劉備~汝南の街道にて
袁紹の悪夢は救われないまま、新章に突入です。
今回招かれるのは、三国志において主役を張る人物、仁徳の人劉備玄徳です。この人物は有名なので知っていらしゃる方が多いと思いますが、一応紹介を置いていきます。
劉備・玄徳 生年161年 没年223年
漢王朝の復興を目指し、後に蜀漢の皇帝となった人物。関羽、張飛という二人の豪傑と義兄弟の契りを結んでいる。かつて袁紹と敵対する公孫瓚に仕えていたことがあるが、官渡の戦い辺りでは袁紹に身を寄せていた。袁紹の弟である袁術を討伐しており、さらに義弟の関羽が袁紹軍の武将を二人討ち取っているなど、袁家の運命に意外と多くからんでいる。
救世主、それは文字通り世を救い、天下万民を救うものだ。
彼は誰にでも手を差し伸べてくれる。
彼はどんな貧しい、身分の低い人間にも希望を与えてくれる。
彼は巨悪を打ち倒し、自分たち大衆を楽にしてくれる。
言うことは夢物語でも、現実に救世主と呼ばれるのはたいていの場合人間である。
そしてその救世主は、だいたい民衆の好みに合っているからそう呼ばれるのだ。
もし救世主にお願いしたら、私も救ってもらえるだろうか?
私が立場上、民衆が目の敵と憎んでいる人間の同族でも?
「あちゃー……こりゃ取り返せそうにないな」
茂みに伏せて様子を伺いながら、張飛は小声でぼやいた。
視線の先には、古城が横たわっている。
その城壁には、「曹」の旗が所狭しと並んでいた。
「うむ、確かにこれではもう手を出せぬ。
ここは見つからぬうちに、早々に引き上げましょう兄者!」
隣にいた関羽も、難しい顔でつぶやく。
弟二人の意見を耳に、劉備は残念そうにため息をついた。
(自分の城を持つのは、難しいことだな……)
目の前の古城は、数年前は劉備たちが拠点にしていたのだ。
ここを足場に、袁紹との全面対決に向かう曹操の背後を突こうとしたが、うまくいかなかった。
結局劉備たちはいつものごとく敗走し、今は親族の劉表に身を寄せている。
「分かった、ここはあきらめて荊州に帰ろう。
竜が淵に潜むは天に昇らんがため……いつかまた、天の時がくる」
もはや言いなれたセリフをさらりと口にして、劉備は古城に背を向けた。
劉備たちは駒を並べて、汝南の街道を疾走していた。
汝南、そこはかつて袁家の本拠地だった場所である。
袁紹も袁術もそこで育ち、一時は袁術がそこを治めていた。
だが、その日と未来にしか目もくれない劉備にそんな事は知る由もない。
「兄貴、霧が出てきたぜ!」
さっきまであんなに晴れていたのに、気がつけば劉備たちの周りを白い霧が覆いつつあった。
「これはいかん……道を見失うなよ!」
二人の義弟に声をかけて、劉備は先の見えない霧の中に突っ込んでいった。
霧がそこから消えた時、三兄弟の姿もまた、霧のごとくそこから消えていた。
「うわああーん助けてくれええー」
暗い部屋に、情けない男の泣き声が響く。
血痕めいた汚れが染み込んだ冷たい台に、肥満体の男が一人拘束されていた。
表と裏、二人の袁紹は鏡に写したように同じ姿勢で、その男を見下ろしている。
「うるさい術、少し黙れ」
「泣くことが皇帝の仕事なのか?哀れなものよ!」
両方から、袁紹は容赦なくその男を責め立てる。
この拘束されている男こそ、袁紹の異母弟にして悪夢の元凶の一人、袁術であった。
「全く、おまえが死んでもう何年になると思っている?
公孫瓚もそうであったが、おまえもたいがい往生際が悪いな」
表の袁紹はあきれたように、台の上でもがく弟に言葉をかけた。
この無様な弟は、死に方が無様であったばかりか、未だに未練を断ち切れずに彷徨っていたのだ。
一時は玉璽を手に入れて皇帝を名乗り、贅沢三昧に遊び暮らしていた。
北でがんばっている兄の事など目もくれずに、己の野望に夢中になっていた。
そして気がついたら味方がいなくなってしまい、兄を頼るしかなくなっていた。
袁術を発見したのは、汝南に入ってかつての故郷に足を向けた時だった。
袁術は死した時のままぼろぼろの衣をまとい、一人の味方もなくさまよっていた。
「誰か、誰か水をくれぇ~……。
お、おれは袁家の当主にしてこの国の皇帝、袁術だぞぉ~……」
袁紹はその姿を見て心底頭を抱えた。
汝南の実家は、すでにだいぶ前になくなっている。
そもそも、袁術が贅沢をしすぎて領土が荒廃したために、袁術自身が一族を南陽に連れて行ったのではないか。
それなのに、今また庇護を求めて汝南に戻ってくるとは……。
(こいつの頭の悪さだけは、死んでも化けても生まれ変わっても変わりそうにないな)
(仕方ない、奴は所詮その程度の男だ。
まあ、捕まえて仕置きをしてやるにはちょうどいいではないか!)
裏の袁紹の意地悪な提案に、表の袁紹もうなずいた。
この愚かな弟に復讐したいのは、表も裏も同じ考えだ。
そうして、袁紹はまず己の悪夢に弟の袁術を捕らえた。
それは復讐であると同時に、もう一つ少し卑怯な目的のためでもあった。
「さて、術よ。
これからおまえを殺した者たちが、ここにやって来るぞ!」
裏の袁紹は楽しそうに告げた。
「劉備玄徳……確かおまえは奴に追い詰められたのだろう?
そして味方も食糧もなくなり、行き倒れて死んだ。
私はその後流浪となった劉備を受け入れたが……私がおまえの事で劉備を恨むと思ったか?」
裏の袁紹は、凍りつきそうに冷たい視線で袁術を見下ろしていた。
表の袁紹もこればかりは、全く止める気にならなかった。
幼い頃、ずっとひどい目に遭わされてきた。
大人になってからも、ずっと心の底で憎んできた。
うわべで仲良くすることはあっても、心はこの男を許したことはなかった。
裏の袁紹が弟を責めるのを見ながら、表の袁紹はふいに気配を感じて立ち上がった。
この悪夢の世界に、異質なものが侵入してきたのだ。
「来たか!」
その声はまるで、神の降臨を見たように喜びに満ちていた。
今この悪夢に入ってきた男こそ、袁術の仇であり万民の救世主、劉備玄徳である。
劉備玄徳は仁徳を旗印とし、天下万民を救うことを目標にかかげる人物です。
袁紹は自分を救ってもらうために、天下の救世主になろうとする劉備を悪夢に招きました。
しかし、劉備は生前の袁紹にとってよくないこともしでかしている諸刃の剣です。天下の救世主は袁紹を救うことができるのか、これまでとは違った流れで新章スタートです。