劉琦~排他の庭にて(1)
荊州城が裏世界に変貌し、劉琦の最も恐れているものが現れます。
現実世界では、蔡氏が劉表と自分の息子だけの世界を築いていた庭で…。
丸腰で息が切れかけのままボス戦に突入して、劉琦はどうなってしまうのでしょうか。
空が暗い。
劉琦が最初に感じたのはそれだった。
昼から夜に、急激に時間が流れたように、辺りには闇が立ち込めていた。
つい今まで白く煙っていた空は赤く、禍々しい夕暮れ時の色を醸し出している。
中庭の木々は黒い影となり、何が潜んでいるか分からない暗黒の空間を作る。
尻に痛みを感じて慌てて立ち上がると、地面に生えていた下草が全部棘のついた蔓に変わっていた。
「な、何これ……おえっ!?げほっげほっ!!」
劉琦が次に感じたのは、空気のざらつきだった。
息をするたびに、肺のあちこちで不快なものが詰まって咳が止まらない。
まるでここの空気そのものが、自分を拒絶しているようだ。
劉琦はたまらず、手が傷つくのも構わず薔薇の茂みにもたれて咳き込んだ。
芳しい薔薇の香りが喉を突き刺し、さらに劉琦の気管を狭める。
「うっうぇっ……はあ、あがっ!」
喉を押えて悶え苦しむ劉琦の側に、何者かがしずしずと歩み寄る。
それに気づいて顔を上げた劉琦は、ひゅっと声にならない悲鳴を上げた。
それは、華やかな布地で目隠しをした女だった。
艶やかな、血のように赤い唇とぴちぴちした若い体型。
劉琦のよく知っているあの女に、そっくりだった。
しかし、それがやはり人間でないことは、少しよく見れば分かった。
彼女は、いばらを束ねたような凶悪な鞭を手にしていた。
体にも、ところどころ真っ赤な花が咲いた薔薇の蔓が巻き付いていた。
その棘がいくら彼女自身を引っかこうと、彼女の肌は鋼鉄のように傷つかないのだ。
苦しんで立ち上がることもできない劉琦を前にして、彼女はにぃっと笑った。
「坊ちゃん、もう、ガンバらなくてイイのよ……」
その妙に嬉しそうな声は、蔡氏にそっくりだった。
艶めかしく腰をくねらせながら、棘だらけのいばらの鞭を振り上げる。
「あんたはあのヒトに必要ナイの……。
もう、ラクになりなさぁい!」
劉琦は、がくがくと震えながら彼女を見上げることしかできなかった。
咳が止まったのは、うまく息が吸えないから。
体中の神経が遮断されたように、力が入らない。
どこかで、犬の吠えるような声がした。
きっとどこに逃げようとも、怪物がここを包囲しているのだろう。
蔡氏の化け物が、声のした方向を向いて手を止めている。
愛犬が自分を拘束するのを待って、思う存分鞭を振るおうというのか。
そして、劉表が見ても自分だと分からないくらいずたずたに引き裂こうというのか。
河北の 殿の、正妻みたいに。
犬の声が、すごい速さで近づいてきた。
もう、終わりだ。
せめてこれ以上怖いものを見ないように、劉琦は目をつぶった。
次の瞬間、響いたのは女の悲鳴だった。
「きゃああアア!!」
驚いて目を開けると、そこには鞭を振り上げたまま固まっている女の怪物の姿があった。
振り上げた手から何か大きなものをぶら下げて、振りほどこうともがいていた。
さっき見た犬の怪物が、女の手首に噛みついているのだ。
自身がまとっている薔薇の棘では傷つかない肌が、痛々しく破れて血を流している。
それでもやっとのことで犬の牙を振り払うと、女の怪物はその犬に向かって鞭を振り下ろした。
(え、え?仲間割れ……?)
劉琦が状況を理解できないうちに、また何者かが中庭に走りこんできた。
「もうやめろ、劉―!!」
突然姓を呼ばれて驚いた劉琦の前で、剣を持った武人がいばらの鞭を切り払う。
その姿を見て、劉琦はさっき助けてくれた武人の姿を思い出した。
(もしかして、同じ人?)
やられたと思ったが、生きていてくれたのか。
思わず声をかけようとして、劉琦は凍りついた。
その武人の周りに、例の犬の怪物がたむろしている。
まるで彼を主とし、守るように。
そして、その武人の体は血の雨を浴びたかのように血塗られていた。
鎧も声もさっきとよく似ているのに、こちらは明らかに人間ではないように思える。
劉琦の頭の中で、警鐘が鳴る。
(こ、この人には声をかけちゃだめだ!!)
幸いあの女とは仲が悪いようだが、どうも人を守り慈しむ存在ではなさそうだ。
怪物同士がにらみ合っているうちに、少しでも逃げた方がいい。
とっさにそう判断して、劉琦は立たない腰を無理やり引きずって茂みの影に隠れた。
蔡氏への恐怖が顕在化した怪物が、劉琦を襲います。
しかし、彼女は劉琦を襲ってきたはずの犬の怪物に阻まれてしまいました。
その犬を率いて助けにきたのは、禍々しく血塗られたさっきの武将とよく似たモノでした。
劉琦にはもう、何が何だか分からない状況です。
もっとも読者の皆様には、もうこれが誰だか分かっているかもしれませんが。