劉琦~荊州城にて(4)
劉琦は、これまで招かれた人物と比べると圧倒的に弱い人間です。
体が弱く、丸腰で、およそ怪物と戦って倒せる力などもっていません。
そのうえ気も弱いので、劉琦の行動には「戦う」も「調べる」もなく「逃げる」オンリーとなります。
そしてそれは幼い頃の袁紹と重なり、また袁紹もそれに似た人物を知っているのです。
それからしばらく、劉琦はどうしていいか分からなかった。
動かなければ事態は解決しない。
だが、動けばあの化け物に見つかるかもしれない。
(ああ、どうしよう……)
劉琦はこれまで、あまり重大な決断をしたことがなかった。
体が弱くて時々寝込むため、あまり重要な仕事を任せてもらえなかったのだ。
重要なことは、いつも父劉表が家臣たちと相談して、劉琦抜きで決めてきた。
だから家臣たちにも、後を任せられないなどと言われてしまうのだろう。
そう思うと、劉琦は動いてみようかという気になってきた。
(もしうまく一人でここから抜けられたら、父上に認めてもらえるだろうか?)
怪物に襲われる恐怖よりも、その希望はずっと大きかった。
そのためなら命をかけても……いや、命は大事だ。
しかし、逃げながらでも試してみる価値はあるような気がした。
どうやら自分の力でも、怪物から逃げることはできるようだし。
「よし、待っていてください父上。
琦は必ず……ううん、運が良ければ、きっとここから抜けてみせます!」
どうにも不確かな希望を胸に、劉琦は再び立ち上がった。
だいぶ休んだおかげで、呼吸も整っている。
その身一つで武器も持たぬまま、劉琦は再び霧の中に踏み出した。
城の中は、相変わらず静かだった。
しかし、耳をこらすとどこかで何かが動く音がする。
劉琦はそれらを慎重に避けて、城の外へと向かった。
見つからないように歩くのは、劉琦の得意とするところだ。
もっとも、得意になろうとしてなったのではないが。
抜き足差し足忍び足で、不穏な気配をやりすごしつつ進む。
長い廊下では数歩進むたびに辺りを見回して、じっと耳を澄ましてからまた進む。
曲がり角では壁に耳をつけて、少しでも音がしたら迂回した。
蔡氏と蔡瑁たちに鍛えられた甲斐あってか、劉琦は無事に城の出口にたどり着いた。
外にも霧はたちこめているが、建物の中よりは明るい気がした。
(ああ、出られるのかな……?)
そう思うと、急激に緊張が解けていくのが分かった。
だが、まだ完全に安全とはいえない。
(よし、早く外に出て誰か見つけよう!)
それでも、一度解けた緊張を元に戻すことはできなかった。
ここまできたら……とばかりに、劉琦は乳白色の海のような庭に走り出してしまったのだ。
どこからか、虫の羽音が聞こえる。
劉琦は一瞬立ち止まったが、すぐにまた走り出した。
たとえ怪物の類でも、虫の大きさならたいして危害は加えないだろう……そう思ってのことだった。
しかし、その読みが甘かったことを劉琦はすぐに思い知らされる。
羽音は、急激に大きくなって迫ってきた。
劉琦が危険を感じて隠れ場所をと思った時には、もう遅かった。
灰色の空を切り裂いて、それは劉琦の頭上に現れた。
それは虫というにはあまりに巨大な、しかし虫のような羽で宙を舞う怪物だった。
人間の胴体に、手足の代わりとでもいうように、四本の刃がぶら下がっている。
近づくにつれ、空気を震わせる羽音とともに刃がかちゃりと音を立てた。
それが間近に迫った時、劉琦は思わずその顔を凝視した。
「……蔡瑁?」
わずかに人の面影を残す頭部……その中に、劉琦は蔡瑁の面影をみた。
その顔が、まるで悪意をもって笑うようにゆがむ。
ぶら下がっていた刃が、全て切っ先を劉琦に向ける。
耳元で、ごうっと風が唸った。
刃の多くが風を切ったのは、劉琦が反射的にしゃがんだせいだ。
しかしその刃のうち一本は、劉琦の着物の袖を切り裂いて皮膚に赤い筋を作っていた。
劉琦は、青くなった。
怪物は一撃浴びせただけでまた霧の中に消えて行ったが、相変わらず羽音は聞こえている。
ああやって霧に姿をくらませながら、何度も襲ってこようというのか。
丸腰で防ぐ術もない劉琦は、あんな刃をまともに食らったら一発で終わってしまうのに?
「ひ……ひい、いやああああ!!!」
劉琦は、一瞬でパニックに陥った。
先ほどの犬とは比べ物にならない恐怖が、頭の容量をはるかに上回って噴き出す。
気が付けば、劉琦は泣きながらさっき出てきた城に向かって走り出していた。
「ごめんなさい!許して!生きててごめんなさあい!!」
話が通じる相手かも分からないのに、ひたすら謝りながら劉琦は逃げた。
そして無我夢中で建物に走りこもうとしたとき、霧の中に人影が映った。
(人がいる!?)
それは、この異様な霧にのまれてから待ち続けた瞬間だった。
できれば味方、いや敵でもいい。
とにかく話が通じる相手ならいい。
ここから逃げる間だけでも、手を取り合えればそれだけでいい。
だが、それすらも甘い考えだったことを劉琦は思い知らされることになる。
犬のシルエットが犬とは限らないように、人のシルエットでも人とは限らないのだ。
「あの、助けて……!」
手を伸ばしかけた劉琦は、振り向いた相手の顔を見て固まった。
それは明らかに、人の顔ではなかった。
目と口があるべきところには、ただの穴しかない。
そしてその穴という穴から、茶のような色の液体が流れ出ている。
肌は血の気が抜けたように真っ白で、召使いのような服だけはきちんと着ている。
劉琦は、逃げ出したかった。
しかし、逃げられなかった。
後ろから、一度は引き離した羽音がまた近づいてくる。
相手が一体ならば、逃げるのは容易なのだが……はさみ討ちにされるのは考えていなかった。
劉琦は固まったまま、動くこともできなかった。
目の前の人型の怪物が、劉琦に向かって手を伸ばした。
この悪夢はいわば袁紹のもつシステムに劉琦の負の感情が導入されてできたものなので、出現する怪物が異なります。
劉琦にとっての恐怖が、この世界の怪物なのですから。
ただし、恐怖の質が似通っているせいか怪物にも似たような部分は多いのです。