劉備~深淵の地下牢にて(1)
袁紹は劉備を、裏の自分が待っている地下牢まで連れて行こうとします。
袁紹は劉備にできるだけ不信感を持たれないよう、感情を押し殺して行動していますが、悪夢の中は袁紹自身の感情を逆なでする怪物に満ちています。果たしてそれらに遭遇して優しい面が壊れた時、劉備たちは袁紹にどんな感情を抱くのでしょうか。
地下の空気は、どんよりと重く淀んでいた。
光が差さないので暗闇かと思っていたが、道のところどころにか弱い光を放つ蝋燭が灯されていた。
はっきり見えるのはその周りのみ、自分たちの影でさえほぼ完全な闇となる。
「一本道なので迷うことはないであろうが……はぐれぬよう、気をつけられよ」
袁紹はそう言って、劉備たちの前を進んでいく。
突然、袁紹の歩みが止まった。
「袁紹殿?」
劉備が声をかけると、袁紹は渋い顔をして暗闇の奥を見つめていた。
漆黒に塗りつぶされた空間から、ずりずりと何かを引きずるような音が聞こえてくる。
「……怪物か?」
「うむ、すまぬが……多いぞ」
そろそろと蝋燭のある近くまで戻り、劉備たちは武器を構える。
袁紹は関羽と張飛の後ろに下がらせ、さらに劉備が守るように寄り添う。
そうして臨戦態勢を整えたころ、怪物が悠長に姿を現した。
寝台の上に重なった肉塊は、上にいた奴と同じだ。
それに、顔に板を打ち付けられた召使いと犬も、外にいた奴と同じだ。
しかし、今度は別の怪物も混じっていた。
死人のように白けてぶよぶよとたるんだ肌をした、人型の怪物だ。
腕の先は昆虫のように細く、鋭い爪がぎらぎらと光っている。
その姿を見たとたん、袁紹の眉間にしわが寄った。
「下衆が……!!」
そのつぶやきに反応するように、怪物たちが一斉に襲いかかってきた。
犬たちが、よだれにまみれた牙をむいて飛び掛かる。
それを打ち落とすと、今度は召使いが得物を振り上げて近づいてくる。
さらに、倒れる召使いの体を盾にして寝台の怪物が四本の手を伸ばす。
それでも、一本道で後ろから敵が来ないせいで、戦いはだいぶ楽だった。
関羽と張飛が大きな体で壁を作っているおかげで、袁紹と劉備のところまで怪物の牙は届かなかった。
いや、そもそも関羽と張飛に手が届く怪物がほとんどいない。
劉備を守るこの二人は、それほどに強いのだ。
袁紹はその二人の姿をできるだけ視界に入れないように、こっそりと目を伏せていた。
余計なことを考えてはいけない。
せっかく救ってもらえるのだから、下手な嫉妬に身を任せてはならない。
以前自分の前にもあった、同じような壁のことなど……
今は、思い出してはいけない……。
そうして袁紹が目をそらしている間にも、怪物は次々となぎ倒されていく。
仲間が少なくなったのに苛立ったのか、白けた肌の怪物がもごもごと口を動かした。
「ショウのクセに……キタナらシい……!!」
それは、憎悪と怒りのこもった声だった。
「しゃべった!?」
突然の言葉に、関羽と張飛の刃が鈍る。
これまでの怪物は、不気味な声を立てることはあっても、言葉を話すことはなかった。
しかしこの怪物は確かに、今言葉を発したのだ。
「まさか……人間では……?」
人型の外見も手伝って、劉備の心に迷いを植え付ける。
怪物ならば、倒すのに容赦はいらない。
しかし、もし人間であれば、劉備たちは手にかけるのを大いにためらってしまう。
いや、人間でなくても、人間であったような痕跡を見つけたとたんに……。
「関羽、張飛!
斬るな!!」
一瞬の迷いから、劉備が攻撃に待ったをかける。
「待て、手を止めるな!!
あれも人間では……!!」
袁紹は慌ててそれを否定したが、関羽と張飛は劉備の言う事しか聞かない。
二人が刃を逸らした隙に、白けた肌の怪物が袁紹のもとへ走りこむ。
「お止めください!どうかお話を……」
劉備は言葉で怪物を止めようとしたが、無駄なことだ。
この怪物もしょせん、袁紹の暴走した悪夢の一つに過ぎない。
言葉をしゃべることはあっても、言葉を解することなどないのだ。
怪物はただ、袁紹の脳裏に刻まれた言葉を反復しているに過ぎないのだから。
怪物の針金のような爪が、袁紹の体に迫った。
「ショウのクセに……ゲセン、の……」
もごもごと同じ言葉を繰り返しながら、袁紹の顔めがけて爪を振り上げる。
その瞬間、袁紹の顔に烈火のような怒りが広がった。
「黙れえええ!!!」
絶叫ともとれるほどの怒声とともに、袁紹の体が低く沈み込む。
腕を空振りして前のめりになった怪物の下に潜るように、歩を進めて剣の切っ先を上に構える。
「下衆が、その口を閉じよ!」
袁紹の口から漏れたのは、劉備たちが聞いたこともない低く濁った声だった。
その顔には、およそ袁紹という人物に似つかわしくない、悪鬼のような怒りの形相が張り付いていた。
「袁紹、殿……?」
驚愕する劉備たちの前で、怪物の後頭部から血塗られた刃が突きだす。
怪物は、それ以上何も言うことなく、静かに倒れ伏した。
袁紹は劉備と対面してから、ずっと感情を抑えて冷静に対応してきました。
苦手な人物を含む相手に冷静に対処するのは、思った以上に精神力を奪われるものです。怪物の言葉にキレてしまったのも、袁紹がそれだけ消耗している証拠なのです。
一方、劉備たちは袁紹の態度が豹変すれば、当然のように不安を覚えます。
袁紹はこのまま劉備の信頼を得、救ってもらえるのでしょうか。