袁紹~盲愛の部屋にて
袁紹は、劉琦を袁煕と間違えて追っていました。
そもそも、袁紹はなぜ劉琦を袁煕と間違えたのでしょうか。
袁紹は、袁煕に何をしてしまったのでしょうか。
悪夢に囚われ、自分をも信じられなくなってしまった袁紹が起こした悪夢の連鎖が語られます。
自分は、妾腹の子である。
袁紹の悪夢は、そこから始まった。
父の正妻である継母にいじめ抜かれた日々が原因で、袁紹は何者をも信じられなくなっていた。
名家を憎み実の母を想う心と、名家の後継者として生にしがみつく心の板挟みになって、その果てに魂を割ってしまった。
そのせいで、袁紹はこうして冥府に行けずに彷徨っている。
問題は、その悪夢の影響が袁紹一人にとどまらなかったことだ。
悪夢は、袁紹の長男をも飲み込み、彼は袁紹を軽んじるようになった。
「確かに父上の血は穢れているかもしれないけど」
「おれまで一緒にするなよ!!」
何と、自分の子が自分の血筋を嘲って卑しんだのだ。
それ以後、袁紹は息子たちのことも信じてやれなくなった。
自分を卑下していることを態度に表していない、他の子どもたちも同じように。
袁紹には、嫡子が三人いた。
袁紹を軽んじた長男の袁譚、彼と同じ母親を持つ次男の袁煕、そして後妻の劉氏が生んだ三男の袁尚である。
正直、袁紹にとって後継者は袁譚以外なら誰でもよかった。
そこに、後妻の劉氏がささやいた。
「私の子を、袁尚を後継者に。
私はあなたと袁家のためを思って言っているのです。
私は、あなたの味方ですわ」
長男にまで裏切られた袁紹にとって、その言葉は蜜の響きをもっていた。
あなたの味方ですわ。
あなたのために、あなたの嫌いな袁譚を排除するのです。
あなたのために、袁譚を差し置いて私の子に後を継がせてくださいな。
共通の敵を持つと、仲間意識が芽生えるのはなぜだろうか。
袁紹はいつしか、袁譚を排除しようとする劉氏の悪意を善意と勘違いしていた。
「袁譚を、冀州から追い出してしまいましょう。
ついでに袁煕も、袁尚に後を継がせるなら必要ありませんわよね?」
劉氏の残酷なささやきに、袁紹はうつろなままうなずいた。
継母も長男も、自分を傷つけた。
家族だって敵の巣窟なのだ。
袁譚が敵なら、弟の袁煕がそうでない保証がどこにある?
袁紹は、袁譚のことで完全に疑心暗鬼に陥っていた。
そして、己の中の鬼が命ずるままに、袁煕も信用ならないとして遠ざけてしまった。
信じられるのは、自分と共に袁譚と戦ってくれる劉氏と袁尚だけだった。
それが誤りであったと知ったのは、死んですぐ後だ。
幽霊となった袁紹の見ている前で、その惨劇は起こった。
「あなたたち、よくも夫をたぶらかしてくれたわね!」
袁紹の死後、劉氏は袁紹の妾とその子供たちを集めてこう言い放った。
「夫は優しすぎた、だからあなたたちのような下賤にも惑わされてしまったのね。
でも、袁家に下賤の血はこれ以上必要ないの。
だからあなたたちのことは、なかったことにさせてもらうわ!」
劉氏の号令一下、周りを固めていた兵士たちが一斉に武器を構える。
「やめろおおぉ!!!」
袁紹は叫んだ。
声を限りに、叫んだ。
しかし、その叫びはもはや生きた人間に届かなかった。
代わりに現世に響いたのは、袁紹が愛した女たちと、その子供たちの断末魔。
部屋中が血に染まる中、劉氏は晴れやかに笑っていた。
「全く、夫の下賤の血と下賤を愛する癖には困っていたのよ。
でも、私はこれまでずっと我慢してこの高貴な体をあの人に捧げてきたわ。
ようやくそれが報われる日が来たのねえ……これで袁家は、私と尚のもの!」
目の前で切り刻まれ、肉塊と化していく女子供に、劉氏は唾を吐きかけた。
「ふん、この売女どもが、死んでからも夫に会えると思わないことねえ。
長い戦いだったけど、私は勝ったのよ!夫にも、この女どもにも!
ほーっほっほっほ!!」
袁紹は、愕然とした。
劉氏は味方などではない。
味方のようなふりをしておいて、本当はずっと敵だったのだ。
そしてもう一つ、袁紹はとてつもない間違いに気づいた。
自分は劉氏に言われるままに袁譚と袁煕を排除してしまったが……。
袁譚はともかく、何もしていない袁煕までも排除してしまったが……。
袁煕は敵などではなかった。
ただ、疑心暗鬼に巻き込んでしまっただけじゃないか!!
「衣食足りて礼節を知る、という言葉を、おぬしは知っておるか?」
袁紹は、黙って聞いていた劉琦に語りかけた。
「人は、自分が生きていくのに必要なものがない状態では他人のことまで考えが回らぬ。
私も、そうだった。
毎日見えない敵に怯えて、押し寄せる猜疑に頭がおかしくなりそうで、袁煕のことまで頭が回らなかったのだ」
今思うと、悔しくてたまらなかった。
あの時気づいていれば……後悔するのはいつも、全てが終わった後だ。
「最近、私はある男と出会って、ようやく私自身を少し信じられるようになった。
そして、今まで考えたこともなかった袁煕のことに気づいた。
……ひどいことをしてしまったと……今の今まで気づいてやれなかったことも含めて、な」
そこまで言うと、袁紹は一つ大きなため息をついた。
そして、息を飲んで話を聞いていた劉琦の顔をのぞきこんだ。
「思えば、煕はいつもこんな寂しそうな顔をしていた。
愛してくれと、目で訴えていた。
だから私の悪夢と共鳴する悪夢に気づいた時、真っ先にあやつの顔が浮かんだのだ」
気が付けば、袁紹はいつの間にか劉琦のほおを撫でていた。
他人だとは、分かっているのに。
それでも袁煕によく似た劉琦の姿に、袁紹は愛情を覚えずにいられなかった。
うつ向いたまま、ふと劉琦がつぶやく。
「その言葉を聞かせてあげたら、きっと袁煕殿も報われると思います」
優しい、言葉だった。
袁紹はただ、ふがいない父親を許してくれたこの他人に感謝した。
「ありがとう、少しだけ、心が軽くなった」
人は誰しも、自分のことで頭が一杯になると他人を思いやることができなくなります。生前の袁紹は、まさにそんな状態でした。
その結果、袁紹は罪のない袁煕を巻き込みで一方的に排除してしまったのです。
そして最近、孫策によって自分を信じる勇気をもらい、ようやくそれに気づいた訳です。