劉備~霧の中にて(2)
今回は劉備たちが生きた人間であるということだけではなく、袁紹側の目的も前回までとは異なっています。
公孫瓚→地獄の力を使う肩慣らし
袁譚→救いへの希望を捨て切れていないが、主たる目的は復讐
それに対し、劉備は初めから救ってもらうのを主目的に招いています。そのため、袁紹自身の対応も、これまでとは異なったものになるでしょう。
表の袁紹は、期待に満ち溢れた顔をしていた。
劉備がこの呪われた世界に足を踏み入れてくれただけでも、素直に嬉しかった。
「さて、わしは行くぞ。
あやつをここに案内せねば!」
軽やかに腰を上げて、いそいそと扉に向かう。
そしてにわかに振り返ると、哀れな弟に向かって言い放った。
「くくく……おまえと見比べれば、わしでもそれなりに良い君主に写るだろうな。
特におまえを倒そうと息巻いていた劉備なら、なおさら……。
おまえはわしを貶めた償いに、わしが救われるための生贄になるのだ!」
途中から、言葉は裏の袁紹に引き継がれていた。
だが裏の袁紹は表とは違い、どこか不安げな顔をしていた。
「……あまり救いに期待するなよ、人は裏切るものなのだ」
去っていくもう一人の自分を気遣い、裏の袁紹はため息をつく。
劉備はきっと、子供を怪物から助けるとは思う。
だが、それが本当に自分の救いにつながるかどうかは、まだ分からないのだから。
劉備たちは霧の中を進んでいた。
時々現れる狂犬は、関羽と張飛が速攻で始末してくれる。
しかし、人型の怪物が現れた時は少々戸惑った。
影が人でなければ、躊躇なく攻撃できる。
しかし、人型の影が近付いてきたらそうはいかない。
「恐ろしい……私は未だに、これが人ではないと確信を持てぬのだ」
足元に転がる人型の怪物を見下ろし、劉備はかすかに震える声で漏らした。
壊れた人形のように手足をあらぬ方向に向けて、それは横たわっていた。
血の気のない肌を上品な着物で覆い、その姿は一見良家に仕える召使を思わせる。
しかし、その顔面には頭の後ろまで突き抜ける長い釘が打ちつけられている。
頭を釘で打ちぬかれて動いているなど、明らかに人間ではない。
それでも、劉備はそれが人間ではないかと思わずにいられなかった。
感じるのだ。
この召使の足運び、息遣い、そして衣装の衣擦れに。
この召使は実際に誰かに仕えて、人として生活していたのだと。
「……ともかく、一つはっきりした事がある」
恐怖に乱れかけていた息をどうにか整えて、劉備は二人の義弟に言った。
「このようなものを放置しては、民が危険にさらされる。
これが元は人間だったならなおさら、放ってはおけぬ。
もし我々にどうにかできるものならば、これの元は世のために退治するべきであろう」
「そうですな」
関羽と張飛も、至極真面目な顔で同意した。
民を守り世を平和に導く、それが劉備たちの揺ぎ無き行動理念なのだ。
劉備は、自分が盗賊に襲われたときも、近辺の民のことを考える人間だ。
今自分が相手にしているものが民のためになるかならないか、それが彼にとっての判断基準といってもよい。
「ちっ、それにしても、ずいぶんと悪趣味な怪物だぜ。
こんなのを生み出した奴は、きっと大層悪い奴なんだろうな!」
怪物の死体に唾を吐きかける張飛をたしなめながら、それでも劉備はうなずいた。
こんな怪物を生み出すような輩は、間違いなく民を苦しめる。
ならば自分は、そのような存在から民を守らねばならない。
たとえ何か事情があったとしても、巻き込まれる多くの民のことを思えば……。
そんな事を考えている劉備の耳に、早速助けるべき者の声が響いた。
「た、助けてぇ!!」
まだあどけなさが残るような、少年の悲鳴だ。
ゆるゆると流れる霧の向こうから、小さな足音と共に聞こえてくる。
劉備はすらりと剣を抜き、さっと身をひるがえした。
「行くぞ、二人とも!」
劉備の凛々しい声に従い、関羽と張飛もそれに続く。
やることは一つ、悲鳴の主を助けることだ。
「うわああん!!」
真っ白な霧のベールを裂いて、少年が飛び出してきた。
そのすぐ後ろから、例の狂犬が姿を現す。
劉備は素早く少年の前に出てかばってやり、同時に関羽が狂犬を一刀両断にした。
犬の体をとりまいている有刺鉄線が切れ、鉄の棘が犬の体をさらに引き裂く。
劉備はそれに吐き気を催しながらも、そのおぞましい光景から少年を守ってやっていた。
狂犬にとどめを刺すと、劉備は腕に抱え込んでいた少年をゆるゆると放してやった。
少年の不安げな瞳が、おずおずと劉備の顔を見上げる。
「大丈夫だよ、私は人間だ」
劉備は開口一番、優しく、はっきりとした口調で少年を安心させてやった。
それで少し落ち着いたのか、少年は劉備の腕にしだれかかるようにして小さく息を吐いた。
劉備は脱力した少年の背中を、温めるように撫でた。
「もう心配することはない、私がおまえを守ってやる。
この化け物どもにおまえを食わせたりはしない!」
劉備がそうやって声をかけても、少年は相変わらず不安そうなままだった。
「本当に…?」
少年が、か細い声を発する。
劉備が視線を合わせるようにかがんでのぞきこむと、少年はまだ信じられないというようにつぶやいた。
「本当に、守ってくれるの?
この地獄から、ぼくを救ってくれるの?」
「ああ、助けるとも」
劉備は陽光のように暖かい笑顔で、少年の問に答えた。
それを聞くと、いままでずっと怯えていた少年の顔が少しだけ和らいだ。
それは、劉備にとってこれまで何度も繰り返してきた行為だ。
劉備はこれまで、たくさんの虐げられた子供たちを見て、励ましてきた。
戦で親を失った子供、圧政に苦しむ民の子供、働けど働けど楽にならない歪んだ社会の小さな犠牲者たち。
そんな子供たちはだいたい、こんな不安そうな目をしていた。
(かわいそうに、救ってやらねば!)
そう、これはいつもと同じ、民を救う行為だ。
民は自分たちに世直しを期待し、守ってもらうことを望んでいる。
ならば、救世主たらんとする自分たちにはそれに応える義務がある。
劉備は優しい眼差しに強い決意をこめて、顔を上げた。
劉備は基本的に民に優しいので、少年の姿をとった袁紹を優しく受け止めてくれました。しかしこの時点で、劉備はそれが袁紹だと分かっていません。
果たして劉備の優しさは、それが袁紹であると分かってからも続くのでしょうか?