劉琦~荊州城にて(3)
劉琦の叫び声が、霧の世界に響きます。
この霧の世界はやはり袁紹の悪夢がもとになって作られたので、その世界のどこかに袁紹がいる訳です。
劉琦の存在に気付いた時、袁紹はどのような反応をするのでしょうか。
霧の中で、袁紹はふと足を止めた。
「誰か、いるのか!?」
今、確かに叫び声が聞こえた気がした。
視界もきかず、音もないこの世界の静寂を破って、その悲鳴は袁紹に届いた。
(やはり、誰かが巻き込まれているのか?)
袁紹はそう思い、苦虫を噛み潰したような顔をした。
急に異界が広がったのには、気づいていた。
袁紹の悪夢とそっくりな何かが、幼少時の疲弊した袁紹とほぼ同じ感情とともに、袁紹の悪夢と重なった。
その瞬間、発生させるつもりのなかったもう一つの荊州城が発生した。
そこに人が巻き込まれていなければ、そのまま様子をみてもよかったのだが……。
人の悲鳴が聞こえるということは、誰かを巻き込んでしまったのだろう。
「やれやれ、様子見という訳にもいかぬか……」
表の袁紹は、剣を携えて霧の中に踏み出した。
ただ立ち寄るだけだった場所に、このまま悪夢を放置してはおけない。
それが自分に起因するものなら、特に。
それに、袁紹は自分によく似た悪夢の持ち主に心当たりがあった。
もし、その予想が当たっていたら……。
「煕よ……!」
たとえそれが、ここにいるはずのない人物であったとしても、放っておくことなどできなかった。
その悪夢の原因が、自分であると分かっているのなら。
劉琦は、がたがたと震えだした。
「え、ええっと……犬?
……じゃない、よね……?」
目の前にいるのは、形だけ見れば犬といえそうな生き物だった。
だが、細かくいろいろなところを見れば、それは確実に普段見ている犬ではない。
だらだらと涎を垂らす口からは、普通の犬の何倍もありそうな牙がのぞいている。
目があるはずのくぼみから、なぜか有刺鉄線が生えている。
鉄線の棘が体中に傷をつくり、あちこちの皮が裂けて肉の色が見えていた。
さすがにこれを犬と認めるほど、劉琦は愚かではない。
(に、逃げなきゃ!)
劉琦はすぐさま、その化け物に背を向けて逃げだした。
怖くても、意外と足は動くものだ。
足を動かさなければ、命がない……そういう状況は、初めてではない。
父が後妻をめとってから、劉琦は何度もそういう目に遭ってきた。
後ろから、がうがうと獰猛な鳴き声が追いかけてくる。
地面を蹴るかすかな音をとらえて体を縮めると、頭の上を鋭い爪がかすった。
「うひゃっ!?」
当たりはしなかったものの、劉琦はそれだけで死ぬ思いだった。
いや、この化け物は確実に自分を殺そうとしている。
「い、嫌だ嫌だよう父上ぇ!」
恐怖に頭の中が乱され、視界が涙に滲む。
だが、それでも劉琦はさっきと逆方向に走り出して逃げ続けた。
死にたくない!!
それだけが、劉琦の心の中を占めていた。
さっきは楽になりたいなどと願ったが、本当にそれでいい訳がない。
死んだらもう父上に会えない。
河北の 殿の妾と子供たちみたいに、蔡氏に切り刻まれるのかもしれない。
そして、誰にも思い出してもらえることなく劉家の歴史から消えていくのだ。
(そんな終わり方は、絶対にごめんだよ!!)
自分はただ、父上に愛されないのがつらいだけなのだ。
さっきはあまりに辛すぎて折れそうになったが、折れたいと思っている訳ではない。
劉琦は、生きたいのだ。
父上に愛されて、幸せに。
ただ、それができなくてあまりに辛いから、たまに楽になれたらと思ってしまう。
ずっとこのままでいるのは、苦しいから。
この日々が終わる希望が、全く見えてこないから。
それでも、死を目の当たりにすると生きたいと思う。
生きていれば、もしかしたら、いつかきっと、変化が訪れるかもしれないから。
「ぐっふっ……げほっげほっ!!」
息が胸に詰まって苦しい。
いつもはこんなに走ることなどないし、そもそも体が弱いせいで運動自体を控えている。
それでも、死にたくないから走る。
うまく動かない足を必死で動かして、少しでも逃げようとする。
体が弱い分頭を使って、扉や曲がり角、分かれ道を使って狂犬の視界から逃れる。
「う、うぶっ……も、もう、だめ……!」
貧弱な体力はすぐに底をつき、劉琦はとうとうその場に座り込んだ。
今すぐにでもあの凶悪な爪が頭を切り裂きそうな気がして、恐怖にぎゅっと目をつぶる。
だが、しばらくしても何も起きなかった。
恐る恐る後ろを振り返ると、そこに狂犬の姿はなかった。
どうやら、まいたようだ。
「あ……あ……よ、よかった」
劉琦は一気に体の力が抜けて、床に這いつくばるような格好になった。
怖くて後ろを振り返れなかったので、まいたことに気づかなかったのだ。
だとしたら、こんなに長いこと走る必要はなかったかもしれない。
そう思うと、劉琦はまた自己嫌悪に陥った。
怖いから目をそむけて、余分なことをして状況を悪化させて、そんなのばっかりだ。
(だから、罰が当たったのかな?)
未だ晴れない霧の中で、劉琦はふとそう思った。
自分が消えてしまいたいと願ったから、世界がそれを叶えたのではないか。
そんなことを思う人間は、存在する資格がないと。
「うっ……うっ……帰りたいよ、父上ぇ!」
激しい後悔が、劉琦の胸を焦がす。
か弱いすすり泣きが、霧の中に溶けていった。
劉琦は、心の底から蔡氏を恐れています。
また、劉琦は袁家滅亡の原因になった兄弟の争い、袁紹の妻である劉氏の妾に対する蛮行を知っています。(袁譚編、廃屋の前辺り参照)
そして、それが自分の身にも起こるのではないかと怯えているのです。
袁紹自身も、そのことで被害に遭った人物に心当たりがあり、それが原因ではないかと考えているのです。