孫策~寿春の廃村にて
袁紹の悪夢は救われることなく、目的すらも失いかけて新章開始です。
今回は袁紹ではなく袁術に近しい人物、孫策が悪夢に侵入してきます。
孫策・伯符 生年175年 没年200年
呉の皇帝となった孫権の兄。父孫堅が没してから一時的に袁術に身を寄せていたが、独立して江東に大勢力を築き上げる。袁術が皇帝を僭称すると、それを非難して袁術の敵となった。
私の幸せのために、あなたはいてはいけない。
私が救われるために、あなたはいてはいけない。
私が救われなくても……あなたはいてはいけない。
私のいる世界に、あなたはいてはいけない。
私があなたを拒絶した訳ではなかった。
それは、逆。
あなたは初めから、私がいることを許さなかった。
だが、私は魂を割ってでも生きる道にすがりついた。
大丈夫、私が消えなくても、解決の方法はあるじゃないか。
ただ、あなたが、いなくなればいい。
柔らかい日差しの中、男は一人木陰に佇んでいた。
心地よい微風が、体を通り抜けていく。
風が避けていかなくなって、どのくらい経つだろう?
眼前には、主を失って朽ちた家々が並んでいた。
男の姿を目に留める者は、誰もいない。
もっとも、人がいても自分に気づくのはごく一部ではあるが。
「ここでは、何かが見つかるだろうか……」
小さなため息をついて、男は肩を落とした。
男は、探していた。
この冗長で退屈な日々を、終わらせるための手がかりを。
自分には、行くべき場所も留まるべき場所もなかった。
やるべきことを聞こうにも、生きた人間のほとんどは自分を感知できない。
生前厚い友情を結んで共に歩んできた者も、今は全く無力だった。
「周瑜……太史慈……」
男は、木枯らしのような寂しい声で友の名を呼んだ。
死んでからしばらくは、もっと激しく呼び続けた。
しかし、誰も気づいてはくれなかった。
たった一つの命を落とした自分は、もはや生者の世界に干渉することを許されなかった。
自分は、死後の世界などというものを信じてはいなかった。
生きている今、目に見え、感じられるものだけが全てだと思っていた。
だからあの時、あの老人を……。
よもや、それが死後の道を閉ざしてしまうなど、夢にも思っていなかった。
男は、死者の気配も生者の気配もない村を、それでも歩き回ってみることにした。
とにかく、男には時間が余りすぎていた。
何もすることがなく、何をしたらよいかも分からない。
一見楽に見えるようだが、実はとんでもない苦痛だ。
特に、他者と交わることができない一人ぼっちの死者にとっては。
暇つぶしすらろくにできないこの状況では、自我を保つのすら難しい。
男は、自分がすり減ってしまわないように、常に己を確認する必要があった。
「俺の名は、孫策。
俺は、冥府への道を探さねばならない」
しかし、つぶやくだけでは何も解決しない。
考えた末、孫策は過去に思い出のある地を巡ることにした。
記憶を保つことで、自分を保つために。
そして、この怠惰な拷問を終わらせる手がかりを探すために。
後者の目標は、容易には果たせそうにないが。
それに、孫策はじっとしているのが嫌いだった。
元々、血沸き肉躍るような興奮の中で生きるのが好きな男だった。
江東の小覇王。
生前、世間から与えられたその呼び名が示す通りに。
だから、孫策は少しでも刺激が欲しかった。
それゆえに死した場所を去り、ずっと旅をして来たのだが……望む刺激は、なかなか手に入らなかった。
当然だ、そこで何か起こっても自分は傍観者にしかなれないのだから。
「……ふう、この村にも、何もないか」
ひとしきり村を歩き回って、孫策はため息をついた。
元々、ここは刺激のない場所だ。
だってここは、孫策がまだ袁術の下にいた頃、とっくに廃村になってしまったのだから。
袁術の暴政の餌食になって、全てを吸い尽くされた村だ。
その時のことは、孫策もよく覚えている。
袁術……あれはひどい男だった。
昔を思い出していると、不意に袁術の声が聞こえたような気がした。
「……俺も、弱くなったな。
よりにもよって、あんな男の声が……」
孫策が感傷にひたっていると、今度ははっきりと聞こえた。
「や、やめろ、助けてくれぇぇ!!
俺は、皇帝だぞ~!!」
「!?」
幻聴などではない、確かに聞こえたのだ。
孫策は素早く身を翻し、声のした方に走った。
そこには、確かに袁術がいた。
だが、袁術の置かれている状況を見て、孫策は不謹慎ながらも目を輝かせた。
袁術は、真っ白な霧の渦に追われていた。
明らかに自然のものではない、何らかの意思を持った霧だ。
その得体の知れない霧は、魔物が手を伸ばすように袁術を捕らえようとしていた。
「こ、これは……!」
孫策は、胸が高鳴るのを抑えきれなかった。
袁術は、孫策より先に死んでいるはずだ。
ということは、袁術も何らかの原因で冥界に行けないのだろう。
これは、手がかりにつながるかもしれない。
それに、あの魔物のような霧は、刺激的だ。
死んでからずっと刺激に飢えていた孫策にとって、喉から手が出るような刺激的な事件だ。
これは、行かない手はない!
即座に決断を下して、孫策は袁術のもとへ走りこんだ。
袁術の目が、一瞬孫策の姿を捉える。
しかし、その姿はすぐに霧の中に引きずり込まれた。
あっという間に、袁術の姿は純白に塗りつぶされて見えなくなる。
「逃がすかっ!!」
孫策も、やや遅れて霧の中に飛び込んだ。
少し時間が経ってその霧が晴れた時、袁術と孫策の姿はどこにも見当たらなかった。
今回登場した孫策は、袁紹より先に死んだ人間です。
袁紹とは別の原因で冥界に行けなくなり、その解決法を探して彷徨ううちに袁術を発見し、悪夢に足を踏み入れました。
孫策は袁術のことをよく知っていますが、袁紹とは顔を合わせたこともありません。袁術を通じて二人が巡り合った時、孫策は袁紹に何を見るのでしょうか。