孫策~裏廃村にて(1)
袁紹は孫策を袁術の味方と勘違いし、裏世界に引き込みます。
正体を現した袁紹に、孫策はどのような言葉をかけるのでしょうか。
空が赤い。
木々は枯れ果て、骸骨のように禍々しく枝だけを伸ばしている。
霧ではなく闇が視界を遮り、空間を支配していた。
「ぐっ!?こ、これは……!!」
背筋を這い上がる悪寒が、さっきよりずっとひどくなった。
呼吸をするたびに、肺の中が汚染されるような嫌悪感さえ覚える。
孫策の背後で、廃屋の扉が大きな音を立てて閉まった。
「逃がさぬぞ、貴様のような輩は、絶対に……!」
目の前にいるのは、もはや少年ではなかった。
甲冑をまとい剣を手にした、初老の男だ。
だが、少年の面影は確かに存在していた。
整った顔立ち、痛々しく腕に刻まれた傷、そして積年の恨みと憎しみに染まった瞳。
むしろ、表情に相応な歳になったというべきか。
そこまで変化していながら、その男は相変わらず人間の姿をしていた。
どんな醜い魔物が出るかと思っていた孫策は、心の底で少し力が抜けた。
だが、それは嬉しいことでもある。
この男が人間なら、冥界への道について何か手がかりを得られるかもしれない。
孫策は不確かな期待を胸に、男に声をかけた。
「おい、おまえは……」
「黙れ!!」
孫策の言葉を遮って、男は孫策に剣を向ける。
「話すことはないと言っておろう!
貴様のような……袁術に与する輩は、皆あやつと同罪だ!
おまえのような奴がいたから、袁術に力を貸すから、私が……!!」
男の目には、涙すらたまっていた。
これはまずい。このままでは話が通じそうにない。
孫策は慌ててその言葉を否定した。
「待て、早まるな!俺は袁術の味方ではない!」
それを聞くと、男の表情がわずかに緩んだ。
「味方ではない、だと?
ならばなぜ私の邪魔をする?おまえは、誰だ?」
戸惑いながらも疑いを捨てられない男に、孫策は堂々と名乗った。
「俺の名は孫策伯符、江東の孫家の当主であった。
一時は袁術の世話になっていたが、愛想を尽かし敵となった。
袁術を助ける意志はないので、安心されよ」
そう言ってやると、男は力が抜けたように剣を下ろした。
今度は、孫策が男に問う。
「して、おまえは誰なのだ?
袁術を捕らえて、どうする気だ?おまえと袁術に、どのような関係がある?」
男は、ためらうように下を向いた。
それでも孫策が一歩踏み出すと、顔を上げて答えた。
「私は、袁術の兄だ」
その瞬間、孫策の中でかつての記憶がはじけた。
袁術の下にいた時、耳にたこができるほど聞かされた悪口だ。
袁術は北にいる兄のことを、事あるごとに徹底的にこき下ろしていた。
聞いている方が気分が悪くなるようなことを平気で言いふらし、同意を求めていた。
(兄貴はな、娼婦の腹から生まれたんだよ!)
妾腹でありながら、叔父の養子になり、袁家の当主となった兄に、袁術は並みならぬ敵意と憎悪を抱いていた。
そして自分が天下を取ったなら、兄をその生まれにふさわしく自分にひざまずかせ、なぶり殺しにしてやると言っていた。
その兄の名は、確か……。
「私は袁紹本初、河北四州の太守であった。
出会いがしらの無礼、許されよ」
その名を聞いたとたん、孫策の胸に深い感慨が広がった。
袁紹本初、この男とは生前、国としては友好的な関係だった。
何度か手紙でやりとりしたし、彼が北にいることはずっと頭の中に留めていた。
しかし、こうして面と向かって話すことになるとは思わなかった。
生きている間は、その道が交わることはなかった。
幼い頃、董卓討伐連合軍でちらりと顔を見たような気がするが、その後の戦乱と苦難の中でその面影はすっかり頭から消え去っていた。
(まさか、こんなところでこんな出会いがあるとは……!)
孫策は密かに、今までずっと憎んできた天に感謝した。
死んでからのこの時間は、確かにとてつもない苦痛だった。
しかし、そのおかげで、生きている間は会えなかった人物と出会えた。
孫策は思わずほおを緩めながら、しかし目的を果たすために袁紹に尋ねる。
「袁紹殿は、弟への未練がために彷徨っておられるのかな?
それとも、他に原因があるのならばお聞きしますが」
ちょっと話を聞く限りでは、袁紹は袁術への憎しみに囚われて彷徨っているように見える。
しかし、先ほど袁紹が使ったあの力は、明らかに普通の死者が持てるものではない。
自分と同じように、何か別の原因があるのではないか。
孫策が問うと、袁紹は少しためらってから口を開いた。
「おぬしには、関係のないことだ。
しかし、袁術を罰するのに協力するならば答えてやらぬでもない。
わしは、あやつのせいでこのような身の上になったのだ」
袁紹の声は、かすかに震えていた。
孫策を見つめる目には、どうにも晴らしようがない闇がたまっていた。
孫策はその闇に飲まれぬよう気をつけながら、袁紹の話に聞き耳を立てた。
袁紹と孫策は、生前割と友好的な関係でした。
お互いの顔も声も知らないまま、国同士の関係でのみ手紙や使者でつながっていたのです。
そのため、この二人の間にはこれまで招かれた者たちのようなどろどろした因縁がありません。
それが吉と出るか凶と出るかは、読み進めてのお楽しみです。