劉琦~荊州城にて(1)
袁紹は孫策の助けを借りて、再び救いへの希望を取り戻します。
今回は物語の進行にはあまり関係のない、幕間のような話です。
過去の袁紹と似たような状態にある一人の青年が、悪夢に迷い込んでしまいます。
劉琦 字は不明 生年? 没年209年?
荊州の太守である劉表の長男。病弱で、それほど優れた才能を持っている訳でもない。実の母を亡くし、劉表の後妻である蔡夫人に疎まれる。劉表の死後は劉備に保護され、赤壁の戦い後はしばらく荊州の太守でいたが、若くして病死した。
気が付いたら、未来は霧に没していた。
寒々しく、先の見えない霧に……。
どうしてこうなってしまったのだろう?
彼はぼんやりと、そう思った。
あの子に後は任せられませんわ。
跡継ぎには、このわたくしの子を……。
霧がかかった頭の中でぐるぐると回る、もはや聞き慣れた言葉。
この冷たい我が家で、自分は明日も生きていられるだろうか……?
助けを求めても応えはなく、彼は一人で涙をこぼした。
温かい日差しが、城の中庭に降り注ぐ。
穏やかに晴れ渡る空の下、荊州城の中庭には色とりどりの花が咲き乱れていた。
その花々に囲まれて、一組の男女が戯れていた。
「うふふ、我が君……」
「蔡よ、愛しい我が妻……」
初老の男は劉表といい、この荊州城の主だ。
若く美しい女の膝に頭を乗せて、気持ちよさそうにくつろいでいる。
若い女は蔡氏といい、劉表の妻だ。
夫に膝枕をして、たおやかな手つきで夫の髪を撫でる。
仲睦まじい、夫婦のひと時だ。
夫は妻に全てを委ねて安らぎ、妻はそんな夫を愛しげに撫でる。
そして側には、幼い男の子がちょろちょろと庭の花で遊んでいる。
二人の愛の結晶、劉琮だ。
それはまさしく理想的な、愛に包まれた幸せな家族だった。
妻と子を愛し、誰よりも大切にする夫。
そんな夫とかわいい息子を愛し、誰よりも大切に扱う妻。
そして、両親の愛をめいっぱい受けて未来を約束された幼い息子。
城を警護する兵士たちも、重臣たちも、誰も水を差そうとはしない。
主の幸せな時間を邪魔するなんて、野暮なことはしない。
たとえ劉表にもう一人息子がいたとしても……今、蔡氏の目の前でそれを口に出す勇気は家臣たちにはなかった。
中庭の入り口で、一人の貧弱な青年が中を伺っていた。
元より、入れるとは思っていない。
色とりどりの花々に囲まれて、くつろぐ父の姿が見える。
そして傍らに寄り添う、新しい母と弟……。
青年の名は、劉琦といった。
「父、うぇ……くっこふっ……」
劉琦は父を呼ぼうとして、突如こみ上げてきた咳に肩を震わせた。
最近はしばらく調子が良かったのに、どうしてこういう時にぶり返すのだろう。
劉琦は、生まれつき体が弱かった。
そのため、以前は父劉表が心配してずっと側にいてくれたものだが……。
数年前、父が若い妻をめとってから、そんなことはめっきり少なくなった。
劉琦の母は、すでにだいぶ前に他界している。
そのため、劉琦は多くの時間を一人で過ごすようになった。
だが、これまでずっと父の愛を独り占めだった劉琦には、それは耐えがたい苦痛だった。
(父上には、もう私はどうでもいいのかな……?)
体調がすぐれない時は特に、劉琦はそう思う。
もちろん劉表も一応劉琦のことは気にかけていて、時々思い出したように声をかけてくれる。
だが、以前は欠かさず寝る前に歌ってくれた子守唄も、愛しさが極まって額に口づけをしてくれることも、今は劉琮のみの特権になった。
「くっ……うっ……けふっ!」
悪いことばかりが頭の中を巡り、体の調子も悪くなる。
劉琦は咳が蔡氏に聞こえないように、足早にその場を離れた。
側にいたことが知れたら、後でまたどんな嫌味を言われるか。
(父上は、私の父上なのに……!!)
無念の思いを抱えて、劉琦は父の側を去る。
蔡氏の怒りに触れたら、正直、嫌味ですめばいいほうだ。
物がなくなったり、汚されたり、食べ物に毒が入っていたことさえある。
しかも劉表の前では決して尻尾を見せないので、父に言っても信じてもらえない。
結局、自分の命を守るには父から離れるしかないのだ。
人目を避けて、劉琦は城の隅にある小さな休み場で横になった。
側には、小さな雑草がこまごまとした花をつけている。
「ふふ、私とおんなじだ」
ひょろひょろと貧弱な体で、見事な花を咲かせることもできない。
そうして、誰にも必要とされないまま、枯れていくのだろう。
だったらいっそのこと、今すぐいなくなってしまえたら……?
そんな考えが、劉琦の頭をかすめた。
自分は誰からも必要とされていない。
父上も、蔡氏と劉琮がいればそれで幸せだ。
そして自分は、生きていても苦しいばかりだ。
そんな自分が、これからも生きていくことに何の意味があるのか?
「ああ、もう……」
楽になりたい、楽になればいい、楽になっていい……。
劉琦は体の重さに身を任せるように、まぶたを閉じた。
泥沼のような眠りが、劉琦を包んでいく。
白く冷たい霧が、劉琦の肌を撫でる。
少し後、召使いが劉琦を探してそこを訪れた時、劉琦の姿はどこにもなかった。
劉琦は過去の袁紹と同じように、継母にいびられて陰鬱な日々を過ごしています。
父劉表は蔡氏とその息子、劉琮にとられて頼る者もありません。
劉琦の悪夢と袁紹の悪夢が重なった時、荊州城で新たな悪夢が紡がれます。