劉琦~盲愛の部屋にて(3)
短い話といいながら、公孫瓚編より長くなってしまいました。
実は次に招く人物を決めかねていて、書いている間に何かヒントをと思っていたのです。
劉琦編のテーマとなっているお家騒動は、次の章のキーワードにもなっていきます。
劉琦はしばらくの間、袁紹に撫でてもらっていた。
他人だとは分かっている。
しかし、親が子を慈しむような優しさに満ちた手は、あまりに温かく離れがたかった。
本当は、袁紹の手は氷のように冷たい。
これが死者の体温なのだろうか。
しかし、袁紹が袁煕に与えるはずだった愛情を感じるだけで、その手は温かく感じた。
結局のところ、劉琦は飢えているのだ。
父劉表は、ここ数年自分をこんなふうにしてくれなくなった。
袁紹が劉琦に袁煕の面影を見たように、劉琦も袁紹の中に劉表の面影を見ていた。
「ああ、お父上……」
劉琦が思わずほおをすり寄せると、袁紹もそれに応えてぎゅっと抱きしめてくれた。
だが、いつまでもこうしてはいられない。
袁紹にも劉琦にも、本当に欲する相手は別にいるのだから。
劉琦がだいぶ落ち着くと、袁紹はにわかに劉琦を放して言った。
「そろそろ、戻った方がよい。
ここはあくまで私の悪夢、他人のおまえを巻き込んですまなかった。
すぐに、現世に戻してやる……が、その前に一つ聞きたいことがある」
そこまで言うと、袁紹は急に真剣な顔になった。
「おまえは、劉備玄徳という男を知らぬか?
荊州にいるというので探しに来たのだが、荊州は広すぎてどうにも探しきれぬ」
「あ……えっと、知ってることは知ってますけど……」
劉琦が答えると、袁紹の口角がぎりっと上がった。
その瞬間、劉琦の背中に鳥肌が立った。
袁紹の笑みは、慈愛とは程遠いものだった。
分かる。
袁紹は劉備に対して、よからぬ感情を抱いている。
その笑みは、例えるならば、獲物を発見した肉食の獣の笑み。
いや、それよりずっとどす黒い感情に染まった悪魔の笑み。
憎い敵をようやく見つけたような、殺意に満ちた笑み。
(この人を、劉備殿に会わせたらだめだ!!)
劉琦は、本能的に悟った。
そして、おぞましい笑みを浮かべる袁紹を正面から見据えて、はっきりと言い放った。
「ですが、居場所は答えられません。
あなたは劉備殿を害するつもりのようです。
でも、劉備殿に万一のことがあれば、私も生きていけないんです!!」
劉琦の握りしめた拳は、冷たい汗にじっとりと湿っていた。
恐怖のせいか口の中が乾いて、喉がいがいがする。
だが、それでも袁紹の要求を拒んだ。
劉備を失う恐怖は、今ここで袁紹に殺される恐怖よりもはるかに大きかった。
「なぜだ、なぜ劉備をかばう!?
あの男には、わしやおまえの苦しみなど理解できぬのだぞ!!」
袁紹の顔から、笑みが消える。
代わりに、屈辱と敗北感にまみれた鬼が顔を出す。
「劉備はわしが裕福な家庭に生まれたというだけで、わしの不幸を決して認めなかった。
それどころか、苦しくて魂まで割ったわしに、さらに刃を向けてきた。
あやつはきっと、おまえの不幸も認めぬぞ!!」
袁紹の吠えるような訴えに、劉琦も心の中でうなずいた。
劉備に自分たちの苦しみは分からない。
これは本当だろう。
だが、分かってもらえなくても、劉琦にとってはなくてはならない存在なのだ。
「ええ、確かに劉備殿は私の苦しみを分かってくれません。
でも、劉備殿は私を後継者にと推してくれている数少ないお方です。
私は……劉表の長男、劉琦です!」
劉琦の名乗りを聞いたとたん、袁紹の顔色が変わった。
「何だと、それでは……おまえを追い詰める継母というのは……!」
劉表が妻を亡くし、後妻をめとったことは袁紹も知っていることだ。
うろたえる袁紹に向かって、劉琦はきっぱりと首を横に振った。
「劉備殿は殺させません、彼が死ねば私も長くないからです。
劉備殿は確かに、私のおかれている状況を理解してはくれません。
でも、理解してくれなくても守ってはくれているのです!」
劉琦にとっても、劉備の能天気さが憎らしく思えることはあった。
命を狙われていると訴えても、具体的に蔡氏に対抗しようとはしてもらえない。
孝行すれば通じますなどと、現状とは程遠い助言が返ってくる。
しかし、それでも、劉備は確かに劉琦を後継者にと父に言ってくれているのだ。
「私の今の母、蔡氏は常に私の命を狙っています。
隙あらば、私を陥れようと策を巡らしています。
そんな日々の中で、私を後継者にと父上に進言する劉備殿の存在がどんなにありがたいか、あなたにも分かるでしょう!」
その叫びは、悲鳴のようだった。
その悲痛な叫びには、袁紹も耳を貸さざるをえなかった。
元より、自分と同じ苦しみを味わっている少年に死んでほしい訳がない。
劉琦が死なないためには、劉備の力が必要なのだ。
しかし、それでも裏の袁紹は劉備を許せなかった。
どうにか劉琦を助けつつ劉備を殺すために、袁紹は劉琦にささやいた。
「劉備の力に頼らずとも、元を断てばよいではないか?
わしがその後妻を呪い殺してやろうではないか。
そうすれば、劉備の力を借りずとも、おまえは楽になれるのだぞ?」
それは至極簡単な、そして確実な方法だった。
それでも、劉琦は首を横に振った。
「いいえ、それでは弟の劉琮が私と同じように、母を失うことになります。
悪いのは蔡氏で、劉琮は何もしていません。
あなたは袁煕殿と同じように、劉琮を巻き込んでひどい目に遭わせるおつもりですか?」
これには裏の袁紹も、言葉が出なかった。
悪いのは袁譚なのに、何もしていない袁煕を不幸にした。
悪いのは蔡氏なのに、何もしていない劉琮を……。
劉備に認めてもらえなかったのは屈辱だが、そのために無関係な幼子を悪夢に巻き込むことなどできない。
裏の袁紹は、恥辱を噛みしめて頭を垂れた。
劉琦編は、袁譚編と劉備編の後日談でもあります。
袁譚に裏切られた袁紹が家族に抱いていた思い、劉備の無理解に苦しみながらも彼に頼らざるをえない劉琦の葛藤がこの話のもとになっています。
劉琦編も次で最終話です。