劉琦~盲愛の部屋にて(2)
袁紹は、劉琦のことを自分の息子と間違えて追いかけていました。
今回袁紹が思い出しているのは、袁譚編では触れられなかった次男、袁煕です。
歴史上でもあまり活躍のない人物ですが、紹介を置いていきます。
袁煕・顕奕 生年? 没年207年
袁紹の次男で、兄の袁譚と同様に本拠地から出されて北の幽州を治めた。弟の袁尚と共に曹操に抵抗するが、逃亡先の武将に一緒に斬られた。
氷のように冷たい手が劉琦の手を握り、顔から引きはがす。
その瞬間、武人が漏らしたのは悲しげなため息だった。
「煕では、ない……」
武人はすまなさそうに手を放した。
「すまぬ、私の子に似ていたので、つい……。
いや、分かっていたのだ。このような場所にいる訳がないと……」
武人は、落胆したように肩を落とした。
それを見ると、劉琦は少し安心した。
この人は、姿は恐ろしいけれど、敵ではなさそうだ。
「息子さんを探しているのですか?
もしよろしければ、お名前だけでも教えていただければ何か分かるかも」
劉琦の口からは、自然とその言葉が出た。
家族と一緒にいられない辛さは、十分すぎるほど味わっている。
それに、この人は自分を蔡氏の化け物から助けてくれた。
だから、もしできるなら、この人には家族といさせてあげたくなった。
それを聞くと、武人はにわかに辛そうな顔をした。
そして、しばらくもごもごとためらった後、重い口を開いた。
「私の息子は袁煕……袁煕・顕奕という。
数年前までは幽州にいたはずだが、あれからずっと会っておらぬのでな」
それを聞いたとたん、劉琦の胸を鋭い痛みが走った。
袁煕は、もう、死んでいる。
父上が北の情勢を探らせていた間者の報告を聞いていた時に、その名を聞いた。
河北の覇者であった袁紹の二男・袁煕と三男・袁尚。
長男の袁譚が曹操に討たれてからも、彼らはしばらく北で生き延びていた。
しかし、曹操の攻撃はすさまじく、二人は負け続け逃げ続けて、最期は北の果てで……。
その袁煕を、息子と呼ぶこの人は……!
「あなたは、袁紹殿でしょうか?」
震える声で武人に問うと、彼は静かにうなずいた。
「いかにも、私は袁紹・本初である。
故あって冥府に行けず、長く彷徨っているうちに、己の大きな過ちに気づいた。
だからもし、煕の魂がまだこの世にあるのなら、一目会いたいと思った」
その声は、深い後悔を含んでいた。
袁紹が息子に何をしたいのか、劉琦には分かった気がした。
しかし、劉琦は聞かずにいられなかった。
「息子さんに会って、どうなさるおつもりですか?」
「生前の冷たい扱いを詫び、できることなら再びこの腕に抱いてやりたい。
私は、生前煕に辛い思いをさせてしまった。
今からでも間に合うならば……虫のいい話ではあるが」
劉琦のほおに、すーっと涙が伝った。
(本当に、今更虫のいい話だよ!)
劉琦は知っている。
袁紹が後妻と彼女が生んだ三男をかわいがるあまり、先妻の子である袁譚と袁煕を本拠地から遠ざけてしまったことを。
そしてそれが元で跡目争いが起こり、結局三人とも曹操に滅ぼされてしまったことを。
劉琦はぐっと拳を握りしめ、しぼり出すように告げた。
「残念ですが、それは無理だと思います。
袁煕殿は、昨年……亡くなりました」
袁紹は、一瞬驚いたように目を見開いた。
しかし、すぐに力が抜けたようにうなだれてつぶやいた。
「そうか、昨年か……それでは、もう間に合うまい……。
いや、あやつの魂もわしと同じように割れてしまっていれば話は別だが……それはないか。あやつは、わしほど……。
うむ、分かった……息子の消息、礼を言う」
袁紹が何を言っているかは、よく分からなかった。
しかし、劉琦の心の中で、言いたいことは決まっていた。
劉琦は、やせて浮き出た目で懸命に袁紹を睨み付け、言い放った。
「どうして……どうしてもっと早くそうしてあげなかったのですか!!」
言ったとたんに、ぼろぼろと涙がこぼれた。
「きっと、寂しかったのに!
会いたいのに、会えなくて苦しかったに決まってるのに!
ど、どうして、生きている間に……!?」
それ以上は、涙ばかりがしゃくり上げて言葉にならなかった。
自分は袁煕と似ている。
自分も周りも、みんな気づいていることだ。
袁家が滅んでしまってから、劉表は今の家族の状況についてこんな苦言を呈されることが多くなった。
曰く、袁家の二の舞になりますよ、と。
袁紹は長子をおろそかにするあまり、内紛を招いて家を滅ぼしてしまった。
劉表も、今まさに長子の劉琦を顧みなくなってしまっている。
劉琦は袁紹の先妻の子たちと同じように、後妻に怯え、愛に飢えて苦しい日々を過ごしている。
(きっと袁紹殿も、薄々感づいてはいたんだ。
だから、同じように怯える私を袁煕殿と間違えて……)
そう思うと、胸が張り裂けそうだった。
袁紹は死んでからようやく、自分が息子に何をしたかに気づいた。
生前はおそらく後妻に目隠しをされ、直視できなかったのだろう。
今の劉表と同じように。
だが、全ては遅すぎた。
気が付いた時には、息子たちはそれぞれの心の闇にのまれて内紛で死んでいた。
悲劇にしても、程があるだろう!!
劉琦は、涙が止まらなかった。
これが自分と父劉表の未来の姿だと思うと、絶望に押しつぶされそうだった。
胸元にすがりついて泣き叫ぶ劉琦に、袁紹は悲痛な声でつぶやいた。
「生前は、己の悪夢に目を塞がれていて気付けなかったのだ。
今このおぞましい世界の支柱となっている、私自身の悪夢に」
「あなた自身の悪夢?」
劉琦はその言葉に違和感を覚え、顔を上げた。
これは、その袁煕という人の悪夢ではないのだろうか?
継母に追い詰められて、家族から弾かれるなんて。
戸惑う劉琦に、袁紹は悲しみを押し殺して語り始めた。
自分がこのような悪夢をまとっている訳、そして劉琦によく似た息子の袁煕のことを。
三国志にはしばしば跡目争いが見られますが、それで国と一族を滅ぼしてしまった例として袁紹と劉表はよく語られています。
長男が凡庸または虚弱+後妻が自分の子を跡継ぎにと猛プッシュ→後継者を決められず(劉表は公表できず)に死亡→後妻と支持する家臣が後妻の子を後継者に据える→国が兄派と弟派で真っ二つ→曹操につけこまれて没落、滅亡
というパターンまで見事に一致しています。
劉表はすでに袁家滅亡でそのパターンを知っていたはずなのですが……。