孫策~憎悪の館にて(5)
さて、いよいよ悪夢の根源である袁術との戦いです。
袁術を倒せば終わりという訳ではありませんが、袁紹の精神的には非常に大きな戦いです。
袁紹は袁術を倒し、己を信じられるのでしょうか。
「うわああぁぎゃあああぁ!!!」
袁術はまりのように飛び上がった。
そして、足腰もおぼつかないまま必死で母親に駆け寄った。
「た、助けてくれ……助けてくれよ母上!!
兄貴が、何でここに来られるんだよ!?
俺の部下たちは何をやってたんだあぁ!!」
すっかり取り乱した袁術に、孫策はあっけらかんとして告げた。
「決まっているだろう、俺が連れてきたからだ。
あの化け物たちも、大半は俺が始末した」
それを聞いたとたん、袁術の顔が青を通り越して白くなった。
「何だと……?
孫策、おまえはわしの味方じゃなかったのか。
幼いおまえを養ってやった恩を忘れたか!」
すると、孫策はすました顔で答えた。
「養ってもらった恩など、戦働きで十分お返ししたでしょう。
俺はおまえのもとで数々の戦果を上げたが、それに見合う恩賞を受けたことはなかった。
だからこそ早く恩を返し終えて、おまえのもとを離れたのだがな」
あっけにとられている袁術をしかと見据えて、孫策ははっきりと言い放った。
「むしろ返すべきものがあるのは、おまえの方ではないのか?
自分の贅沢のためだけの重税、人の道を外れた行い、実の兄弟に対する見るに堪えない不孝……そのツケを、そろそろ払ったらどうなのだ!」
孫策はぎらりと剣を抜き、袁術にその切っ先を向けた。
とたんに、部屋の空気を震わせて怒りの咆哮が響く。
おああああぁー
見れば、美しい着物をまとった肉の塊が大口を開けて吠えていた。
肥満した体をぶるぶると震わせて、重たそうにその体を持ち上げる。
「公路、は……殺さセナイ……!!
死ぬノハ、本初!!」
息子を守ろうとしているのだろうか。
のそのそと近づいてくるそいつの手には、黒光りする鉄鞭が握られていた。
孫策の背中に、冷たい汗が流れた。
「袁紹殿……袁術の母親は本当にあんなものを持っていたのか?」
「いや、実際に持っていたのは木の杖だった。
……が、幼い私は本当に殺されるかと思ったのだ。
私が泣いても叫んでも、血を流して這いつくばっても殴るのをやめてくれなかった」
つまり、あの鉄鞭は袁紹自身の恐怖ということか。
「孫策よ、悪いがアレは……おぬしに任せて良いか?」
「構わん、最終的に袁術が地獄に落ちればそれでよい」
わずかに息が乱れている袁紹を背に、孫策は優しく答える。
袁紹一人で立ち向かう必要などない、二人で立ち向かうためにここに来たのだ。
もう誰も、袁術の生み出す悪夢に苦しめはしない。
それを固く心に誓って、孫策は怪物の前に躍り出た。
「こっちだ化け物!!」
「グギャアアアァ!!」
孫策と継母の幻影がぶつかりあうのを横目に、裏の袁紹はじりじりと袁術に迫った。
「ちくしょう……ちくしょう!
何でそんなにおれの邪魔をする!何でそんなにおれをいためつけようとする!?
兄貴が、兄貴さえいなければなあ!!」
焦って早口にまくしたてながら、袁術は豪勢な黄金細工の柄に手をかけ、剣を抜いた。
「早く消えろよおお!!」
袁術は太い腕を振り上げ、力をこめて剣を振り下ろす。
だが、袁紹も両腕に力をこめてそれを受け止める。
「消えるのは、貴様だ術!」
一瞬大きく力を込めて相手の刃を浮かせ、再び落ちてくるところを受け流す。
それだけの動作で、袁術は体のバランスを崩してころりと転がった。
「幼い頃のお返しだ!」
床に伏した袁術の横に回り、その顔を思いっきり蹴りつける。
「ぶぎゃっ!?」
豚のような悲鳴とともに、袁術の鼻から血が飛び散った。
袁術は、信じられない顔でその血を拭い、しげしげと見つめる。
「おい、嘘だろ?何かの間違いだろう!?
おれが兄貴より弱いなんて、そんなはずはない!!」
袁紹は、心の底から袁術を哀れんだ。
確かに、この館で戦った時はいつも自分が負けていた。
勝てば、継母に殺されてしまうことは目に見えていたから。
叔父袁成の養子になり袁術と離れたあと、袁紹は懸命に学をつけ武術を磨いた。
曹操と悪友になり、不良の日々を送るうちに、実戦の勘がさらに磨かれた。
もっと大人になって正式に官位についてからも、袁紹は武術に秀でると讃えられていた。
その後、袁術と戦ったことは一度もない。
だから袁術は、未だに自分の方が強いと信じていられたのだ。
「術よ、往生際が悪いぞ。
名族ならば、最期くらい潔く罪を認めて刑に服せ」
それでもなお抵抗する袁術の手を踏みつけ、その手から離れた剣を遠くに放り投げる。
「このままでは、おまえの悪夢も私の悪夢も終わらぬ。
おまえが私に勝とうとして、犠牲にした多くの民の悪夢も……」
河北の吹雪のように冷たい目をして、袁紹は袁術の四肢に剣を振り下ろす。
たるんだ肉が裂け、真紅の血が流れる。
袁術がさんざん自慢していた、純粋な名家の血が。
「だが、ただ一手でそれを終わらせる手はある。
袁術、おまえがいなくなればいいのだ」
袁紹は動きの鈍った袁術の前で、大きく剣を振り上げた。
この一撃で、全ての悪夢の元凶は断たれる。
袁紹はもう、袁術に苦しめられずにすむ。
民はもう、袁術に苦しめられずにすむ。
袁術ももう、袁紹に勝つことを考えなくてよくなる。
袁術一人がいなければ、どれだけ多くの人が救われただろう。
無論袁紹もその一人であることは間違いない。
「術よ、これで終いだ!」
袁紹は満面の笑みを浮かべ、剣を振り下ろそうと脇をしめた。
だが、次の瞬間、苦痛に顔を歪めたのは袁紹の方だった。
「ぐっふっ……!?」
袁紹の口から、血のしぶきが飛び散る。
袁術と同じ、赤い血が。
袁紹の胸から、一本の針が突きだしていた。
突然背中を襲った重量に耐えきれず、袁紹は倒れ伏した。
その背中には、美しい宝石で飾り立てられた燭台の針が突き刺さっていた。
袁術自身は弱く、簡単に踏みにじることができてしまいます。
しかし、それでも袁紹は袁術にとどめを刺すことができませんでした。
袁紹に燭台を突き刺したのは何者で、それは何を意味するのでしょうか?
次回、袁紹と袁術、決着です。