辛毗~霧の中にて(1)
許攸は動けなくなり、怪物は倒れました。
しかし、まだ一番重要なことが解決していません。
袁紹の割れてしまった魂を、直す手立ては見つかるのでしょうか。
光が、白い。
さらさらと湿り気を含んだ風が流れていく。
辛毗と袁紹は、きれいに整った夫人の部屋にいた。
血の穢れと濃い闇は消え去り、もはやその気配を感じることもない。
部屋の中央付近に転がる場違いな肉塊だけが、死闘の跡を伝えていた。
「終わった……のか?」
辛毗は放心したようにつぶやいた。
怪物は倒れた。
許攸も再び死を迎えた。
部屋に転がる許攸の遺体は布と肉がごちゃごちゃに混ざりあい、もはや原型をとどめないほどにつぶされている。
もう、ここに敵はいない。
だが、袁紹は体を引きずるように許攸に近づいて言った。
「まだだ……こやつもわしと同じ死人、放っておけばまた蘇る。
こやつを、ここで地獄に落とす!」
袁紹は、復讐の炎に満ちた目をして許攸を睨み付けた。
「下がっておれ、辛毗」
辛毗が数歩下がると、袁紹は許攸の遺体に血濡れの剣を突き刺した。
とたんに、そこから円を広げるように赤黒い血が広がる。
床を覆っていたきれいな絨毯が、溶けた。
その下は、木の床ではなく無機質な金網に変わっていた。
さらにその下には、どこまでも続く漆黒の闇が広がっていた。
金網の間をすり抜けて、むっとするような熱気が吹き上げてくる。
吸い込むだけで肺が腐って溶けてしまいそうな爛れた熱気に、辛毗は思わず袖で鼻を覆った。
そんな辛毗を気遣うように、袁紹はささやいた。
「そう難しいことではない、すぐ終わる。
悪夢の顕在化とともに得たこの力……生きた人間には害を加えぬから安心せよ」
そこまで言って、袁紹は感慨深そうにため息をついた。
「……そうか、許攸が死んでいてくれたからこそ、こうしてわしの手で裁けるのだな。
この力、今この時ほどありがたく思ったことはない!」
袁紹は、どこか遠くを見つめるような目をしていた。
おそらく、生前のことを思い出しているのだろう。
ずっと縛られていた。
恐れと猜疑に囚われて、心休まる時がなかった。
その感情のままに、たくさんの部下を死なせてしまった。
「許攸……おまえさえ、この世におらなんだら!!」
忠臣を信じてやれず、無念のうちに死なせた。
自分を育んでくれた袁家を、滅ぼしてしまった。
かわいい息子を追放し、そのうえ地獄に落としてしまった。
全てが許攸のせいではない。
だが、許攸がその悲劇のレールをしいていたことは確かだ。
それも、今ここでようやく断ち切ることができる。
「許攸よ、落ちるがいい!
袁譚よりもずっと深く、暗い奈落の底まで!!」
積年の恨みをこめて、袁紹は叫んだ。
がんっと音がして金網の一部が外れ、許攸だった肉塊が地の底へと吸い込まれていく。
それは、人の心を弄び人の道を外れて生きた男の終焉だった。
全てが終わると、表の袁紹と辛毗は支え合って館の外に出た。
さらさらと流れる白い霧が、来た時よりも軽く感じられる。
怪物はまだちらほらといたが、襲ってはこなかった。
裏の自分が復活したのだろうと、表の袁紹は言った。
外に出ると、果たして裏の袁紹は待っていた。
隣に、三歳児くらいの異形のものを連れていた。
しわくちゃで、一本の小さな角を生やした小鬼だ。
表の袁紹の姿を認めると、その小鬼が口を聞いた。
「旦那さん、良かったなあ。
ほんま、ああいう奴こそ早うに地獄に落とすべきやわ」
辛毗が身構えていると、袁紹ははにかむように笑って告げた。
「安心せよ、生者に害はなさぬ。
この小鬼は地獄の使者でな、わしの魂を直すためにこの力を貸してくれた」
それを聞いて、辛毗ははっと気づいた。
そうだ、許攸を倒しても袁紹の魂は割れたままだ。
どうにかしてこれを直さないと、この悪夢は終わらないのだ。
目の前の袁紹は相変わらず、表と裏の二人いる。
一体どうすれば、この魂を直せるというのか。
困り果てた辛毗の顔を、小鬼がしげしげとのぞきこんだ。
「ふーん、優しそうな人やなあ。
それに、旦那さんに生前長く仕えとったんやろ?」
辛毗と目があったとたん、小鬼はにかっと笑った。
そして、袁紹の方を振り返って言った。
「うん、この人やったら、いけるわ!」
一瞬、何のことか分からなかった。
袁紹と辛毗が戸惑っていると、小鬼はなおも続ける。
「ほら、旦那さんの魂を直す話や。
旦那さんを生前からよく知っとる人が、旦那さんの罪を受け入れて、生きたことを許す。
この人やったら、それができる!」
「!!?」
二人の袁紹が、ぱっと顔を見合わせた。
救い、それは袁紹が死んでからずっと求めてきたものだ。
袁紹の魂が一つに戻り、冥界に行くために必ず必要なもの。
表の袁紹の目から、涙があふれた。
その歓喜の表情は、ここまでの道のりがどれほど苦難に満ちたものであったかを如実に表していた。
いくら人を招いても、受け入れてくれなかった。
受け入れてくれる人がいても、救う条件は満たしていなかった。
そのたびに傷つき、何度絶望感を覚えたことだろう。
「私は……救われる……!!」
袁紹は、天からの光を見た思いだった。
辛毗も袁紹にひざまずき、満面の笑みでかつての君主を祝福する。
「よくここまで頑張ってこられました。
私めにできるのでしたら、嬉しい限りにございます。
生前助けてあげられなかった償いに、今ここで殿をお救いいたします!」
袁紹の前には、今度こそ光に満ちた救いの道が開かれていた。
辛毗も、喜んで手を貸すと言ってくれる。
「さあ、旦那さん。
この人の手を……」
小鬼の声に合わせて、辛毗が手を差し伸べる。
袁紹は、信じられないような目でそれを見つめていた。
「私は……」
袁紹の魂を直すには、条件があります。
一つは、袁紹の全てを受け入れて許してもらうこと。
もう一つは、袁紹と生前から深いつながりがある者にそれをしてもらうことです。
辛毗はその両方の条件を満たす、初めての袁紹を救える人物でした。
果たして袁紹は、その手を素直にとるのでしょうか。