劉備~金網の部屋にて(1)
袁紹は劉備が袁術を手にかけるのを見て、喜びのあまり感情のたがが外れてしまいました。
あれほど憎んでいた袁術をようやく罰することができたので、袁紹にとっては当然の反応でしょう。
しかし、袁紹の本当の心を知らない劉備たちにとって、それは残酷な悪魔の表情に映るのでした。
「え、袁紹殿……?」
劉備は変貌した部屋の様子に戸惑い、表の袁紹の背中を撫でていた手を止めた。
表の袁紹は、相変わらず顔を覆ったままひくひくとしゃくり上げている。
弟の死に涙を流し、悲しみに声を引きつらせている。
悲しんでいる……はず。
「く、うっく……く、くくくっ!
くくっ……くふ、ふっあはっ!」
嗚咽かと思われていた声がたがの外れた笑いに変わり、顔を押えていた手が下がっていく。
その向こうにあったのは、裏の袁紹と同じ歓喜の表情だった。
袁紹の表情は、今まで見たことがないくらい解放感に満ちていた。
まるで新しい世界が始まるような、希望と喜悦のみの表情。
悲しいのではなく、嬉さが極まって涙を流していたのだ。
(あれ……?)
劉備は、急速に心が冷えていくのを感じた。
ひどい違和感が、失望とともに一つの答えを導き出していく。
(何だ、結局、この人は……)
劉備は冷めた目をして立ち上がり、今度は袁術ではなく袁紹のために、剣を手にした。
巻き込まれた当初から、劉備はこれが一体何のしわざであるかを考えていた。
途中で少年の幽霊に導かれた辺りまでは、邪悪な妖怪のせいだと思っていた。
しかし、この楼閣の頂上で袁紹の幽霊に出会ったことで、状況は一気に明らかになったかに見えた。
袁紹は、自分がこの怪異の元凶であると告白した。
そのうえで、この悪夢を終わらせるために手を貸してほしいと懇願してきた。
劉備は、一応それに手を貸した。
理由は簡単、それ以外に手がかりがなかったからだ。
(だが、この『袁紹』が本当に袁紹殿である証拠はどこにもない)
『袁紹』は確かに生前の袁紹によく似ていた。
しかし、時々、生前の袁紹からは考えられないような表情、反応を見せることは気になった。
それに、袁紹は生前から隠し事が多く、正直あまり信用できる人物ではなかった。
(この悪夢の世界のことも、聞かなければ教えてくれなかったし。
救いを求める者として、こういう態度はどうだろうか?)
それでも劉備は袁紹に手を貸し、この地下牢で袁術を手にかけた。
理由は、袁紹の言葉に、態度に、仁の心を感じたから。
民の為に、かわいい自分の弟を斬ってくれと頼んだ、その気持ちに心を動かされた。
これだけ民を思える人物なら、救うに値すると。
(だが、それは本当に民のためだったのか?)
袁術を斬ったとたん、二人に割れた袁紹は両方が笑い出した。
袁術の死を心から喜ぶがごとく、歓喜に涙まで流して……。
自分の弟が殺されたのに、これはいかがなものだろうか。
袁紹は、自分たちをただ兄弟の争いに利用しただけだったのか。
(そもそも、『これ』は本当に袁紹殿だったのか?)
そのうえ、袁紹は袁術を地獄に落とすと言いだし、部屋の床を金網に変えた。
この力は明らかに人の力ではない。
それに、血のつながった弟を笑いながら地獄に落とすなんて、人間の心でできる所業か?
結論、この『袁紹』は袁紹のふりをした何かの可能性が高い。
もし本当に袁紹だったとしても、その心根は救うに値しない。
袁術同様に、本格的に妖怪になる前に倒すべきだろう。
どちらにしろ、やるべき事は一つ。
民の安全のために、この人でなしを倒せ!
劉備の心中を察したかのように、関羽と張飛が武器を構えて劉備の守りを固める。
裏の袁紹はそれに気づくと、不機嫌そうに眉根を寄せた。
「どうした、これで民は救われるのだろう?
なのに、なぜ今更わしに刃を向ける」
袁紹の問いに、劉備は静かに答えた。
「袁術はこの世にあってはなりません、それはあなたのおっしゃるとおりです。
しかし、あなたもまた、この世にあるべきではありません。
あなたは……おまえは、袁紹殿ではない!!」
「は?」
袁紹は、一瞬何が起こったのか分からなかった。
劉備は一体、何を勘違いしているのか。
自分を救ってくれるのではなかったのか。
戸惑う二人の袁紹に向かって、劉備はさも悲しそうに言い放った。
「残念だったな、おまえの演技はなかなかのものだった。
しかし、実際に袁紹殿と会っている私はだまされぬ!
袁紹殿は、おまえのような冷酷な人間ではない!」
ちょっと聞くと袁紹をほめているようだが、今はそれどころではない。
「袁紹殿は確かに時々人を騙し、汚い手も使っていたが、民を安んじる優しい心を持ったお方だった。
あれほど優しく善政をしける袁紹殿が、肉親を笑って殺せる訳がない!
娼婦の子だの何だのもおまえが噂を利用したに過ぎない。袁紹殿は誇り高く、少し世間知らずで、人望の厚い真の名族であった!」
表の袁紹も、裏の袁紹も、言葉が出なかった。
確かに、自分は生前、周りからそう思われるように全力で努力してきた。
ある意味では、これはその成果ともいえる。
その時は、その嘘が死後自分の首を絞めることになるなど夢にも思わなかったのだ。
「ま、待て、玄徳……私は本当に……!」
表の袁紹が弁解しようとしたが、それは関羽に阻まれた。
「問答無用!兄者に仇なす輩はすぐに成敗いたす!!」
動けない表の袁紹に向かって、関羽が偃月刀を振り上げる。
だが、それが振り下ろされる寸前に、裏の袁紹が表の袁紹を突き飛ばした。
偃月刀は二人の袁紹の間で、床にぶつかって火花を散らした。
「おのれ、ならばこちらも容赦はせぬぞ!」
裏の袁紹は憎たらしい顔をして、劉備たちをぎらついた目でにらみつけた。
「おとなしくしておれば、害する気はなかったものを!
裏切り者め、袁術と共に地獄へ落ちよ!!」
言うが早いか、裏の袁紹はさっと手を振り下ろした。
この話のボス敵は、袁紹自身です。
劉備が袁紹の真実を理解しきれず、袁紹をボスと認識してしまったからです。
袁紹は逆上して劉備を地獄に落とそうとしますが…うまくいくでしょうか?
なぜなら劉備はこれまでの二人と違って、生きた人間なのですから。