辛毗~霧の許昌にて(4)
霧の世界に、また元袁紹軍の人物が出てきました。
この許攸は官渡の戦いで割と名を知られていますが、一応紹介を置いていきます。
許攸・子遠 生年?年 没年204年
元袁紹軍の文官で、曹操や袁紹と旧知の仲である。特に袁紹とは親しく、若い頃は「奔走の友」と呼ばれた。官渡の戦いで袁紹を裏切って曹操を勝利させるも、その功績におごって傲慢になり曹操の怒りを買って処刑された。
しばらく走った後、辛毗と許攸は二人で息を整えていた。
二人とも文官であり体力には自信がない。
無我夢中で怪物から逃げた後は、こうして少し休まなければ体がもたなかった。
許攸はすでに死んでいるが、死んでもそれは変わらないらしい。
少し気持ちが落ち着くと、辛毗は許攸の姿をまじまじと見つめた。
細工の凝った冠に、やや着崩した絹の着物。
どことなく小狡い表情に、筋張った細い手。
何もかも、生前のままだ。
「私の顔に何かついているのかね?」
唐突に、許攸が不機嫌そうに視線を向けてきた。
辛毗は一瞬言葉に詰まった。
うろたえる辛毗に、許攸は吐き捨てるように言った。
「ああ、分かっているとも。君の言いたいことなど。
私はすでにこの世のものではない、そうだろ?」
ずばりと的を得たその言葉に、辛毗はうなずくしかなかった。
「ええ、全くその通りです。
そのあなたが、なぜこうして私の前に現れたのでしょうか?」
それを聞くと、許攸はニヤリと笑って答えた。
「現れた?違うな。
見えるようになっただけだろう。
私は、死んでから何度も君と顔を合わせている。今までは、君が気づかなかっただけなのだよ」
許攸はそう言って、辛毗のほおに手を触れた。
「今まで見えなかった私が突然見えるようになった……そして生きた人間が周りからいなくなった。
君は、その変化にきちんと向き合っているのかい?」
許攸はもったいぶった口調で、辛毗に問う。
許攸の冷たい手が、ぞわりと辛毗の肌をなぞった。
「くっくっく……君はどうやら、それらを正面から見つめたくないらしい。
辛毗、君は、今自分が生きていると思うのかね?」
「!?」
思いもかけない言葉に、辛毗はびくりと身を引いた。
生きていると思うのか、だって?
それでは、まるで……自分が死んでしまったみたいじゃないか!
動揺する辛毗の心を見透かしたように、許攸はささやく。
「ははは、認めたくないのは分かる!
しかし、現実はどうであろうな。
現に君は今、生者から引き離され、死者の私と話しているのだがね」
辛毗は、驚きのあまり息がつまりそうだった。
だが確かに、自分が死んだと仮定すればこの現象にはすんなりと理由がつく。
しかし、にわかに信じられる話ではない。
辛毗は、自分の胸にそっと手を当ててみた。
とくん、とくん、とくん……
間違いなく、自分の心臓は動いている。
それに、自分の体は許攸と違って温かい。
自分は、確かに生きている。
口をぎゅっと結んで首を振る辛毗に、許攸はなおもささやいた。
「ほう、温かくて心臓が動いているから、生きている、か。
しかしそれは君の主観でしかあるまい。
君が死んだことに気づかないせいで、記憶のままにそう感じているのではないかね?」
そこまで言われては、辛毗には、答えられなかった。
人の記憶や思考など、あいまいなものだ。
周りの状況や自分の思い込みによって、いくらでも書き換えられてしまう。
もし、自分が死んだことに気づいていないだけだったら……?
それをまじめに考えると、ショックで頭がくらくらした。
しかし、辛毗はそれでも息を整え、許攸をきっと睨み付けた。
(この男は信用できぬ。
官渡で袁紹様を裏切り、その功績をかさに着て曹操様をもなじったこの男のこと。
こいつの言う事の全てが、事実であると思わぬ方がよい!)
辛毗の手は、胸に当てられたまま震えていた。
だが、その目はしっかりと許攸に不信の眼差しを向けていた。
それを見ると、許攸はチッと舌打ちして言った。
「まあ受け入れたくないのなら今はそのままでよい。
どのみち、生きていても死んでいても、ここからは脱出せねばならぬ。
君も感じるだろう、我々を逃さぬというこの霧の悪意を」
許攸は、にわかに辛毗から目をそらして霧の中を見回した。
「全く、死んだ者を安らかに眠らせもしないとは、ずいぶんと悪趣味な奴だ。
きっと、何かの勘違いで我々を逆恨みしているのであろうな」
それを聞いて、辛毗はずしりと心が重くなった。
この様子では、許攸はただ巻き込まれただけかもしれない。
自分の側にいたせいで、審配の復讐に巻き込まれたのかもしれない。
そう考えると、非常にすまない気持ちになった。
そして、少しでも弁明のつもりで、許攸に自分の考えを述べた。
「すまぬ、私の側にいたせいで、あなたにまでこのような怪異を……。
おそらく、これは審配のしわざであろう。
私を恨んで、報復に来たに違いない」
それを聞くと、許攸は少し驚いた顔をした。
「審配……?
そうか、君はそう思ったのだな」
許攸はちょっと考えて、辛毗に同情するような口調で言った。
「なるほど、審配ならこれくらいはやりかねんな。
それに、私が巻き込まれたことも説明がつく。
私と君は、同じ……裏切り者だからな!」
率直な言葉が、辛毗の胸をぐさりと貫く。
そうだ、許攸も自分も、審配にとっては憎き裏切り者なのだ。
許攸は官渡で曹操に情報を売り渡し、袁紹の中原進出の夢をたたき折った。
自分は曹操に降伏し、審配の命を奪って瀕死の袁家をさらに叩きのめした。
二人とも、審配に恨まれる要素は十分にあるというわけだ。
「そうだな、ここは力を合わせて脱出を図るべきだろう。
同じ裏切り者同士、己が幸せのために戦おうではないか。
あんな役立たずの怨念に、祟られてたまるものか!」
許攸は心底迷惑そうに言い放つ。
心に苦いものが広がるのを覚えながら、それでも辛毗は許攸の手を取った。
「そうですな、早いとここの怪異を抜けて、お互いあるべき場所に帰りましょう」
許攸は暗に自分を責め立て、嫌な部分を突いてくる。
しかし、許攸の言う事はもっともだ。
自分は裏切り者だし、そのせいで審配に殺されようとは思っていない。
辛毗は鞭を握ったまま、許攸と並んで歩き出した。
途中、霧の中で許攸の顔がわずかに醜く笑ったが、辛毗がそれに気づくことはなかった。
許攸は辛毗に対し、心を揺さぶるような言葉をかけます。
しかし許攸が信用できないことを知っている辛毗は、それを鵜呑みにはしません。
ところで、サイレントヒル3に、主人公が怪物のことを話したのに対し、敵対勢力の男が「君にはそう見えるのか」というシーンがあります。
今回もそれに近い状況ですが……許攸のいう、役立たずの怨念とは本当は誰のことなのでしょうか。