辛毗~霧の中にて(2)
辛毗編はだいぶ長くなりましたが、今回で最終話です。
袁紹がその弱さゆえに起こした被害の中で最も大きなものが、臣下の悲劇でしょう。辛毗のように一族を失った者、審配のように訳が分からないまま殉じてしまった者等その悲しみは計り知れません。
辛毗は袁紹の真実を知ったがゆえに、それを代わりに償うべく誓いを立てるのでした。
袁紹は、体の横に垂らしたままの手をぎゅっと握りしめた。
「その救い、延期することはできぬか?」
思わぬ提案に、辛毗と小鬼は驚いた顔をした。
「な、何で?
旦那さん、あんなに救われたかったんとちゃうのん?」
小鬼があっけにとられて尋ねると、袁紹はぐっと顎を引いて答えた。
「救われたい……が、まだやり残したことがある。
救われて冥界に行く前に、二人ほど、会いたい者がいる」
「会いたい者……ですか?」
辛毗が問うと、袁紹はすまなさそうに言った。
「おぬしに救われるのが嫌な訳ではない。
しかし……わしはどうしても、会って気持ちを確かめたい者がいる。
一人は曹操、おぬしの今の主だ」
それを聞いたとたん、辛毗は袁紹と曹操が旧友であることを思い出した。
幼い頃からよく会っていたらしいし、官位についてからも途中までは親友だった。
この二人の付き合いは、許攸よりも長いかもしれない。
「曹操には、生前たくさん苦労をかけてしまった。
あれほど友情を誓っておきながら、自分が楽に生きるためにそれを破ってしまった。
今からでも曹操に謝って、それが許されるのであれば……」
袁紹は、とても悲しそうな顔をしていた。
辛毗は、そんな袁紹に軽く嫉妬を覚えた。
自分はこんなに袁紹に忠誠を尽くしてきたのに、袁紹は敵の君主に救いを求める。
だが、それも仕方ないのかもしれない。
辛毗は河北に来てからの、表の袁紹しか知らない。
しかし曹操はずっと昔から、まだ袁紹が二つに割れていなかった頃から知っているのだろう。
(だとしたら、仕方がない)
辛毗は自分を納得させ、ほがらかな笑顔で袁紹に告げた。
「でしたら、どうぞ曹操様にお会いください。
私はこのまま現世に帰り、待ちましょう。
もしかしたら曹操様も、あなたに会いたいのかもしれませぬ」
それを聞くと、表の袁紹は目をうるませて辛毗の手を握った。
「おお、すまぬ……!
こんなわしを許し、このような我侭まで聞いてくれるとは!」
震える袁紹の肩を抱いて、辛毗は温かく激励の言葉をかけた。
「私も袁紹様と曹操様は、会われるべきであると思います。
そしてもし曹操様があなたをお救いになられなかった場合は、私がお救いいたしましょう。
その時は、曹操様にいただいた官位を辞し、野に下る覚悟にございます」
それを聞くと、表の袁紹は困ったように首を振った。
「救ってくれるのは構わぬ、しかし官を辞するのはだめだ。
おぬしには、わしを慕ってくれた河北の民を守ってもらわねばならぬ」
その言葉を聞いた瞬間、辛毗の胸に熱いものがこみあげてきた。
袁紹はかつて自分を信じてくれた民を、まだ愛し、守ろうとしている。
どんなに自分が辛くても、袁紹は民と国を慈しむ心だけは失っていない。
袁家の長としてだけではなく、きちんと心の底から国を治め、守ろうとしていた。
そして自分の亡き後も、できる限り守ろうとしている。
辛毗は、袁紹に仕えたことに心の底から誇らしさを覚えた。
(あなたは、どこまでも優しいお方だ……!)
流れ落ちる涙とともに、辛毗は心を決めた。
「分かりました、この命ある限り、ずっと河北をお守りいたしましょう。
どんなに時が流れても、曹操様とご一族にお仕えして河北の平和を守ります!」
表の袁紹も、泣きながらうなずいた。
「ありがとう、わしはおまえのような臣下を持ったことを誇りに思う」
しかし、辛毗はそれには首を横に振った。
「いいえ、そのお言葉は私ではなく、冥界で審配にかけてやってください。
審配は最期まで袁家への忠誠を失わず、あなたの望みを叶えようと奮闘しておりました。
審配なら必ず、あなたの全てを受け入れてくれるでしょう」
思えば、審配は誰よりも袁紹を助けようとしていたのだ。
今も昔も、それだけは審配に敵う気がしなかった。
一しきり別れが済むと、袁紹は辛毗に霧の向こうへ帰るよううながした。
「さあ、現世に帰るがいい。
おぬしは命を大切にし、今を生きよ」
気が付けば、霧の向こうからは暖かな太陽の光が漏れている。
辛毗はそれに惹かれるように歩きだし、ふと後ろ髪を引かれて振り返ったとたん……裏の袁紹と目が合った。
「ときに辛毗よ、劉はどうしている?」
「え、ああ、奥方様ならお元気に暮らしておりますが……」
それを聞いた瞬間、裏の袁紹の目に残酷な光が宿った。
「そうか元気か……よく分かった。
引き止めて悪かった、行くがよい」
その言葉の意味はよく分からなかったが、とりあえず辛毗は現世に帰った。
袁紹には救いの道を示し、審配への誤解も解けた。
何より、兄と一族の真の仇を討てたことが満足だった。
これから曹操に仕えて生きてくのに、もう迷うことは何もなかった。
辛毗が現世に帰って数日後、辛毗は元袁紹軍の将たちの変化に気づいた。
皆晴れやかな顔をして、のびのびと過ごしている。
「何だか肩が重かったのが治った」
「悪い夢を見なくなった」
皆一様に、そんなことを言っている。
辛毗には、その原因が分かる気がした。
そもそも、なぜ辛毗が悪夢に招かれた時に許攸が一緒についてきたのか?
きっと許攸のことだから、死んでからも元袁紹軍の将に八つ当たりしていたのではないか。
自分が今まで調子が悪かったのは、許攸が側にいて祟っていたせいかもしれない。
偶然とはいえ、袁紹がそれを払ってくれたおかげで、みんな助かったのだ。
(お伝えせねば……曹操様に!)
辛毗は今日からは胸を張って、丞相府への道を歩いていた。
懐には、袁紹から曹操に宛てた手紙が入っている。
悪夢の世界で見つけた母の手紙は、現世に帰って読もうとしたら別の手紙になっていた。
袁紹直筆の、曹操への手紙に。
(そして結果がどうであれ、私は曹家に忠誠を尽くす!
今度こそ、裏切ることなく忠誠を全うするのだ)
迷いのない心が、こんなに軽いものだとは知らなかった。
自分が体験したことは信じられないことだろうが、いつか折をみて他の元袁紹軍の将にも話してみようと辛毗は思う。
そうすれば、もうみんな「仕方なかった」などと言わなくてよくなるかもしれない。
そうやって他の将を楽にしてやることも、河北を守る第一歩だと思う。
自分はこれからも、曹操と袁紹に仕えていく。
辛毗の頭上には、青くどこまでも晴れ渡る空が広がっていた。
辛毗編の次は最終章を予定していましたが、もう一人分幕間を入れます。
袁紹が会いたい一人は曹操、もう一人は誰なのでしょうか。
曹操に会うのは救いのため、もう一人には何のために会うのでしょうか。
自分の家を滅ぼし、血筋を絶やされてしまった袁紹の最後の報復が幕を開けます。




