孫策~霧の廃村にて(1)
話は再び孫策に戻り、彼は霧に包まれた廃村を探索します。
孫策は袁紹と異なり、自分が冥界に行くために何をすればいいのかを知りません。袁術とも異なり、未練のあまり死を理解できずに彷徨っている訳でもありません。
孫策はなぜこのような状態になったのか、それも気にしつつ読んでみてください。
孫策はしばらく、霧の中を歩いていた。
そこは見たところ、先ほどの廃村と同じ場所のように思えた。
霧がふっと薄くなった瞬間に見える建物の影、木々のざわめき……しかし、それでも先ほどの場所とは違うのだと孫策は薄々感じていた。
ここの空気は、異常に冷たい。
肌の感覚としてではなく、心を冷やされるような不安を覚える。
まるでこの世界全体が、自分を歓迎していないかのように。
それを示すような存在が、孫策の前に現れた。
霧の中から静かに、音もなく現れたそれは、明らかに現世の存在ではなかった。
骨と皮ばかりに痩せこけた体。
腕は委縮して短い棒のようになり、足も貧弱で立っているのがやっとのようだ。
そのうえ、青白い肌には黒ずんだ血管が透けて、顔のパーツは痕跡でしかない。
人のようで人でないそれは、孫策の姿を見るとすがるように寄ってきた。
丸い穴に歯が生えたような口を開けて、肉をそぎ取ろうとする。
「おっと危ないな!」
余裕の所作で攻撃を避けて、孫策は今一度その怪物を見つめた。
「ふむ、これは見たことがないな。
しかし……これに似たような人間なら知っている」
思い出したのは、袁術の下にいた頃のことだ。
その頃、袁術の暴政のせいでこの村には餓死者が出ていた。
痩せこけてまともに歩くこともできなくなり、血色を失った村人たち。
理性に代わって生きるための本能が支配し、食べられそうなものなら何でも口に入れた。
目は落ちくぼみ、口はすぼんで人の面影すらも失いかけていた。
これは、その時死んだ村人たちの亡霊なのだろうか。
「だが、あいにく俺は食べ物じゃない。
腹を満たす代わりに、せめて楽にしてやる!」
孫策はぎらりと剣を抜いた。
言葉が通じるならばいろいろと聞きたいことはあったが、どうも話はできそうにない。
ならば、その未練ごと断ち切るまでだ。
勢いよく噛みつこうとする怪物を、すれすれのところで避ける。
そうすると、怪物は自分を支えきれずに派手に倒れる。
地面に一文字になった怪物の首を、孫策の剣が薙いだ。
「これでもう、飢えることはあるまい。
今度こそ、きちんと冥界に行くのだぞ」
きちんと冥界に行けなかった自分に言えた義理ではないが……。
孫策は静かに自嘲した。
そして何事もなかったようにまた歩き出そうとして、ふと足を止めた。
霧の中から、さっきと同じような怪物がまた現れた。
しかも、三体も。
「……やれやれ、こやつらも片づけるか」
孫策は再び剣を構えたが、怪物は襲ってこなかった。
孫策には見向きもせず、今しがたやられた仲間の亡骸に群がる。
「んん?」
興味を引かれてのぞきこんだ孫策は、あっと息を飲んだ。
怪物たちは、同朋の血肉をすすっていた。
小さな口で地面に流れた血をすすり、鋭い歯でわずかな肉をこそげ取る。
さすがの孫策も、これには気分が悪くなった。
(共食い、か。
確かに、そうなっていた村もあったようだが……)
極限まで飢えると、人は同朋の血肉を口にすることがある。
特に、民から取り上げることしか知らない袁術の支配下では……実際に見たことはなくても、噂には聞いたことがあった。
孫策が、袁術のもとを去ってからの話ではあるが。
弱者と弱者が争うように仕向けて、自分は涼しい顔をしている。
袁術のよくやる手法だ。
(この怪異は、袁術に関係がある?)
みじめに共食いする怪物たちを見ながら、孫策は直感的に思った。
ただし、袁術が主体かどうかは分からない。
袁術はこの霧に襲われる側だったはずだ。
だとすると、袁術を襲った方の意志なのか。
「これは、探り甲斐がありそうだな!」
哀れな怪物たちを手早く始末して、孫策は霧の中をにらみつけた。
その目には、ようやくありつけた刺激への欲求がありありとにじみ出ていた。
とはいえ、そう簡単に手がかりは見つからなかった。
霧に包まれた村の中、怪物の呻り声ばかりが響いている。
途中、さっきの人型とは違う犬のような怪物を見かけたが、特に手がかりにはなりそうにない。
人型の怪物と違って、共食いせずにこちらを狙ってくる分厄介ではあるが。
眼窩から伸びた有刺鉄線に体中を巻かれた姿……
それもまた、逃げられない拘束された弱者を思わせた。
この霧の主は、一体何を伝えたいのだろう?
少し疲れたので休もうと廃屋に入ると、崩れかけた壁に書かれた文字が目に入った。
『私が煩わしいなら、あなたがいなくなればいい。
そうすれば、全て解決するのだから』
孫策は首をかしげた。
言葉だけ見れば、民の恨み言と思えなくもない。
弱者同士で、食料でも巡って争ったのだろうか?
しかし、その文字は民が書いたにしてはあまりに流麗で美しかった。
これは明らかに、民の亡霊ではない気がする。
(これは、手がかりになるかもしれぬな!)
不敵な笑みを浮かべる孫策の耳に、不審な物音が届いた。
この霧に包まれた静寂を破るような、不穏な物音が。
「行くか!」
孫策は、疲れも忘れて剣を手に立ち上がった。
霧の主が、仕掛けてきたのかもしれない。
だったら、応えてやらない手はない。
新たな期待に胸をふくらませて、孫策は廃屋の裏手に回った。
今回の悪夢には、また新しい怪物が出てきました。
これは袁紹ではなく、袁術の影響で現れた怪物です。
袁紹が袁術にあまりに強い感情を抱いているため、袁術の記憶や感情までが怪物化してしまっているのです。また、袁術も心の内に悪夢を抱えているので、袁術との戦いはお互いの悪夢のぶつけ合いになるでしょう。