辛毗~束縛の館にて(5)
辛毗は許攸を安全地帯から追い出しますが、すんでのところで怪物につかまってしまいます。
しかし、許攸ももはや傍観していることはできません。
戦場に引きずり出された許攸の愚かな行動が、運命を定めます。
許攸はぼろぞうきんのようになった体を、どうにか引き起こした。
すでに死んだ身のおかげか、痛みはあれど組織が無事なら体は動く。
背中に刺さった有刺鉄線からやっとの思いで逃れ、状況を確認する。
袁紹は怪物の攻撃を受けたらしく、苦しそうに横たわっている。
辛毗は怪物に掴まれ、動けない。
怪物は辛毗を掴み上げ、何やら説教をしている。
(やった!今なら……!!)
許攸は天井から落ちてきた剣を一本拾い、這いずるように袁紹に近づいた。
許攸のやりたいことはただ一つ、袁紹を殺してここから脱出することだ。
袁紹が動けず、他の目もそれている今が好機だ。
あんな役立たずの怨霊に、殺されてたまるか!
許攸は鬼のような顔で袁紹に近づき、剣を振り上げた。
「これで終わりだ……恩知らずの奴隷上がりめ!
さっさとふさわしい場所に落ちるがいい!!」
この剣を振り下ろせば、この悪夢は終わる。
許攸は苦しい息の下、勝利の笑みを浮かべた。
次の瞬間、許攸の背骨を打ち砕くような重い衝撃が突き抜けた。
「な、に……?」
辛毗は一瞬、何が起こったのか分からなかった。
怪物は確かにさっき分銅を振りかぶった。
しかし、辛毗は今も掴まれているだけで殴られてはいない。
ならば、分銅はどこに?
考える前に、辛毗は床にたたきつけられた。
怪物が、いきなり手を放したのだ。
「本初に……ナニしてるの……?」
怪物はもはや、辛毗の方を見てはいなかった。
その視線の先を見て、辛毗ははっと目を見開いた。
許攸が、剣を手にして袁紹の側にいる。
おそらくこの機に乗じて袁紹を殺そうとしたのだろう。
しかし、その背中には……怪物からつながる漆黒の分銅が打ち込まれていた。
突然、怪物が許攸に向かってざあっと黒い手を伸ばす。
「ナニよ、守ってクレルんじゃ……なかったの?
本初を、どうスル気なのよ!?」
怪物は、さっきとはうって変わった強い口調で、許攸を責め立てる。
その言葉を聞いて、辛毗は理解した。
あの怪物は間違いなく、袁紹の母なのだ。
怒りに任せて暴力を振るったりもするが、心の底では袁紹に生きてほしいと思っている。
袁紹が生きて名家の当主として役目を果たすことが、彼女の望みなのだ。
だから、袁紹を他の人間が傷つけるのは許さない。
(ああ、尻尾を出してしまったな……)
辛毗は一人で納得した。
許攸はこれまで、袁紹に直接攻撃を加えてはいなかった。
だから彼女も、許攸を敵だと認識していなかったのだ。
しかしこうして、彼女の目の前で袁紹を直接攻撃しようとすれば、化けの皮ははがれる。
つまり、彼女は母親として、袁紹を傷つけようとする許攸を敵と認識したのだ。
「許さナイ!よくも本初を……ワタクシの本初を!!」
怪物がヒステリックに叫び、許攸の全身を締め上げる。
太く重たい鎖を振りかざし、許攸の体に容赦なく分銅を打ち込む。
ゴキゴキと鈍い音を立てて、許攸の骨が砕ける。
踏みつぶされる獣のようなうめき声を上げて、許攸の身がのけぞる。
口からは血の泡を吹き、白目をむいて、許攸は動かなくなった。
それでも怪物は許攸を許さず、歩み寄って分銅でめたくたに打ちまくった。
これまで騙されていたという、怒りもあるのかもしれない。
「どこまでも、自業自得だな、許攸よ……」
潰されて肉塊に変わっていく許攸を、辛毗は苦笑して見送った。
「辛毗……手伝え……」
ふいに聞こえたかすかな声に、辛毗は振り返った。
気が付けば、這いつくばったままの袁紹が手を伸ばしていた。
「は、はい、ただいま!」
慌てて駆け寄ると、袁紹は辛毗に剣を手渡した。
「この隙をついて……母上を仕留める。
その鞭と、この剣で……!」
袁紹は動けないようだったが、幸い致命傷ではなかったらしい。
「この鞭を、こうこう……そしてこの剣をだな……」
袁紹の言うとおりに、辛毗は手早く罠を仕掛けていく。
怪物はひたすら許攸の肉をたたくのに一生懸命で、辛毗のことなど眼中にない。
怒りに狂った怪物の周りで、確実に葬るための仕掛けが出来上がっていく。
言われたとおりに仕掛けを終えると、辛毗は怪物に向かって呼びかけた。
「おい、敵はここにもいるぞ!」
とたんに、怪物が顔を上げて辛毗の方を向く。
そして怪物が辛毗の方に足を踏み出した瞬間……辛毗は手にした鞭を思いっきり引っ張った。
怪物の足もとで、有刺鉄線がビンッと持ち上がる。
「あア!?」
膝から下の肉と布地が、一気に引き裂かれる。
「きゃああアア!!」
こんな姿になっても外聞を気にするのか、彼女はあらわになった足を隠すように身をかがめた。
そうして下がった腰を、袁紹が掴む。
「お母上……もう、よいのです。
どうか安らかに、お休みください!」
袁紹は腕に体重をかけ、彼女を後ろに引き倒した。
倒れていく先には、何本もの剣を立てて固定した有刺鉄線の茂み。
彼女の胸に、朱の花が咲いた。
彼女自身の体重で、刃が彼女の体を貫く。
胸を、腹を、そして首をも貫いて、血に染まった刃が突きだす。
絹を裂くような悲鳴をあげて、怪物は苦痛に身を震わせた。
一瞬、怪物に美しい女性が重なって見えた。
辛毗が驚いて目をこすると、その姿はなおはっきりと見えた。
少し年老いた感じの、上品な淑女だった。
袁紹と同じようなどこかうつろな目をして、ぶつぶつと何かをつぶやく。
「ああ、袁成様……。
わたくしは、袁家の母として……きちんと勤められたでしょうか?」
それは、袁家の母としての責務を負わされた、彼女の心の残渣だった。
だんだん小さくなる声と同時に、辺りの闇が薄れていく。
最期の言葉とともに怪物の姿が消えた時、部屋の炎や鉄線もまた消え去り、部屋は先ほどと同じただの夫人の部屋に戻っていた。
袁紹と辛毗は力を合わせて、許攸と母の幻影に打ち勝つことができました。
母が許攸を受け入れていたのは許攸が袁紹を直接攻撃しなかったせいで、敵と認識していなかったからです。
許攸は自ら脱出を焦るあまり袁紹を攻撃し、敵と認識されてしまいました。
母親の方は、袁紹に暴力を振るうのはあくまで言うことを聞かせるためであって殺すためではありません。
人の痛みが分からない許攸には、その辺りが分からなかったのです。