袁譚~金網の部屋にて
重傷を負って行動不能になった袁譚を、袁紹は引きずっていきます。
すぐ地獄落としにしないのは、父親としてまだ言いたいことが残っているからです。
今回はきりのいいところが見つけづらかったので、いつもより若干長いです。
次に袁譚が目覚めたのは、妙に熱気のこもった場所だった。
仰向けに横たわる袁譚のほおを、下から吹き上げる熱い風がなでていく。
「ここは……?」
袁譚はかすれた声でつぶやいた。
どうにか動く指で床をなぞると、どうやら固い網のようになっていると分かった。
熱風は、その網の間から吹き出していた。
妙に生臭い熱風……。
それは汗ばむように熱いのに、どこか背筋が凍るような寒気を引き起こした。
「譚よ……」
すぐそばで、父の声がした。
慌てて振り向くと、血塗られた方の父がそこにいた。
起き上がることもできず震える袁譚のほおを、父の冷たい指がなぞる。
袁紹は物憂げな表情で袁譚を撫でながら、独り言のように言葉を紡いだ。
「実に短い間だったな、こちらのわしがおまえとこうして話すのも。
まあ、それももう終わりだ……。
おまえはおまえの心にふさわしい、卑しい場所に落ちて頭を冷やすとよい」
袁紹は、さび付いた床の金網をゆっくりと指でなぞった。
「この下に何があるか分かるか?
そこがおまえにふさわしい場所、そう、地獄だ」
「地獄……?」
ぼんやりとしたまま聞き返す袁譚に、袁紹はうつろな表情のまま答える。
「そう、地獄だ……罪を犯した者を苦しめ、罰するための場所だ。
わしはおまえのせいで、生きながら地獄を味わった。
そこまでのことをしたおまえを、のうのうと安らかな冥界に行かせると思ったか?」
袁紹の声に呼応するように、地の底からひときわ強い熱風が吹き上げた。
その風がほおを撫でるたび、袁譚は刺す様な痛みを覚えた。
体中が痛いのにそれでも際立って感じられるほど、その感触は苦痛だった。
袁紹はぐったりとした袁譚の指先を、そっと持ち上げてもてあそんだ。
「ああ、全くもって虚しいものだ。
わしの精をもって生まれた子が、わしはいらぬと言うのだから……。
子を成すということが、これほど虚しい結果になるとは思わなかったぞ」
袁紹は闇よりも暗い目で袁譚の顔をのぞきこみ、告げた。
「のう譚よ、わしがいらぬということは、どういう意味か分かるか?
わしの存在から生まれたおまえ自身の魂もいらぬ……そういう事だろう?」
「!!」
ぼんやりしていた袁譚の目が、急に見開かれた。
袁譚にとって、その事実は初耳に近かった。
今までも聞いたことはあったけれど、これほど実感を伴って耳に響いたのは初めてだった。
「ちょ、待って父上……おれはそんな意味で……!」
かすれた声で慌てて言い返す袁譚を遮って、裏の袁紹は無慈悲に続ける。
「もうよい、おまえの偽りはもうたくさんだ!
その身がいらぬというならば、望みどおり地獄に捨ててやる。
要らぬ者にふさわしく、地獄で悪魔に食われているとよい」
そう言って、裏の袁紹はさっと手を振り下ろした。
袁譚の背中が、ふいに支えを失った。
「え……?」
金網が外れたことに気づいた時、袁譚の体はすでに落下を始めていた。
動かない体が、すうっと下に沈んでいく。
目の前で、裏の袁紹がかすかに笑った。
唇が、さようなら、と動いた。
その瞬間、袁譚はようやく己の運命を確信した。
自分は父に逆らったせいで、地獄に落とされるのだ、と。
しかし、落ちていく袁譚の体をつなぎとめるものがあった。
何者かの手が、袁譚の手首をつかんで引き止める。
すがるような思いでその手の主を見上げて、袁譚は驚愕に目を見開いた。
それは、袁紹だった。
血塗られていない、表の袁紹だ。
ずっと自分を育ててくれた、優しい父なる袁紹だ。
「あ、お父上……!」
「愛しい譚よ……!」
二人の声が、重なった。
「譚、おまえという奴は……なぜ、こんなになるまで気付かなんだのだ!!」
表の袁紹の目から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれた。
冷たい死者の涙が、袁譚のほおに降りかかる。
「いや、おまえに何も言えなかったわしにも落ち度はある。
しかし、わしはおまえと……こんな終わりを迎えたくはなかった!
我が血を継ぐ子を成しておいて、この手で地獄に落とす方の身にもなってみよ!!」
袁紹の嗚咽とともに、手の震えが袁譚に伝わっていく。
袁譚は、あっけにとられて何も言えなかった。
父が、自分のために泣いている。
自分と別れるのが悲しくて、泣いている。
あんなにひどい事をした自分を、まだ泣くほど愛してくれている。
「父上……なぜ……?」
そう問うだけで精一杯だった。
ここまでされても愛してくれる父の心は、袁譚には想像もつかなかった。
袁紹はそんな袁譚に、優しく微笑んで答えた。
「子は親を無条件で愛するとは限らぬ……だが、その逆はどうであろうな。
わしにとって、おまえを初めて腕に抱いた瞬間は最高に幸せであった」
その答えに、袁譚の眼からどっと涙があふれた。
今まで数十年生きてきて、気付かなかったぬくもりがそこにあった。
袁紹は親として、袁譚を無条件に愛してくれていたのだ。
問題は、袁譚が名家の誇りにかまけてそれを感じようとしなかったことだ。
ゆえに、今袁譚は地獄への穴にぶらさがっている。
「愛しい譚よ……こんなにも愛して育ててきた我が子。
だが、わしにはもうおまえを助けてやれぬ!」
袁紹はぎゅっと袁譚の手を握り締めた。
「おまえは愛しい我が子……だが、おまえへの恨みはもはや愛情などで抑えられるものではない!
愛しい……が、許せぬ! 裏は生前からおまえを許す気などなかった!
そのおまえがすぐそばで媚を売るのが辛くて、不快で、苦しくて……!!」
だからせめて、生きているうちに手にかけないように、
青州に出して、お互いのために遠ざけていた。
「のう譚よ、おまえはこれから地獄に落ちる、これはもう決めたことだから止められぬ。
しかし、最後に賭けをしようではないか」
「賭け?」
袁譚は思わず首をかしげた。
これから地獄に落とされるのに、この上何を賭けるというのだろう。
袁紹はかすかに震える声で、袁譚に告げた。
「わしはこれからも、人に助けを求めて魂を直す手伝いを求めていく。
だが、もしおまえが言うように、わしが卑しく劣った人間で……救われる価値のない人間ならば、いずれわしも救われずに地獄に落ちることとなろう」
袁紹はしぼりだすようなかすれた声で、言葉を続ける。
「もしも、おまえの考えが正しくてわしが地獄に落ちることになったら……その時は必ずおまえを見つけ出して、ずっと側にいてかわいがってやる。
同じ釜で煮られ、同じ串に刺されて、絶え間ない責め苦の中でずっとおまえを愛してやる!」
袁譚のほおの上で、袁紹の涙と袁譚の涙が混じり合う。
袁紹の手をかすかに握り返して、袁譚は心から父に感謝した。
父の心にあるのは、憎しみだけではなかった。
こんなに深い憎しみの底で、まだ自分を愛せる人間がいることが袁譚には信じられなかった。
高慢で家の名誉におごり高ぶった袁譚を、妾腹の子としての袁紹は許せず、しかし父親としての袁紹は一生懸命愛そうとしました。袁譚に対するこの感情のもつれには、袁紹の割れてしまった魂が非常に具体的に表れています。
今回、袁譚編の最終話で、袁紹は袁譚に一つの提案をしました。これからの物語に続いていく重要な内容を含んだ最終話、どうぞお見逃しなく。