁術が娼婦に熱をあげて誰かの注意を受けることになったというのが、この手紙の意味するところではないか。
(……はは、袁術殿らしい。
袁紹様は色恋には清廉で、そのように惑うことはなかったものを)
辛毗は心の中で苦笑した。
そうとも、袁紹と袁術は違うのだ。
驕り高ぶるしか能のない袁術と違って、袁紹は本当に高貴な人物だった。
血筋も、心も、その家柄にふさわしい真の名族だった。
思ってみれば、袁術なら自分に祟る理由があるかもしれない。
許攸も自分も憎き袁紹の元部下だし、そういう意味でなら袁術に祟られてもふしぎではない。
(袁術か……考えてはいなかったが、可能性として覚えておく必要があるな)
辛毗はそう思いながら、手紙を手に取って懐にしまった。
そして、再び何気なく机に目をやったとたん、ぎくりと身を固くした。
手紙で覆われていた場所に、血のようなもので書かれた文字があった。
『袁譚顕思、ここに堕つ』
辛毗は、背中に冷水を浴びせられた思いだった。
なぜ袁譚の名が、ここに出てくるのか……。
亡き兄が仕えぬいた、袁譚の名が……。
この部屋は、分からないことだらけだ。
しかし、これだけは理解できた。
この怪異は、袁家と深い関係があるのだろう。
審配と自分だけの恨みの問題などではない。
袁紹と袁術の代から積もった、袁家の内紛の怨霊によるものではないか。
(だとしたら、どうにかつながりそうな気もするな……)
辛毗はどうにも気分が悪いまま、そそくさとその部屋を離れた。
部屋を出る寸前に聞こえた、「ごめんなさい」という声には答えぬまま。
部屋を出てから、辛毗は歩きながら考えた。
さっきの部屋で見たところによると、この怪異の鍵となるのは袁術と袁譚だ。
それも、袁譚はこの場所で何らかの被害をこうむったように見受けられる。
(袁譚様は、先にこの怪異に巻き込まれて消された……?)
さっきの血文字を思い出して、辛毗はそう思った。
この怪異は幽霊も巻き込む、ならば袁譚が死んでから巻き込まれていてもふしぎはない。
それに、袁譚も袁紹の息子であるからして、袁術に祟られる理由はある。
いや、生前袁紹に仕えていた人間なら、誰でも。
(もしや、兄上も……?)
袁譚のことを考えたとたん、辛毗は嫌な予感を覚えた。
この怪異に巻き込まれたのは、自分と許攸だけとは限らない。
すでに怪異に負けて消された者がどれだけいても、それを確かめる術はないのだ。
現時点で可能性として一番考えられるのは、袁術の怨霊が袁紹の縁者を無差別に呪い殺しているという事態だ。
今集まったパーツを組み合わせると、その線が一番濃厚になる。
(もしや、審配も……!?)
辛毗は、予想だにしない事態に身震いした。
もしこの予想が正しければ、自分たちは皆袁家の兄弟争いの犠牲になることになる。
それも、自分のことしか考えない袁術の逆恨みの犠牲に。
(そんなことになってたまるか!!
私は、生き延びるぞ!!)
あまりの嫌悪感に拳が白むほど握りしめて、辛毗は決意した。
どうすれば抜けられるのか、何をすればいいのかも分からない。
それでも、このまま死ぬのだけは耐えられなかった。
娼婦と袁逢の名……そこから真実につながるはずの鍵を、辛毗は見つけられなかった。
この話の中で、袁術と袁紹の関係に「おかしいな?」と感じた方が大半だと思います。それで正解です。
辛毗が「三人目の母の手紙」を正しく読み解くのに不足していた情報が、まさにそれなのです。