袁紹~金網の部屋にて
袁譚編もついに最終話です。
袁譚は袁紹の一族ということでつい気合が入ってしまい、前章よりだいぶ長くなってしまいました。しかし前章は単なる導入だったので、本編であるこの章からはこのくらいの長さでいいのかもしれません。
父の悪夢に囚われて袁譚は最期に何を思うのか、親子の愛が滲み出す最終話です。
袁譚の手が、力を失いずるずると滑っていく。
もう、別れの時も終わりだ。
袁紹は最後に息子の顔を目に焼き付けるように、袁譚の顔を真っ直ぐ見つめて言った。
「最後にこれだけは言っておく。
短い間であったが、わしに希望をくれてありがとう」
それは、感謝の言葉だった。
「おまえは、終わりのない暗闇にいたわしに、最初に光を見せてくれた。
たとえその後さらなる闇に放り込まれようと、あの十数年、おまえがわしの希望であったことは確かなのだ。
おまえのおかげで、わしは人生の何分の一かを希望と共に過ごせた。あの幸せな時間は、何物にも代えられぬ!」
袁譚と袁紹の手が、徐々にほどけていく。
最後に名残惜しむように互いの指先を確かめあって、袁譚は地獄への暗い道に沈んでいった。
「さらばだ、譚!
また会おう!!」
すごい速さで遠ざかる父が、涙ながらに叫んだ。
袁譚はもう豆粒のようになった父に向かって、しっかりとうなずいた。
こんな優しい父を、何で自分はあんなに蔑んでいたんだろう?
袁譚は落ちながら思った。
その理由は、今の袁譚には分かっていた。
自分も祖母と同じように、名家という形だけの価値に囚われていたんだ。
それに構うあまり、かけがえのない親子の愛すらも見えなくなっていたんだ。
分かれば分かるほど、自分の愚かしさに反吐が出そうだ。
そんな自分を最後まで愛してくれた父が、神様のように思えた。
(次に生まれ変わる時は、また父上の子供がいいな……)
袁譚は短い人生を思い返して、そう思った。
(今度こそ、父上に一杯孝行して、親子で幸せになるんだ。
父上がどんな生まれでも、父上だから大好きって言うんだ。
それで、父上にたくさん撫でてもらうんだ……)
地獄でまた会いたい、とは思わなかった。
だってそれは、あんなに愛しくて優しい父上が、地獄に落ちるってことなんだから。
いつの間にか、自分が落ちてきた穴は針の穴のように小さくなっていた。
それを見上げたまま、袁譚は蚊の鳴くような声で最期の言葉を紡いだ。
お と う さ ん ご め ん な さ い
袁譚の心には、これまで一度も味わったことのない、心の底からの後悔があふれていた。
死んでから一生で初めてというのはおかしいけれど、本当に初めての謝罪と後悔だった。
願わくば、父が地獄で自分を探しに来ませんように。
願わくば、父が誰かに救われて安らぎを得られますように。
そして願わくば、地獄で罪を償った後に、再び父と会えますように。
初めて知った清らかな祈りを胸に、袁譚は底知れぬ深淵に飲み込まれていった。
「うっく……うっ……」
袁紹の嗚咽が暗い部屋に響く。
袁譚の姿が見えなくなっても、表の袁紹はしばらく穴から離れられなかった。
そんな表を尻目に、裏の袁紹はもう次のことを考えていた。
「さて、あれは役に立たなかったが、わしは少し気が晴れたぞ!
しかし死人は皆考えが凝り固まっておるのかもしれぬな。
今度はいっそのこと、生きた人間を引き込んでみるか……」
裏の袁紹はまだ泣き止まない表を横目でちらりと見てささやく。
「どうだ、譚がだめなら煕と尚にでも会ってみるか?
あやつらももう、袁家を再興する事などできまい!」
「それはならぬ!!」
悲鳴のような叫び声で、表の袁紹は即答した。
袁家を再興する事はできないから……裏の袁紹が言わんとすることはすぐに分かった。
確かに、袁譚と違って次男の袁煕と三男の袁尚は明確に父を蔑んだことはなかった。
しかし、本心までそうかというと保障はどこにもない訳で……。
「嫌だ、もうこれ以上我が子を手にかけさせてくれるな!!
あの子らには触れず、命運のままにさせてやりたい。
あの子らは私に絶望を与えなかった、ならばこちらも知らぬままでいてよいだろう!?」
表の袁紹の必死の訴えに、裏の袁紹は不服ながらもうなずいた。
「分かった、ではあの二人に手は出さぬ。
だが、その代わり生きた人間を引き込むのは試させてもらうぞ」
その提案には、表の袁紹も素直にうなずいた。
正直死者が生きた人間を巻き込むのは悪い気もするが、袁紹もあまりぐずぐずしてはいられないのだ。
袁譚に別れ際に言った言葉……自分も救われなければ、やがて地獄に落ちる。
他人の霊を巻き込んで勝手に地獄に落とし続けて、そんな事をいつまでも続けられる訳がない。
いずれ罪に染まった魂は、地獄からの迎えにあずかることになるだろう。
そうならないためには、多少手荒な方法でも早く救ってくれる人を探すしかない。
袁紹としても、その辺りはもう手段を選んでいる余裕がなかった。
「よし分かった、生きている人間だな。
では、我らの故郷、南へ!」
あえて二人の息子から離れるように、袁紹の魂は南へと浮遊していった。
後には、地面を黒く穿つ涙の跡だけが残っていた。
ここまでで、書き溜めた部分は終わりです。そのため、ここからは更新頻度ががくんと遅くなります。
次の章からは、メジャーな人物を招いて物語を展開していきますので、どうぞご期待ください。