辛毗~霧の許昌にて(2)
辛毗は、この世界のいろいろなものに自分を追い詰める何かを感じます。
袁家を裏切ってしまった後ろめたさと、その過程で起こった悲惨なできごとが彼の心に影を落としています。
そんな彼の目に、袁紹が生み出した怪物たちはどう映るのでしょうか。
辛毗は、霧に埋もれた街で慎重に歩を進めた。
もしこの怪異が自分の予想通りのものなら、そのうち自分に害をなすはずだ。
あの男が、自分を閉じ込めるだけで満足するとは思えない。
自分だって、あの男を縛り上げるだけでは満足できなかったのだから。
ふん、いい様だな……。
あの男も、そんな感じで今の自分を見ているのだろうか。
自分があの時、そうやってあの男を見下ろしていたように。
(だから今、私がこのような目に遭っているのか……?)
考えれば考えるほど、辛毗はそう思った。
そして、思い出したくもないあの日のことを、思い出しそうになって頭を抱えた。
「そうだ、そうだとも!!私は……。
だが、仕方なかったんだ!!」
一人で取り乱しても、幸い聞く者はいない。
霧の向こうから自分を見ているであろう、一人の男以外は。
声に出しても何の返答もない静寂に、辛毗はがっくりと頭を垂れた。
いつもなら、他の元袁紹軍の将が慰めてくれるのに。
恥を晒さないということは、助けが得られないということでもある。
(ふふふ、これも私にふさわしい罰か……)
思えば、あの男も一人で死んでいったのだ。
周りは敵ばかりで、助けを拒むように誇りを貫いて死んでいった。
その時自分は、手を差し伸べる側ではなかった。
むしろ、崖っぷちにいるあの男の背中を力の限り押す側だった。
その報いが、この孤独の怪異なのだろうか。
そう思うと、辛毗の心はますます重くなった。
誰でもいいから、自分に答えてほしいと、勝手ながらそう思った。
その時、遠くでかすかに声が響いた。
「え!?」
辛毗は思わず立ち止まって、全神経を耳に集中させた。
すると、今度ははっきりと聞こえた。
うおおぉーん……
人の声ではない。
どうやら、犬の鳴き声だ。
(猫だったら、もっと良かったのだがな)
辛毗は苦笑しながらも、声のした方に引き寄せられていた。
犬にはあまりいいイメージがないが、この霧の中一人で彷徨うよりはましだ。
あまりいい予感はしないが、一応ついてくるかだけでも試してみよう。
だって、犬と呼ばれるものは嫌いだ。
番犬とか忠犬とか、嫌いな言葉が多いじゃないか。
そして、その足を重くする嫌な予感が正しかったことを、辛毗はすぐに思い知ることになる。
「おお、こんなところにい……た……」
犬の影を見つけて歩み寄った辛毗は、全身の神経を逆なでされたような戦慄を味わった。
犬は、辛毗を見るなり振り返って口を開けた。
それだけなら、普通の犬だ。
だがその犬は明らかに普通ではなかった。
目があるはずのくぼみには何も存在せず、そこから有刺鉄線が生えている。
その有刺鉄線が体中に巻き付き、犬自身の皮に食い込んでいる。
にも関わらず、鋭い牙をむき出しにした口は揺るがぬ闘志をたたえていた。
その姿を見たとたん、辛毗は腰が抜けてぺたんと座り込んだ。
犬は、涎を垂らして舌なめずりをしながら、じりじりと近づいてくる。
「あ、わあっ……く、来るな!!」
辛毗は必死で手を払いながら、尻餅をついたまま後ずさった。
辛毗は文官である。
戦うのが仕事ではないため、いざという時も勇敢に戦えるようにはできていない。
一応腰に下げている剣も、細いし短いしはっきり言って実用的ではない。
相手が人ですらろくに戦えないのに、こんな怪物を相手になどできようはずもない。
「グルルルル……」
犬が、一瞬地に伏せるような姿勢をとった。
次の瞬間、犬の姿はそこから消えていた。
「ひっ!?」
反射的に身を引いたとたん、自分の手があったところに犬の牙が食い込んだ。
「う、うわあああ!!!」
辛毗は震えあがって、這いつくばったまま逃げ出した。
手も足もうまく動かせないまま、それでも必死でそこから離れようとする。
しかし、犬の姿が霧に隠れて見えなくなる前に、犬が体勢を立て直して辛毗の方を向いた。
「ガウゥ!!」
犬は再び辛毗に向かって吠え、素早く足で地面を蹴る。
辛毗はどうにか犬の方に向き直ろうとしたが、体がカチカチでそれすらおぼつかない。
そうしている間に、犬はすさまじい勢いで辛毗に迫ってくる。
もはや逃げる術はなく、辛毗は思わず目をつぶった。
「ひぃやあああ!!!」
噛まれる瞬間を想像して、それだけで悲鳴が上がる。
だが、犬の牙はいつまでたっても辛毗の体に届かなかった。
「……?」
辛毗がおそるおそる目を開けると、犬はすぐそばで吠えていた。
しかし、犬の体は何かに阻まれてそれ以上前に進めないようだった。
よく見れば、体に巻き付いている有刺鉄線が荷車の角に引っかかっている。
何という幸運。
それでも、辛毗が逃げるために方向を変えたら、それは容易に外れるであろうと想像はついた。
何とかして今のうちにこいつを始末しなければ、自分に明日はない。
どうにか犬と向き合おうと荷車についた辛毗の手に、何か固いものが触れた。
「む、これは……!?」
そこに置かれていたものを見て、辛毗は目を丸くした。
カチャカチャと乾いた音を立てるそれは、鉄製の鞭だった。
いくつもの節があり、その節には棘がついている。
殺傷力の高い、実戦というよりは拷問用の鞭だ。
それを手に取ったとたん、辛毗はひどく気分が悪くなった。
(これでは、あの時と同じ……)
思い出したくもないあの日を、彷彿とさせる鉄の鞭。
しかし今は、それを振るうしかなかった。
「ええい、仕方ない!
悪いのはおまえなのだ!!」
辛毗は夢中で、動けない犬に鞭を振り下ろした。
犬の皮が裂け、肉がえぐりとられていく。
犬は必死で逃れようともがくが、もがけばもがくほど鉄線が荷車に食い込んでいく。
辛毗は無抵抗な犬が動かなくなるまで、ひたすら鞭を振り続けた。
辛毗は拘束された犬を相手に、鉄の鞭を振るいます。
その行動は、辛毗の抱えている嫌な思い出につながっていきます。
次回、辛毗がその犬の中に何を見たのかが語られます。
辛毗にとって思い出したくない、拘束された番犬、忠犬とは一体誰のことなのでしょうか。