孫策~憎悪の館にて(6)
袁紹は袁術にとどめを刺そうとしますが、いきなり後ろから刺されて倒れてしまいます。
最終決戦は、孫策の視点で描いていきます。
袁術の犯した本当の罪と、それに対する孫策の判断が袁術の運命を定めます。
孫策の剣は、女の怪物の腹に深々と刺さっていた。
先ほど怪物が無理に身をよじったせいで、腹は裂けて体液がどろどろと流れ出ている。
こちらの役目は、これで終わったと思っていたのに。
「公路、は……殺させナイ……!」
思えば、怪物は常に袁術の方を気にして戦っていた。
だから孫策は、狙いの甘い鉄鞭を軽々とかわし、怪物の体に斬撃を浴びせることができた。
だが、幾度刃を浴びせても、怪物は執念で踏ん張り続けた。
そして、孫策の構えた刃に自ら飛び込んでその身に受け止め……。
まだ残っていた片腕で燭台を掴んで……。
剣が深く突き刺さったせいで、孫策は容易に剣を抜けなくなっていた。
その動作を決死の反撃だとみた孫策は身を低くして燭台の針をかわそうとしたのだが……。
それが自分を狙ったものではないと、気づいたのは投擲の後だ。
孫策は、怪物が最終的には自分を守るだろうと思っていたのだが……。
怪物はあくまで袁術を守ろうとし、その一撃は袁紹の背を貫いた。
「いかん、袁紹殿!!」
慌てて走り出そうとした孫策のそでを、怪物が掴んで引き止める。
その手を外そうと触れたとたん、孫策の周りの景色が歪んで幻が見えた。
一人の女性が、豪華な部屋で泣いていた。
涙に濡れたその顔には、確かに袁術の面影がある。
しかし、今目の前にいる怪物ほど太ってはいない。
「どうして、私はちゃんと子供を産んだのに……?」
己の身を呪うように口にして、彼女はベッドに突っ伏して、上等なシーツを引き裂いた。
「畜生、あの娼婦のせいだわ!
あの人があいつのところに入り浸って先に子供を作ったから、私は……」
彼女の鏡台の上には、安産を祈願するお守りが置かれていた。
床には、子供をあやす玩具が散らばっている。
「み、みんな、祝福してくれたのに!
私は当家一の果報者だって、褒めてくれたのに!!」
天井を見上げて泣き叫び、彼女は自分の身を抱いて身震いした。
「この子が袁家の当主になれなかったら、私はどうなるの!!?」
その言葉で、孫策は理解した。
この女性は、若き日の袁術の母親なのだと。
ワタシのかわいい、公路……。
彼女は籠の中の石を抱き上げ、狂気の灯った目で見つめた。
大丈夫、母が守ってあげるから。
何としてもおまえを袁家の当主にして、あの邪魔者を追い出してあげるから。
だって、私が幸せになる方法はおまえしかないんだもの!!
追い詰められた目をして、彼女は愛読の歴史書をめくった。
稀代の悪女と言われながらも、きちんと邪魔者を排除して自分の子を守った呂后の伝記を。
「ああ、そうか……おまえもまた、悪夢の犠牲者ということか」
自分の重さに耐えきれず、怪物が崩れ落ちる。
腹の裂け目から流れた体液が、冷たい石の床を黒く染める。
まるで、死にゆく彼女の心を投影するように。
怪物が息絶えるのと同時に、辺りの闇が晴れていく。
窓から降り注ぐ光が白っぽくなり、部屋はほこりの積もったただの広間に変わった。
しかし、それに安心することなく、孫策は袁紹と袁術に向かって歩き出した。
「悪夢の大本は、袁術でもその母親でもない。
どうやらもっと前から、袁家という家そのものに巣食っていたらしいな」
独り言にようにそうつぶやいて、孫策は袁術の横に立った。
「つまり、ここにいるのは皆悪夢に狂わされた、犠牲者ばかりという訳だ。
そして連綿と続く悪夢の連鎖が、おまえたち兄弟をこんなにしてしまった」
そこまで言うと、孫策は一度目を閉じて深呼吸した。
そして、袁紹の背に刺さった燭台を抜き、袁術の腹に突き刺す。
「ひぎゃああああ!!!」
袁術の悲鳴に、孫策は少しだけ心を痛めた。
しかし、持ち前の意志の強さでそれを押しとどめた。
「だがな、たとえおまえが犠牲者だったとしても、この連鎖はどこかで止めねばなるまい。
そもそも、おまえが強い意志で変わろうとしていれば、母の代までで止まったかもしれぬのだ。
袁家と無関係な民にまで、悪夢を強いることはなかった」
すぐ側で、裏の袁紹が起き上がりつつある。
苦痛に顔を歪め、喘ぎながらも、執念で剣をついて体を起こす。
「袁紹の復讐が正しいとは思わぬ。
だが、許せとも言えぬ。
おまえは確かに、相応の罪を犯してしまったのだから」
思えば、袁術は袁紹よりは余裕のある状況で育ってきたはずだ。
いくら母が悪夢に囚われていても、袁紹のように命まで脅かされた訳ではない。
それでも変わらぬ道を選んだのは、袁術自身だ。
母親が悪夢に怯えて作り上げた檻は、袁術にとって居心地のいい楽園だった。
だが、そこから一歩踏み出して周りを見れば、悪夢から抜けることは袁紹より簡単だったのではないかと孫策は思う。
「おまえは一番楽な状況にありながら、この連鎖を断ち切るために何の行動も起こさなかった。
結果、おまえは地獄に落ちて当然の罪を背負っている。
おまえの怠惰のせいで他人が味わった地獄を、今度はおまえが体験してこい!」
戒めをこめて言い放つ孫策の足もとで、汚れた血が広がっていく。
袁紹の胸から流れ出た血が、石の床を溶かし、金網に変えていく。
「い、いやだ……助けてくれ母上ぇ!」
袁術の目から、ぼろぼろと涙がこぼれる。
しかし、孫策が心を動かされることはなかった。
罪には、罰を……この世の理だ。
裏の袁紹が体を引きずるように寄ってきて、床に向かって剣を構えた。
「今度こそ、終いだ……。
案ずるな、救われなければ、わしも後から追いかける」
そう言う袁紹の顔には、先ほどまではなかった悲しみが宿っていた。
そして、袁術の耳元に口を寄せてぼそりとつぶやく。
「今許すことはできぬ。
だが……来世では、孫家のようになれるとよいな」
袁術は、答えなかった。
ただ目の前の恐怖に怯え、がちがちと震えている。
袁紹は憂いをこめてため息をつき、ついに裁きの剣を床に突き刺した。
「さらばだ、術……」
袁術の体を支えていた金網が、無機質な音を立てて外れる。
袁術の重たい体が、奈落に吸い込まれるように落ちていく。
その別れはゆっくりとしていて……しかし、一瞬のようでもあった。
袁術の姿が見えなくなると、袁紹の全身からも力が抜けていった。
袁紹は結局、袁術を地獄に落としてしまいました。
しかしその胸には、憎しみや恐れだけでなく別の感情が芽生えていました。
次回、孫策の章は最終話です。
袁紹の心中はどのように変化したのでしょうか。
そして、孫策が小鬼と交わした約束は何だったのでしょうか。
今度こそ、希望をもって読んでいただけるエンディングです。